トム視点です。
トムは、自分がヴォルデモートを理解していると思っていた。
少なくとも、この場にいる誰よりは。
シリウス・ブラックは感情で動く。ハリー・ポッターという名を出されれば、罠と分かっていても前へ出る。
ムーディは警戒しすぎる。すべてを疑うあまり、相手がどこを疑わせたいのかを見失うことがある。
ルーピンは冷静だが、優しすぎる。ハリーを傷つける可能性のある一手を、最後の最後で遅らせる。
では、自分はどうか。
自分なら、あの男の罠を読める。
彼がどこに誘導し、どこで姿を現し、どの瞬間に相手の心を折ろうとするのか、他の誰よりも早く見抜ける。
なぜなら、ヴォルデモートは自分の成れの果てだからだ。
それが、トムの考えだった。
ゴドリックの谷は静かだった。
村は古い墓石と低い屋根を抱えたまま、息を潜めている。石畳は濡れ、霧が足元に絡みつき、杖明かりは白くにじんだ。
「静かすぎる」
ムーディが低く言った。
魔法の目が、バチルダ・バグショットの家の窓、屋根、地面、煙突、路地を忙しなく見回している。
「誰もいないように見える。だから気に食わん」
「同感だ」
シリウスは短く答えた。
だが、その声は硬かった。
視線は、扉から離れていない。
ハリーがいるかもしれない。
その一点だけで、シリウスはすでに半分罠にかかっている。
トムはそう判断した。
「隊列を崩すな」
ムーディが言う。
「ブラック、前に出すぎるな。ジェドゥソール、後ろも見ろ」
「命令されなくても」
トムはムッとして答えた。
その時、家の扉が開いた。
四人の杖先が一斉に上がる。
そこに立っていたのは、ハリー・ポッターだった。
丸眼鏡。黒い髪。額の稲妻の傷。
見た目はハリーだった。
少なくとも、トムの知っているハリー・ポッターと一致している。
シリウスが息をのんだ。
「ハリー……?」
ハリーは少し驚いたように瞬きをした。それから、ほっとしたように笑った。
「シリウス! なんでここに?」
たったそれだけで、シリウスの警戒が揺らいだ。
ムーディは揺らがなかった。
「合言葉を言え」
「合言葉?」
ハリーが首を傾げる。
「そんなの決めてないよね?」
ムーディがシリウスに目で合図をした。シリウスはハリーにたずねた。
「ハリー、ディメンターに遭遇した時、いつも誰の声を聞く?」
「母さんの声」
シリウスの顔が歪んだ。
喜びと安堵と、それでも消えない恐怖が混ざっていた。
「本物だ」
「本物かどうかはまだ分からん」
ムーディは杖を下げない。
「服従の呪文かもしれない。記憶をいじられているかもしれない。確認することは山ほどある」
「ムーディ先生」
ハリーは困ったように笑った。
「僕は大丈夫だよ。中に入って。彼女が待ってる」
ハリーの声は自然だった。
怯えていない。監禁されていた少年の声ではない。救出を待っていた者の声でもない。
むしろ、自分たちを客として迎える側の声だった。
「彼女?」
ルーピンが慎重に尋ねる。
「うん。あの人たちから逃げた後、僕を家に置いてくれたんだ」
ヴォルデモートから逃げられるなんてことあるのか?
