ロン視点。
朝のクィディッチ競技場は、まだ半分眠っているようだった。
観客席には白い霧が残り、芝生は夜露を吸って鈍く光っている。城の尖塔の向こうで太陽がようやく顔を出し始めていたが、空気は冷たかった。こんな時間に箒を持って外に出る生徒は、クィディッチ狂いか、何かから逃げているやつか、その両方である。
ロン・ウィーズリーは、その両方だった。
「ロン、いくよ!」
上空から声がした。
ハリーの声だった。
ロンは心の中で、ヘンリーと呼んでいた。
ヘンリーがクァッフルを抱え、箒の先をこちらへ向けている。朝日に照らされた黒髪も、丸い眼鏡も、頬の線も、遠目にはほとんどハリーだった。飛び方だって似ている。軽くて、速くて、腹が立つくらい自然だった。
身体が覚えているのかもしれない。
昔のハリーが、箒の上にだけ残っているのかもしれない。
ロンは三本のゴールポストの前で身構えた。
「来い!」
ヘンリーが投げた。
クァッフルはまっすぐに見せかけて、途中で右へ流れた。ロンは反応した。したつもりだった。指先が革に触れる。
触れただけだった。
赤い球は右端の輪を抜け、後ろの空へ消えた。
「惜しい!」
ヘンリーが明るく言った。
惜しくない、とロンは思った。
今のは普通に抜かれた。アンジェリーナ・ジョンソンが見ていたら、きっと眉間にしわを寄せる。フレッドとジョージなら、朝食のソーセージをクァッフルに見立てて、昼まで投げてくる。ジニーなら「足じゃなくて目を動かしなさいよ」と言う。
ヘンリーだけが、素直に励ました。
「もう一本やれば止められるよ。君は僕たちのゴールを守る人なんだから」
優しい。
キラキラした笑顔に腹が立つ。
ハリーなら、そんな言い方はしなかった。もっと雑に、「次も抜かれたら僕がキーパーやるぞ」とでも言ったはずだ。冗談なのに少し本気で、こっちも本気で怒れて、それで済んだ。
「もう一本」
ロンは短く言った。
ヘンリーはうなずき、また上昇した。
ロンは箒の柄を握り直した。手のひらが汗ばんでいる。朝露のせいではない。
競技場の隅、観客席の一番下に鞄を置いていた。その中には、丸めかけては広げ、捨てかけては戻した羊皮紙が入っている。
つまり、ハリー・ポッターは本当に英雄なのか?
羽ペン通信のコラムの見出しだけは決まっていた。
決めたのはロンではない。パドマが仮の見出しを考えて、皆が「それ、ロンが書くべきじゃない?」と逃げ道を塞いだ。
ロンは当然、断った。
「僕が? 無理だって。ハーマイオニーに書かせろよ。あいつなら、英雄の定義から始めて、注釈を十個つけてくれるぞ」
実際、ハーマイオニーは一度書いた。
文章は完璧だった。論理は整い、事実関係は正確で、メディアによる未成年者の英雄視の危険性まできれいにまとまっていた。注釈もあり、参考文献もあり、最後にはきっちり読者に問いを投げかけていた。
すごかった。
すごすぎた。
読み終えた全員が黙った。
最初に口を開いたのはマインだった。
「……社説?」
パドマは困ったように羊皮紙を見た。
「羽ペン通信の特集になら載せられるわ。でも、求めているのはこれじゃない」
ハーマイオニーは怒ると思った。ところが、彼女は羊皮紙を見下ろし、しばらく黙ってから、あっさり認めた。
