本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:パラプリュイ

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トム視点です。



78話 トム・リドルの誤算

 

 トムは、自分がヴォルデモートを理解していると思っていた。

 

 少なくとも、この場にいる誰よりは。

 

 シリウス・ブラックは感情で動く。ハリー・ポッターという名を出されれば、罠と分かっていても前へ出る。

 

 ムーディは警戒しすぎる。すべてを疑うあまり、相手がどこを疑わせたいのかを見失うことがある。

 

 ルーピンは冷静だが、優しすぎる。ハリーを傷つける可能性のある一手を、最後の最後で遅らせる。

 

 では、自分はどうか。

 

 自分なら、あの男の罠を読める。

 

 彼がどこに誘導し、どこで姿を現し、どの瞬間に相手の心を折ろうとするのか、他の誰よりも早く見抜ける。

 

 なぜなら、ヴォルデモートは自分の成れの果てだからだ。

 

 それが、トムの考えだった。

 

 ゴドリックの谷は静かだった。

 

 村は古い墓石と低い屋根を抱えたまま、息を潜めている。石畳は濡れ、霧が足元に絡みつき、杖明かりは白くにじんだ。

 

「静かすぎる」

 

 ムーディが低く言った。

 

 魔法の目が、バチルダ・バグショットの家の窓、屋根、地面、煙突、路地を忙しなく見回している。

 

「誰もいないように見える。だから気に食わん」

 

「同感だ」

 

 シリウスは短く答えた。

 

 だが、その声は硬かった。

 

 視線は、扉から離れていない。

 

 ハリーがいるかもしれない。

 

 その一点だけで、シリウスはすでに半分罠にかかっている。

 

 トムはそう判断した。

 

「隊列を崩すな」

 

 ムーディが言う。

 

「ブラック、前に出すぎるな。ジェドゥソール、後ろも見ろ」

 

「命令されなくても」

 

 トムはムッとして答えた。

 

 その時、家の扉が開いた。

 

 四人の杖先が一斉に上がる。

 

 そこに立っていたのは、ハリー・ポッターだった。

 

 丸眼鏡。黒い髪。額の稲妻の傷。

 

 見た目はハリーだった。

 少なくとも、トムの知っているハリー・ポッターと一致している。

 

 シリウスが息をのんだ。

 

「ハリー……?」

 

 ハリーは少し驚いたように瞬きをした。それから、ほっとしたように笑った。

 

「シリウス! なんでここに?」

 

 たったそれだけで、シリウスの警戒が揺らいだ。

 

 ムーディは揺らがなかった。

 

「合言葉を言え」

 

「合言葉?」

 

 ハリーが首を傾げる。

 

「そんなの決めてないよね?」

 

 ムーディがシリウスに目で合図をした。シリウスはハリーにたずねた。

 

「ハリー、ディメンターに遭遇した時、いつも誰の声を聞く?」

 

「母さんの声」

 

 シリウスの顔が歪んだ。

 

 喜びと安堵と、それでも消えない恐怖が混ざっていた。

 

「本物だ」

 

「本物かどうかはまだ分からん」

 

 ムーディは杖を下げない。

 

「服従の呪文かもしれない。記憶をいじられているかもしれない。確認することは山ほどある」

 

「ムーディ先生」

 

 ハリーは困ったように笑った。

 

「僕は大丈夫だよ。中に入って。彼女が待ってる」

 

 ハリーの声は自然だった。

 

 怯えていない。監禁されていた少年の声ではない。救出を待っていた者の声でもない。

 むしろ、自分たちを客として迎える側の声だった。

 

「彼女?」

 

 ルーピンが慎重に尋ねる。

 

「うん。あの人たちから逃げた後、僕を家に置いてくれたんだ」

 

 ヴォルデモートから逃げられるなんてことあるのか?