トムは怪しんだが、シリウスは少し警戒を緩めたようだった。
シリウスは一歩進んだ。
「ハリー、本当に無事なんだな」
「うん」
ハリーは頷いた。
「怪我がないか確認させてくれ。拷問を受けたりしなかったか?」
「僕は大丈夫だよ」
ハリーは少しだけ困ったように笑った。
「ここはダーズリー家よりもずっといい」
「ああ? そりゃあそうだろうが……」
シリウスは眉をひそめた。
「シリウス、僕、ダーズリー家にはもう帰りたくない」
ハリーは決心した様子で言った。シリウスの顔が歪む。
「そうだよな……でも、その話は後だ。まず外に──」
「白銀卿は、もう戻らなくていいって言ってくれた」
「白銀卿だって?」
シリウスの顔が青ざめた。
ハリーは振り返った。
一人の老女が奥から出てきた。
皺だらけの手。
肩にかけられた古いショール。
バチルダ・バグショットだ。
老女の顔が、ゆっくりと上がる。
口元が笑った。
『あら、素敵な人たちね』
それは、蛇語だった。
「下がれ!」
トムは杖を振った。
老女の足元で床板が爆ぜる。
老女の首が、人間ではありえない角度で傾いた。
次の瞬間、皮膚が裂けるようにして、巨大な蛇が現れた。
トムは再度攻撃呪文を放った。
シリウスが叫ぶ。
「ハリー、離れろ!」
「やめて!」
ハリーが両手を広げた。
「ナギニは良い蛇だよ!」
その言葉は、あまりにも異様だった。
良い蛇。
ヴォルデモートの蛇を、ハリーはそう呼んだ。
ナギニは鎌首をもたげる。
金色の目が、順番に四人を見た。獲物を選ぶ目ではない。
『ハリーを連れ戻しに来たわ』
ヴォルデモートを呼んでいる。
蛇語の低い囁きが、部屋の壁に、床に、窓枠に染み込んでいく。まるで家そのものが、呼び声を外へ伝える魔法具になっているようだった。
「まずい」
トムが言うより早く、ルーピンが呪文を放った。
赤い光が蛇の胴に直撃した。
効かなかった。
鱗の上で光が弾け、銀色の膜に吸われるように消える。
ムーディの呪文が続いた。
シリウスの呪文も飛ぶ。
家具が砕け、棚が吹き飛び、壁にひびが入る。だが、ナギニは倒れない。傷一つない。
「何かの防護魔法だ!」
ルーピンが叫ぶ。
「蛇そのものにかけられている!」
いや、違う。
トムはその様子を見て確信した。
ナギニは恐らくただの蛇ではない。
ヴォルデモートの分霊箱だ。
通常の呪文では対抗できない。バジリスクの毒か、悪霊の火。魂に食い込むものがいる。
トムは杖を握り直した。
悪霊の火なら焼ける。
この蛇も、この家も、まとめて焼き尽くせる。
その程度の制御はできる。
できるはずだった。
「トム、何を──」
ルーピンが気づいた時、トムはすでに杖先に魔力を集めていた。
黒に近い赤が、杖先で揺らぐ。
炎になる前の、獣の息のような熱。
ナギニの金色の目が細くなる。
その瞬間、ハリーがナギニの前に飛び出した。
「やめろ!」
ハリーの声で、トムの手が止まった。
止めざるを得なかった。
悪霊の火は、ただの火ではない。一度放てば、魂を食い、物を食い、制御を誤れば味方も食う。
ナギニだけを焼くには、ハリーが近すぎる。
「どけ、ハリー!」
「嫌だ!」
ハリーは叫んだ。
「ナギニは白銀卿がいない間、ずっと僕を守ってくれてたんだ!」
記憶操作でもされているのか?
今それを解くには時間が足りない。
トムは歯を食いしばった。
今ここで悪霊の火を放てば、ナギニごとハリーを焼く。
ハリー・ポッターを焼く。
それをした瞬間、シリウスは壊れる。ルーピンも、ムーディも、ダンブルドアも、マインも。
そして、何よりヴォルデモートの思う壺だ。
トムは炎を飲み込ませるように、杖先を下げた。
その一瞬だった。
窓の外で何かが弾けた。
青白い光が走る。
ムーディの魔法の目がぎょろりと動いた。
「外だ!」
次の瞬間、窓が内側へ砕けた。
呪文が飛び込んでくる。
ムーディが味方の周りに防御呪文を張った。光が弾け、床板が爆ぜる。
ルーピンが反対側の扉へ向かおうとした時、黒い影のような呪文が床を走り、彼の足元で裂けた。
「ドロホフか!」
ムーディが舌打ちする。
ナギニが呼んだ死喰い人だった。
「来るのが遅かったねえ」
女の声がした。
奥の暗がりから、ベラトリックス・レストレンジが現れた。
黒い髪を揺らし、狂気じみた笑みを浮かべている。
