由緒正しきマルフォイ家の当主が、学生の作った新聞に朝の紅茶を冷まされる日が来るとは、若い頃のルシウスは想像もしなかった。
もっと言えば、娘がその新聞の関係者になり、紙面の向こう側から父の胃を直接殴ってくる日が来るとは、まったく想像していなかった。
そして、さらに言えば。
その数週間後、マルフォイ家の東の客間に新しい客人が来るとは、さすがのルシウス・マルフォイも想像していなかった。
人生には、想像しておくべき不測の事態というものがある。
魔法省からの査察。
社交界での失言。
娘の魔力暴走。
息子からの胃痛を誘発する手紙。
そのあたりは、まだ想定の範囲内である。
そもそも、話は第二の課題の頃からすでにおかしかったのだ。
羽ペン通信の紙面の見出しは、その日も元気だった。
『救出難度最高値 トム様、人質の防御呪文に阻まれる
眠れるブクマ姫、湖底で無意識プロテゴ』
まさかブクマ姫というのは我が家の娘ではあるまいな。
ルシウスは眉間に皺を寄せたまま、記事を読み進めた。
『トム・ジェドゥソール選手の人質には、ローゼマイン・マルフォイ嬢が選ばれた』
紅茶が揺れた。
カップを持つ指は、貴族として鍛え上げられた優雅さを保っていた。保っていたが、中身は揺れた。
やはり娘だった。
ルシウスはゆっくりと息を吐いた。
怒鳴らなかった。マルフォイ家の当主は、朝食の席で怒鳴らない。
代わりに、新聞を持つ指に力が入り、紙面の端がほんの少し折れた。
「あなた」
向かいの席で、ナルシッサが静かに声をかけた。
「紙が破れますわ」
「破れて困るほど上品な見出しではない」
「でも、その新聞はローゼマインが関わっているのでしょう?」
ルシウスは無言で紙面を伸ばした。
娘の関わるものを破るわけにはいかない。
たとえその娘が、父の寿命を一行ごとに削ってくるような紙面を世に送り出していたとしても。
記事は続く。
『ジェドゥソール選手は人質救出のため湖底へ向かったが、マルフォイ嬢は終始、防御呪文に守られていた。関係者によると、マルフォイ嬢の魔力が暴走気味に防御を維持していた可能性があり、救出に想定外の時間を要したという』
ルシウスは一度、目を閉じた。
娘が無事だった。
その事実に、まず胸をなで下ろす。
そして次の瞬間、別の感情が湧いた。
よくやった、娘。
人質として湖底に沈められてなお、防御呪文を維持し、男に指を一本も触れさせなかった。素晴らしい。マルフォイ家の娘として、あまりに正しい。
もちろん、競技妨害ではない。
人質は自分の身を守っただけである。身を守るのは当然である。むしろ人質にされた時点で主催側が悪い。全面的に主催側が悪い。娘は悪くない。
「何を読んでいる」
その声がした瞬間、朝食の席の空気が一段冷えた。
長いテーブルの奥。
この屋敷の客人が、椅子に腰かけていた。
黒いローブ。
青白い指。
冷たく細い視線。
ルシウスは新聞を畳みかけ、しかし畳みきれなかった。客人の視線はすでに紙面へ落ちている。
「『羽ペン通信 ホグワーツ版』でございます」
「ああ、あれか。読め」
命令だった。
ルシウスは一瞬だけ、娘の名前が載った箇所を飛ばそうかと考えた。
無理だった。
この客人の前で新聞記事を飛ばして読むなど、湖底で水中呼吸なしに社交界の挨拶をするより難しい。
「……第二の課題に関する記事です。トム・ジェドゥソール選手の人質として、ローゼマインが選ばれた、と」
客人の目が細くなった。
「それで?」
「ローゼマインは、防御呪文により安全を確保していたようです」
「安全を確保」
客人はその言葉を、嫌なものでも噛んだように繰り返した。
「そのせいで、トム・ジェドゥソールは最下位になったのか?」
ルシウスは沈黙した。
父親としては、今すぐ「よくやった」と言いたい。
死喰い人としては、言ってはいけない。
マルフォイ家当主としては、両者の間にある極細の糸の上を、銀の杖を持って優雅に歩かなければならない。