 

 トムは怪しんだが、シリウスは少し警戒を緩めたようだった。

 シリウスは一歩進んだ。

 

「ハリー、本当に無事なんだな」

 

「うん」

 

 ハリーは頷いた。

 

「怪我がないか確認させてくれ。拷問を受けたりしなかったか?」

 

「僕は大丈夫だよ」

 

 ハリーは少しだけ困ったように笑った。

 

「ここはダーズリー家よりもずっといい」

 

「ああ? そりゃあそうだろうが……」

 

 シリウスは眉をひそめた。

 

「シリウス、僕、ダーズリー家にはもう帰りたくない」

 

 ハリーは決心した様子で言った。シリウスの顔が歪む。

 

「そうだよな……でも、その話は後だ。まず外に──」

 

「白銀卿は、もう戻らなくていいって言ってくれた」

 

「白銀卿だって?」

 

 シリウスの顔が青ざめた。

 

 ハリーは振り返った。

 一人の老女が奥から出てきた。

 皺だらけの手。

 肩にかけられた古いショール。 

 

 バチルダ・バグショットだ。

 

 老女の顔が、ゆっくりと上がる。

 口元が笑った。

 

『あら、素敵な人たちね』

 

 それは、蛇語だった。

 

「下がれ!」

 

 トムは杖を振った。

 老女の足元で床板が爆ぜる。

 老女の首が、人間ではありえない角度で傾いた。

 

 次の瞬間、皮膚が裂けるようにして、巨大な蛇が現れた。

 

 トムは再度攻撃呪文を放った。

 シリウスが叫ぶ。

 

「ハリー、離れろ!」

 

「やめて!」

 

 ハリーが両手を広げた。

 

「ナギニは良い蛇だよ!」

 

 その言葉は、あまりにも異様だった。

 

 良い蛇。

 

 ヴォルデモートの蛇を、ハリーはそう呼んだ。

 

 ナギニは鎌首をもたげる。

 

 金色の目が、順番に四人を見た。獲物を選ぶ目ではない。

 

『ハリーを連れ戻しに来たわ』

 

 ヴォルデモートを呼んでいる。

 

 蛇語の低い囁きが、部屋の壁に、床に、窓枠に染み込んでいく。まるで家そのものが、呼び声を外へ伝える魔法具になっているようだった。

 

「まずい」

 

 トムが言うより早く、ルーピンが呪文を放った。

 

 赤い光が蛇の胴に直撃した。

 

 効かなかった。

 

 鱗の上で光が弾け、銀色の膜に吸われるように消える。

 

 ムーディの呪文が続いた。

 

 シリウスの呪文も飛ぶ。

 

 家具が砕け、棚が吹き飛び、壁にひびが入る。だが、ナギニは倒れない。傷一つない。

 

「何かの防護魔法だ!」

 

 ルーピンが叫ぶ。

 

「蛇そのものにかけられている!」

 

 いや、違う。

 

 トムはその様子を見て確信した。

 

 ナギニは恐らくただの蛇ではない。

 

 ヴォルデモートの分霊箱だ。

 

 通常の呪文では対抗できない。バジリスクの毒か、悪霊の火。魂に食い込むものがいる。

 

 トムは杖を握り直した。

 

 悪霊の火なら焼ける。

 

 この蛇も、この家も、まとめて焼き尽くせる。

 

 その程度の制御はできる。

 

 できるはずだった。

 

「トム、何を──」

 

 ルーピンが気づいた時、トムはすでに杖先に魔力を集めていた。

 

 黒に近い赤が、杖先で揺らぐ。

 

 炎になる前の、獣の息のような熱。

 

 ナギニの金色の目が細くなる。

 

 その瞬間、ハリーがナギニの前に飛び出した。

 

「やめろ!」

 

 ハリーの声で、トムの手が止まった。

 

 止めざるを得なかった。

 

 悪霊の火は、ただの火ではない。一度放てば、魂を食い、物を食い、制御を誤れば味方も食う。

 

 ナギニだけを焼くには、ハリーが近すぎる。

 

「どけ、ハリー!」

 

「嫌だ!」

 

 ハリーは叫んだ。

 

「ナギニは白銀卿がいない間、ずっと僕を守ってくれてたんだ!」

 

 記憶操作でもされているのか?

