本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:パラプリュイ

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81話 ホグワーツ特急事件②

 

 ハリーは、もっと事件らしい場所にいると思っていた。

 

 たとえば、見えない車両に閉じ込められているとか。

 

 白銀卿の手紙を握って、黒い煙の中から現れるとか。

 

 死喰い人の車掌に連れ去られて、荷物室の奥で縛られているとか。

 

 そういう、いかにも事件です、という場所を想像していた。

 

 でも、ハリーは普通にいた。

 

 普通のコンパートメントにいた。

 

 しかも、ドラコの向かいに座っていた。

 

「捕まえといたぞ」

 

 ドラコは、ものすごく偉そうに言った。

 

 まるで迷子の猫を拾って、自分の手柄として発表する人みたいだった。

 

 ハリーは座席の端で小さくなっている。眼鏡は少しずれていて、髪はいつもよりぼさぼさで、顔色は悪い。けれど、ちゃんとハリーだった。

 

 英雄でも、誘拐された少年でも、物語の主人公でもない。

 

 ただ、疲れた顔で座っているハリーだった。

 

「捕まえといたって何だよ!」

 

 ロンが叫んだ。

 

「言葉通りだ、ロン」

 

 ドラコは腕を組む。

 ハーマイオニーはすぐにハリーの前へ膝をついた。

 

「怪我は? どこか痛い? 呪文をかけられた? 記憶は大丈夫? 誰かに何か飲まされた?」

 

「ええと」

 

 ハリーは困ったように瞬きをした。

 

「たぶん、大丈夫」

 

「たぶんで済ませないで」

 

「ごめん」

 

 ジニーは扉のところで立ち止まっていた。

 

 怒っているようにも見えるし、泣きそうにも見える。けれど、何も言わない。言葉を出したら、きっと全部出てしまうのだと思う。

 

 わたしはドラコを見た。

 

「僕の荷物の中だ」

 

 ドラコの眉間に深いしわが寄った。

 

「僕のトランクから見覚えのある靴が出ていた」

 

「靴」

 

「しかも動いた」

 

 それは怖い。

 

 本棚の奥から足が出ていたら、わたしでも悲鳴を上げる。本棚は本を入れる場所であって、人間の足を栽培する場所ではない。

 

「確認したら、ハリーだった」

 

「ハリー、荷物に紛れて乗ったの?」

 

 わたしが聞くと、ハリーは少しだけ目を逸らした。

 

「分からない。気がついたらそこにいたんだ」

 

「気がついたらドラコの荷物の中に紛れているなんてことある?」

 

 ロンが言った。

 

「普通はないと思う」

 

 ハリーは真面目に答えた。

 

 ドラコが鼻を鳴らす。

 

「誰かが生徒の荷物に紛れ込ませて、ホグワーツ特急に乗せたんだろう」

 

 その時、廊下から誰かが顔を出した。

 

「今、荷物に紛れてホグワーツ特急に乗ったと言ったかい?」

 

 アーニー・マクミランだった。

 

 胸には監督生のバッジが光っている。

 

 それ以上に、目が光っていた。

 

 事件を心配している人間の目ではない。推理小説の話をしていいと分かった人間の目である。

 

「アーニー」

 

 ハーマイオニーが驚いた。

 

「どうしてここに?」

 

「監督生として巡回していたんだ。すると、荷物、紛れ込みという非常に重要な単語が聞こえた」

 

「それで来たの?」

 

「もちろんだ!」

 

 アーニーは胸を張った。

 

「まるで『ホグワーツ特急事件』じゃないか!」

 

 わたしは、嫌な予感がした。

 

 アーニーの顔は、完全に推理小説の話をする時の顔だった。

 

 わたしも本の話をする時、ああいう顔をしているのだろうか。だとしたら、みんなが時々わたしを遠巻きにする理由が少し分かる。

 

「一緒なの?」

 

 ジニーが聞いた。

 

