本好きの魔女、闇の帝王を読書仲間にする。   作:パラプリュイ

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85話 本好きたちの推薦図書 withアンブリッジ

 

 ビブリオバトルとは、本をおすすめする戦いである。

 

 つまり、本好きにとっては戦場であり、舞踏会であり、晩餐会であり、祝祭であり、場合によっては人生の分岐点である。

 

 だから、わたしは今日のために準備をした。

 

 羊皮紙をそろえた。羽ペンもそろえた。発表順も決めた。紹介時間も決めた。質問時間も決めた。投票用の紙も作った。会場である図書室の一角も、マダム・ピンスに頭を下げていつもより広めにスペースを取って借りた。

 

 借りた時、マダム・ピンスは「本を汚したら追い出します」と言った。

 わたしは「命に代えても守ります」と答えた。

 マダム・ピンスは少しだけ満足そうだった。

 

 やはり、図書室では覚悟が通じる。

 

 これで完璧である。

 完璧なはずだった。

 

 ただ一つ、予定外のことがあった。

 

 アンブリッジが図書室に来たのだ。

 

「……どうして?」

 

 わたしは、図書室に入ってくるピンク色の塊を見ながら言った。

 いや、塊ではない。教授である。ピンク色の服を着て、ピンク色のリボンをつけて、ピンク色の笑顔を浮かべた防衛術の教授である。

 

 図書室なのに、なぜか空気が砂糖菓子みたいに重い。

 しかも、甘いだけではない。食べたら歯にくっついて、後悔するタイプのベタベタする砂糖菓子である。

 

 パドマが、ものすごく小さな声で言った。

 

「誰が呼んだの?」

 

「あたしだよ」

 

 ロメルダは、まったく悪びれずに手を上げた。

 挙手が早い。

 自白も早い。

 

「まさかの即答ね」

 

 ハーマイオニーが低い声で言った。

 

「何をしたの?」

 

「ビブリオバトルに参加しませんかって誘った」

 

「それで参加するって言ったの?」

 

「アンブリっち先生のおすすめ聞きたいですって言ったら張り切ってたよ」

 

「それは来るわ」

 

 ハーマイオニーが即答した。

 

「来るね」

 

 ジニーもうなずいた。

 

「来ると思う」

 

 ルーナもふわっと言った。

 

「とくに、ナーグルが耳元で拍手している時は」

 

「それは見えないからいいとして、ロメルダ、何でそんな誘い方したの?」

 

 ハーマイオニーに詰められても、ロメルダは肩をすくめただけだった。

 

「だってさ、あとで記事に文句言われるくらいなら、もう座談会にいてくれた方がまだよくない? 怒る人じゃなくて、発表する人にした方が空気マシじゃん」

 

「その結果、空気がアンブリッジのピンク色になっても?」

 

 ロンが言った。

 

「まだマシなピンク」

 

「最悪の色見本みたいなこと言うなよ」

 

 パドマはため息をついた。

 

「一応、筋は通っているわ」

 

「パドマまで?」

 

 ロンが目を丸くした。

 

「アンブリッジ先生の記事を書いたのは私よ。先生の教育方針を取り上げた以上、本人の言葉を載せる機会を作るのは公平性の範囲内」

 

「ほら」

 

 ロメルダが得意げに胸を張った。

 

「パドマは記事の責任、あたしは空気の責任」

 

「空気の責任って何よ」

 

「空気が死にそうになったら、死ぬ前に別の話題を入れて明るくする責任」

 

 ロンが小声で言った。

 

「今日、その空気が最初から棺桶に片足入れてるけどな」

 

 その通りだった。

 ロメルダの空気作りの結果、図書室のビブリオバトルにアンブリッジが参加することになった。

 ロメルダはなぜか相手の懐に入り込む。

 ただし、入り込みすぎて、こちらまで危ない。

 

 ロメルダは人間関係の鍵開け呪文みたいなものだ。

 しかも、開けた扉の向こうに何がいるかは確認しない。

 今日の場合、向こうにいたのはピンク色の教授だった。

 かなり危険である。

 