 今それを解くには時間が足りない。

 

 トムは歯を食いしばった。

 

 今ここで悪霊の火を放てば、ナギニごとハリーを焼く。

 

 ハリー・ポッターを焼く。

 

 それをした瞬間、シリウスは壊れる。ルーピンも、ムーディも、ダンブルドアも、マインも。

 

 そして、何よりヴォルデモートの思う壺だ。

 

 トムは炎を飲み込ませるように、杖先を下げた。

 

 その一瞬だった。

 

 窓の外で何かが弾けた。

 

 青白い光が走る。

 

 ムーディの魔法の目がぎょろりと動いた。

 

「外だ!」

 

 次の瞬間、窓が内側へ砕けた。

 

 呪文が飛び込んでくる。

 

 ムーディが味方の周りに防御呪文を張った。光が弾け、床板が爆ぜる。

 

 ルーピンが反対側の扉へ向かおうとした時、黒い影のような呪文が床を走り、彼の足元で裂けた。

 

「ドロホフか!」

 

 ムーディが舌打ちする。

 

 ナギニが呼んだ死喰い人だった。

 

「来るのが遅かったねえ」

 

 女の声がした。

 

 奥の暗がりから、ベラトリックス・レストレンジが現れた。

 

 黒い髪を揺らし、狂気じみた笑みを浮かべている。

 

「せっかく招かれたのに、玄関でぐずぐずしているなんて。ブラック家で礼儀を勉強しそこねたのかい?」

 

 シリウスの顔が変わった。

 

「ベラトリックス・レストレンジ!」

 

「おや、シリウス。まだその顔をしているのかい。かわいそうな坊やを助けに来た、勇敢な名付け親の顔」

 

 ベラトリックスは笑った。

 

「でも、坊やは帰りたくないって」

 

 シリウスの杖先が跳ねる。

 

 ルーピンがシリウスの腕を掴んだ。

 

「おい、挑発に乗るな!」

 

「乗るなと言われて止まれる性格じゃないだろう?」

 

 ベラトリックスは目を細めた。

 

「お前は昔からそうだ。家族を捨てるのは早かったのに、家族に腹を立てるのはやめられない。立派だねえ、シリウス。ブラック家で一番忠実な犬じゃないか!」

 

「黙れ」

 

「嫌だね。やっと会えたんだ。少しくらいおしゃべりしようじゃないか」

 

 ベラトリックスはハリーを見た。

 

「ねえ、ハリー坊や。こいつはお前一人助けられない腰抜けみたいだ」

 

 ハリーはビクリと体を震わせた。

 

「黙れ!」

 

 シリウスが飛びかけた。

 

 ルーピンが本気で押さえる。

 

「シリウス!」

 

 ムーディが退路を作ろうと外へ向けて呪文を放つ。

 

 だが、その瞬間、玄関側に銀色の結界が走った。

 

 退路が塞がれる。

 

 窓の外に、淡い金髪の男が立っていた。

 

 ルシウス・マルフォイ。

 

 杖を構え、しかし自分から踏み込んではこない。退路を押さえる役だ。

 

 シリウスが怒鳴る。

 

「ルシウス・マルフォイ! お前、こんなところにいてマインに顔向けできるのか?」

 

 ルシウスは一瞬だけ顔をしかめた。

 それから、いつもの冷たい表情に戻る。

 

「私はあの方に忠誠を誓うだけだ」

 

「ふざけるな!」

 

「お前に何が分かる、ブラック」

 

 ルシウスの声は硬かった。

 

 彼は戦いたがってはいない。

 だが、逃がす気もない。

 

 トムは舌打ちしたくなった。

 

 配置が完璧だった。

 

 ベラトリックスはシリウスを煽り、ルシウスは退路を塞ぎ、外のドロホフはムーディとルーピンの援護を削る。ナギニは中心で守られ、なぜかナギニを味方だと思っているハリーはその盾になる。

 

 でも、まだ本命が現れていない。

 

 この配置を作った者が。

 

 空気が歪んだ。

 

 部屋の奥に、黒いローブの影が現れる。

 

 銀の髪が、薄暗い部屋の中で淡く光った。

 

 現れた男は、トムの知るヴォルデモートの姿とは違っていた。

 

 蛇のような顔ではない。

 

 蒼白い肌。すっと通った鼻梁。目は赤く、静かに光っている。銀髪は肩に落ち、黒いローブの襟元には、古い貴族の肖像画から抜け出してきたような気配があった。

 

 美しい男だった。

 

 年齢を重ねた美しさだった。

 

 恐怖を、醜悪ではなく威厳として纏う顔。

 

 白銀卿。

 

 ハリーがそう呼ぶには、あまりに都合の良い姿。

 

「白銀卿!」

 

 ハリーは、安堵したようにその名を呼んだ。

 

 トムはその呼び方に、わずかな吐き気を覚えた。

 

 ヴォルデモートはハリーに視線を向け、穏やかに微笑む。

 