「厳密には違う。だが、重要な共通点がある。正規の乗車経路ではない方法で、人物がホグワーツ特急に入り込む。しかも荷物と移動経路が絡む。これは列車ミステリーとして非常に古典的でありながら、魔法界ではかえって見落とされやすい手口だ」

 

「アーニー、短く」

 

 ロンが言った。

 

「ハリーが荷物に紛れて乗っていたのは、ホグワーツ特急事件に似てる」

 

「最初からそれでよかっただろ!」

 

 ロンは頭を抱えた。

 

 アーニーはまったく気にしていない。

 

 むしろ、ますます楽しそうになっている。

 

「それじゃあ、車内販売の魔女の話も本当なのかもしれない。まさか、実在するとは!」

 

 ロンが眉をひそめた。

 

「いや、車内販売の魔女は毎年いるだろ。蛙チョコを売ってるだろ」

 

「そういう意味じゃない」

 

 アーニーはきっぱり言った。

 

「僕が言っているのは、『ホグワーツ特急事件』における密室装置としての車内販売の魔女だ」

 

「密室装置としての車内販売の魔女って?」

 

 わたしは思わず繰り返した。

 

 少し面白そうだった。

 

 ハーマイオニーも眉間にしわを寄せている。あれは、納得したくないけれど理屈は気になる時の顔だ。

 

「説明して」

 

「普通の列車は、完全な密室にはならない」

 

 アーニーは待ってましたとばかりに言った。

 

「乗客は移動する。通路もある。荷物室もある。トイレもある。外に出ようと思えば出られるから、アリバイをまともに証明できない。だから、本来ならホグワーツ特急は密室にはならない」

 

「でも『ホグワーツ特急事件』では密室になるのね?」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

「そうだ。なぜなら、ホグワーツ特急には車内販売の魔女がいる」

 

 アーニーは指を一本立てた。

 

「彼女は全車両を自然に移動できる。すべてのコンパートメントの扉を叩ける。誰が扉を開け、誰が閉じこもり、誰が廊下にいたかを知ることができる。しかも、誰も彼女を不審に思わない。お菓子を売りに来るのは当然だからだ」

 

 廊下の奥から、かすかな音が聞こえた。

 

 からから。

 

 からから。

 

 ワゴンの車輪の音だった。

 

 わたしの背筋が伸びた。

 

 アーニーは、まだ説明を続けている。

 

「彼女は単なる売り子ではない。証人であり、境界の管理者でもある。ホグワーツ特急が走っている間、誰が中にいて、誰が外へ出られないのかを決める存在だ。だから『ホグワーツ特急事件』では、列車全体が巨大な密室として成立する」

 

「ちょっと待って」

 

 ジニーが言った。

 

「それって、今の状況だとかなり嫌な話じゃない?」

 

 からから。

 

 からから。

 

 ワゴンの音が近づいてくる。

 

 さっきまで目を輝かせていたアーニーの顔から、少しずつ血の気が引いた。

 

 自分の好きな本の話をしていたら、その本の中の怖い要素が廊下から来た。これは、本好きとしてはかなり複雑である。

 

 わたしなら、読みたい気持ちと逃げたい気持ちで二つに裂ける。

 

 たぶん裂けたあと、上半身が本を読み、下半身が逃げる。

 

「静かに」

 

 ハーマイオニーが小さく言った。

 

 ロンが杖に手をかける。

 

 ジニーはハリーの前に立った。

 

 ドラコも、何も言わずに杖を抜いた。

 

 アーニーはごくりと唾を飲み込む。

 

 ワゴンの音が、コンパートメントの前で止まった。

 

 扉の向こうから、いつもの優しい声がした。

 

「何かお菓子はいかが?」

 

 誰も答えなかった。

 

 わたしは、扉を見つめた。

 

 推理小説で読む密室は、少しわくわくする。

 

 閉ざされた列車。怪しい乗客。謎の証言。隠された通路。犯人の足跡。そういうものは、紙の上にある時だけ、とても楽しい。

 