「そうね。これじゃないと思うわ。ロン、あなたが書くべきよ」
「だから何を書けばいいんだよ!」
「あなたが知っているハリーを書けばいいの」
簡単に言うな、とロンは思った。
知っているハリー。
そんなものが、今は一番わからない。
ハリーもどきのヘンリーは明確に前とは違うけど、前と同じ部分もあるからだ。
クァッフルが飛んできた。
今度は左。
ロンは飛んだ。だが、読みが浅かった。ヘンリーの球は途中で沈み、ロンの腕の下を抜けた。
また入った。
「ごめん、ちょっと意地悪だったかな」
ヘンリーが言った。
「気を遣うな!」
ロンは思わず怒鳴った。
ヘンリーが目を丸くする。
怒鳴ってから、ロンは自分でも嫌になった。ヘンリーは悪くない。付き合ってくれているだけだ。ロンの練習に、朝早くから。文句ひとつ言わずに。
それなのに、ロンは胸の奥でずっと責めている。
おまえは誰だ。
どうしてその顔で、そんなふうに笑うんだ。
ハリーはどこへ行った。
「悪い」
ロンは小さく言った。
ヘンリーは首を振った。
「大丈夫。僕も本気で投げるって言ったから」
また、それだ。
大丈夫。
君ならできる。
僕たちのゴールを守る人なんだから。
ヘンリーの言葉は正しすぎて、ロンの中に引っかからない。滑っていく。ハリーの下手な励ましなら、もっと胸の変なところに刺さったはずなのに。
ロンは息を吐いた。
今年、ロンは監督生になった。
母さんは泣くほど喜んだ。父さんは何度も肩を叩いた。パーシーは手紙をよこして、規則の重要性について三枚くらい書いた。フレッドとジョージは案の定、監督生バッジを磨くための怪しい布を売りつけようとした。ジニーは「威張ったら呪うから」と言った。
嬉しかった。
嬉しかったのに、その晩、ロンはベッドの中で思ってしまった。
ハリーが行方不明じゃなかったら、このバッジはハリーのものだったんじゃないか。
マクゴナガル先生は、ハリーを選んだんじゃないか。ダンブルドアは、いつものようにハリーの名前を思い浮かべたんじゃないか。ロンは、誰かがいなくなった穴に座っただけではないのか。
そう考えた瞬間、自分が嫌になった。
一年生のとき、人の望みを映すみぞの鏡を見た。
鏡の中のロンは首席で、クィディッチのキャプテンだった。胸には立派なバッジが光り、手には優勝杯があった。兄たちよりもすごくて、誰からも見られていて、誰も「ウィーズリー家の何番目」とは呼ばなかった。
あのときの自分は、真ん中に立ちたかった。
いや。
今も立ちたい。
ロンはハリーに嫉妬したことしかない。
有名なところ。
金庫に金があるところ。
初めて箒に乗ったくせに、すぐにシーカーになったところ。
何かが起きるたび、世界がハリーを中心に回り出すところ。
ロンが隣にいても、みんながまずハリーを見るところ。
親友なのに。
親友だから。
ずっと羨ましかった。
その気持ちは、なくならない。
なくなったふりをしても、腹の底に残る。
三年の終わりにピーター・ペティグリューに会った。
あの男は、ハリーの父親と親友だった。それなのに、裏切って、親友を死なせた。
ロンはあの日から、胸の中で何かが腐りそうになるたびに、ピーターの顔を思い出す。
羨ましいと思うことと、裏切ることは違う。
悔しいと思うことと、見捨てることは違う。