「よく待っていたね、ハリー」

 

 声まで違う。

 

 低く、穏やかで、相手に耳を傾けているように響く声。

 

 恐らく全部作り物だ。

 

 トムは思った。

 

 だが、作り物だからこそ恐ろしい。

 

 ハリーが信じるために用意された姿。ハリーが救われたと錯覚するための声。

 

「ハリーから離れろ!」

 

 シリウスが呪文を放つ。

 

 ヴォルデモートは杖を軽く振っただけだった。

 呪文が逸れ、壁を砕く。

 

 ムーディが別方向から仕掛ける。ルーピンがハリーを引き寄せるために動く。だが、ナギニが滑り込み、ベラトリックスが横から笑いながら呪文を撃つ。

 

 ハリーはベラトリックスの笑い声に、かすかに肩を震わせた。

 

「白銀卿……」

 

「心配はいらない」

 

 ヴォルデモートは静かに言った。

 

「彼女は過激だ。だが、君を傷つけることは許していない」

 

「でも、あの人がシリウスを──」

 

「彼らが先にナギニを殺そうとした」

 

 その声はあくまで穏やかだった。

 

「君を守っていたナギニをね」

 

 ハリーの視線が揺れた。

 

 ナギニを見る。

 

 トムの杖先を見る。

 

 悪霊の火になりかけていた、黒い熱の名残を見る。

 

 ハリーは死喰い人たちを信じているわけではなさそうだった。

 ベラトリックスの笑い声には怯えた。ドロホフの呪文には肩を強ばらせた。

 

 それでも、白銀卿が自分の後ろに立つと、息をついた。

 それが、一番恐ろしかった。

 

「ほら、シリウス。そんなに焦るとまた失敗するよ」

 

「黙れ、ベラトリックス!」

 

「嫌だねえ!」

 

 外からはドロホフの呪文。

 

 玄関側はルシウスの結界。

 

 全員が少しずつ遅れる。

 

 ほんの少しずつ。

 

 その少しの遅れが、絶望的だった。

 

「シリウスはそんなに僕をダーズリー家に戻したいんだ」

 

 ハリーが言った。

 

 シリウスはハリーを見て叫んだ。

 

「違う! ダーズリー家はダンブルドアがお前を守るために──」

 

 その名前が出た瞬間だった。

 

 ハリーの表情が、がらりと変わった。

 それまでの困惑も、怯えも、助けを求めるような揺れも消えた。

 

 瞳の奥が硬くなる。

 

「ダンブルドア?」

 

 ハリーの声は低かった。

 

 シリウスが言葉を失う。

 

「またダンブルドアなの?」

 

「ハリー」

 

 ルーピンが慎重に声をかけた。

 

「違う。ダンブルドアは君を守ろうとしているだけで──」

 

「僕を守るって、いつ?」

 

 ハリーが言った。

 

「ダーズリー家に預けた時? 誰も迎えに来なかった時? クィレルに殺されそうになった時? 炎のゴブレットに選ばれた時?」

 

 シリウスの顔が蒼白になる。

 

 まずい。ハリーはヴォルデモートに都合の良いように洗脳されている。

 

「ねえ、いつなの?」

 

「ハリー、それは──」

 

「ほらね」

 

 ベラトリックスが楽しそうに囁いた。

 

「やっぱり、その話だった」

 

「黙れ!」

 

「嫌だね。言ってやりなよ、シリウス」

 

 ベラトリックスは甘ったるい声を出した。

 

「ダンブルドアはなんて説明したんだい? ハリー坊やを守るためには、あのマグルの家に戻るしかないんだって? 自分ではそうしてやりたくないけれど、仕方ないんだって。愛しているから、閉じ込めるんだって、そう言ったのかい?」

 

 シリウスが杖を向けた。

 

「黙れと言っている!」

 

「否定しないのかい?」

 

 ベラトリックスの笑みが深くなる。

 

「否定してやりなよ。ハリー坊やは待っているよ。もう二度とあの家には戻さないって。誰が何を言っても、お前が守ってやるって」

 

 ハリーがシリウスを見た。

 

 その目は期待していた。

 

 ほんの少し。

 

 まだ、期待していた。

 

 シリウスは口を開いた。

 

「俺は──」

 

 言葉が止まった。

 

 トムは眉をひそめた。

 