 でも、自分が密室の中にいる時は、全然楽しくない。

 

 しかも、その密室の番人が、お菓子のワゴンを押して扉の前にいる。

 

 扉の向こうで、車内販売の魔女がもう一度言った。

 

「何か、お菓子はいかが?」

 

 アーニーが、小さな声で呟いた。

 

「……本当に、いたんだ」

 

 その声は、感動と恐怖が半分ずつだった。

 

 扉が開いた。

 

 車内販売の魔女は、いつものように立っていた。

 

 柔らかい笑顔。古びたワゴン。蛙チョコレート、百味ビーンズ、かぼちゃパイ、糖蜜ヌガー。

 

 全部、いつも通りだった。

 

 いつも通りすぎて、怖かった。

 

「何かお菓子はいかが?」

 

 ロンが、ものすごく慎重に口を開いた。

 

「今は、ちょっと」

 

「蛙チョコレートがありますよ」

 

「それは知ってます」

 

「百味ビーンズも」

 

「それも知ってます」

 

「逃げる生徒には、糖蜜ヌガーがおすすめですよ」

 

 全員が固まった。

 

 ハーマイオニーの目が鋭くなる。

 

「逃げる?」

 

 車内販売の魔女は、にこにこしている。

 

「ホグワーツへ向かう生徒は、途中で降りることができません」

 

 ハリーの顔から血の気が引いた。

 

「僕、降りるつもりは」

 

「あるわよ」

 

 ハーマイオニーが小さく言った。

 

 ハリーは彼女を見た。

 

 ハーマイオニーは唇を噛んでいる。

 

「血の守りを確認するためには、一度だけダーズリー家に戻る必要がある。少なくとも、ダンブルドア先生はそう判断している」

 

「でも」

 

 ロンが言った。

 

「それってつまり、ハリーをあの家に戻すってことだろ?」

 

「一度だけよ」

 

「一度だけでも嫌だろ」

 

 ロンの声は、怒っていた。

 

 ハリーは何も言わなかった。

 

 何も言わないことが、答えみたいだった。

 

 車内販売の魔女はワゴンに手を添えたまま、穏やかに言った。

 

「この列車は、学校へ向かう生徒を運びます」

 

「でも、必要なんです」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

「ハリーの安全のために」

 

「安全」

 

 車内販売の魔女は、その言葉を繰り返した。

 

 声は優しいままだった。

 

 でも、ワゴンの車輪がきしりと鳴った。

 

「安全のために、学校へ向かう生徒を途中で降ろすのですか?」

 

 ハーマイオニーが言葉に詰まった。

 

 言っていることは正しい。

 

 でもやらなきゃいけないのだ。

 

「校長先生の指示です」

 

 アーニーが言った。

 

 監督生らしく、きちんとした声だった。

 

 車内販売の魔女は、ゆっくりとアーニーを見た。

 

「この列車は、校長先生のものではありません」

 

 廊下が静まり返った。

 

 それは、とても静かな言葉だった。

 

 でも、なぜかものすごく重かった。

 

 ホグワーツ特急は、ホグワーツへ生徒を運ぶ列車だ。

 

 けれど、校長先生の持ち物ではない。

 

 ダンブルドアのものでも、魔法省のものでも、大人たちの都合のためのものでもない。

 

 この列車は、学校へ行く子どもたちの列車だ。

 

 そう言われた気がした。

 

「じゃあ、どうすればいいんだよ」

 

 ロンが言った。

 

「ハリーを見つけた。ここにいる。だけど戻さなきゃいけないって言われてる。でも本人は嫌がってる。列車は降ろさない。車掌は怪しい。車内販売の魔女は怖い。僕は監督生初日だ!」

 

「最後は関係ないでしょ」

 

 ジニーが言った。

 

「関係あるよ!」

 

 ロンは叫んだ。

 

「僕の監督生人生、初日から終わりそうなんだぞ!」

 

「ロン、落ち着いて」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

「落ち着いてる人間は、今ここにいない!」

 