「娘はまだ幼く、恐怖から身を守ろうとしたのでしょう」
「恐怖?」
客人は笑った。
「お前の娘が?」
ルシウスは返事に困った。
娘は恐怖を感じる。感じるはずだ。感じていると信じたい。
ただし、恐怖より先に「本を読むためにどうしたらいいか」と考える可能性がある。
それが問題だった。
「虫が書いたユールボールでも目撃されていたという話は、でたらめではなかったのか」
客人が、ふと思い出したように言った。
ルシウスの喉が詰まりかけた。
ユールボール。
その言葉は最近、マルフォイ家であまり触れてはいけない話題になりつつあった。
ドラコからの手紙には、こう書かれていた。
『父上、誤解を避けるために先に書きます。ユールボールの終盤、たしかにリータ・スキーターの記事で書かれていたように、ローゼマインがトム・ジェドゥソールと話しているところを複数人に見られています。ただし、断じてそのような関係ではありません。妹は本の話をしていただけのようです』
あの手紙を読んだ時、ルシウスは暖炉に投げ込みかけた。
「子ども同士の会話でございましょう」
ルシウスは客人に言った。
声は平静だった。
「ローゼマインは本の話になると、相手を選びません」
擁護のつもりだった。
だが、口に出した瞬間、それはそれで問題だと気づいた。
客人は不満げに指先でテーブルを叩いた。
ナルシッサが、紅茶のポットを持ち上げた。平然としている。ルシウスの妻は、こういう時に恐ろしいほど優雅だった。
「お茶はいかがですか?」
「いらん」
「そうですか」
ナルシッサは何事もなかったように、自分のカップに注いだ。
ルシウスは妻を見た。
この屋敷で最も恐ろしいのは、もしかすると彼女ではないか。
その時、窓を叩く音がした。
一羽のフクロウが、朝の空気を裂くようにして飛び込んできた。脚には手紙が結ばれている。
ルシウスは封蝋を見た。
ドラコからだった。
嫌な予感がする。
息子からの手紙は、本来なら父を安心させるものであるべきだ。しかし、最近のドラコの手紙は、だいたい「妹がまた何かした」「ポッターが関わっている」「父上、落ち着いてください」の三点セットで構成されている。
落ち着けるものなら落ち着いている。
ルシウスは手紙を開いた。
『父上、第二の課題の記事がそちらにも届いていると思います。まず、ローゼマインは無事です。湖底で防御呪文を維持していた件については、本人も完全には状況を理解していないようですが、結果としてトム・ジェドゥソールはかなり苦戦しました。なお、本人は「本が濡れなくてよかった」と言っていました』
ルシウスは目を閉じた。
娘は無事だった。
それはよい。
本が濡れなくてよかった。
よくない。
命の次に本が来るのか。いや、娘の場合、本の次に命が来る可能性がある。父として、そこは認めたくない。
手紙は続いていた。
『羽ペン通信に載った件についてですが、ハリー・ポッターの水中呼吸手段について、私が少し関わりました。魔法書研究会で鰓昆布が候補に出ましたが、入手先がなく、スネイプ先生なら管理している可能性があると判断したためです。私は課題の公平性と、研究会内の調査活動上の必要性を考えただけで、ハリー・ポッター個人を積極的に助けたわけではありません』
ルシウスは手紙を持つ手を止めた。
客人の視線が、こちらを向いている。
読め、という無言の圧があった。
ルシウスは声に出したくなかった。
だが、もう遅い。
「……ドラコが、ハリー・ポッターの水中呼吸手段の入手に、少し関わったようです」
客人の表情が消えた。
ルシウスの胃も消えた。
「少し?」
「本人の弁明では、課題の公平性と、研究会内の調査活動上の必要性を考えた、と」
「ポッターを助けたのだな」
言い逃れの余地はなかった。
ルシウスは、ゆっくりと言った。
「結果的には」
客人は低く言った。