『分かるだろう? 自分だけが置いていかれる感じを。自分だけが、いなくてもいいみたいな感じを』
ああ、分かるさ。でも、僕はお前にはならない。
自分が二番目だと思うことと、一番の友達を売ることは、絶対に同じじゃない。
「ロン?」
ヘンリーの声で、ロンは我に返った。
「少し休む?」
「休まない」
ロンは言った。
だが、喉が渇いていた。腕も重い。何より、頭の中がごちゃごちゃしていた。
「いや、やっぱり少しだけ休む」
ヘンリーは素直にうなずいた。
二人は地面に降りた。
ロンは観客席の下に置いた鞄から水筒を取り出した。ついでに、一冊の本が落ちかけたのを手で掴んだ。
ジニーに借りた『グリフィンドールの守護者』だった。
表紙では、赤と金のユニフォームを着た選手たちが箒で飛んでいる。中心に描かれているのはチェイサーだ。勇敢で、華やかで、観客の歓声を浴びてゴールへ突っ込んでいく。シーカーも目立つ。最後の場面でスニッチを捕まえ、勝利を決める役だ。
キーパーは、表紙の端にいた。
ほとんど背景みたいに。
ロンは昨夜、そのことに少し腹を立てた。
ジニーは「読めばわかる」とだけ言った。ジニーがそういう言い方をするときは、だいたい反論しても無駄である。
ロンは水を飲み、本を開いた。
途中まで読んでいたページに、栞代わりの羽根が挟んである。ジニーのものだ。たぶんわざとだ。ロンに読ませたい箇所を、あいつは最初から決めていたのだろう。
そこには、こう書かれていた。
『守護者は、物語の中心に立つ者ではない。中心が倒れぬよう、最後の線を守る者である』
ロンは、その行を何度も読んだ。
キーパーは点を取らない。
観客の目を奪うのは、突っ込んでいくチェイサーだ。試合を終わらせるのはシーカーだ。実況が叫ぶ名前も、だいたい前にいる選手のものだ。
キーパーは後ろにいる。
三本の輪の前で待っている。
相手が来るまで、何もしていないように見える。止めて当然、抜かれれば責められる。派手な役ではない。主役ではない。
でも、抜かれたら終わる。
最後の線。
ロンは本を閉じた。
自分は、ハリーみたいにはなれない。
有名にもなれない。最初から注目されることもない。物語の中心に立てない。たぶん、立ったとしても足が震える。
でも、ゴール前にいることはできる。
ハリーが英雄だと持ち上げられ、ヘンリーみたいな別人に書き換えられ、白銀卿だのヘンリー・ポーターだのに押し流されていくなら、誰かが後ろで止めなければならない。
英雄という言葉が、ハリー本人を抜けていくなら。
親友が、最後の線に立つしかない。
「その本、面白い?」
ヘンリーが横から覗き込んだ。
ロンは反射的に本を閉じた。
「おまえには貸さない」
「えっ」
「ジニーのだし」
「そっか」
ヘンリーは納得したようにうなずいた。
その顔を見て、ロンは少しだけ罪悪感を覚えた。別に意地悪をしたかったわけではない。いや、少しはしたかったかもしれない。自分でも面倒くさい。
ロンは鞄から羊皮紙を取り出した。
クィディッチの練習中に何をしているんだ、とアンジェリーナなら怒るだろう。だが、今ここにアンジェリーナはいない。いるのは、ハリーの顔をしたヘンリーだけだ。
羊皮紙の一番上には、題が残っている。
つまり、ハリー・ポッターは本当に英雄なのか?
