わたしが部屋で本を読んでいると、クリーチャーが銀の盆に一冊の本を載せて居間へ入ってきた。
「お嬢様がお求めになっていた本でございます。クリーチャーはたいへん苦労しました。人気で品薄、どの本屋でも売り切れ、予約もいっぱい。けれど、クリーチャーは見つけました。ブラック家の名前を出し、役立たずの店員どもに頭を下げ、棚の奥を探させ、ようやく見つけたのでございます」
「ありがとう、クリーチャー!」
わたしはソファから身を乗り出した。
新しい本である。
ブラック家の居間がどれほど陰気でも、壁の肖像画がどれほどこちらを睨んでいても、シリウスが「その本、本当に安全か?」という顔をしていても、新しい本が来たなら世界は少し明るくなる。
クリーチャーは盆を差し出した。
そこに載っていたのは、深い青色の表紙をした一冊だった。
題名は金文字で刻まれている。
『ヘンリー・ポーターと賢者の石』
表紙には、丸眼鏡をかけた黒髪の少年が描かれていた。片手には赤く輝く石を持っている。額には、稲妻に似た傷。
どう見てもハリーである。
ただし、少しだけ違う。
挿絵の少年は、本物のハリーよりもきらきらしていた。髪の跳ね方まで計算されている。頬には勇敢そうな影が入り、目は妙に潤んでいる。
これはハリーではない。
ハリーをもとに作られた、知らない誰かだ。
そして、その少年の背後には銀髪のハンサムな男が立っていた。
長い白銀の外套。雨にも炎にも汚れなさそうな美しい横顔。片手には杖、もう片方の手は少年を守るように差し伸べられている。
「この銀髪の人、誰?」
わたしが聞くと、クリーチャーは鼻を鳴らした。
「本には、白銀卿と書かれております」
わたしはソファーに座り直して本のページをめくった。
物語は、マグルのダズベリー家で暮らすヘンリー・ポーターという少年の話から始まった。
ダズベリー家。
バーナード・ダズベリー氏。パトリシア夫人。ディグビー。
名前はハリーのように少しずつ違うのだと思うけど、ハリーの親戚の名前をそこまで詳しく知らないので分からない。
でも、階段下の物置に押し込められている痩せた少年は、どう考えてもハリーだった。
古い服。
壊れた眼鏡。
額の稲妻の傷。
朝食の匂いだけが届く、暗く狭い物置。
わたしはページをめくる指を止めた。
おかしい。
これはヘンリーの話のはずなのに、わたしはハリーのことを読んでいる気がした。
いや、違う。
ハリーのことを読んでいるのではない。
ハリーの過去を、別の名前で読み直させられている気がした。
ある日、ヘンリー宛てに手紙が届いた。
階段下の物置まで正確に書かれた宛名だった。今まで手紙をもらったことがないヘンリーは驚いた。
誰が自分に手紙をくれたのか気になり、ヘンリーはそれを読もうとした。
けれど、バーナード氏が取り上げた。
そして、手紙はヘンリーの目の前で破られた。
びり、と紙の裂ける音がした。
わたしは息を呑んだ。
その音が、本の中ではなく、目の前でした気がした。
紙が破れる音。
緑色のインクが歪む音。
ヘンリーの名前が、真ん中から裂かれる音。
破いた手紙をバーナード氏は暖炉にくべた。
わたしは思わず顔を上げた。
部屋は静かだった。クリーチャーが隅でぶつぶつ文句を言っている声が少し遠くから聞こえてくる。
でも、鼻の奥に、焦げた羊皮紙の匂いが残っていた。
わたしはもう一度、本を見た。
*
その夜、ダズベリー家の居間には、雨の音だけが響いていた。
窓ガラスを叩く雨粒は、外から誰かが小さな爪で叩いているようだった。暖炉には火が入っている。けれど、ヘンリー・ポーターの指先は少しも温まらなかった。
彼は居間の隅に立たされていた。
バーナード・ダズベリー氏は、肘掛け椅子に深く腰を下ろし、新聞を盾のように広げていた。パトリシア夫人は細い首を伸ばして、何度もカーテンの隙間から外を覗いている。ディグビーは菓子の缶を抱え、ヘンリーに見せつけるように、包み紙を一枚ずつ剥がしながら食べていた。
「今日は妙な手紙など来ていない」