「お前の息子は、ハリー・ポッターを生かしたいのか」
「いいえ。ドラコは、その、学校生活における複雑な人間関係と、妹の所属する研究会の活動上の問題に少し巻き込まれているだけでございます」
説明しながら、ルシウスは思った。
擁護になっているのか、これは。
客人は答えなかった。
ルシウスは続きを読んだ。
『父上が誤解されると困るので書いておきますが、ハリー・ポッターとは特別に親しいわけではありません。ただ、妹と同じ研究会に出入りしており、ハリー、ロン、ハーマイオニー、ローゼマイン、その他大勢が同じ机で本や新聞について話すことがあるため、完全に無関係でいることが難しいだけです。スネイプ先生にも嫌々ながらですが、協力をお願いしました』
ルシウスは手紙を畳んだ。
情報量が多すぎる。
最後だけ少し安心した。セブルスが嫌そうであることは、世界がまだ通常運転である証拠だった。
*
数日後の朝、客人は淡々と別の話題を落とした。
「アズカバンは片づいた」
朝食の席で言う内容ではなかった。
ルシウスは新聞と手紙を置いた。
「……ディメンターを掌握なさったのですか」
「死喰い人たちは戻る」
客人は言った。
「全員だ」
ナルシッサの指が、ほんの一瞬だけカップの取っ手で止まった。
ルシウスは、己の内側に冷たいものが広がるのを感じた。
古い仲間が戻る。
それは喜ばしいことのはずだった。
だが、同時に、戦争が戻るということでもある。
マルフォイ家には、湖底で防御呪文を張り続け、闇の帝王の過去らしき少年を最下位に追いやり、ハリー・ポッターに鰓昆布を融通する研究会に所属している娘と、その妹を守るために胃を削っている息子がいる。
状況が、悪い。
非常に悪い。
「ところで」
客人は、何でもないことのように言った。
「この前、本屋に行ったときに面白い本を見つけてな」
ルシウスは、思考を止めた。
本屋に闇の帝王が行った?
どの本屋だ。いや、そこではない。
まず、なぜ行った。どうやって行った。
店員は無事か。会計はしたのか。
そもそも、闇の帝王は本屋で平積みを見るのか。
考えてはいけない。
考えた瞬間、何か大切なものが壊れる。
ナルシッサは、ルシウスにお茶のお代わりを無言で注いだ。少し心強かった。
「面白い本、でございますか」
ルシウスの声はいたって平静だった。
マルフォイ家当主の修練は、こういう時のためにある。
客人の指が、テーブルの上をゆっくりと叩いた。
「『アズカバンで私は見た』というタイトルの本だ」
ルシウスは、紅茶をこぼした。
「ギルデロイ・ロックハートの本、ですか」
「そうだ」
客人は、薄く笑った。
「まさか、あれを読んだのですか」
問いかけてから、ルシウスは己の失言に気づいた。
闇の帝王が好む本を馬鹿にするのは失礼だ。
だが、客人は怒らなかった。
「読んだ」
客人は言った。
「ひどい文章だった」
ルシウスは黙った。
「装飾が多く、自己陶酔が鼻につき、真実より主人公を勇敢に美しく見せることに熱心だった」
「それは、いつものロックハートですわね」
ナルシッサが静かに言った。
客人は否定しなかった。
「だが、よく売れた」
その一言で、部屋の空気が少し変わった。
「アズカバンではディメンターの影響で精神を病む死喰い人も多かった。だが、あの男はそれを本にした。読者にページをめくらせた。恐怖を、商品にした。普通の男にできることではない」
ルシウスは唇を結んだ。
ロックハート。
派手な笑顔。
悪趣味なローブ。
自分の功績でなくとも、自分の物語として語り直す男。
思い出すだけで、応接間の品位が二段ほど下がる名前だった。
「ロックハートは、誇張と虚飾の男です」
「知っている」
「信頼に値する人物ではありません」
「信頼する必要はない」
客人は淡々と言った。
「使えればよい」
ルシウスは返事をしなかった。
闇の帝王が使うと決めたのなら、下僕がいくら反対しても使うのだろう。