 アンブリッジは席に座るなり、うふふ、と笑った。

 

「まあ、にぎやかな読書会ですこと。ですが、生徒が自主的に読書へ向かうのは、大変よろしいことですわ。もちろん、適切に導かれるなら、ですが」

 

 適切に導かれるなら。

 

 その言葉だけで、わたしの背中が少し固くなった。

 

 導くという言葉は、本に使うと便利だけれど、危ない。

 読者を導く本はある。

 でも、読者を一列に並べて同じ頁だけ読ませようとする本もある。

 

 わたしは羊皮紙を持ち直した。

 

「今日のビブリオバトルのルールを説明します」

 

「ルールなら、まず私が確認を──」

 

「発表者は、自分が本当におすすめしたい本を紹介します」

 

 わたしはかぶせた。

 

 アンブリッジの笑顔が、ほんの少しだけ固くなった。

 砂糖菓子の表面にヒビが入ったような固まり方だった。

 

「紹介時間は短め。質問時間あり。最後に、どの本が一番読みたくなったかを投票します」

 

「では、最初はルーナです」

 

 ルーナは、淡い色の表紙の本を両手で持って立ち上がった。

 

 表紙には、丸い足跡のようなものと、しわしわの角らしきものが描かれている。

 

「わたしのおすすめは、『しわしわスノーカックの謎』よ」

 

 ロンが小さく言った。

 

「謎なのは題名だろ」

 

「静かに」

 

 ハーマイオニーが肘でつついた。

 ルーナは気にせず続けた。

 

「この本は、しわしわスノーカックを探す三人の魔法使いの話なの。三人はみんな、スノーカックを違う形で想像しているんだ。一人は角があると思い、一人は羽があると思い、一人は本当はいないと思っているの」

 

「本当はいないと思ってる人も探すの?」

 

 ジニーが聞いた。

 

「ええ。いない証拠を見つけるために必要なんだ」

 

「それはそれで熱心ね」

 

「でもね、探しているうちに、三人は自分たちが見ているものより、見たいものを追いかけていたのだと気づくの」

 

 ルーナは、少し首を傾けた。

 

「だからこの本を読むと、何かが見えない時に、それが存在しないからなのか、自分が別のものを見ようとしているからなのか、考えるようになる」

 

 図書室の空気が一瞬だけ静かになった。

 

 ルーナは、いつも不思議な方向へ曲がっているのに、最後だけ妙にまっすぐこちらへ飛んでくる。

 ロンが小声で言った。

 

「つまり、しわしわスノーカックはいるのか?」

 

「それを考える本よ」

 

 ルーナは穏やかに答えた。

 

「考えた結果は?」

 

「靴下が片方なくなった」

 

「何で?」

 

「しわしわだったからかな」

 

 やっぱり分からない。

 でも、少し読みたくなった。

 

 ビブリオバトルとしては恐ろしい相手である。意味が分からないのに、本を開きたくなる。

 

 これは危険だ。

 分かる本は面白い。

 でも、分からない本は、読まないと分からない。

 

 読書への誘導として、かなり卑怯である。

 

「次はジニー」

 

 ジニーは赤い装丁の本を机に置いた。

 

 表紙には、三つのゴールポストを背にして箒に乗る少年が描かれていた。大きな字で題名が書かれている。

 

『グリフィンドールの守護者』

 

 ロンが少し身を乗り出した。

 

「それ、キーパーの本?」

 

「そう」

 

 ジニーは一瞬だけ兄を見た。

 

「主人公は、グリフィンドールのキーパー。シーカーでもチェイサーでもない。点を取る役でも、試合を終わらせる役でもない。でも、彼が守れなければ試合は崩れる」

 

 ロンは何も言わなかった。

 

 わたしはそれを見逃さなかった。

 なぜなら、本好きは頁の端にある注釈も見逃さないからである。

 

 今のロンの沈黙には、注釈が必要だった。

 