ロンは羽ペンを握った。
何を書けばいいのか、まだわからない。
英雄についてはわからない。象徴化の危険性も、社会的背景も、ハーマイオニーに任せた方がいい。注釈なんかつけたら、たぶん途中でインク瓶をひっくり返す。
でも、ハリーのことなら少しは知っている。
最初に列車で会ったとき、ハリーは有名人らしくなかった。
あのとき、ロンは少し得意だった。
ハリーは英雄ではなく、ただの男の子だった。
ロンは羽ペンを動かした。
『あいつは最初から英雄だったわけじゃない』
書いた瞬間、胸のつかえが少し下りた。
ロンは続けた。
『僕がハリーに初めて会ったのは、ホグワーツ特急の中だった。
そのときのハリーは、魔法界のことをほとんど知らなかった。蛙チョコレートに驚いて、百味ビーンズの変な味に顔をしかめて、動くチェスの駒を見て目を丸くしていた。
英雄というより、腹を空かせた、やせっぽちで、眼鏡をかけた、少し困った顔の男の子だった』
悪くない。
たぶん、ハーマイオニーなら赤インクで直す。文が長いとか、論点を先に示せとか言う。
でも、ロンはそのままにした。
「ロン、朝飯の時間、大丈夫?」
ヘンリーが言った。
ロンは顔を上げた。太陽はずいぶん高くなっている。放課後には、グリフィンドールの練習がある。キーパー選抜も兼ねていると、アンジェリーナは言っていた。
その場には、ヘンリーもいる。
グリフィンドールのシーカーとして。
それを思い出した瞬間、ロンの胃が縮んだ。
ヘンリーは、選ばれる側ではない。
当たり前みたいに、チームの真ん中にいる。
シーカーは得点を積み重ねる役ではない。けれど、試合を終わらせる役だ。最後に金色のスニッチを掴めば、観客席はその名前を叫ぶ。勝利も敗北も、シーカーの手の中に落ちてくる。
ハリーは、そういう場所にいた。
ヘンリーも、きっとそこにいる。
ロンは羊皮紙を鞄に戻した。
「最後に一本」
ヘンリーは少しだけ驚いた顔をした。
「本当に? 疲れてない?」
「疲れてる」
「じゃあ」
「だから最後に一本なんだよ」
ヘンリーは笑った。
その笑い方が、一瞬だけハリーに似ていた。
ロンは胸の奥が痛くなるのを無視しなかった。痛いものは痛い。腹が立つものは腹が立つ。羨ましいものは羨ましい。
でも、それでいい。
それを言い訳にしなければいい。
ヘンリーが上昇した。
クァッフルが放たれる。
速い。
今度は迷わなかった。
ロンは左へ飛んだ。風が頬を叩く。指先が革に食い込む。肩に衝撃が走った。腕が後ろへ持っていかれそうになる。
それでも、離さなかった。
クァッフルは輪をくぐらなかった。
ロンの腕の中にあった。
「止めた!」
ヘンリーが叫んだ。
ロンは息を切らしながら、クァッフルを抱え直した。
嬉しかった。
けれど、それだけで何かが終わるわけではない。
本番は、放課後だった。
その日の授業は、いつもより長かった。
魔法史では、ビンズ先生の声が暖炉の煙みたいに教室中を漂っていた。ロンは三度うとうとし、そのたびにハーマイオニーに肘でつつかれた。昼食のシェパーズパイは味がしなかった。
フレッドとジョージは「今日のキーパー候補様」と言って妙に丁寧に椅子を引いてきた。椅子の脚が一瞬だけ蛙になったので、ロンは全力で蹴った。
目立つヘンリーと一緒に練習していたせいで、ロンがキーパーを狙っているのはバレバレだった。ドラコにまで「スリザリンの王者にはならないでくれよ」と茶化された。
あれはドラコなりの頑張れだとマインが言っていたけどどうなんだろう。
ジニーは、朝食のときにロンの前にかぼちゃジュースを押しやった。
「飲んどけば」
「なんだよ」
「顔色が、ゴーストより悪いわ」
「ありがとうよ」
「あと、飛ぶときに観客席を見ないこと」
ロンはむっとした。
「わかってる」
「わかってる人の顔じゃないわ」
反論できなかった。