ロックハート本人もおそらく逆らえない。
そして、あっという間に時間が過ぎ、第三の課題の日が来た。
結果から言えば、闇の帝王の計画は失敗した。
マルフォイ家の東の客間にはなぜかハリー・ポッターが閉じ込められていた。
この一文だけで、だいたいの事情が崩壊している。
「台無しだ」
客人は言った。
暖炉の火が燃えているのに、部屋は寒かった。
「すべて、あの娘のせいで台無しになった」
ルシウスは動かなかった。
動けば、余計なことを言いそうだった。
誰が何をどう台無しにしたのかは、分かる。分かりたくないが、分かる。
闇の帝王が言うには、フェルディナンド・ブラックは死ぬはずで、ハリー・ポッターは殺人者になるはずだったらしい。
トム・リドルの日記は戻るはずだった。
秘密の部屋は、罠の舞台で終わるはずだった。
だが、日記が裏切り、娘が手を貸した結果、どういうわけかフェルディナンドは死ななかった。
ポッターに殺人を背負わせなかった。
さらに秘密の部屋では、本棚防衛結界なるものが発動した。
いったい何なのだ、あれは。
マルフォイ家の蔵書管理に導入すべきなのか。
その後、緊急時の手段としてハウスエルフに姿くらましを任せたら、なぜかハリー・ポッターも一緒について来てしまったのだ。
ルシウスは、壁際で震えているドビーを見た。
心の底から、クビにしたかった。
この小さなハウスエルフは、付き添い姿くらましでハリー・ポッターを巻き込むという致命的な失態をしている。
普通なら、即刻解雇である。
靴下でも帽子でも何でも押しつけて、屋敷から叩き出すべきだった。
だが、ルシウスは言わなかった。
言えなかった。
なぜなら、ドビーを自由にした瞬間、このエルフは間違いなく泣きながら叫ぶ。
「ドビーは自由です! ドビーはハリー・ポッターをお助けします!」
そして次の瞬間には、ハリー・ポッターが消えている。
客人がルシウスやナルシッサにどんなことをするか、考えるだけで恐ろしかった。
見える。
あまりにも鮮明に見える。
ルシウスは、口元まで出かかった「クビだ」という言葉を、貴族的忍耐で飲み込んだ。
「ポッターはどこだ」
客人が言った。
「東の客間です」
ルシウスが答えた。
「見張りは?」
「扉に封鎖呪文をかけています。窓も開きません。ハウスエルフには、食事を運ぶ以外の入室を禁じました」
「食事?」
赤い目が細くなった。
「ポッターに食事を出したのか」
ナルシッサは、ほんの少しだけ眉を上げた。
「娘の友人を空腹にしておく趣味はありません」
部屋の空気が、さらに冷えた。
ルシウスは内心で妻に拍手を送り、同時にその拍手を全力で取り消した。
今ではない。
今その正論は危険すぎる。
「いや、間違ってはいない。飢え死にされても困る。あれは切り札になり得る。殺したいところではあるが……まあ良い。ゆっくり考えるとしよう」
客人が言った。
「だが、ルシウス。お前には聞かねばならぬ」
客人の声が落ちた。
「お前は、誰の味方だ」
その問いは、刃だった。
ナルシッサが黙った。
ルシウスはキリキリする胃痛を我慢し、膝を折り、頭を垂れた。
この答えを間違えれば、家族は終わる。
娘も、息子も、妻も、家も、すべて。
「私は、いつだって我が君に忠実な下僕でございます」
声は震えなかった。
それだけは、マルフォイ家当主としての意地だった。
客人はしばらくルシウスを見下ろしていた。
「ならば、娘を正せ」
「……ローゼマインは、ただ本が読みたいだけなのです」
言ってから、ルシウスは自分でも驚いた。
なぜ今それを言った。
しかし、口は止まらなかった。
「あの子には、悪意はございません。危険な本を読みたがることはあります。新聞を作り、記事を書き、人を巻き込み、たまに魔力を暴走させます。ですが、根本的には、ただ本が読みたいだけの子なのです」
説明していて、ルシウスは思った。