「せっかく招かれたのに、玄関でぐずぐずしているなんて。ブラック家で礼儀を勉強しそこねたのかい?」
シリウスの顔が変わった。
「ベラトリックス・レストレンジ!」
「おや、シリウス。まだその顔をしているのかい。かわいそうな坊やを助けに来た、勇敢な名付け親の顔」
ベラトリックスは笑った。
「でも、坊やは帰りたくないって」
シリウスの杖先が跳ねる。
ルーピンがシリウスの腕を掴んだ。
「おい、挑発に乗るな!」
「乗るなと言われて止まれる性格じゃないだろう?」
ベラトリックスは目を細めた。
「お前は昔からそうだ。家族を捨てるのは早かったのに、家族に腹を立てるのはやめられない。立派だねえ、シリウス。ブラック家で一番忠実な犬じゃないか!」
「黙れ」
「嫌だね。やっと会えたんだ。少しくらいおしゃべりしようじゃないか」
ベラトリックスはハリーを見た。
「ねえ、ハリー坊や。こいつはお前一人助けられない腰抜けみたいだ」
ハリーはビクリと体を震わせた。
「黙れ!」
シリウスが飛びかけた。
ルーピンが本気で押さえる。
「シリウス!」
ムーディが退路を作ろうと外へ向けて呪文を放つ。
だが、その瞬間、玄関側に銀色の結界が走った。
退路が塞がれる。
窓の外に、淡い金髪の男が立っていた。
ルシウス・マルフォイ。
杖を構え、しかし自分から踏み込んではこない。退路を押さえる役だ。
シリウスが怒鳴る。
「ルシウス・マルフォイ! お前、こんなところにいてマインに顔向けできるのか?」
ルシウスは一瞬だけ顔をしかめた。
それから、いつもの冷たい表情に戻る。
「私はあの方に忠誠を誓うだけだ」
「ふざけるな!」
「お前に何が分かる、ブラック」
ルシウスの声は硬かった。
彼は戦いたがってはいない。
だが、逃がす気もない。
トムは舌打ちしたくなった。
配置が完璧だった。
ベラトリックスはシリウスを煽り、ルシウスは退路を塞ぎ、外のドロホフはムーディとルーピンの援護を削る。ナギニは中心で守られ、なぜかナギニを味方だと思っているハリーはその盾になる。
でも、まだ本命が現れていない。
この配置を作った者が。
空気が歪んだ。
部屋の奥に、黒いローブの影が現れる。
銀の髪が、薄暗い部屋の中で淡く光った。
現れた男は、トムの知るヴォルデモートの姿とは違っていた。
蛇のような顔ではない。
蒼白い肌。すっと通った鼻梁。目は赤く、静かに光っている。銀髪は肩に落ち、黒いローブの襟元には、古い貴族の肖像画から抜け出してきたような気配があった。
美しい男だった。
年齢を重ねた美しさだった。
恐怖を、醜悪ではなく威厳として纏う顔。
白銀卿。
ハリーがそう呼ぶには、あまりに都合の良い姿。
「白銀卿!」
ハリーは、安堵したようにその名を呼んだ。
トムはその呼び方に、わずかな吐き気を覚えた。
ヴォルデモートはハリーに視線を向け、穏やかに微笑む。
「よく待っていたね、ハリー」
声まで違う。
低く、穏やかで、相手に耳を傾けているように響く声。
恐らく全部作り物だ。
トムは思った。
だが、作り物だからこそ恐ろしい。
ハリーが信じるために用意された姿。ハリーが救われたと錯覚するための声。
「ハリーから離れろ!」
シリウスが呪文を放つ。
ヴォルデモートは杖を軽く振っただけだった。
呪文が逸れ、壁を砕く。
ムーディが別方向から仕掛ける。ルーピンがハリーを引き寄せるために動く。だが、ナギニが滑り込み、ベラトリックスが横から笑いながら呪文を撃つ。
ハリーはベラトリックスの笑い声に、かすかに肩を震わせた。
「白銀卿……」
「心配はいらない」
ヴォルデモートは静かに言った。
「彼女は過激だ。だが、君を傷つけることは許していない」
「でも、あの人がシリウスを──」
「彼らが先にナギニを殺そうとした」
その声はあくまで穏やかだった。
「君を守っていたナギニをね」
ハリーの視線が揺れた。
ナギニを見る。
トムの杖先を見る。
悪霊の火になりかけていた、黒い熱の名残を見る。
ハリーは死喰い人たちを信じているわけではなさそうだった。
ベラトリックスの笑い声には怯えた。ドロホフの呪文には肩を強ばらせた。
それでも、白銀卿が自分の後ろに立つと、息をついた。
それが、一番恐ろしかった。
「ほら、シリウス。そんなに焦るとまた失敗するよ」
「黙れ、ベラトリックス!」