「この本の面白いところは、キーパーが主人公なのに、最初はすごく守るのが下手なところ。むしろ、最初の試合では緊張して五十点も取られるの」

 

「五十点?」

 

 ロンが顔をしかめた。

 

「それはきついな」

 

「きついわよ。観客にも笑われる。でも、主人公は逃げない。自分が失敗した場面を全部書き出して、どこを見ていなかったか考えるの。相手のフォーム、チェイサーの癖、観客の声、自分の怖がり方まで」

 

 ジニーは本の表紙を指で叩いた。

 

「守るって、ただ飛んでくるボールを止めることじゃない。何を通したら負けるのか、最後まで見ていることなの」

 

 ロンの耳が少し赤くなった。

 

「それ、僕に言ってる?」

 

「本の紹介よ」

 

「絶対僕にも言ってるだろ」

 

「本の紹介」

 

 ジニーはにっこり笑った。

 

 ハーマイオニーが小さくうなずいた。

 

「良い本ね」

 

「でしょ」

 

 ジニーは少し得意げだった。

 

「シーカーは目立つ。チェイサーは点を取る。でも、キーパーは後ろで見ている。だからこそ、試合全体が分かるの。影のヒーローだよ」

 

 その言葉を聞いた時、なぜかロンがハリーの方を見た。

 

 ハリーは、穏やかな笑顔を浮かべていた。

 

「守る役も、素晴らしいよね」

 

 ハリーが言った。

 

「誰かのために後ろに立つことは、立派なことだと思う」

 

 言っていることは悪くない。

 悪くないのに、ロンが椅子の上で少し沈んだ。

 

「誰だよお前」

 

「ロン?」

 

「いや、何でもない」

 

 ロメルダが小さく言った。

 

「ヘリポ、何でも美談にするじゃん」

 

「ロメルダ」

 

 ハーマイオニーが睨んだ。

 

「だってヘリポじゃん」

 

 ヘリポ。

 

 ロメルダがつけた、ヘンリー・ポーター化したハリー・ポッターの略称である。

 言い方は軽いのに、意味が重い。

 ハリーはその言葉の意味をよく分かっていないのか、ただ微笑んでいた。

 

 アンブリッジは、そのやり取りをにこにこと眺めていた。

 

 笑っている。

 でも、たぶん聞いている。

 

「次はアーニー」

 

 アーニーは、やたら分厚い古い本を机に置いた。表紙は茶色で、角が擦り切れている。題名は金色でこう書かれていた。

 

『ホグワーツ特急事件3』

 

 わたしは思わず前のめりになった。

 

「それって!」

 

「知っているのか、マイン」

 

「読みたいと思ってた!」

 

「まだ読んでいないのに反応が早いな」

 

 列車。事件。ホグワーツ。特急。

 この四つが並んでいて、読まない理由があるだろうか。ない。もしあるなら、それは体調不良か禁書指定か貸出中である。

 

 アーニーは満足そうにうなずいた。

 

「この本のシリーズは、閉ざされたホグワーツ特急で起きる不可解な事件を扱った推理小説だ。3では、車内販売の魔女が殺される」

 

「あの魔女殺せたの?」

 

 ロンが聞いた。

 

「ネタバレになってしまうから言えないけど、3はとても意外な結末だったよ。これまでのシリーズとは雰囲気が異なっていて面白かった。間違いなく、ホグワーツ特急への見方が変わる」

 

 わたしは『ホグワーツ特急事件』の表紙から目が離せなかった。

 

 読後に列車の見方が変わる本。

 

 これは、「読むだけでは終わらない本」そのものではないだろうか。読み終えた後、絶対にホグワーツ特急の屋根を確認したくなる。車掌室も見たい。荷物棚も気になる。車内販売の魔女の経路図も作りたい。

 

「マイン、顔が危ない」

 

 ハーマイオニーに言われた。

 

「そんなことないよ」

 

「今、列車を解体する顔をしていたわ」

 

「解体はしないよ。調査するだけ」

 