擁護になっているのか、これは。
客人の表情は変わらなかった。
「本が読みたいだけの子どもが、私の計画を壊したと?」
「……本が関わると、少々、行動力が増す傾向がございます」
少々ではない。
だが、親とはそういうものだ。娘の欠点を、社交界で通用する程度に薄めて表現する。
「少々行動力が増すと?」
「かなり」
ナルシッサが横から訂正した。
ルシウスは妻を見た。
今それを言うのか。
客人は低く笑った。
「時間の壁を超えたことを少々の行動力で片付けるとは面白い」
ルシウスは彼が何の話をしているか分からず首を傾げた。客人は恐ろしい微笑みを浮かべたまま続けた。
「偶然とはいえ、ポッターを手元に置けたことは評価している。次はないぞ、ルシウス」
その時、東の客間の扉の向こうから、声が聞こえた。
「僕をどうするつもりなんだよ!」
ハリー・ポッターの声だった。
「ここはどこだ!」
ルシウスは扉の方を見た。
ナルシッサが、小さく息を吐いた。
「ルシウス」
「何だ」
「客間の防音を強化しましょう」
「捕虜に防音まで配慮するのか」
「会話を聞かれる方が問題です」
正論だった。
ルシウスは、もう何も言い返さなかった。
妻は正しい。
さらに、その最中に銀の封筒が暖炉から飛び出した。
ホグワーツからの手紙だった。
ルシウスは受け取った。封蝋を見た瞬間、眉が動く。
ダンブルドアからだった。
ルシウスは開いた。
読み進めた。
そして、固まった。
「あなた?」
ナルシッサが声をかける。
ルシウスは、もう一度最初から読んだ。
内容は変わらなかった。
「ローゼマインは……しばらく、ブラック家にいるらしい」
ナルシッサの目が細くなった。
「なぜ?」
「ダンブルドアがそうすべきだと考えたらしい」
ルシウスは続きを読んだ。
「……トム・ジェドゥソールと行動を共にしている、と書いてある」
トム・ジェドゥソールは闇の帝王の記憶だ。
つまり、同一人物だ。
少なくとも、同一人物の過去と現在のはずだ。
娘はどうやら過去の方と行動を共にしている。
現在の方は、たいそう不機嫌である。
同一人物なのに?
ルシウスの頭の中で、家系図が泣いた。
そこへ、さらにフクロウが来た。
またドラコからだった。
もう嫌な予感しかしない。
ルシウスは封を切った。
『父上、すでに校長から連絡が行っているかもしれませんが、ローゼマインは当面ホグワーツ側で保護されることになりました。本人は比較的落ち着いています。ただし、落ち着いている方向が「必要な本のリストを作る」なので、一般的な意味での落ち着きではありません』
ルシウスは額を押さえた。
分かっている。父には分かっている。
『トム・ジェドゥソールについてですが、説明が非常に難しいです。私にもよく分かりません。父上、落ち着いてください。駆け落ちではありません、たぶん』
ルシウスは手紙を握りしめた。
「駆け落ちだと!」
息子がその単語を書いてきたということは、ホグワーツでもそう見える余地があるということではないか。
ナルシッサは、そっと口元に手を当てた。
「まあ」
「違う」
ルシウスは即答した。
即答したが、手紙を持つ手が震えた。
娘が駆け落ち。
しかも、相手は客人の若い頃のような存在。
整理してはいけない。
整理したら、気が狂う。
「ローゼマインが駆け落ちなどするはずがない。本にしか興味ない子だぞ」
「でも、本を持っていけると言われたら?」
ナルシッサが言った。
ルシウスは黙った。
反論材料がなかった。
ナルシッサは、さらに悪ノリした。
「あの子……本棚つきの逃避行を選んだのね」
「ふざけるな。我が家の蔵書量がブラック家に劣るわけがない」
客人が低く言った。
「ルシウス」
「はい」
「お前の娘は、私のものを連れて、ダンブルドア側についたのか」
ルシウスは内心で絶叫した。
「必ず連れ戻します」
ルシウスは言った。
それは客人に対する忠誠の言葉だった。