バーナード氏は、新聞の向こうから言った。
「当然だ。この家には、妙なものは何一つない。妙な子どもも、本来ならいないはずだった」
ヘンリーは黙っていた。
言い返しても無駄だと、もう知っていたからだ。
手紙は確かに来た。緑色のインクで、ヘンリーの名前が書かれていた。階段下の物置まで正確に宛名が書かれていた。ヘンリーはそれを読もうとした。けれど、バーナード氏が取り上げて破り、ディグビーがその様子を見て笑った。
その日から、手紙は来なくなった。
だからヘンリーは思った。
自分に手紙をくれる人など、やはりどこにもなかったのだと。
その時だった。
こんこん、と音がした。
窓ではない。
玄関の扉だった。
ダズベリー家の三人が、同時に顔を上げる。
こんこん。
二度目の音は、一度目よりも静かだった。けれど、その静けさは、バーナード氏の怒鳴り声よりもずっとよく響いた。
「誰だ、こんな時間に!」
バーナード氏が立ち上がった。椅子が床をこすり、嫌な音を立てる。
彼は重い足音で玄関へ向かい、乱暴に扉を開けた。
風が入ってきた。
雨の匂いと、夜の匂いと、それからヘンリーの知らない何かの匂いがした。
扉の向こうに、男が立っていた。
銀色の髪をしていた。
濡れているはずなのに、その髪は月明かりを集めた糸のように光っていた。黒い外套は雨を弾き、白い手袋をはめた指先には、細い杖が握られている。顔は美しく、目は冷たく、微笑みは雪の上に置かれた刃のようだった。
「夜分に失礼」
男は言った。
穏やかな声だった。
穏やかすぎて、バーナード氏は一歩下がった。
「ヘンリー・ポーターに用がある」
「そんな子どもは家にはいない!」
バーナード氏は怒鳴った。
男の赤い目が、ゆっくりとバーナード氏から離れた。まるで邪魔な家具を見終えたかのように。
そして、居間の隅に立つヘンリーを見つけた。
ヘンリーは動けなかった。
男の目は、彼を見ていた。
階段下の物置ではなく、ダズベリー家の厄介者ではなく、壊れた眼鏡をかけた痩せた少年ではなく、もっと別の何かを見るように。
「見つけた」
男は小さく言った。
その言葉は、ヘンリーの胸の奥で、長い間閉じていた扉を叩いた。
見つけた。
バーナード氏は真っ赤な顔で怒鳴った。
「出ていけ! ここは私の家だ!」
「もちろん」
白銀卿はにこやかに頷いた。
「家の主人には、まずご挨拶を」
彼が指先を鳴らすと、バーナード氏の怒鳴り声がぽん、と弾けた。
次の瞬間、氏の口から白い鳩が飛び出した。
「ぐわっ!」
バーナード氏は喉を押さえた。だが、鳩は一羽では終わらなかった。
「こ、こら、何を──ぽっぽっぽっ!」
二羽目。三羽目。四羽目。
鳩たちは暖炉の上を優雅に旋回し、やがてバーナード氏の頭に一列に並んだ。
白銀卿は拍手した。
「鳥たちにも大人気だ」
ディグビーが悲鳴を上げた。
「パパの口から鳥が出た!」
銀髪の男は少年に微笑んだ。
「では、君には別のものを見せよう」
ディグビーが菓子の缶を取り落とした。
中から色とりどりのキャンディが転がり出る。いつもなら、ヘンリーには一つも渡されない菓子だった。床に散らばったそれらは、突然ぴょん、と跳ねた。
一つ、二つ、三つ。
キャンディは小さな虫のように動き出し、ディグビーの靴の周りをぐるぐる回り始めた。
「や、やめろ!」
ディグビーは逃げようとした。だが、床に落ちた菓子が次々と彼のズボンの裾に張りついていく。甘い匂いが部屋に満ちた。ディグビーは泣き声を上げながら足踏みしたが、菓子は離れない。
「自分のものではないものまで欲しがる子どもには、欲しがったものに追いかけられる経験も必要だろう」
男は、まるでしつけの話でもしているように言った。
「この子に何をするの! うちのかわいいダドリックに!」
「かわいい」
白銀卿はその言葉を拾った。
「なるほど」
彼が杖を軽く振ると、パトリシア夫人の口元から白い布がするすると出てきた。
「な、なにこれ、いや、やめ──」
布は止まらない。
白いハンカチ。桃色のハンカチ。水玉模様のハンカチ。
