本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:パラプリュイ

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80話 ホグワーツ特急事件

 

 わたしたちはブラック家の広間で無言で本を読んでいた。皆読んでいるのは同じ『ヘンリー・ポーターと賢者の石』だ。

 ロンはずっと渋い顔をしている。ハーマイオニーは眉間にしわを寄せ、ジニーは腕を組んで、まるで本に喧嘩を売る準備をしているようだった。

 大人たちは本を読む時間があまりなさそうだったが、シリウスだけは書類仕事をフェルディナンド先輩に任せて本を読み始めた。

 フェルディナンド先輩は元気になる薬を飲みすぎてか笑顔が深まっていた。

 

 わたしはページをめくった。

 

 ヘンリー・ポーターは、階段下の物置で育てられていた。

 ロンいわく、マグル関連の描写は現実のハリーとあまり変わらないらしい。

 一番現実と異なっていてほしいところだった。

 意地悪な親戚に囲まれて、魔法界のことを知らず、自分が何者なのか分からないまま暮らしている。

 違うのは、文章が妙にきらきらしているところだった。

 

 ヘンリーは気高く、勇敢で、ハンサムで、選ばれた少年だった。周囲の人間は、彼の運命を引き立てるために配置されている。けれど、思ったほどひどくはない。

 

 ロンにあたるローランド・ウィズビーは、多少騒がしくて、少し格好良くされすぎている。でも、ヘンリーの大切な親友だ。

 

 ハーマイオニーにあたるハーモニー・クランチャーも、理屈っぽくて、優秀で、ちょっと鼻につく書かれ方ではある。でも、悪意はない。むしろ、物語の中では頼れる少女として描かれている。

 

 ジニーにあたるジェニーはまだほとんど出てこない。少しだけ、英雄に憧れる少女として名前が出る程度だ。

 

 ハグリッドにあたる大男も、マクゴナガル先生に似た先生も、スネイプ先生に似た先生も、多少の改変はあるが、現実と完全に別人というほどではない。

 

 ひどいのは、ダンブルドアだけだった。

 

 物語の中の校長は、何かを隠してヘンリーを危険へ向かわせる老人として書かれている。にこにこ笑って、肝心なことを言わず、ヘンリーの痛みに気づいていて気づかないふりをしている。

 

「ダンブルドア以外は、思ったより悪く書かれてないね」

 

 わたしが言うと、ロンがむっとした。

 

「ローランドは、僕じゃない」

 

「それはそう」

 

「僕はあんなに都合よくヘンリーにならえ右しないし、あんなに格好つけたことも言わない」

 

「そこは認めるんだ」

 

「認めるよ! 僕はもっと文句を言う!」

 

 ロンは胸を張った。

 

 ハーマイオニーが少しだけ笑いそうになって、それからすぐに真面目な顔に戻った。

 

「でも、ロンの言う通りよ。大きな出来事は似ているけれど、全体的に都合よく整えられている。現実の嫌な部分が、物語として読みやすく並べ替えられているわ」

 

「ハリー以外は、そこまで別人じゃないのよね」

 

 ジニーが言った。

 

「だから余計に気持ち悪いわ。全部めちゃくちゃなら、ただの嘘だって言えるのに」

 

 わたしは頷いた。

 

 全部が嘘なら破りやすい。

 

 けれど、この本は違う。

 

 本当の出来事を使っている。本当にあった痛みを使っている。本当にいた人たちを、少しだけ物語に都合よく動かしている。

 

 そして、ハリーをヘンリー・ポーターという英雄に作り替えている。

 

 白銀卿は、ハリーの傷に題名をつけたのだ。

 

 そう思ってページをめくった時、胸の奥に妙な引っかかりを覚えた。

 この文章を、どこかで読んだことがある気がする。

 

 全く同じ文章ではない。

 

 けれど、似ている。

 

 大げさな比喩。自分で自分の場面を盛り上げるような文章。危険を描いているはずなのに、どこか読者の拍手を待っているような調子。

 

 わたしは顔を上げた。

 

 ハーマイオニーも、同じタイミングで顔を上げていた。

 

「マイン、この文章」

 

「うん、似てるよね」

 

「あなたもそう思った?」

 

 ロンが嫌そうな顔をする。

 

「何だよ、そのお互いで分かり合った顔」

 

 ハーマイオニーは本の文章を指で押さえた。

 

「この文体、どこかで読んだことがあるわ」

 

「僕も読んだよ。今」

 

「そういう意味じゃないわ」

 