同時に、父親としての本音でもあった。
娘を連れ戻す。
そしてトム・リドルを問い詰める。
若い方を。
同一人物ならば、どちらに怒ればいいのか。
目の前の方に怒るわけにはいかない。
ならば、若い方だ。
日記だろうが実体だろうが、娘の友人だろうが、関係ない。
マルフォイ家の娘を連れて行った男である。
ルシウス・マルフォイは、静かに殺意を燃やした。
貴族的に。
上品に。
できれば合法的に。
その時、東の客間の扉がまた叩かれた。
「おい! 聞こえてるぞ! 駆け落ちって何の話だ!」
ハリー・ポッターの声だった。
廊下まで会話が漏れていたらしい。
ルシウスは、今度こそ額を押さえた。
「ドビー」
ナルシッサが静かに呼んだ。
壁際で震えていたハウスエルフが、びくりと跳ねた。
「東の客間の防音を強化なさい。余計な話はしないこと」
「はい、奥様! ドビーは、余計な話をいたしません! ドビーは、自由になりたいハウスエルフですが、けっして自由になりたいとは──」
「ドビー」
ルシウスが低く言った。
ドビーは口を両手で押さえ、消えた。
今すぐクビにしたい。
しかし、できない。
ルシウスは改めて、この世には自由にしてはいけないものがあると理解した。
ハウスエルフと、娘の読書欲と、羽ペン通信である。
その時だった。
暖炉の炎が、不自然なほど明るい金色に変わった。
ルシウスは眉をひそめた。
この屋敷の暖炉は、誰でも勝手に通れるようにはしていない。
招かれざる客が現れるには、それなりの理由が必要である。
だが、理由があればよいというものでもない。
炎の中から現れた男を見て、ルシウスは心底そう思った。
「ごきげんよう、皆さま!」
部屋に、場違いなほど明るい声が響いた。
磨き上げた笑顔。
整えすぎた金髪。
空気を読まない華やかなローブ。
ギルデロイ・ロックハートは、マルフォイ家の暖炉から、まるで自分のサイン会の舞台に上がるかのように現れた。
ルシウスは、本日何度目か分からない胃痛を感じた。
「なぜお前がここにいる」
「お招きいただいたので」
ロックハートは爽やかに答えた。
「誰に」
「偉大なる方に」
そう言って、彼は暖炉の前に座る客人へ向かって芝居がかった礼をした。
「ギルデロイ・ロックハート。この前は出番がなかったが、私はお前に期待している」
客人が言った。
ロックハートは胸に手を当てた。
「光栄です、閣下」
ルシウスは口を挟んだ。
「この男は、記憶を盗み、他人の功績を本にして売った詐欺師です」
「チッチッチッ、正確には、読ませる形に整えたのですよ」
ロックハートは芝居がかった言い方をした。
悪びれなさすぎて、逆に見事だった。
「君に重要な話などあるのかね」
ルシウスが冷たく言った。
ロックハートは、待っていましたと言わんばかりにルシウスへ向き直った。
「ありますとも、マルフォイ氏」
その声音が、わずかに変わった。
いつもの軽薄さは残っている。
だが、その底に、棘のようなものがあった。
「あなたは、人を従わせる方法を知っている。家名、金、古い血筋、政治的な圧力。実に立派です。でも」
ロックハートはふっと鼻で笑うような顔をした。
「実に退屈なやり方だ」
ルシウスの顔から表情が消えた。
「お前は今、自分がどこにいるか分かっているのか」
「もちろん。マルフォイ家です。立派な屋敷です。見事な調度品に、由緒ある本棚もある。ですが──」
ロックハートは、応接間を見回した。
「誰があなたの退屈な物語を読みます?」
空気が止まった。
ルシウスは杖に指をかけた。
ナルシッサの目が細くなる。
ハリー・ポッターのいる東の客間からは、今度こそ何も聞こえない。防音は間に合ったらしい。
「私は読ませます」
ロックハートは言った。
「嘘でも、誇張でも、読者がページをめくる形にできる。私はそうして生きてきた。あなたが家名で人を黙らせる間に、私は見知らぬ魔女たちに本を買わせ、泣かせ、信じさせてきた」