 アーニーは満足げだった。

 

「この本を読むと、我々は日常の安全を疑う目を得る。つまり、事件は起きてから始まるのではない。見落とされた時点で始まっているんだ」

 

 言っていることはとても格好いい。

 でもアーニーが言うと、なぜか次の瞬間に全員の持ち物検査を始めそうで怖い。

 

「次はロメルダ」

 

 パドマが促すと、ロメルダは待ってましたとばかりに立ち上がった。

 

 手にしているのは、淡いピンク色の装丁の本だった。表紙には白いドレスの少女と、美しい花が描かれている。金の文字で題名が入っていた。

 

『マグノリアの令嬢は名乗らない』

 

「これ、舞踏会恋愛事件簿シリーズの中でもかなり好きなやつ」

 

 ロメルダは本を胸に抱えた。

 

「最初は、いい生まれの令嬢と完璧な婚約者の話に見えるの。主人公はマグノリアの紋章を持つ名家の令嬢として舞踏会に出るんだけど、本当はその家の娘じゃないんだよね」

 

 アンブリッジの眉がピクリと動いた。

 

「身分を偽っているの?」

 

 ハーマイオニーが聞いた。

 

「そう。でも、ただの嘘つきの話じゃないの」

 

 ロメルダは得意げに指を立てた。

 

「主人公は、自分がいい生まれの令嬢として扱われると、初めて自分に価値がある気がするの。綺麗なドレスを着て、正しい言葉遣いをして、家名で呼ばれて、完璧な相手に手を取られる。そうすると、自分の嘘が本物になる気がする」

 

 図書室の空気が、少しだけ変わった。

 ロメルダの声はいつもの軽さを残していたけれど、言っていることは軽くなかった。

 

「でも、それって恋じゃないんだよね。相手を好きなんじゃなくて、その人に選ばれる自分が好きなの」

 

 アンブリッジ教授の笑顔が、薄くなった。

 

 ロンが小声で言った。

 

「ロメルダ、今日まともだな」

 

「ロンロン、あたしはいつもまともだよ」

 

「はいはい」

 

「恋愛小説をなめないで。人が一番変な嘘をつくの、だいたい恋の時なんだから」

 

 それは、ちょっと違う気がした。

 本を手に入れるために体調をごまかしたり、読書時間を作るために用事を短く申告したりすることはある。つまり、恋でなくても人は変な嘘をつく。

 

 けれど、今それを言うと怒られそうなので黙っておいた。

 

「この本、読んだあとに考えるんだよね。自分が好きなのは相手なのか、その相手に選ばれる自分なのかって」

 

 ロメルダはちらりとアンブリッジを見た。

 

「そういう人、いるじゃん」

 

「まあ」

 

 アンブリッジが笑った。

 声は甘い。でも、底が冷たい。

 

「ずいぶん俗っぽい本ですこと。若い魔女が読むには、少々軽薄ではないかしら?」

 

「軽薄じゃないよ」

 

 ロメルダは即答した。

 

「恋愛小説って、相手のことを見てるふりして、自分のことしか見てない人がすごく分かりやすいんだもん」

 

 アンブリッジの目が細くなった。

 

「あなたは、恋愛小説を読みすぎているようね」

 

「読まなすぎよりいいです」

 

 ロメルダが言った。

 

 ロンが「うわ、強い」とつぶやいた。

 

 わたしも思った。

 

 今日のロメルダは強い。

 そして怖い。

 

 自分でアンブリッジを呼んで、自分でアンブリッジ教授に刺さりそうな本を紹介して、自分でその刺さった場所をつついている。

 

 次は、予定ではアンブリッジ教授ではなかった。

 

 けれど、アンブリッジはすでに立ち上がっていた。手には薄い冊子を持っている。表紙には、魔法省の紋章がきれいに印刷されていた。

 

「では、私からも一冊紹介いたしましょう」

 

 パドマが眉を動かした。

 

 止めるには遅い。

 