次から次へと口から出てきて、床に落ち、居間の絨毯を埋めていく。
その一枚一枚には、銀色の文字が浮かんでいた。
「親切にしているだけ」
「しつけのため」
「普通の子じゃないから」
「うちの子ではない」
白銀卿は一枚をつまみ上げた。
「嘘は、まとめるとずいぶん長い布になる」
パトリシア夫人は顔を真っ赤にして、ハンカチの山に埋もれた。
「あなたは、誰ですか」
ヘンリーの声はかすれていた。
男は居間へ入ってきた。
バーナード氏が何か叫ぼうとした。その太い手が、いつものようにヘンリーの腕へ伸びる。掴み、引っ張り、階段下の物置へ押し込めるための手だった。
その手が、空中で止まった。
「な、何だこれは!」
バーナード氏が腕を振り下ろそうとする。だが動かない。太い手首には、銀色の糸のようなものが絡みついていた。糸は細いのに、鉄よりも固く、ぎりぎりと彼の腕を締め上げる。
「人を掴む手だ」
銀色の髪の男は言った。
「ならば、少しばかり掴まれる側の気分を知るといい」
銀の糸がきしんだ。
バーナード氏が悲鳴を上げる。
腕は折れていない。血も出ていない。けれど、彼の顔は紙のように白くなり、額には脂汗が浮かんでいた。
「やめて!」
パトリシア夫人が叫んだ。
「この怪物!」
その言葉に、ヘンリーは思わず肩をすくめた。
普通じゃない。おかしい。気味が悪い。怪物。
ダズベリー家では、ヘンリーの名前よりも、そういう言葉の方がずっと多く使われてきた。
だが、銀髪の男は違った。
彼は、初めてパトリシア夫人を見た。
「怪物?」
男は、その言葉をゆっくり繰り返した。
次の瞬間、居間中のカーテンが生き物のように動いた。
パトリシア夫人は悲鳴を上げる間もなかった。花柄のカーテンがするすると伸び、彼女の細い首ではなく、口元に巻きついた。叫び声だけを奪うように。
彼女の目が大きく見開かれる。
声が出ない。
何度もヘンリーに浴びせた言葉が、喉の奥で詰まっていた。
「言葉は便利だ」
男は穏やかに言った。
「だが、使い方を知らぬ者には少し黙っていてもらおう」
バーナード氏が苦しみ、パトリシア夫人が声を失い、ディグビーが泣いている。
それは、ヘンリーが何度も夢に見た光景だった。
自分を閉じ込めた人たちが、自分にしたことを少しだけ返される光景。
けれど、実際に目の前で起きると、胸の奥がすっと軽くなるのと同時に、背筋が冷たくなった。
男は、ヘンリーの方へ向き直る。
さっきまでダズベリー家を縛っていた魔法は、ヘンリーには少しも触れなかった。
彼に向けられた声だけが、やさしかった。
「怖がる必要はない」
「……僕を、罰しに来たんじゃないんですか」
「君を?」
男は、ほんの少しだけ悲しそうに笑った。
「なぜ、君が罰せられなければならない?」
ヘンリーは答えられなかった。
ずっと、そういうものだと思っていたからだ。
何かが起きれば、自分のせい。
誰かが怒れば、自分のせい。
手紙が来ても、自分のせい。
魔法のようなことが起きても、自分のせい。
だが、目の前の男は違うと言った。
君が罰せられる理由はない、と。
「私の名は、ヴォルダルジャン卿。人は私を白銀卿と呼ぶ」
男は、そう名乗った。
「君をここから助けに来た」
彼は白い手袋の手を差し出した。
「君は魔法使いだ、ヘンリー」
息が止まった。
雨の音が遠くなる。
暖炉の火も、ディグビーの泣き声も、バーナード氏のうめき声も、パトリシア夫人の声なき悲鳴も、何もかもが遠くへ退いた。
「……僕が?」
「そうだ」
「違います。僕は、変なことが起きるだけで……僕が悪いんだって」
「違う」
白銀卿の声は、やさしかった。
そのやさしさは、ヘンリーが今まで一度も与えられなかった種類のものだった。
「君が悪いのではない。君を閉じ込めた者たちが、君の名を知らなかっただけだ。君の力を恐れ、君の価値を隠し、君が自分を小さなものだと思い込むように仕向けただけだ」
「この子は普通じゃないのよ!」
声を奪われたはずのパトリシア夫人が、かすれた息で必死にそう言った。