「下品だな」
「でも、よく売れました」
「恥を知らんのか」
「知っていますとも。だから真実を隠す装丁にも詳しい」
ルシウスは、この男を今すぐ暖炉に押し戻したかった。
しかし、ヴォルデモート卿が口を開いた。
「面白い。続けろ」
命令だった。
ロックハートの笑顔が、少しだけ深くなった。彼はルシウスをちらりと見た。
勝った、と思っている顔だった。
ルシウスはそれが腹立たしかった。
「私なら、ハリー・ポッターの利用価値を最大限に高められます」
その一言で、応接間の空気が凍った。
ロックハートは両手を広げた。
「もちろん、彼は閣下にとって非常に不愉快な少年でしょう」
ヴォルデモート卿の赤い目が細くなった。
ロックハートはきっぱりと言った。
「ハリー・ポッターは、ただの少年ではありません。少なくとも世間にとっては彼はすでに物語です。表紙があり、帯文があり、読者がいて、勝手な感想がついている。かわいそうな生き残った男の子。勇敢な少年。悔しいですが、私が今まで書いたどの本よりも売れます」
「お前は本当に、命が惜しくないのか」
ルシウスが言った。
「惜しいですとも!」
ロックハートは即答した。
「だからこそ、最高の提案を持ってきたのです」
彼はヴォルデモート卿へ向き直った。
「閣下。ハリー・ポッターを奪うなら、命ではなく、物語を奪うべきです」
「どういうことだ?」
「彼を殺せば、人々は泣くでしょう。墓に花を供える。歌を作る。ダンブルドアは演説する。魔法界は、死んだ少年を永遠に利用します」
ロックハートの声は、そこで少しだけ低くなった。
「ですが、生きている英雄なら違う」
ヴォルデモート卿は、指先で椅子の肘掛けをなぞった。
「どう違う」
「生きている英雄は、迷います。怒ります。間違えます。言葉を選び損ねます。誰かを傷つける。誰かに傷つけられる。つまり──書き換えられる」
ロックハートは微笑んだ。
今度の笑みには、いつもの軽薄さだけではないものが混じっていた。
他人の人生を本にしてきた男だけが持つ、ひどく冷静な観察眼だった。
「彼には、すでに第一章があります。マグルに虐げられ、階段下の物置に閉じ込められてきた。そんなある日、自分が実は魔法界の英雄だったと気づく。実に美しい、実に強い第一章です」
ロックハートは、ルシウスを横目で見た。
「マルフォイ氏なら、彼を政治の駒にしようとなさるでしょう」
「お前にはできないことだ」
「でしょうね。ですが、政治は飽きられます。偉くなりすぎた家名は嫌われます。金は妬まれます」
ロックハートの笑みが、ほんの少しだけ鋭くなった。
「けれど、物語は人の中に住みつく」
ルシウスは、この男が嫌いだと思った。
心の底から嫌いだ。
派手で、軽薄で、嘘つきで、恥知らずで、他人の功績を盗む男。
だが同時に、ルシウスは認めざるを得なかった。
この男は、読者というものを熟知したプロの作家だ。
それは、マルフォイ家の金庫にも、古い家系図にも、純血の名にもない力だった。
ロックハートは続けた。
「私の魔法でハリー・ポッターの物語を作り変えれば、それはきっとこれまでで一番面白いものになるでしょう」
ルシウスの背筋に、冷たいものが走った。
ロックハートは、ハリー・ポッターを壊そうとしている。
しかも、壊れたと気づかれにくい形で。
これは、戦闘ではない。
編集だった。
「お前は、自分が何を提案しているか分かっているのか」
ヴォルデモート卿が言った。
「ええ」
ロックハートは顔を上げた。
「私はこれまで数々の英雄譚を作ってきました」
「盗んだのでしょう」
ナルシッサが言った。
ロックハートは、笑顔を崩さなかった。
「ええ。盗みました」
ルシウスは眉を動かした。
ロックハートは盗んだことを認めた。認めた上で、それを利用しようとしている。
ロックハートは、ルシウスを見た。