 それは正しかった。

 

 ドラコが小さく舌打ちした。

 

「窓だ」

 

「は?」

 

「窓から出ればいい」

 

 ロンが信じられない顔をした。

 

「お前、今、窓から出ろって言ったか?」

 

「扉から出られないなら窓だろう」

 

「なんでそんなに自然に言えるんだよ!」

 

「マルフォイ家では、出口が一つしかない部屋を信用するなと教わる」

 

「嫌な家訓ね」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

 わたしは窓の外を見た。

 

 赤い車体の向こう。少し離れた空に、青いものが見えた。

 

 青い車だった。

 

 空を飛んでいる。

 

 運転席にはアーサー・ウィーズリー。

 

 後部座席にはルーピン先生とトンクスが押し込まれている。

 

 そして、その少し前を黒いバイクが飛んでいた。

 

 シリウスが乗っている。

 

 シリウスはバイクをホグワーツ特急の窓の高さまで寄せ、片手でハンドルを握ったまま叫んだ。

 

「ハリー! こっちへ来い!」

 

 ハーマイオニーが悲鳴を上げた。

 

「バイク!?」

 

 ロンは一瞬だけ誇らしそうな顔をした。

 

「うちの車も来てる」

 

「そこに感動してる場合じゃないわよ!」

 

 車内販売の魔女がワゴンを押した。

 

 ほんの少しだけ、通路が狭くなった気がした。

 

「ホグワーツへ向かう生徒は、途中で降りることができません」

 

「ごめんなさい!」

 

 わたしは反射的に謝った。

 

 何に謝ったのかは分からない。列車かもしれない。車内販売の魔女かもしれない。蛙チョコレートかもしれない。

 

 その時、トムが日記から姿を現した。皆が一瞬驚いてトムを見つめる。

 

「ずいぶん品位のない脱出にはなるね」

 

「今さら品位を気にしてる場合じゃない!」

 

 ロンが叫んだ。

 

「急げ。ハリーはブラックのバイクへ。他はウィーズリー家の車へ移れ。ドラコは列車からみんなを送り出せ。ここは僕が足止めする」

 

 トムが言った。

 

「なんでトムが仕切ってるの!?」

 

「仕切れる人間が他にいないからだろ!」

 

 ロンの叫びは悲しかった。

 

 トムの杖から銀色の蛇が滑り出した。

 

 守護霊が廊下を塞ぐように体を伸ばす。車内販売の魔女は、ほんの少しだけ目を細めた。

 

 笑顔は変わらない。

 

 でも、足は止まった。

 

「今だ!」

 

 ジニーがハリーの腕を引いた。

 

 窓が開く。

 

 風が吹き込む。髪がばさばさになり、羊皮紙が舞い、ドラコが「最悪だ」とつぶやいた。

 

 シリウスのバイクが窓の外に寄る。

 

 ハリーは窓枠に手をかけたまま固まった。

 

「無理だよ」

 

「無理じゃない!」

 

 シリウスが叫ぶ。

 

「俺が受け止める!」

 

「それは受け止める側の意見だよ!」

 

 ドラコがハリーの背を押した。

 

「行け、ハリー!」

 

「押さないで!」

 

「押さないと行かないだろ!」

 

「それはそうだけど!」

 

 結局、ハリーは半分自分で飛び、半分ドラコに押され、三分の一くらいシリウスに引っ張られて、黒いバイクの後部座席へ落ちた。

 

 シリウスはハリーを片腕で抱きとめた。

 

「無事か!」

 

「たぶん!」

 

「怪我は!」

 

「まだ分からない!」

 

「よし!」

 

 何がよしなのだろう。

 

 次に、わたしたちはウィーズリー家の車へ移る番だった。

 

「マイン、先に!」

 

「嫌だ!」

 

「どうして!?」

 

「空中移動は読書に向いてないから!」

 

「今、読書してないでしょう!」

 

「心の中でしてるもん」

 