 何を黙っている。

 戻さないと言えばいい。

 マグルの家に戻す必要など、どこにある。

 

 シリウスは沈黙した。

 その一瞬の沈黙を、ハリーは見た。

 

 ベラトリックスを信じたのではない。

 ルシウスを信じたのでもない。

 

 ハリーが見たのは、シリウスがすぐに否定できなかったことだった。

 

 ルシウスの冷たい声が落ちた。

 

「ブラック、君に決定権はあるのかね?」

 

 シリウスが歯を剥く。

 

「黙っていろ、マルフォイ」

 

「ダンブルドアが戻せと言えば、君は逆らえるのか?」

 

 ルシウスの声は、刃のように薄かった。

 

「君は無謀だが、愚かではないはずだ」

 

「俺はハリーを──」

 

「連れ戻すつもりだったのだろう」

 

 ルシウスは言った。

 

「少なくとも、彼に選ばせるつもりではなかった」

 

 ハリーが一歩下がった。

 

「違う!」

 

 シリウスが叫ぶ。

 

「違う、ハリー! 俺はお前をあそこに戻したくなんか──」

 

「じゃあ、どうして僕は去年戻されたの?」

 

 ハリーは問うた。

 

「どうして僕は、白銀卿に言われるまで、戻らなくていいって誰にも言ってもらえなかったの?」

 

 ヴォルデモートは何も言わなかった。

 

 ただ、ハリーの後ろに立っていた。

 

 まるで、ハリー自身が選ぶのを待っているかのように。

 

 だからこそ、最悪だった。

 

 トムは死喰い人たちの呪文を裁きながら判断した。

 

 このままでは駄目だ。

 

 連携を待てば、相手の配置に呑まれる。

 

 ならば、配置の中心を崩すしかない。

 

 ヴォルデモート。

 

 あの男を一瞬でも乱せば、ハリーの行動も、死喰い人の包囲も揺らぐ。

 

 自分なら読める。

 

 自分なら届く。

 

 トムは踏み込み、低く鋭い呪文を放った。

 

 狙いはヴォルデモートの胸ではない。

 

 杖を持つ手、その少し手前。

 

 直接の攻撃ではなく、反射的な防御を誘う位置だ。防御の癖を引き出し、次の一手で本命を叩く。

 

 トムが最も好む相手の反応を利用する組み立てだった。

 

 ヴォルデモートは笑った。

 

「そこだと思ったよ」

 

 トムの呪文は、空中でほどけた。

 ほどけた光が銀色の糸になり、逆にトムの手首へ巻きつく。

 

「っ!」

 

 トムはすぐに杖を返そうとした。

 

 だが、二手目は出なかった。

 

 床から黒い影が伸び、足を絡め取る。壁の割れ目から蛇のような闇が這い出し、肩を押さえつける。

 

 外に意識を向ければ、ドロホフの呪文が援護を断っている。

 

 横ではベラトリックスが笑っている。

 

 退路にはルシウスの結界。

 

 ナギニはハリーの隣で、再び舌を鳴らしている。

 

 トムは初めて、自分がヴォルデモート一人に負けているのではないと理解した。

 

 場に負けている。

 

 自分が一点だけを見た瞬間、相手は盤面全体を動かしていた。

 

「僕の呪文を──」

 

「お前の呪文?」

 

 ヴォルデモートは愉快そうに首を傾けた。

 銀の髪が肩から滑り落ちる。

 

「昔の私がよく好んだやり方だ」

 

 トムの顔が強ばる。

 

 ヴォルデモートはゆっくり歩いてくる。

 

 トムは拘束を破ろうとした。だが、銀色の糸は魔力の流れそのものに絡んでいる。強引にほどこうとすれば、杖先の集中が乱れる。

 

 乱れた瞬間、終わる。

 

「お前は私を出し抜けると思った」

 

 ヴォルデモートがトムに近づきながら言った。

 

「自分なら、私の罠を読めると。自分なら、騎士団の連中より早く、合理的に、正しい一手を選べると」

 

 トムは答えない。

 

 全て目の前の男の言う通りだった。

 

「だから、仲間と呼ぶには不愉快な者たちと呼吸を合わせるより、自分一人で動く方が確実だと考えた」

 

 ヴォルデモートの声は優しかった。

 優しいからこそ、残酷だった。

 