「ですが、盗んだ物語を読ませる形にできたのは私だからです。マルフォイ氏、あなたにそれができますか?」
ルシウスは答えなかった。
杖で黙らせたい。
だが、ヴォルデモート卿の前でそれをすれば、黙らされるのはこちらだ。
ロックハートは、再びヴォルデモート卿へ向いた。
「私に英雄の物語を作らせてください」
応接間は静まり返った。
暖炉の火だけが、ぱちりと鳴った。
やがて、ヴォルデモート卿の口元が、わずかに歪んだ。
「物語か」
その声は、楽しげですらあった。
「よかろう、ギルデロイ・ロックハート」
ロックハートの顔が輝いた。
「ありがとうございます、閣下!」
「ただし」
赤い目が細くなる。
「失敗すれば、お前の物語はそこで終わる」
ロックハートは笑った。
震えながら、それでも笑った。
「ご安心ください」
彼は人差し指を口に当ててウィンクする。
「終わり方には、少々うるさい方です」
ルシウスは、頭痛を覚えた。
世界で一番厄介なものは何か。
ルシウスはその答えを知った。
物語だ。
正確には、物語を作る作家だった。
「あとですね、閣下。一言付け加えるとすれば」
ギルデロイ・ロックハートは、ローブの袖を優雅に払った。
「恐怖による支配も、たしかに一つの手段でしょう。しかし、人心をつかむには、それだけでは足りません。必要なのは、印象です。輝きです。忘れがたい第一印象です。要するに──美しさが大事なのです」
空気が凍った。
ルシウスは動かなかった。動けば、この男と同じ種類の生き物だと思われる危険があった。
客人は、長い沈黙のあと、ゆっくりと首を傾けた。
「……美しさ」
「ええ!」
ロックハートは、勝利を確信した笑顔でうなずいた。
「人は醜い恐怖からは逃げますが、美しい恐怖には目を奪われるものです。私の著作活動から得た結論です」
ルシウスは杖を握る手に力を込めた。
なぜこの男は生きているのか。なぜこの男は話しているのか。なぜこの男の話を、よりにもよって闇の帝王が聞いているのか。
「つまり、閣下」
ロックハートは、世界でもっとも真剣な顔で言った。
「その圧倒的な存在感を、もう少し親しみやすくするべきなのです」
沈黙が落ちた。
この男は、言った。
闇の帝王に向かって、顔が怖いと言った。
ルシウスは、ゆっくりと目を閉じた。
胃が痛い、などという生ぬるい段階ではない。胃はもう戦場から撤退した。残っているのは、マルフォイ家当主としての矜持と、かろうじて人間の形を保っている疲労だけである。
客人は、しばらくロックハートを見つめていた。
赤い目が細められる。
「親しみやすさ」
「そこで私が提案したいのは、まず髪です」
誰か。
誰か止めろ。
いや、止めた者から死ぬ。
ならば誰か、自分ではない誰かが、この男をどうにかしてくれ。
「私のように豊かで輝かしい金髪でなくともかまいません。大切なのは、見る者にこの方にも朝の身支度という概念があるのだと思わせることです」
ロックハートはさらに一歩踏み出した。
「ご安心ください、閣下。私には実績があります。人を魅了する表情、角度、サイン会での立ち姿、そして写真写り。すべてお任せください。闇の帝王にも、もっとも映える角度が必ずございます」
「……ルシウス」
呼ばれた。
ルシウスは、心の中で先祖に詫びた。
「はい、我が君」
「銀は、似合うと思うか」
ルシウス・マルフォイは、その瞬間、胃痛を通り越して魂が静かになった。
そして、これまでの人生でもっとも切実に思った。
誰か。
本当に誰か。
この男をどうにかしてくれ。
マルフォイ家の家族会議のはずが、後半は死喰い人会議になってしまいました。
炎のゴブレット編はこれにて完結です。
この章は長くてインパクトの強い章なので大変でしたが、ほとんど毎日投稿で書けて良かったです。地味に匿名解除して活動報告を更新しました。裏話が気になる人はそっちも見に行ってみてください。
不死鳥の騎士団編も頑張ります。