 ハーマイオニーは苛立ったように言い、さらに数ページをめくった。

 

「過剰な自己演出。危険な場面なのに、妙に芝居がかっている文章。主人公が背中に花を背負っているような装飾の多い文章」

 

 わたしは、頭の中の本棚をひっくり返した。

 

「ギルデロイ・ロックハートの本に似ている」

 

 部屋の空気が一瞬止まった。

 

 ロンが口を開ける。

 

「嘘だろ」

 

「まだ分からないわ」

 

 ハーマイオニーはすぐに言った。

 

 でも、その声は否定というより確認だった。

 

「ただ、似ている。偶然とは言えないくらいものすごく似ている」

 

「でも、ロックハートって、たしか捕まってーー」

 

 ジニーが言いかけて、黙った。

 

 ムーディ先生は、部屋の隅で腕を組んでいた。魔法の目がぎょろりと動き、本とわたしたちを順番に見る。

 

「奴はアズカバンを脱獄した」

 

 低い声だった。

 

「死喰い人と手を組んでいてもおかしくない」

 

「ロックハートが?」

 

 ロンが信じられないという顔をした。

 

「あいつが? 死喰い人と?」

 

「承認欲求が高い者ほど、使いやすい」

 

 ムーディ先生は切り捨てた。

 

「アズカバン脱獄の際に接触したのだろう」

 

 ムーディの言葉で、フェルディナンド先輩が書類から顔を上げた。

 

「ロックハートは忘却呪文が得意だったな」

 

「ハリーの記憶を改ざんしたのも、ロックハートなの?」

 

 わたしは本を見下ろした。

 ロックハートって教師としては最悪だったけど、もしかして死喰い人としては有能なのでは。そんなことってある?

 

 シリウスは暖炉の前に立っていた。

 彼はずっと黙っていた。黙っているのに、怒っていることだけは分かった。指先が手紙を握り潰しかけている。

 

「シリウス」

 

 ルーピン先生が声をかけた。

 

 シリウスは返事をしなかった。

 

 代わりに、手にしていた羊皮紙をテーブルへ投げた。

 

「ダンブルドアからだ」

 

 その名前で、また空気が変わった。

 

 ロンが眉をひそめる。ハーマイオニーは唇を引き結んだ。ジニーは「ヘンリー・ポーターと賢者の石」の表紙の老人をちらりと見た。

 

 今、ダンブルドアという名前は、とても扱いづらい。

 

 現実のダンブルドアと、物語の中のダンベルドールが、みんなの中で少しずつ重なってしまっているからだ。

 

 ルーピン先生が手紙を取った。

 

 読み進めるにつれて、表情が険しくなる。

 

「……ハリーがダーズリー家に帰る前にホグワーツに来ることはあってはならない」

 

「何それ」

 

 ロンが言った。

 

「どういう意味?」

 

 ルーピン先生は続きを読んだ。

 

「仮にハリーがホグワーツ特急に乗るとしたら、そこからハリーを一度ダーズリー家へ戻す必要があるってことだ」

 

 誰も何も言わなかった。

 

 シリウスがようやく口を開いた。

 

「無理だ」

 

 短い言葉だった。

 

「どこにいるかも分からない。白銀卿のそばにいるかもしれない。ロックハートまで絡んでいるかもしれない。それなのに、組分けの儀式までにダーズリー家へ戻せだと?」

 

 シリウスは笑った。

 

 笑ったけれど、全然笑っていなかった。

 

「あのじじい、俺たちを何だと思ってる」

 

 モリーが小さく息を呑んだ。

 

 アーサーは眼鏡を押し上げ、手紙を覗き込む。

 

「難しすぎる」

 

「難しすぎるなんてもんじゃない」

 

 シリウスは言った。

 

「ハリーは、あの家に戻りたくない。戻りたいはずがない。そこを白銀卿に突かれてる。戻らなくていいと言われている。そこへ俺たちが、戻れと言うのか?」

 

 居間が静まり返る。

 

「最悪の説得ね」

 

 ハーマイオニーが言った。

 声がかすれていた。

 

 ルーピン先生が地図を広げた。

 

「ハリーが新学期にホグワーツへ行くつもりなら、マインの占い通りホグワーツ特急に現れる可能性が高い」

 

「でも、普通に乗るとは限らないわ」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

「白銀卿が関わっているなら、ホームで待っていてもすり抜けられるかもしれない」

 

「だから、あれか」

 

 ロンが嫌そうにわたしの方を見た。

 

「マインの占い」

 