 アンブリッジは満面の笑みで、冊子を掲げた。

 

「私のおすすめは、『魔法省認可教材による安全な防衛術』です」

 

 図書室の空気が死んだ。

 

 本が死んだのではない。

 

 空気が死んだのだ。

 

 死因は教材。

 

 ロメルダが小さく口を開けた。

 どうやら、この展開はロメルダの予定にもなかったらしい。

 アンブリッジは気にせず続けた。

 

「この本の素晴らしいところは、生徒が危険な実践に走らず、正しい理論を身につけられる点です。若い皆さんは、しばしば刺激的な物語や過激な英雄譚に心を奪われがちですが、本来、学習とは穏やかで、管理され、安全であるべきものです」

 

 わたしは聞いていた。

 

 最初は我慢して聞いていた。

 でも、途中から、胸の奥がもぞもぞしてきた。

 

「この本を読むことで、皆さんは余計な不安や危険な興奮から離れ、正しい生徒として──」

 

「先生」

 

 気づいた時には、わたしは口を開いていた。

 

 全員がこちらを見た。

 

 ハーマイオニーが少しだけ目を見開いた。ロンが「あ」と言った。ジニーが身構えた。パドマは羽ペンを止めた。ロメルダは口元を押さえた。ルーナはなぜか耳のあたりを眺めていた。ナーグルがいたのかもしれない。

 

 アンブリッジが、ゆっくりこちらを見た。

 

「何かしら、ミス・マルフォイ」

 

「それは、先生が生徒に授業で読ませたい本ですよね」

 

 わたしは言った。

 

「アンブリッジ先生が、心の底から誰かにおすすめしたい本ではないですよね」

 

 図書室の温度が下がった気がした。

 でも、もう止まらなかった。

 

「まあ。ずいぶん失礼なことをおっしゃるのね」

 

「失礼なのは先生です」

 

 わたしは本を見た。

 

 冊子の表紙は立派だった。魔法省の紋章もきれいだった。紙質も悪くない。だからこそ、余計に腹が立った。

 

「本をおすすめする時は、その本のどこが好きなのか、どうして読んでほしいのかを話すべきです。教材をビブリオバトルに出すのは、主旨と異なります」

 

「教育には、導きが必要ですわ」

 

「導きと押しつけは違います」

 

 わたしの声は少し震えていた。

 

 怖いからではない。

 怒っているからだ。

 

「本を読んでほしいなら、先生の都合じゃなくて、本の面白さを話してください」

 

 ロンが小さく言った。

 

「マインが本で殴り始めた」

 

「静かに」

 

 ハーマイオニーが言った。

 アンブリッジは、しばらく黙っていた。

 

 にこにことした笑みは残っている。でも目が笑っていない。これは怒らせた。確実に怒らせた。

 

 その時、ロメルダが言った。

 

「アンブリっち先生、それ、先生の推しっていうより、配布物っぽいんですよ。配布物ってだいたいつまんなそうに見えるじゃないですか」

 

 ハーマイオニーが目をむいた。

 ロンも目をむいた。

 わたしも目をむいた。

 

 今それを言うの? 

 

 今? 

 

 この空気で? 

 

 ロメルダは止まらなかった。

 

「先生が本当に好きな本、そっちの方が聞きたいです。先生って、ちゃんとしてて、可愛くて、ちょっと昔のいい本知ってそうじゃないですか」

 

 アンブリッジの顔が、わずかに動いた。

 

「……あなたは時々、言葉遣いに問題がありますね、ミス・ベイン」

 

「よく言われます」

 

「ですが」

 

 アンブリッジは、冊子を閉じた。

 

 それから鞄に手を入れ、別の本を取り出した。

 

 薄い、古い本だった。表紙は淡い桃色で、角が少し擦り切れている。大切に扱われてきた本だと、すぐに分かった。

 表紙には、銀色の文字でこう書かれていた。

 

『小さな魔女のための礼儀作法』

 

「……では、これにしましょう」

 

 アンブリッジの声は、さっきより少し低かった。

 