「屁理屈言ってないでさっさと渡りなさい!」

 

 ハーマイオニーに怒られながら、わたしはジニーに押され、ロンに支えられ、最終的にトンクスに首根っこを掴まれて車へ引きずり込まれた。

 

 品位はなかった。

 

 トムの言う通りだった。

 

 続いてジニー、ハーマイオニー、ロン、アーニーが車に乗り込む。

 車内は、ぎゅうぎゅうだった。

 

 人間と荷物と杖と怒りと不安と監督生バッジが、全部ひとつの車内に詰め込まれている。

 

 アーニーは窓の外のホグワーツ特急を見て、まだ震えていた。

 

「本当に、車内販売の魔女が密室を維持していた……」

 

「アーニー、感動するのは後にしろ」

 

 ロンが言った。

 

「僕は感動しているんじゃない。震えているんだ」

 

「同じ顔してたぞ」

 

「感動と恐怖が同じ顔になることがあるんだよ」

 

 わたしは深く頷いた。

 

「分かる」

 

「分からなくていいわ」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

 窓の外では、シリウスのバイクが青い車の前を飛んでいた。

 

 ハリーはシリウスの背中にしがみついている。

 

 シリウスは時々振り返って何か話しかけていた。ハリーは風に髪をぐしゃぐしゃにされながら、頷いたり、首を横に振ったりしている。

 

 その様子が、少し不思議だった。

 

 ハリーは逃げているのではない。

 

 連れ去られているのでもない。

 

 名付け親のバイクに乗って、行きたくない場所へ向かっている。

 

 これが正しいのかどうか、わたしには分からない。

 

 でも、シリウスの背中にしがみつくハリーは、ホグワーツ特急の座席に一人で座っていた時よりは、少しだけ子どもに見えた。

 

 車はロンドンの空を飛んだ。

 

 下ではマグルの車が小さく動いている。アーサーは楽しそうにハンドルを握っていた。

 

「いやあ、久しぶりだな。やはりこの車はよく飛ぶ」

 

「アーサー」

 

 ルーピン先生が静かに言った。

 

「今は感慨に浸る場面ではない」

 

「そうだね、リーマス。だが、実に良いエンジン音だ」

 

「アーサー」

 

「分かっているとも」

 

 本当に分かっているのだろうか。

 

 車とバイクはやがて、見覚えのない住宅街に降下した。

 

 似たような家が並んでいる。きれいに刈られた芝生。整った生け垣。窓の向こうで揺れるカーテン。

 

 何もかもが普通すぎて、逆に怖かった。

 

 先に、シリウスのバイクが地面へ降りた。

 

 ハリーはバイクから降りた瞬間、肩を固くした。

 

 さっきディメンターに襲われた時とは違う固まり方だった。

 

 寒さではない。

 

 もっと古い何かだ。

 

「ここ?」

 

 ジニーが小さく聞いた。

 

 ハリーは黙っていた。

 

 答えなくても分かった。

 

 プリベット通り四番地。

 

「ハリー」

 

 シリウスが低い声で言った。

 

「嫌なら、俺が先に行く。一発殴らせろ」

 

 それは許可ではなく願望だった。

 

 ハリーは困ったように笑った。でも目は笑っていなかった。

 

「一度、敷居をまたげばいいんだよね」

 

 ハーマイオニーが唇を噛んで頷く。

 

「理屈としては、そう。血の守りが家との結びつきを必要としているなら、帰還の判定があれば──」

 

「ハーマイオニー」

 

 ロンが遮った。

 

「今、理屈は少なめで頼む」

 

 ハーマイオニーは何か言い返そうとして、やめた。

 

 ハリーは玄関へ向かい、手を伸ばした。

 

 呼び鈴を押す前に、扉が開いた。

 

 大きな太った男の人が現れた。顔は赤く、首は太く、見るからに怒鳴るのが得意そうだった。

 

 バーナード・ダズベリー、いや、バーノン・ダーズリーだった。

 