「嫌そうに言わないで」

 

「だって、当たる時ほど嫌なことが起きるんだよ」

 

 否定できなかった。

 

 わたしは書庫目録を開いた。

 

 もう何度も見た題名が、頭の中に浮かぶ。

 

「『ホグワーツ特急事件』については、アーニーに手紙で聞いたよ」

 

 わたしは手紙を取り出した。

 

 アーニーの字は、ものすごく丁寧だった。丁寧すぎて、内容の変さが余計に際立っている。

 

「『ホグワーツ特急事件』は、ホグワーツ出身の作家が大昔に書いた推理小説。もう絶版だけど、推理小説が好きな人の間では人気らしい」

 

「内容は?」

 

 ジニーが身を乗り出した。

 

「ホグワーツ特急で殺人事件が起こるんだって。密室で、犯人は確実にホグワーツ特急の中にいる。乗客全員に動機があって、全員にアリバイがない」

 

「なんかありがちだな」

 

 ロンが言った。

 

 古典はありがちに見えるかもしれないが、名作なことも多い。

 

「結末は?」

 

「全員犯人だった」

 

 皆が黙った。

 

「それ、推理小説として成立してるの?」

 

 ハーマイオニーが不思議そうに言った。

 

 意外だ。もしやあの有名な推理小説を知らないのだろうか。

 

「界隈では人気らしい」

 

 ロンが顔をしかめた。

 

「人気って何だよ」

 

「二作目についても書いてある」

 

 わたしはアーニーの手紙をめくった。

 

「『ホグワーツ特急事件2』では、今度は全員いなくなるらしい」

 

「全員犯人の次は全員いなくなるの?」

 

 ジニーが真顔で言った。

 

「うん。それで、犯人は車掌だって」

 

 また皆が黙った。

 ムーディ先生だけが、少しだけ目を細めた。

 

「参考にならん」

 

「ごめんなさい」

 

 わたしは素直に謝った。

 ルーピン先生が考え込む。

 

「全員犯人か全員消えるか。荒唐無稽だが、列車そのものを舞台にした事件という点では無視できない」

 

「少なくとも、正規の乗客だけを見ていては駄目ね」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

「荷物室、車掌室、連結部、屋根、車内販売の通路。全部確認する必要があるわ」

 

「屋根?」

 

 アーサーおじさんが困惑した。

 

「ホグワーツ特急の屋根に人がいるとは思えないが」

 

「想定外のことが起こるのが、ホグワーツだよ」

 

 わたしは言った。

 

 シリウスは地図を睨んでいる。

 

「なら、作戦はこうだ。大人はキングズ・クロス駅のホームを見張る。ホグワーツ生はホグワーツ特急を調べる。手分けしてハリーを見つけよう」

 

「見つけた後は?」

 

 ジニーが言った。

 

 誰もすぐには答えなかった。

 

 そこが、一番苦しい。

 

 見つけるだけでは足りない。

 

 ハリーをダーズリー家に戻さなくてはいけない。

 

 戻らなくていい、と言われた少年を、戻りたくない家へ戻さなくてはならないのだ。

 

 

 

 

 

 

 ブラック家の屋敷の一つ、グリモールド・プレイスからキングズ・クロス駅までは、歩いて二十分ほどだという。

 たぶん、足の長い大人が、寄り道をせず、荷物に未読本を詰め込まず、夏休みの間も人間らしく歩いていた場合には、そのくらいかかるのだろう。

 

 わたしには無理だった。

 

「マイン、大丈夫? 荷物持とうか?」

 

 隣を歩くジニーが、心配そうにこちらを覗き込んだ。

 

「大丈夫」

 

 わたしは即答した。

 

 息は上がっている。足は重い。けれど、荷物は軽い。

 

 ここは大事なところである。

 

 わたしのトランクは、トムが拡張呪文で本棚つきの小部屋にしてくれた。中には教科書も、参考書も、読みかけの本も、予備の羊皮紙も、万が一に必要な本も、万が一が起きなくても必要な本も入っている。

 

 それでも、軽い。

 

 だから、わたしが遅いのは本のせいではない。

 

 夏休みの間、本ばかり読んで歩いていなかったからである。

 荷物は悪くない。

 悪いのは、読書をしていると時間が溶ける世界の仕組みだ。

 

「全然大丈夫そうに見えないわよ」

 

「トランクは軽いよ」

 

「トランクじゃなくて、あなたの足の話をしてるの」

 

「足は……読書に向いてないから使わないんだよね」

 