 ロメルダが小さく親指を立てた。

 間違ってないけど何か間違っている気がする。

 

 わたしは黙って座った。

 アンブリッジは本の表紙を、指先でそっと撫でた。

 

「この本は、幼い魔女が正しい振る舞いを学ぶための本です。挨拶、身だしなみ、食卓での作法、目上の方への口の利き方、魔法を人前で使う時の慎み。今の皆さんには退屈に思えるでしょう」

 

 誰も茶化さなかった。

 

「けれど、私はこの本から、魔法使いとして恥ずかしくない姿を学びました。騒がしく、無作法で、身の程を知らない子どもでも、正しい作法を身につければ、きちんとした魔女になれる。そう書かれていました」

 

 アンブリッジは少し微笑んだ。

 その笑みは、いつもの甘ったるい笑顔と少し違っていた。

 少なくとも、今だけは本の紹介だった。

 

「魔法は、力を振り回すためのものではありません。場を整え、自分を律し、誰からも後ろ指を指されないためのものです。この本は、それを教えてくれました」

 

 わたしは、うまく言葉が出なかった。

 

 先生は本当にこの本が好きなのだ。

 それは分かった。

 

 だからこそ、怖かった。

 この人は本を読んでいない敵ではない。

 本を読んで、自分を正しい形に押し込めた人だ。

 そして、きっと他人も同じ形に押し込めようとしている。

 

「良い紹介でした」

 

 わたしは小さく言った。

 

 アンブリッジ教授がこちらを見る。

 

「本気のおすすめでした」

 

 それ以上は言わなかった。

 

 言ったら喧嘩になる。すでに半分喧嘩になっているけれど、残り半分を図書室で始めるとマダム・ピンスに追い出される。

 

 ロメルダが言った。

 

「やっぱ先生には、あたしの本読んでほしいな〜」

 

「ロメルダ」

 

 ハーマイオニーが止めた。

 

「だって、正しい作法を身につけたら本物になれるって話でしょ。『マグノリアの令嬢は名乗らない』と近いじゃん」

 

「そんな低俗な恋愛小説と一緒にしないでほしいですわ」

「低俗かは読んでみないと分からないじゃん。アンブリっち先生、この本貸すから読んでくださいよ」

 

「……生徒におすすめされたとあれば仕方ありませんね」 

 

 アンブリッジはロメルダおすすめの本を手に取った。

 

 読むんだ。少し意外かも。

 

 おすすめされた本を読むのなら、アンブリッジも悪い人ではないのかもしれない。

 

 次に紹介するハーマイオニーが本を出した。

 

「それか」

 

 ハリーは少し明るい顔をした。

 

 表紙には、稲妻の傷を持つ少年と、暗い地下室、そして白く輝く青年のような人物が描かれていた。

 

『ヘンリー・ポーターと秘密の部屋』

 

 題名を見ただけで、胸の奥が重くなる。

 

 ハーマイオニーは本を開かなかった。

 手を表紙の上に置いたまま、まっすぐ前を見た。

 

「私のおすすめは、この本です。ただし、好きだから紹介するわけではありません」

 

「おすすめなのに?」

 

 ロンが聞いた。

 

「読むべきだからよ」

 

 ハーマイオニーは静かに言った。

 

「この本は、今ホグワーツで話題になっている『稲妻の少年』シリーズの新刊です。文章は読みやすい。展開も派手。読者を引き込む力もある。だから危険なの」

 

 アンブリッジが、ほんの少し身を乗り出した。

 

 ハリーは穏やかに微笑んでいる。

 

「この本の中で、ヘンリーは何度も自分の役割を受け入れるよう促されます。怒りを捨て、人々が望む英雄であろうとする。白銀卿は、彼を導く存在として描かれているわ」

 

「導く、というより」

 

 アンブリッジが口を挟んだ。

 声が、いつもの砂糖菓子みたいな甘さとは少し違っていた。

 