 わたしは実物を見たことがないけれど、ハリーをいじめそうな顔をしているので、たぶん正解である。

 

 バーノンは玄関先の人数を見て、顔を真っ赤にした。

 

「何だ、貴様らは!」

 

 シリウスが一歩前に出た。

 

「お前が、ハリーを物置に押し込めていた男か」

 

「何の話だ! その異常者どもを連れて──」

 

 ばきっ。

 

 音がした。

 

 バーノン・ダーズリーが、玄関の内側へ倒れた。

 

 シリウスが拳を振り抜いていた。

 

 全員が黙った。

 

 わたしは目を丸くした。

 

 ハリーも目を丸くした。

 

 ロンは小さく、

 

「やった」

 

 と言った。

 

 ハーマイオニーが肘でロンをつついた。

 

「言っちゃ駄目」

 

「でもやっただろ」

 

「やったけど言っちゃ駄目」

 

 ジニーは真顔で、

 

「一発って言ったから、今ので終わりよ」

 

 と言った。

 

 シリウスは自分の拳を見下ろし、それからハリーを見た。

 

「すまん」

 

「謝る相手、僕なの?」

 

「君に先に確認するべきだった」

 

「いや……」

 

 ハリーは倒れたバーノンを見た。

 

 それから、ものすごく小さな声で言った。

 

「ちょっと、すごいね」

 

 その声は、驚きと、戸惑いと、何かがほどけたような感じでできていた。

 

 家の奥から、甲高い悲鳴が上がった。

 

「バーノン!」

 

 細い女の人が駆け寄ってきた。ペチュニア・ダーズリーだろう。彼女は玄関に集まったわたしたちを見て、顔を引きつらせた。

 

「あなたたち、何なの! それを連れてくるなんて!」

 

 それ。

 

 ハリーのことだ。

 

 シリウスの顔から、残っていた理性が少しずつ抜けていくのが分かった。

 

 ルーピン先生が素早くシリウスの肩を掴んだ。

 

「シリウス。二発目は駄目だ」

 

「なぜだ」

 

「一発と言っただろう」

 

「言ったのは俺だ」

 

「だから守れ」

 

 シリウスは歯を食いしばった。

 

 ハリーは玄関の敷居を見下ろしていた。

 

 そこを越えれば、魔法的には帰ったことになる。

 

 でも、その先にはこの家がある。

 

 階段下の物置がある。怒鳴り声がある。名前を呼ばれない日々がある。

 

 わたしは本を思い出した。

 

『ヘンリー・ポーターと賢者の石』では、階段下の物置は、英雄が苦難から始まるための舞台装置みたいに書かれていた。

 

 でも、現実の玄関に立つと、そんな言葉は全部うすっぺらい。

 

 苦難は舞台装置ではない。

 

 嫌な家は、ただの嫌な家である。

 

「ハリー」

 

 シリウスが言った。

 

「一歩だけでいい」

 

 ハリーは頷いた。

 

 そして、敷居をまたいだ。

 

 家の中へ、ほんの一歩。

 

 その瞬間、空気が少しだけ震えた気がした。

 

 魔法の感覚は分からない。でも、何かが結ばれたような、古い糸がかろうじて繋がり直したような、そんな感じがした。

 

 ハリーはすぐに振り返った。

 

 戻ってこようとした。

 

 でも、ペチュニアが言った。

 

「また厄介事を持ち込んで。あなたはいつも──」

 

「黙れ」

 

 シリウスの声だった。

 低くて、冷たかった。

 

 ペチュニアは息を呑んだ。

 

 シリウスはハリーの手首を掴み、敷居の外へ引き戻した。

 

「もういい」

 

「シリウス?」

 

「もういい。血の守りだか、呪いだか、そんなものはくそくらえだ!」

 

 ハーマイオニーが小さく息を呑んだ。

 

 ルーピン先生は止めなかった。

 

 シリウスはハリーの肩を掴んで、まっすぐ見た。

 