放課後、競技場には朝とは違う空気があった。
霧は消えていた。代わりに、生徒たちの声がある。観客席には、暇なグリフィンドール生が何人か集まっていた。クィディッチコラムを任されたジニーが羽ペンを片手にこちらを見ていた。
アンジェリーナは、競技場の中央で腕を組んで待っていた。
背筋が伸びている。目が鋭い。誰かを慰めるためではなく、勝つためにそこにいる顔だった。
その横に、アリシアとケイティがいる。二人ともクァッフルを持っていた。フレッドとジョージもバットを肩に担いで並んでいる。二人は真面目な顔をしていた。真面目な顔をしている双子ほど信用できないものはない。
そして、少し離れたところに、ヘンリーがいた。
箒を片手に、金色のスニッチが入った小箱を見ている。
シーカー。
その単語だけで、ロンの胃のあたりが冷えた。
ヘンリーは選抜を受けるわけではない。アンジェリーナが「ポッター」と呼べば、すぐに空へ上がる。チームの一員として、当たり前みたいにそこにいる。まるで最初から、その場所だけは誰にも奪われないと決まっているみたいに。
ハリーだったころも、そうだった。
誰よりも自然に、箒の上で目立っていた。
「ウィーズリー」
アンジェリーナの声が飛んだ。
「はい!」
声が裏返った。
最悪だ。
フレッドとジョージが同時に咳き込むふりをした。絶対に笑っている。
アンジェリーナは笑わなかった。
「練習だと思わないで。本番だと思って飛びなさい。こっちは本気で見る」
「わかりました!」
「よし。ゴール前へ。ポッター、あなたは上でスニッチを見る。今日はシーカーの動きも合わせる」
「わかった」
ヘンリーが答えた。
ロンは反射的にそちらを見た。
ヘンリーは箒にまたがり、軽く地面を蹴った。ふわりと浮かぶ。その動きがあまりにも自然で、ロンは一瞬、競技場の音を聞き損ねた。
アンジェリーナの鋭い声が飛ぶ。
「ウィーズリー、ゴール!」
「はい!」
ロンは慌てて上昇した。
三本の輪の前に立つ。
少し上では、ヘンリーがシーカーとして旋回している。視線は空のどこかへ向いている。金色のスニッチを探しているのだ。観客席の何人かが、ヘンリーを見上げている。キーパー候補を見るより、シーカーを見る方がわかりやすい。速いし、派手だし、落ちるかもしれない。
ロンは奥歯を噛んだ。
見るな。
ジニーに言われたばかりだ。
観客席も見るな。ヘンリーも見るな。自分の前だけ見ろ。
アリシアが最初に来た。
速い。朝のヘンリーよりずっと厳しい。左右に揺さぶられ、ロンは目で追うだけで精一杯だった。アリシアの腕が動く。
右。
ロンは飛んだ。
遅い。
クァッフルは輪を抜けた。
歓声と笑い声が混じった。
顔が熱くなった。
「戻って!」
アンジェリーナが叫んだ。
ロンはゴール前に戻った。
次はケイティだった。
今度こそ、とロンは思った。だが、そう思った時点で遅かった。ケイティは投げるふりをして、さらに近づいてきた。ロンが先に動く。逆を突かれた。
二本目も入った。
観客席がざわつく。
フレッドとジョージは黙っていた。黙っているのが、かえってきつかった。
そのとき、上空で何かが光った。
金色の点が、ロンの視界の端をかすめる。スニッチだ。
ヘンリーが急降下した。
観客席から声が上がる。
ロンは、見てしまった。
ヘンリーの箒が鋭く傾く。髪が風に煽られる。眼鏡の奥の目が金色の点を追っている。地面すれすれで身体を起こし、ぐんと上昇する。歓声が起きる。
ハリーみたいだった。
いや、ハリーそのものに見えた。
次の瞬間、アンジェリーナの怒鳴り声が飛んだ。
「ウィーズリー!」
アンジェリーナは上空のヘンリーにも声を飛ばした。
「ポッター! ウィーズリーを見ない! あなたはスニッチ!」
「ごめん!」
「謝る暇があったら探しなさい!」
ヘンリーは慌てて上昇した。