「お前はまだ赤子のようだ」

 

「……黙れ」

 

 トムは低く言った。

 

「十六歳の自分の考えることくらい、私にはお見通しなのだよ」

 

 その言葉が、トムを刺した。

 

 屈辱だった。

 力で抑え込まれたことではない。

 自分の思考が、あまりにも簡単に読まれていたことが。

 トムは杖を握り直そうとした。

 

 その指が動く前に、ヴォルデモートの杖が振られる。

 

 音はほとんどなかった。

 

 トムの体が壁へ叩きつけられた。

 

「ジェドゥソール!」

 

 ルーピンの声が遠く聞こえる。

 

 シリウスが怒鳴る。

 

 ムーディが呪文を撃つ。

 

 だが、それらはすべて遠かった。

 

 トムは床に落ちた。

 

 動こうとしても動けない。

 

 骨が折れたわけではない。筋肉を縛られたわけでもない。もっと深い場所、意志が動き出す場所に重石を置かれているようだった。

 

 ヴォルデモートは、倒れたトムを一瞥した。

 

「お前が私に勝つことはできない」

 

 その言葉が、呪いのように残った。

 

 トムの視界の中で、ハリーはシリウスの前に立っていた。

 

 杖も構えていない。

 

 ただ、必死な顔で立っている。

 

「お願いだから、やめて」

 

 ハリーの声は震えていた。

 

「もう、僕を連れ戻そうとしないで」

 

 シリウスの顔が苦痛に歪んだ。

 

「ハリー、そいつはお前を──」

 

「違う!」

 

 ハリーは叫んだ。

 

「違うんだ、シリウス。あの人は僕を連れ戻さなかった。あの家に戻らなくていいって言ってくれたんだ」

 

 その言葉に、ルーピンが息を止める。

 

 ムーディの魔法の目が一瞬止まる。

 

 ベラトリックスがうっとりと笑った。

 

「聞いたかい、シリウス。坊やはお前より賢いじゃないか。自分を守れなかった男より、自分を選んでくれた我が君を選ぶ。ああ、なんて美しい話だろうね」

 

「黙れ……」

 

「坊やは嫌だと言っているだろう? それなのに無理やり連れ戻すのかい?」

 

 シリウスの顔から血の気が引いた。

 

 ヴォルデモートは相変わらず何も言わなかった。

 

 何も言わず、ハリーの後ろに立っていた。

 

 ハリー自身が選ぶのを待っている。

 

 その形を崩さない。

 

 だからこそ、最悪だった。

 

「ハリー、行こう」

 

 ヴォルデモートがハリーに手を伸ばした。

 

 ハリーはシリウスを見た。

 

「ごめん、シリウス」

 

 ハリーはヴォルデモートの手を取った。

 

「ハリー!」

 

 シリウスが手を伸ばして叫んだ。

 

 何も掴めなかった。

 

 ヴォルデモートはいなかった。

 

 ハリーもいなかった。

 

 ナギニも、ベラトリックスも消えていた。

 外にいたルシウスとドロホフの気配も消えている。

 

 残されたのは、砕けた家具と、破れた写真だけだった。

 

 シリウスはその場に立ち尽くした。

 

 拳が震えている。

 

「くそ……くそが!!」

 

 ムーディは即座に窓と扉を確認し、追跡呪文を試した。だが、結果は分かっていた。罠は最初から逃げ道まで組み込まれていた。

 

「なぜ言わなかった」

 

 ルーピンに支えられながら、トムは壁際で身を起こしていた。

 シリウスが振り向く。 

 

「何をだ」

「戻さないと」

 

 トムは短く言った。

 シリウスの表情が強ばる。

 

「ハリー・ポッターは、それを待っていただけだ。もうダーズリー家には戻さない。君を連れてブラック家に帰る。たったそれだけの言葉で、あの男の芝居は崩れた」

 

 シリウスの拳が震えた。

 

「お前に何が分かる」

「分からないから聞いている」

 

 トムは苛立ちながら言った。

 

 いや、苛立ちだけではない。

 敗北の屈辱があった。

 ヴォルデモートに呪文を読まれたこと。自分一人の判断を利用されたこと。ナギニを焼くための火を、ハリーを盾に封じられたこと。

 そのすべてが、まだ喉の奥に焼けついている。

 だが、それでも分からなかった。

 なぜ、言わなかったのか。

 ハリー・ポッターは、あれほど分かりやすく求めていた。

 もう戻りたくない。

 ただ、それだけだった。

 それだけの願いに、なぜ答えられなかったのか。

 