「もうこの家に帰らなくていい」

 

 ハリーは何も言わなかった。

 

「聞こえたか、ハリー。もう帰らなくていい。俺の家に帰ってこい」

 

 家の中で、ペチュニアが顔を歪めた。バーノンはまだ床で呻いている。奥から太った少年が顔を出し、シリウスを見るなり引っ込んだ。

 

 シリウスは彼らを一瞥した。

 

「次にハリーに何か言ったら、一発では済まない」

 

「二発目は駄目って言っただろ」

 

 ルーピン先生が一応注意した。

 

「今のは未来の話だ」

 

 シリウスがウィンクして、ハリーが少しだけ笑った。

 

 それだけで、みんな黙った。

 

 ハリーが笑ったのだ。

 

 ほんの少しだけ。

 

 シリウスはハリーをバイクの方へ連れていった。

 

「行くぞ」

 

「どこへ?」

 

「ホグワーツだ」

 

「またバイクで?」

 

「もちろん」

 

 シリウスはにやりと笑った。

 

 その笑い方は、かなり危険だった。

 

 ハリーはヘルメットをかぶり、シリウスの後ろに乗った。

 

「しっかり掴まれ」

 

「うん」

 

「落ちるなよ」

 

「落ちたくないよ」

 

「よし」

 

 シリウスは笑った。

 

 今度の笑顔は、さっきよりずっとまともだった。

 

「ホグワーツへ行こう」

 

 バイクが唸り声を上げた。

 

 夜空へ飛び上がる。

 

 ハリーは一度だけ振り返った。

 

 プリベット通り四番地。

 

 その家は、下に小さくなっていった。

 

 ハリーは、もう手を振らなかった。

 

 わたしたちはウィーズリー家の車に戻った。

 

 アーサーはバイクを見送って、楽しそうに言った。

 

「すばらしいな。あのバイクとやらの飛行姿勢は実に興味深い」

 

 ロンがぽつりと言った。

 

「僕、監督生、初日なんだけど」

 

「わたしも新学期初日から退学は嫌だよ」

 

 わたしは言った。

 

「まだ図書室の新刊を確認してない」

 

「問題はそこじゃないわ」

 

 ハーマイオニーは頭を抱えていた。

 

 ロンは監督生バッジを見下ろしていた。

 

「さよなら、監督生バッジ。いいやつだったよ」

 

 車はホグワーツへ向かった。

 

 前方には、シリウスのバイクが飛んでいる。

 

 ハリーはシリウスの背中にしがみついていた。

 

 プリベット通りへ向かう時より、少しだけ肩の力が抜けているように見えた。

 

 それが気のせいでも、わたしはそう思いたかった。

 

 やがて、ホグワーツが見えてきた。

 

 シリウスのバイクが先に降りる。

 

 少し遅れて、ウィーズリー家の車も着地した。

 

 正確には、空飛ぶ車としてはかなり上手に着地したらしい。わたしの体感では、地面が急に近づいてきて、内臓が本と一緒に棚から落ちた。

 

 ホグワーツの門の前には、すでにシリウスのバイクがあった。

 

 ハリーは無事だった。

 

 シリウスも無事だった。

 

 バイクは少し煙を吐いていた。

 

 わたしたちが門をくぐると、黒いローブの影が立っていた。

 

 スネイプ先生だった。

 

 最悪である。

 

 なぜこういう時に限って、いてほしくない先生が完璧な位置にいるのだろう。ホグワーツには、そういう先生配置の魔法でもかかっているのかもしれない。

 

 スネイプ先生は、ゆっくりと羽ペン通信全国版を広げた。

 

 一面には、大きな見出しが躍っていた。

 

『空飛ぶ車と黒いバイク、ロンドン上空に出現

 マグル住宅街で謎の騒動 通報多数』

 

 写真には、ぼんやりと青い車と黒いバイクが写っている。

 

 わたしは目を逸らした。

 

 ロンも目を逸らした。

 