「足は歩くためについてるのよ」

 

 ジニーは呆れたように言った。

 

 少し先では、ロンとハーマイオニーが並んで歩いている。二人の胸には監督生のバッジが光っていた。ロンはまだ慣れないらしく、歩きながら何度も胸元を見下ろしている。ハーマイオニーはいつも通り、前を見てきびきび歩いていた。

 

「ロン、急いで。監督生は早めに行かないと」

 

「分かってるって!」

 

「分かっている人の歩き方じゃないわ」

 

「監督生になった途端、歩き方まで採点されるのかよ」

 

 ロンが文句を言う。

 

 わたしは少し羨ましかった。

 

 歩き方を採点されるくらい、普通に歩ける人の悩みである。

 

 そのさらに前を、アーサーおじさんとトンクスが歩いていた。ルーピン先生は少し離れて、周囲に目を配っている。シリウスは珍しく軽口が少なかった。何度も道の向こうを見て、駅の方角を確認している。

 

 みんな、ホグワーツ特急を警戒している。

 

 わたしの書庫目録が示したのは『ホグワーツ特急事件』だった。しかも、二度目には『ホグワーツ特急事件2』が出た。

 ハリーがホグワーツ特急に現れるのはほぼ確実だった。それならば、それに応じた手段を取るだけだ。

 

「少し休む?」

 

 ジニーが尋ねた。

 

「休まない。休むと、立ち上がるのに精神力がいるから」

 

「それは休んだ方がいい状態じゃない?」

 

 ロンが振り返った。

 

「おーい、マイン、大丈夫か?」

 

「大丈夫!」

 

 ハーマイオニーも足を止めた。

 

「マイン、無理しないで。私たちは監督生だから早めに行かないといけないけれど、ルーピン先生たちに――」

 

「私が一緒にいるわ」

 

 ジニーが言った。

 

 軽い声だった。でも、はっきりしていた。

 

「ロンとハーマイオニーは先に行って。監督生なんでしょ」

 

 ロンが露骨に嫌そうな顔をする。

 

「いや、僕も残る」

 

「駄目よ。監督生が遅れたら、いきなり減点されるんじゃない?」

 

「されないだろ、たぶん」

 

「たぶんで監督生をやらないで」

 

 ジニーはぴしゃりと言った。

 

 ハーマイオニーが頷く。

 

「ロン、行きましょう。ジニーが一緒なら大丈夫よ。マンダンガスも後ろにいるはずだし」

 

 その言葉に、わたしは後ろを見た。

 

 マンダンガス・フレッチャーは、少し後ろを歩いていた。ブラック家にもよく来ている騎士団員の一人だったが、クリーチャーはいつも文句を言っていた。

 手癖が悪く、ブラック家のものをよく盗んでいくらしい。そんな人がメンバーで不死鳥の騎士団は大丈夫なのだろうか。

 彼は歩きながら何かを物色していた。道端の古道具屋の窓に顔を向け、銀の燭台らしきものに目を吸い寄せられている。

 

 彼は最後尾でわたしたちじゃなくて、掘り出し物を警備しているみたいだった。

 

 この人に後ろを任せていいのだろうか。

 

 前方で、ロンがまだ迷っている。

 

「本当に大丈夫か?」

 

「大丈夫よ」

 

 ジニーが片手を振った。

 

「私がついてるから先に行ってて」

 

 ロンはまだ何か言いたそうだった。

 

 でも、ハーマイオニーに腕を引かれ、しぶしぶ前へ向かう。

 

「すぐ来いよ!」

 

「すぐ行く!」

 

 わたしは返事をした。

 

 するとロンは、ますます心配そうな顔をした。

 

「ロンドンのど真ん中で暴走するなよ!」

 

 失礼な。

 最近は身体が少し大きくなって前より魔力を溜め込みにくくなったから大丈夫なはずだ。

 

 ロンたちは先へ進み、角を曲がった。

 

 姿が見えなくなると、急に道が静かになった。さっきまで聞こえていたトランクの車輪の音、ロンの文句、ハーマイオニーの注意が遠ざかり、石畳を踏むわたしたちの足音だけが残る。

 

 ジニーは、わたしの歩調に合わせてくれた。

 

「ねえ、マイン」

 

「何?」

 

「この前の話、本気?」

 

「何の話?」

 

「魔法書研究会。私でも入れる?」

 

 わたしは驚いてジニーを見た。

 

「もちろん。どうして?」

 