「嫌だねえ!」
外からはドロホフの呪文。
玄関側はルシウスの結界。
全員が少しずつ遅れる。
ほんの少しずつ。
その少しの遅れが、絶望的だった。
「シリウスはそんなに僕をダーズリー家に戻したいんだ」
ハリーが言った。
シリウスはハリーを見て叫んだ。
「違う! ダーズリー家はダンブルドアがお前を守るために──」
その名前が出た瞬間だった。
ハリーの表情が、がらりと変わった。
それまでの困惑も、怯えも、助けを求めるような揺れも消えた。
瞳の奥が硬くなる。
「ダンブルドア?」
ハリーの声は低かった。
シリウスが言葉を失う。
「またダンブルドアなの?」
「ハリー」
ルーピンが慎重に声をかけた。
「違う。ダンブルドアは君を守ろうとしているだけで──」
「僕を守るって、いつ?」
ハリーが言った。
「ダーズリー家に預けた時? 誰も迎えに来なかった時? クィレルに殺されそうになった時? 炎のゴブレットに選ばれた時?」
シリウスの顔が蒼白になる。
まずい。ハリーはヴォルデモートに都合の良いように洗脳されている。
「ねえ、いつなの?」
「ハリー、それは──」
「ほらね」
ベラトリックスが楽しそうに囁いた。
「やっぱり、その話だった」
「黙れ!」
「嫌だね。言ってやりなよ、シリウス」
ベラトリックスは甘ったるい声を出した。
「ダンブルドアはなんて説明したんだい? ハリー坊やを守るためには、あのマグルの家に戻るしかないんだって? 自分ではそうしてやりたくないけれど、仕方ないんだって。愛しているから、閉じ込めるんだって、そう言ったのかい?」
シリウスが杖を向けた。
「黙れと言っている!」
「否定しないのかい?」
ベラトリックスの笑みが深くなる。
「否定してやりなよ。ハリー坊やは待っているよ。もう二度とあの家には戻さないって。誰が何を言っても、お前が守ってやるって」
ハリーがシリウスを見た。
その目は期待していた。
ほんの少し。
まだ、期待していた。
シリウスは口を開いた。
「俺は──」
言葉が止まった。
トムは眉をひそめた。
何を黙っている。
戻さないと言えばいい。
マグルの家に戻す必要など、どこにある。
シリウスは沈黙した。
その一瞬の沈黙を、ハリーは見た。
ベラトリックスを信じたのではない。
ルシウスを信じたのでもない。
ハリーが見たのは、シリウスがすぐに否定できなかったことだった。
ルシウスの冷たい声が落ちた。
「ブラック、君に決定権はあるのかね?」
シリウスが歯を剥く。
「黙っていろ、マルフォイ」
「ダンブルドアが戻せと言えば、君は逆らえるのか?」
ルシウスの声は、刃のように薄かった。
「君は無謀だが、愚かではないはずだ」
「俺はハリーを──」
「連れ戻すつもりだったのだろう」
ルシウスは言った。
「少なくとも、彼に選ばせるつもりではなかった」
ハリーが一歩下がった。
「違う!」
シリウスが叫ぶ。
「違う、ハリー! 俺はお前をあそこに戻したくなんか──」
「じゃあ、どうして僕は去年戻されたの?」
ハリーは問うた。
「どうして僕は、白銀卿に言われるまで、戻らなくていいって誰にも言ってもらえなかったの?」
ヴォルデモートは何も言わなかった。
ただ、ハリーの後ろに立っていた。
まるで、ハリー自身が選ぶのを待っているかのように。
だからこそ、最悪だった。
トムは死喰い人たちの呪文を裁きながら判断した。
このままでは駄目だ。
連携を待てば、相手の配置に呑まれる。
ならば、配置の中心を崩すしかない。
ヴォルデモート。
あの男を一瞬でも乱せば、ハリーの行動も、死喰い人の包囲も揺らぐ。
自分なら読める。
自分なら届く。
トムは踏み込み、低く鋭い呪文を放った。
狙いはヴォルデモートの胸ではない。
杖を持つ手、その少し手前。
直接の攻撃ではなく、反射的な防御を誘う位置だ。防御の癖を引き出し、次の一手で本命を叩く。
トムが最も好む相手の反応を利用する組み立てだった。
ヴォルデモートは笑った。
「そこだと思ったよ」
トムの呪文は、空中でほどけた。
ほどけた光が銀色の糸になり、逆にトムの手首へ巻きつく。
「っ!」
トムはすぐに杖を返そうとした。
だが、二手目は出なかった。
床から黒い影が伸び、足を絡め取る。壁の割れ目から蛇のような闇が這い出し、肩を押さえつける。