「君は感情で動く男だろう、ブラック」

 

 トムは吐き捨てるように言った。

 

「罠だと分かっていても、ハリー・ポッターの名前を出されれば前へ出る。ベラトリックス・レストレンジに煽られれば杖を向ける。ハリーのためなら、判断を間違えるほど感情的になる」

 

 シリウスの目が怒りに燃えた。 

 

「黙れ」

「なら、なぜあの時だけ黙った」

 

 トムはシリウスを見据えた。

 

「戻さないと言えばよかった。君が一番言いたかった言葉だろう!」

 

 シリウスは口を開いた。

 

「俺だって」

 

 ようやく、シリウスは絞り出した。

 

「俺だって、戻したくなんかなかった」 

 

 声が割れていた。

 

「一度だって、あんな家に戻したかったことなんかない!」

「なら、なぜ言わなかった」

「言えなかったんだ!」

 

 叫びが、壊れた部屋に響いた。

 シリウス自身が、その声に傷ついたような顔をした。

 ルーピンが静かに目を伏せる。

 ムーディは窓の外を警戒したまま、何も言わなかった。

 トムは眉をひそめた。

 

「言えなかった?」

 

「リリーの血だ」 

 

 答えたのはルーピンだった。

 静かな声だった。

 それでも、部屋の空気が変わった。

 

「ハリーが母方の血縁者の家にいる限り、彼には特別な保護が働く。リリーが命をかけて残した守りだ。ダンブルドアは、それを失わせたくなかった」

 

 トムは黙った。

 ダーズリー家。

 マグルの家。

 ハリーが嫌がり、白銀卿が「戻らなくていい」と告げた場所。

 そこに、リリー・ポッターの血の守りがある。

 

「だから戻したのか」

 

 トムは言った。

 

「本人が嫌がっても」 

 

 ルーピンは答えなかった。

 答えないことが、答えだった。

 シリウスが壁を殴った。

 砕けた木片が床に落ちる。

 

「俺は、あいつを引き取りたかった」

 

 シリウスは低く言った。

 

「ジェームズとリリーが死んだ後、本当なら俺が引き取るはずだった。俺が守るはずだった」

 

 誰も何も言わなかった。 

 

「だが、俺はアズカバンに入れられた。十二年だ。十二年、何もできなかった。出てきた後も、自由に動けなかった。ダンブルドアは、血の守りが必要だと言った。ハリーを守るためだと」

 

 シリウスの声が低くなる。

 

「分かってる。理屈は分かってる。あいつを守るためだった。リリーの守りを無駄にしないためだった。俺だって、頭では分かってる」

 

 それから、シリウスは苦しそうに笑った。

 

「でも、ハリーにはそんなこと関係ないんだ」

 

 トムは何も言わなかった。

 シリウスは続けた。

 

「あいつは、あの家に戻された。嫌だと言っても、戻された。守るためだと誰かに言われて、あいつは閉じ込められた。少なくとも、あいつにはそう見えた」

 

 その時、トムはようやく理解した。

 ヴォルデモートは、嘘だけでハリー・ポッターを奪ったのではない。

 ダーズリー家に戻されたことは事実だった。

 ハリーが苦しんだことも事実だった。

 ダンブルドアがそこに置いたことも事実だった。

 そして、そこにリリー・ポッターの保護があったことも事実だった。

 ヴォルデモートは、その事実を壊していない。

 ただ、読み方を変えた。

 

「そういうことか」

 

 ヴォルデモートは知っていた。

 だから、あの場を作った。

 ナギニを置き、ハリーを置き、死喰い人を置き、退路を塞ぎ、シリウスの怒りを煽った。

 そして、シリウスが即答できない問いを用意した。 

 

 戻さないと約束できるのか。

 ダンブルドアに逆らえるのか。

 血の守りを捨てられるのか。

 

 ハリーの目の前で。

 

『十六歳の自分の考えることくらい、私にはお見通しなのだよ』

 

 ヴォルデモートの声が、また耳の奥で響いた。

 

 違う。

 

 読まれていたのは、トムの攻撃だけではなかった。

 この場にいる全員の弱点だった。

 

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