「だって、すごい人ばっかりでしょ。ハーマイオニーとか、パドマとか。あのロンまで監督生になったし」

 

「ロンまで、って言ったら怒るよ」

 

「本人の前でもう言ったわ」

 

 ジニーは平然としていた。

 

 強い。兄相手に容赦がない。

 

「それに、私は本の話ならできるけど、魔法書に詳しいわけじゃないし」

 

「本を読んでコラムを書くなら大丈夫」

 

「基準が緩いのか厳しいのか分からないわ」

 

 ふいに、足元が冷えた。

 冬の寒さではない。石畳の下から冷たい水が染み出し、靴の底を通って体の中へ入り込んでくるような寒さだった。

 通りの向こうで、マグルの男の人が首をすくめた。

 

「急に冷えたな」

 

 彼はそう言って、コートの前をかき合わせた。隣にいた女の人も、怪訝そうに空を見上げる。

 

「さっきまで晴れてたのに」

 

 彼には何も見えていない。

 

 でも、寒さだけは感じている。

 

 通りを歩いていたマグルたちは、誰も黒い影を見ていなかった。ただ、急に足を速めたり、腕をさすったり、顔色を悪くして立ち止まったりしている。

 

 見えないものが、街の温度だけを奪っていく。

 

 わたしは足を止めた。

 

「……ジニー」

 

「分かってる」

 

 ジニーの声が低くなる。

 

 白い息が、わたしたちの口元から漏れた。まだ九月だ。こんなはずがない。

 

 道の奥から、黒い布のようなものが滑ってきた。

 

 布ではない。人の形をしている。でも、人ではない。顔のあるはずの場所は暗く、手は腐った枝のように伸びていた。

 

 ディメンターだ。

 

 息が詰まった。

 

 体が動かない。

 

 寒い。

 身体の中から、温かさが抜けていく。

 

 フェルディナンド先輩が死んでしまったときのことを思い出す。

 もう取り返した起きなかった過去だ。でもわたしは知っている。

 

 でも、ディメンターの近くでは、知っていることがほどけていく。ページが湿って、インクが滲むみたいに、今と過去が混ざる。

 わたしはその場に倒れかけた。

 

「マイン!」

 

 ジニーがわたしの腕を掴んで支えた。

 

 彼女の手も冷たかった。

 

 黒い影が近づく。

 

 一体ではない。

 

 二体。

 

 三体。

 

 どうして。

 

 どうして、こんなところに。

 

「下がって」

 

 ジニーが言った。

 

 声は震えている。それでも、彼女はわたしの前に出た。

 

「ジニー、駄目」

 

「駄目じゃないわ」

 

 ジニーは歯を食いしばる。

 

「私が一緒にいるって言ったんだから」

 

 ディメンターの一体が、長い手を伸ばした。

 

 日記がわたしのバッグから飛び出した。

 

「トム!」

 

 日記は石畳に落ちなかった。日記は空中で開き、開いたページからトムが現れた。

 

「なぜこんなところにディメンターが?」

 

 トムは呟いたが、すぐに状況を判断したのか、杖をディメンターに向けた。

 

「エクスペクト・パトローナム!」

 

 トムの杖から銀色の光が現れ、わたしとジニーをディメンターから守った。

 光は蛇に姿を変えた。

 ディメンターたちが、はじめて怯んだ。

 

 蛇の守護霊は、ディメンターたちの前に滑るように進んだ。

 銀の巨体が、黒い影とわたしたちの間を遮った。

 

 ディメンターの外套が、銀の鱗に触れると、その端が、霜のように砕けた。

 

 黒い影たちが後退する。悲鳴に似た風が吹き抜けた。

 蛇の守護霊はさらに進んだ。

 

 吸魂鬼たちは、ばらばらに逃げた。黒い布が、路地の奥へ、建物の影へ、冷たい霧の中へ消えていく。

 

 寒さが、少しずつ引いていった。

 

 わたしはその場に座り込んだ。

 

 膝に力が入らない。

 

 ジニーも隣に膝をついた。顔は真っ青だったが、杖をまだ握っている。

 

 銀色の蛇は、しばらくわたしたちの前にいた。

 それからゆっくりと小さくなり、銀の線に戻って、消えた。

 

「ここから駅まで歩ける?」

 

「無理かも」

 

「応援を呼んでここで待とう。万が一を考えてマインの荷物にチョコレートを入れておいたんだ」

 

 トムはわたしのトランクからチョコレートバーを3本取り出した。わたしたちは1本ずつ取り出して齧った。身体の芯から温まっていくような気がする。

 