 ハーマイオニーが絶望した顔でそれを見た。

 

「アーサー、ちゃんと透明にする機能は使ったのか」

 

 シリウスが小声で聞く。

 

「すまん。忘れてた。だが、いい写りだな」

「今そんなことを言っている場合か?」

 

 スネイプ先生は新聞を畳んだ。

 

「それで」

 

 声が冷たかった。

 

「退学になる前に、理由を聞こうか」

 

 誰も何も言わなかった。

 

 シリウスですら黙った。

 

 ロンは口を開きかけて、閉じた。

 

 ハーマイオニーは説明しようとして、情報量の多さに負けた。

 

 ジニーはハリーを見た。

 

 アーニーは監督生として正直に話すべきか、今すぐ記憶を失うべきか迷っている顔をしていた。

 

 アーサーは新聞の車の写真をもう一度見たそうにしていた。シリウスはスネイプ先生を睨みつけている。

 

 ルーピン先生は、疲れ果てた大人の顔をしていた。

 

 ハリーはヘルメットを抱えたまま、目を丸くしていた。

 

 わたしは考えた。

 

 ハリーが荷物に紛れてホグワーツ特急に乗っていました。

 ホグワーツ特急から空飛ぶ車と空飛ぶバイクで逃げて、ロンドン上空を移動しました。

 シリウスがダーズリー家の人を一発殴りました。

 

 どこから説明しても、退学になりそうだった。

 

 だから、わたしは黙った。

 

 全員、黙った。

 

 スネイプ先生の眉間の皺が、少し深くなった。

 

「……なるほど」

 

 全然なるほどではない声だった。

 

「今回も、実に愚かで、無謀で、説明困難な一日だったようだな」

 

 反論できる者は、誰もいなかった。

 

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銀髪美少女お嬢様(ワケあり)のホグワーツ生活実践編(作者:トリスメギストス3世)(原作:ハリー・ポッター)

激重過去持ち半吸血鬼美少女▼カティア・アシュリーが、元気にホグワーツ生活を送るだけの話▼主人公はハリーと同学年です


総合評価:4386/評価:8.84/連載:29話/更新日時:2026年06月19日(金) 19:58 小説情報

TS転生ポッター妹(作者:TS)(原作:ハリー・ポッター)

気が付いたらTS転生した上にハリーポッターの妹だった。▼なってしまったものは仕方ないので、せっかくだし魔法界を楽しもうと思う。▼ドラゴンとか飼いたいよね。▼※クロスオーバーは念のためです


総合評価:2831/評価:8.27/連載:7話/更新日時:2026年05月02日(土) 14:19 小説情報

ようこそ根源があふれた魔法の学校へ(作者:shinkyu10)(原作:ハリー・ポッター)

――これは、型月世界の魔術師の歪んだ思考OSを持った凡人が、ハリポタ世界のブラックボックスを解体し、あがき続ける物語。▼1981年11月1日未明、ロンドンで起きた爆発テロ。▼奇跡的に生き残った赤ん坊、エリアス・レンには、前世の記憶があった。▼彼は魔術協会『時計塔』の末端魔術師であり、生まれ持った血統と魔術回路の限界に絶望した末、幼児期から全てをやり直すために…


総合評価:3656/評価:8.65/連載:27話/更新日時:2026年06月08日(月) 17:45 小説情報

音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?!(作者:ポ予)(原作:呪術廻戦)

なお、呪力はクソ雑魚。▼術式はお料理系で「女の子にはピッタリやね」とドブカスに馬鹿にされるものとする。▼


総合評価:6867/評価:8.69/連載:54話/更新日時:2026年06月16日(火) 18:50 小説情報

パ リ ピ 時 臣(作者:融合好き)(原作:Fate/)

信じて送り出した夫がキラキラなギャルにどハマりして夜な夜な怪しげな場所で遊び呆けているなんて…


総合評価:5565/評価:8.53/完結:8話/更新日時:2026年06月03日(水) 06:28 小説情報


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