「救い上げる、と言うべきではなくて? 孤独で、混乱した少年を、より高い場所へ導く高貴な手ですもの」

 

 ハーマイオニーの目が鋭くなった。

 

「先生は、もう読まれたんですか?」

「もちろん、教育上問題がないか確認するためですわ」

 

 アンブリッジは微笑んだ。

 教育上問題がないか確認する人は、表紙の白銀卿をそんなに大事そうに見ないと思う。

 

「素晴らしいじゃないか」

 

 ハリーが言った。

 

 ロンの肩がびくっと動いた。

 

「ヘンリーは、自分だけの痛みに閉じこもらず、周りのために立ち上がろうとしている。僕は、そういう物語は必要だと思う」

 

「ハリー」

 

 ジニーの声が低くなった。

 

「それ、あなたが言うから怖いのよ」

 

 ハリーは不思議そうに首を傾げた。

 

 ハーマイオニーは続けた。

 

「この本の一番危険なところは、嘘を本当のように見せるところではありません。本当の痛みを、都合のいい美談に変えてしまうところです」

 

 わたしは息を詰めた。

 

「ヘンリーは怒りません。疑いません。自分が何を失ったのか、深く考えません。ただ、物語に必要な形へ整えられていく」

 

 ロンが机の上で手を握った。

 

「ハリーはもっと怒る」

 

 小さな声だった。

 でも、聞こえた。

 

「そう」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

「私たちが知っているハリー・ポッターは、もっと怒る。もっと疑う。もっと無茶をする。大人が何かを隠していると知れば納得しない。危険だと言われれば、それでも行こうとする」

 

「褒めてないよな?」

 

 ロンが言った。

 

「褒めてはいないわ」

 

「でも、ハリーだ」

 

「ええ」

 

 ハーマイオニーはうなずいた。

 

「だから、この本は読んだ方がいい。どこで本物が削られているのか、どこで都合のいい英雄に作り替えられているのか、見なければならないから」

 

 アンブリッジが、甘い声で言った。

 

「ですが、ミス・グレンジャー。物語が人々に希望を与えることもあるのではなくて?」

 

「あります」

 

 ハーマイオニーは即答した。

 

「だからこそ、嘘で希望を作るのは危険なんです」

 

 図書室がまた静かになった。

 

 その静けさの中で、ルーナがふわりと言った。

 

「見たいものを見ていると、しわしわスノーカックも白銀卿に見えるかもしれないわね」

 

「ルーナ、それはどういう意味?」

 

 ロンが聞いた。

 

「たぶん、見たい人には見えるという意味よ」

 

「分かったような分からないような」

 

「それでいいと思うわ」

 

 全員の発表が終わった。

 

 投票用紙が配られる。

 

 わたしはものすごく悩んだ。

 

『ホグワーツ特急事件3』は読みたい。今すぐ読みたい。車内販売の魔女をどうやって殺すのか気になる。

 

『グリフィンドールの守護者』も読みたい。守る側の視点というのは面白い。ロンがこっそり借りたそうにしているのも気になる。

 

『マグノリアの令嬢は名乗らない』は、恋愛小説なのに怖そうで読みたい。ロメルダの読み方が意外と鋭くて、記事にすると面白そうだ。あと、アンブリッジに刺さった理由も気になる。

 

『しわしわスノーカックの謎』は、分からない。でも分からないから気になる。

 

『小さな魔女のための礼儀作法』は、読んだら腹が立つかもしれない。でもアンブリッジが本気で好きな本なら、読んでおくべきかもしれない。

 

『ヘンリー・ポーターと秘密の部屋』は、読みたいとは違う。

 読まなければならない。

 これは別の重さだ。

 

「マイン、悩みすぎよ」

 

 ジニーに言われた。

 

「だって全部読むべき本だよ」

 

「投票は一冊よ」

 

「ルールに問題があると思う」

 

「ビブリオバトルの根本を否定しないで」

 

「全部に入れたら駄目?」

 

「駄目」

 

「じゃあ、投票用紙の裏に注釈を」

 