「マイン! ジニー!」

 

 シリウスの声だった。

 次の瞬間、ルーピン先生とトンクスが角を曲がって駆け込んでくる。少し遅れて、アーサーおじさんも息を切らして現れた。

 

 シリウスはわたしたちの前で急停止した。顔色が悪い。いつもの軽口はどこにもなかった。

 

「何があった?」

 

「ディメンターよ」

 

 ジニーが答えた。

 

 シリウスの顔が変わった。

 

「このロンドンでか?」

 

「私が聞きたいわよ」

 

 トンクスがすぐに周囲を見回した。ルーピン先生はわたしの前に膝をつく。

 

「マイン、大丈夫かい? 怪我は? 気分は?」

 

「寒い。足が動かない。本は無事」

 

「本は今、確認しなくていい」

 

「大事です」

 

「君らしいが、今は後回しにしよう」

 

 ルーピン先生の声は優しかったが、手は少し震えていた。

 

 通りの向こうでは、マグルたちがまだ不安そうに辺りを見回している。ディメンターは見えていない。銀色の蛇も、きっと見えていなかったのだろう。

 

 けれど、寒さは残っていた。

 

 小さな子どもが泣き出し、母親らしい人が「大丈夫よ」と言いながら、何度も空を見上げている。店先の男の人は、凍ったように曇った窓を袖で拭いていた。

 

 見えていないのに、そこに何かがいたことだけは、みんな分かっているようだった。

 

「ディメンターは?」

 

 トンクスが言った。

 

「いなくなったわ」

 

 ジニーが答えた。

 

 シリウスが目を見開く。

 

「君が追い払ったのか?」

 

「違うわ」

 

「僕がやった」

 

 トムが答えた。

 

「マンダンガスは?」

 

 トンクスが低い声で言った。

 

 その場に沈黙が落ちる。後ろを振り返っても、最後尾にいるはずの人はいなかった。

 

 少し遅れて、角の向こうからマンダンガスが現れた。

 手には、銀色の小さな箱を持っている。

 

「いや、違うんだ、これはだな、ちょっと妙な品で――」

 

 シリウスが、ゆっくり振り返った。

 

「何をしていた」

 

 声が低かった。

 

 マンダンガスはびくっとした。

 

「ほんの数分だ!」

 

「ほんの数分で人が死ぬかもしれなかった」

 

 ルーピン先生が低い声で言い、マンダンガスは「ひぃ」と小さな悲鳴を上げて口を閉じた。

 

 トンクスの髪の色が、怒りで少し赤くなったように見える。

 

「最後尾を任されていたのよね?」

 

「いや、その、だから、ほんの少し――」

 

「その少しの間に、未成年が二人、ディメンターに襲われた」

 

 アーサーが眼鏡を押し上げた。顔は青ざめている。

 

「ハリーは?」

 

「まだ見つかってない。だが、早くしないと列車がもう出発する」

 

「行かないと」

 

 結局、わたしはジニーとトンクスに両側から支えられ、半分歩き、半分引きずられるようにキングズ・クロス駅へ向かった。

 駅の中は、いつも通り人でいっぱいだった。

 ついさっき通りでディメンターが出たなんて、誰も知らない。世界は、知らないまま普通に動いている。

 それが少し怖かった。

 

 九と四分の三番線への壁を抜けると、白い蒸気が視界いっぱいに広がった。

 ホグワーツ特急が、赤い車体を震わせている。

 発車の笛が鳴った。

 

「マイン! ジニー!」

 

 ロンの声がした。

 列車の扉から、ロンとハーマイオニーが身を乗り出していた。ハーマイオニーの顔は真っ青で、ロンはもう監督生らしさを全部投げ捨てている。

 

「早く!」

「分かってる!」

 

 分かっているけれど、足が遅い。

 

 ジニーが先に乗り込んだ。ロンが手を伸ばし、ジニーを引き上げる。次にハーマイオニーがわたしの腕を掴んだ。

 

「マイン、手を!」

 

 わたしはハーマイオニーに腕を預けた。

 ロンとハーマイオニーが引っ張り、ジニーが中から支え、トンクスが後ろから押した。

 わたしはほとんど荷物のように列車へ乗せられた。

 扉が閉まる。

 ホグワーツ特急が、ゆっくり動き出した。

 ホームが少しずつ後ろへ流れていく。

 

 ホグワーツ特急は、ロンドンを離れていく。

 

 それなのに、ハリーは、まだ見つかっていなかった。

 

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