白銀卿は頷いた。
「その通り」
静かな声だった。
「彼は普通ではない。だからこそ、あなた方のような者たちの戸棚に押し込められるべきではなかった」
普通ではない。
それは、ずっと罰の言葉だった。
でも、この男が言うと、まるで魔法の言葉のように聞こえた。
「僕は、どこへ行くんですか」
「君のいるべき場所へ」
白銀卿は微笑んだ。
「僕をここから連れ出してくれるんですか?」
声にした瞬間、ヘンリーは自分がそれをどれほど望んでいたのかを知った。
白銀卿は、ゆっくり頷いた。
「ああ。戻らなくていい」
その言葉は、魔法の呪文のようだった。
ヘンリーの胸の中で、何かがほどけた。
階段下の物置。
ディグビーの笑い声。
バーナード氏の怒鳴り声。
パトリシア夫人の細い目。
奪われた手紙。
食べられなかった菓子。
閉められた扉。
全部が、少しずつ遠くなる。
「君は選べる、ヘンリー」
ヴォルダルジャンは言った。
「ここで、君を嫌う者たちの言葉を信じて生きるか。それとも、私と共に、君自身を取り戻すか」
ヘンリーは差し出された手を見た。
雨の夜に現れた、美しい男。
彼が善い人なのか、悪い人なのか、ヘンリーには分からなかった。
けれど、ダズベリー家が自分に善かったことは、一度もなかった。
この人は怖い。
それは分かる。
でも、ダズベリー家も怖かった。
違うのは、ダズベリー家はヘンリーを閉じ込めたのに、この人は扉を開けていることだった。
ヘンリーは、震える手を伸ばした。
背後で、バーナード氏が何か叫んだ。
パトリシア夫人が声のない悲鳴を上げた。
ディグビーが泣きながら、床に転がった菓子を振り払っている。
けれど、そのどれも、もうヘンリーを止める力を持っていなかった。
白銀卿の指が、ヘンリーの手を包む。
冷たい手だった。
けれど、初めて差し伸べられた手だった。
「ようこそ、ヘンリー・ポーター」
白銀の男は微笑んだ。
「君の本当の世界へ」
背後で、ダズベリー家の扉が音もなく閉まった。
ヘンリーは振り返らなかった。
*
そこで、わたしは本から顔を上げた。
しばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。
雨の音が聞こえる。
けれど、ブラック家の外では雨なんて降っていないはずだった。
暖炉の匂いがする。
けれど、書庫の暖炉には火が入っていない。
甘い菓子の匂いがする。
けれど、机の上に菓子なんてない。
わたしの指先は冷たかった。
まるで、誰かの白い手袋に触れたみたいに。
「……変な本」
そう言った声は、自分でも驚くくらい小さかった。
変な本。
その一言で片づけていいものではなかった。
読んでいる間、わたしはブラック家の書庫にいなかった。
ダズベリー家の居間にいた。
居間の隅に立って、破られた手紙を見ていた。バーナード氏の怒鳴り声を聞いていた。パトリシア夫人の「怪物」という声に肩をすくめていた。ディグビーの菓子を、少しだけ羨ましいと思っていた。
「マイン?」
声がした。
わたしはびくっと肩を跳ねさせた。
顔を上げる。
ハーマイオニーがドアの前立っていた。
両腕には、分厚い本を三冊も抱えている。
「ハーマイオニー……?」
「そうよ。何度かノックしたのよ。大丈夫?」
ハーマイオニーは眉を寄せながら、こちらへ歩いてきた。
「フェルディナンド先輩に、あなたがここにいるって聞いたの。ロンたちは荷物を置いているわ。ウィーズリー家のみんなも着いたところ」
「ウィーズリー家……」
わたしはぼんやり繰り返した。
そういえば、シリウスが言っていた。
新学期前の数日間だけ、ロンたちウィーズリー家とハーマイオニーがブラック家で過ごすことになったのだ。
本当は、ウィーズリー家は夏休みまるごとブラック家に滞在する予定だったらしい。
けれど、わたしがすぐ体調を崩すから、負担にならないように数日だけになった。
正直に言うと、ありがたくもあった。
ブラック家は広い。
広いのに、息が詰まる。