外に意識を向ければ、ドロホフの呪文が援護を断っている。
横ではベラトリックスが笑っている。
退路にはルシウスの結界。
ナギニはハリーの隣で、再び舌を鳴らしている。
トムは初めて、自分がヴォルデモート一人に負けているのではないと理解した。
場に負けている。
自分が一点だけを見た瞬間、相手は盤面全体を動かしていた。
「僕の呪文を──」
「お前の呪文?」
ヴォルデモートは愉快そうに首を傾けた。
銀の髪が肩から滑り落ちる。
「昔の私がよく好んだやり方だ」
トムの顔が強ばる。
ヴォルデモートはゆっくり歩いてくる。
トムは拘束を破ろうとした。だが、銀色の糸は魔力の流れそのものに絡んでいる。強引にほどこうとすれば、杖先の集中が乱れる。
乱れた瞬間、終わる。
「お前は私を出し抜けると思った」
ヴォルデモートがトムに近づきながら言った。
「自分なら、私の罠を読めると。自分なら、騎士団の連中より早く、合理的に、正しい一手を選べると」
トムは答えない。
全て目の前の男の言う通りだった。
「だから、仲間と呼ぶには不愉快な者たちと呼吸を合わせるより、自分一人で動く方が確実だと考えた」
ヴォルデモートの声は優しかった。
優しいからこそ、残酷だった。
「お前はまだ赤子のようだ」
「……黙れ」
トムは低く言った。
「十六歳の自分の考えることくらい、私にはお見通しなのだよ」
その言葉が、トムを刺した。
屈辱だった。
力で抑え込まれたことではない。
自分の思考が、あまりにも簡単に読まれていたことが。
トムは杖を握り直そうとした。
その指が動く前に、ヴォルデモートの杖が振られる。
音はほとんどなかった。
トムの体が壁へ叩きつけられた。
「ジェドゥソール!」
ルーピンの声が遠く聞こえる。
シリウスが怒鳴る。
ムーディが呪文を撃つ。
だが、それらはすべて遠かった。
トムは床に落ちた。
動こうとしても動けない。
骨が折れたわけではない。筋肉を縛られたわけでもない。もっと深い場所、意志が動き出す場所に重石を置かれているようだった。
ヴォルデモートは、倒れたトムを一瞥した。
「お前が私に勝つことはできない」
その言葉が、呪いのように残った。
トムの視界の中で、ハリーはシリウスの前に立っていた。
杖も構えていない。
ただ、必死な顔で立っている。
「お願いだから、やめて」
ハリーの声は震えていた。
「もう、僕を連れ戻そうとしないで」
シリウスの顔が苦痛に歪んだ。
「ハリー、そいつはお前を──」
「違う!」
ハリーは叫んだ。
「違うんだ、シリウス。あの人は僕を連れ戻さなかった。あの家に戻らなくていいって言ってくれたんだ」
その言葉に、ルーピンが息を止める。
ムーディの魔法の目が一瞬止まる。
ベラトリックスがうっとりと笑った。
「聞いたかい、シリウス。坊やはお前より賢いじゃないか。自分を守れなかった男より、自分を選んでくれた我が君を選ぶ。ああ、なんて美しい話だろうね」
「黙れ……」
「坊やは嫌だと言っているだろう? それなのに無理やり連れ戻すのかい?」
シリウスの顔から血の気が引いた。
ヴォルデモートは相変わらず何も言わなかった。
何も言わず、ハリーの後ろに立っていた。
ハリー自身が選ぶのを待っている。
その形を崩さない。
だからこそ、最悪だった。
「ハリー、行こう」
ヴォルデモートがハリーに手を伸ばした。
ハリーはシリウスを見た。
「ごめん、シリウス」
ハリーはヴォルデモートの手を取った。
「ハリー!」
シリウスが手を伸ばして叫んだ。
何も掴めなかった。
ヴォルデモートはいなかった。
ハリーもいなかった。
ナギニも、ベラトリックスも消えていた。
外にいたルシウスとドロホフの気配も消えている。
残されたのは、砕けた家具と、破れた写真だけだった。
シリウスはその場に立ち尽くした。
拳が震えている。
「くそ……くそが!!」
ムーディは即座に窓と扉を確認し、追跡呪文を試した。だが、結果は分かっていた。罠は最初から逃げ道まで組み込まれていた。
「なぜ言わなかった」
ルーピンに支えられながら、トムは壁際で身を起こしていた。
シリウスが振り向く。
「何をだ」
「戻さないと」
トムは短く言った。
シリウスの表情が強ばる。
「ハリー・ポッターは、それを待っていただけだ。もうダーズリー家には戻さない。君を連れてブラック家に帰る。たったそれだけの言葉で、あの男の芝居は崩れた」