「駄目」

 

「余白に推薦理由を」

 

「駄目」

 

 ビブリオバトルは、思っていたより厳格だった。

 

 結局、投票結果は割れた。

 

 ルーナの本には、なぜか一定数の票が入った。理由は「読まないと分からないから」だった。強い。分からないは強い。

 

 ジニーの本にはロンが入れた。本人は否定したが、投票用紙の字が明らかにロンだった。

 

 アーニーの『ホグワーツ特急事件』には、わたしが入れた。誘惑に負けたわけではない。調査のためである。

 

 ロメルダの本には、パドマが入れていた。編集長は「記事になる」と言った。たぶん本音だ。

 

 ハーマイオニーの『ヘンリー・ポーターと秘密の部屋』にも票が入った。読みたいからではなく、読むべきだから。

 

 アンブリッジ教授の『小さな魔女のための礼儀作法』には、アンブリッジ教授が入れていた。

 

「自分に投票していいの?」

 

 ロンが言った。

 

「自分の信じる本に投票するのは自然なことですわ」

 

 ハリーが穏やかに微笑んだ。

 

「自分の言葉に責任を持つのは大事だよ」

 

 最終的に、羽ペン通信の特集では全冊を扱うことになった。

 

 投票の意味はあったのか。

 少なくとも、わたしは全部読む理由を手に入れた。

 

 パドマは議事録をまとめながら言った。

 

「今回の特集、思ったより危険ね」

 

「どうして?」

 

 ジニーが聞いた。

 

「おすすめ本を聞くと、その人が何を信じているかまで出る」

 

 その言葉に、誰もすぐには返事をしなかった。

 

 本は、その人の好きなものを映す。

 時々、その人が隠しているものまで映す。

 ロメルダの恋愛小説は、アンブリッジの何かを刺した。

 アンブリッジの礼儀作法の本は、先生の根っこを見せた。

 ハーマイオニーの『ヘンリー・ポーター』は、わたしたちが見たくないものを机の上に置いた。

 

 そしてジニーのキーパーの本は、ロンに何かを残したらしい。

 ロンは『グリフィンドールの守護者』をちらちら見ていた。

 

「借りたいなら借りれば?」

 

 ジニーが言った。

 

「別に」

 

「見てた」

 

「見てない」

 

「キーパーは見るのが大事なんでしょ?」

 

 ロンは黙った。

 

 それから、しぶしぶ手を伸ばした。

 

「……ちょっとだけだ」

 

「はいはい」

 

 ジニーは本を渡した。

 

 ロンは表紙のキーパーを見つめた。

 

 その横で、ハリーは相変わらず穏やかに笑っている。

 

 わたしは思った。

 

 守る役は、派手ではない。

 

 でも、見ていなければ守れない。

 

 次に何を書くべきか、少し分かった気がした。

 

 その時、アンブリッジが立ち上がった。

 

「大変興味深い会でしたわ。生徒の自主的な読書活動は、適切に管理されるなら有意義です。今後も、私が時々見守って差し上げます」

 

 全員が固まった。

 

 見守る。

 とても嫌な言葉だった。

 同じ「見守る」でも、クィディッチのキーパーとはだいぶ違う。

 

 あちらはゴールを守る。

 こちらは読書会の出口を塞ぐ。

 

 アンブリッジ教授はにこにこしながら去っていった。ピンク色の背中が図書室の出口へ消える。

 

「次回から招待制にしよう」

 

 ロンが小さく言った。

 

「最初から招待してないわよ」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

「いや、今回は招待したよ」

 

「じゃあ次回からロメルダが呼ぶ人は制限しよう」

 

「何その制度。あたしだけ危険物みたいじゃん」

 

「危険物でしょ」

 

 ジニーが言った。

 

「アンブリッジをビブリオバトルに連れてきたのよ」

 

「でも、先生の本気のおすすめは引き出したじゃん」

 

 ロメルダは少しだけ得意げだった。

 ハーマイオニーはため息をついた。

 

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