暗い廊下も、古い肖像画も、すぐ怒鳴る壁の人も、突然毒舌を吐くクリーチャーも、全部が少しずつ体力を削ってくる。
そこにウィーズリー家が丸ごと来たら、たぶん賑やかすぎて倒れる。
数日間。
たしかに、それくらいがちょうどいいのかもしれない。
「ロンが、あなたに会いたいって言っていたわ。でも、フェルディナンド先輩に先に荷物を置けって言われたから置きに行ったの」
ハーマイオニーは机の上の本に目を落とした。
「それ、何の本?」
わたしはとっさに本を閉じた。
ばたん、と音が大きく響いた。
ハーマイオニーの目が鋭くなる。
「マイン」
「うん」
「その本、危ない本じゃないわよね?」
「たぶん」
「たぶん?」
ハーマイオニーは机の前まで来ると、困ったように顔を覗き込んできた。
「マイン」
「なに?」
「なんで泣いているの?」
「え」
私の目からは涙が流れていた。
「主人公の気持ちに同調しちゃったのかも」
「なにこれ、『ヘンリー・ポーターと賢者の石』って、まるで──」
「うん。ハリーについて書かれた本だよ」
わたしはハーマイオニーに今読んだところまでを説明して聞かせた。ハーマイオニーは驚きを隠せない様子だった。
「ハリーの話を歪めて世の中に出そうとしているのね」
「歪めて? 白銀卿がダズベリー家からハリーを助けたんじゃないの?」
わたしが首を傾げて言うと、ハーマイオニーはわたしの顔の前で手を叩いた。
「マイン、現実に戻ってきて。白銀卿はヴォルデモートのことよ。ヴォルデモートがハリーを助けに来るわけがないでしょ。それにダズベリー家じゃなくてダーズリー家よ」
「あ……」
「わたしもその本読むわ。ハリーと一緒にいたわたしなら、現実との違いが分かるもの」
わたしは膝の上で指を握った。
「それにしても、ヴォルダルジャンって変な名前ね。作者は気づかなかったのかしら」
「そうだよね。そこはわたしも引っかかった」
ヴォルダルジャン。
vol d' argent.
おそらく作者は白銀卿だから「銀の飛翔」という意味で名付けたのだろう。ヴォルデモートの意味が「死の飛翔」であることを考えるとだいぶ恐怖をオブラートに包んだなと思う。
「普通に“銀の飛翔”って意味でつけたなら、かなり格好つけてる名前だと思う。でも、同時に“金を盗む”にも読めるのは変だよ」
そう。名前が金を盗むという意味にもとれるのだ。
現実に引き戻された後にそれに気づいてわたしは気になってしまった。
「作者がフランス語をよく知らなかった?」
「それならそれで、誰か確認しなかったのかな」
「確認しなかったのかもしれないわ。こういう本を書く人間が、ちゃんと確認するとは限らないもの」
「辛口」
「事実よ」
ハーマイオニーはきっぱり言った。
強い。
でも、その直後に少しだけ眉を寄せた。
「ただ……単なる間違いにしては、都合がよすぎる気もする」
「都合がいい?」
わたしは首を傾げた。
「白銀卿は、物語の中では英雄として描かれている。でも実際にこの本の中でやっていることは、ハリーの物語を奪って、ヴォルデモートを救世主に見せることよ」
「つまり、名前が中身をばらしてる?」
「そう読めるわ」
ハーマイオニーは頁を戻し、白銀卿が登場する場面を指で示した。
「見て。ここ。白銀卿はダズベリー家に現れて、ヘンリーを救う。読者はここで白銀卿を信じるように作られている。でも現実を知っている人間から見れば、全部逆よ」
「助けたんじゃなくて、奪った」
「ええ。ハリー自身の人生を奪っている」
その言葉に、わたしは少し黙った。
白銀卿は、物語の中ではとても美しかった。
でも、ハリーを助けに来たわけではない。
ヴォルデモートがハリーを助けるわけがない。
そんなこと、少し考えれば分かる。
なのに、わたしは一瞬、本の中の物語を信じかけた。
白銀卿がヘンリーを助けたのだと。
挿絵の中の白銀卿は、今も美しく微笑んでいる。
でも、もう英雄には見えなかった。
綺麗な魔法で人の目をそらしながら、いちばん大事なものを持っていく泥棒に見えた。