シリウスの拳が震えた。
「お前に何が分かる」
「分からないから聞いている」
トムは苛立ちながら言った。
いや、苛立ちだけではない。
敗北の屈辱があった。
ヴォルデモートに呪文を読まれたこと。自分一人の判断を利用されたこと。ナギニを焼くための火を、ハリーを盾に封じられたこと。
そのすべてが、まだ喉の奥に焼けついている。
だが、それでも分からなかった。
なぜ、言わなかったのか。
ハリー・ポッターは、あれほど分かりやすく求めていた。
もう戻りたくない。
ただ、それだけだった。
それだけの願いに、なぜ答えられなかったのか。
「君は感情で動く男だろう、ブラック」
トムは吐き捨てるように言った。
「罠だと分かっていても、ハリー・ポッターの名前を出されれば前へ出る。ベラトリックス・レストレンジに煽られれば杖を向ける。ハリーのためなら、判断を間違えるほど感情的になる」
シリウスの目が怒りに燃えた。
「黙れ」
「なら、なぜあの時だけ黙った」
トムはシリウスを見据えた。
「戻さないと言えばよかった。君が一番言いたかった言葉だろう!」
シリウスは口を開いた。
「俺だって」
ようやく、シリウスは絞り出した。
「俺だって、戻したくなんかなかった」
声が割れていた。
「一度だって、あんな家に戻したかったことなんかない!」
「なら、なぜ言わなかった」
「言えなかったんだ!」
叫びが、壊れた部屋に響いた。
シリウス自身が、その声に傷ついたような顔をした。
ルーピンが静かに目を伏せる。
ムーディは窓の外を警戒したまま、何も言わなかった。
トムは眉をひそめた。
「言えなかった?」
「リリーの血だ」
答えたのはルーピンだった。
静かな声だった。
それでも、部屋の空気が変わった。
「ハリーが母方の血縁者の家にいる限り、彼には特別な保護が働く。リリーが命をかけて残した守りだ。ダンブルドアは、それを失わせたくなかった」
トムは黙った。
ダーズリー家。
マグルの家。
ハリーが嫌がり、白銀卿が「戻らなくていい」と告げた場所。
そこに、リリー・ポッターの血の守りがある。
「だから戻したのか」
トムは言った。
「本人が嫌がっても」
ルーピンは答えなかった。
答えないことが、答えだった。
シリウスが壁を殴った。
砕けた木片が床に落ちる。
「俺は、あいつを引き取りたかった」
シリウスは低く言った。
「ジェームズとリリーが死んだ後、本当なら俺が引き取るはずだった。俺が守るはずだった」
誰も何も言わなかった。
「だが、俺はアズカバンに入れられた。十二年だ。十二年、何もできなかった。出てきた後も、自由に動けなかった。ダンブルドアは、血の守りが必要だと言った。ハリーを守るためだと」
シリウスの声が低くなる。
「分かってる。理屈は分かってる。あいつを守るためだった。リリーの守りを無駄にしないためだった。俺だって、頭では分かってる」
それから、シリウスは苦しそうに笑った。
「でも、ハリーにはそんなこと関係ないんだ」
トムは何も言わなかった。
シリウスは続けた。
「あいつは、あの家に戻された。嫌だと言っても、戻された。守るためだと誰かに言われて、あいつは閉じ込められた。少なくとも、あいつにはそう見えた」
その時、トムはようやく理解した。
ヴォルデモートは、嘘だけでハリー・ポッターを奪ったのではない。
ダーズリー家に戻されたことは事実だった。
ハリーが苦しんだことも事実だった。
ダンブルドアがそこに置いたことも事実だった。
そして、そこにリリー・ポッターの保護があったことも事実だった。
ヴォルデモートは、その事実を壊していない。
ただ、読み方を変えた。
「そういうことか」
ヴォルデモートは知っていた。
だから、あの場を作った。
ナギニを置き、ハリーを置き、死喰い人を置き、退路を塞ぎ、シリウスの怒りを煽った。
そして、シリウスが即答できない問いを用意した。
戻さないと約束できるのか。
ダンブルドアに逆らえるのか。
血の守りを捨てられるのか。
ハリーの目の前で。
『十六歳の自分の考えることくらい、私にはお見通しなのだよ』
ヴォルデモートの声が、また耳の奥で響いた。
違う。
読まれていたのは、トムの攻撃だけではなかった。
この場にいる全員の弱点だった。