ロンはゴール前で固まっていた。
ヘンリーが少し光を追っただけで、みんながそちらを見る。ロンが抜かれても、それは失敗だ。けれどシーカーが飛べば、それは見せ場になる。
ロンには、そんなものはない。
みぞの鏡の中の自分が、一瞬だけ頭をよぎった。
首席で、キャプテンで、歓声を浴びている自分。
あの鏡の中のロンなら、こんなところで固まらない。兄たちに笑われない。観客席を怖がらない。アンジェリーナの前で、もっと堂々と飛べる。
でも、あれは鏡だ。
ここは競技場だ。
目の前には三本の輪がある。
ロンは息を吸った。
守護者は、物語の中心に立つ者ではない。
中心が倒れぬよう、最後の線を守る者である。
主役じゃない。
真ん中じゃない。
だから何だ。
キーパーは、ゴール前にいる。
「次!」
アンジェリーナが叫んだ。
今度はアンジェリーナ自身がクァッフルを持った。
ロンの胃が冷えた。
キャプテンが来る。
ヘンリーは上空を旋回している。金色のスニッチはまたどこかへ消えた。視界の端で黒髪が揺れる。気にするな。見るな。自分の仕事をしろ。
アンジェリーナは速かった。
直線ではない。右へ行くと見せて、身体だけ左へ傾ける。ロンは動きかけた。だが、朝のヘンリーの球と、本の一文と、ジニーの「目を動かしなさいよ」が同時に頭を殴った。
まだだ。
ロンは動かなかった。
アンジェリーナの腕が振られる。
左。
今度は、迷わなかった。
ロンは飛んだ。
風が耳元で鳴った。腕を伸ばす。指先がクァッフルに届く。弾くだけでは足りない。掴め。離すな。
肩に鈍い痛みが走った。
赤い球が腕の中に収まった。
一瞬、競技場が静かになった。
それから、観客席から歓声が上がった。
「止めた!」
「ロン!」
誰かが叫んだ。
フレッドかジョージか、ジニーか、ヘンリーかはわからなかった。ロン自身の心臓の音がうるさすぎた。
上空で、ヘンリーが箒を止めかけていた。
アンジェリーナの声がすかさず飛ぶ。
「ポッター、止まらない!」
「はい!」
ヘンリーはまた飛び出した。
ロンはクァッフルを抱えたまま、思わず笑いそうになった。
シーカーはシーカーで怒られるらしい。
アンジェリーナは箒を止め、ロンを見た。
「もう一本」
ロンは言った。
言ってから、自分で驚いた。
アンジェリーナの眉が少し動いた。
「いい度胸ね」
「まだ、一回しか守れていないから」
観客席で誰かが笑った。
アンジェリーナは初めて、ほんの少し口の端を上げた。
「そうね。じゃあ、確認しましょう」
次の球は止めた。
その次はギリギリで止められた。
さらに次は完全に抜かれた。
ヘンリーはその間、上空でスニッチを追っていた。時々、金色の点がロンの視界に入る。そのたびに、ロンは目を戻した。前だけを見る。自分の輪を見る。自分の仕事を見る。
最後の一本は、左手の甲で無理やり押し返した。痛かった。たぶん明日は腫れる。
その直後、上空で歓声が起きた。
ヘンリーがスニッチを掴んでいた。
観客席が沸く。
当然だ。シーカーがスニッチを捕れば、そうなる。
ロンは一瞬だけ、その光景を見上げた。
胸の中がちくりとした。
それでも、さっきほど苦しくはなかった。
ヘンリーはヘンリーの仕事をした。
ロンはロンの仕事をした。
それだけだ。
練習が終わったころ、ロンは汗だくで、息も絶え絶えだった。手の感覚が半分なかった。胃はまだ縮んでいるが、朝とは違った。
アンジェリーナが近づいてきた。
ロンは箒の上で背筋を伸ばした。
何か言われる。
落ちたかもしれない。何本も抜かれた。
どうなんだ。わからない。わからないが、とにかく、今すぐ地面に穴を掘って入りたい。
アンジェリーナは短く言った。
「ウッドの代わりは重いわよ、ウィーズリー」
ロンは喉を鳴らした。
知っている。
オリバー・ウッドはうるさかった。しつこかった。クィディッチのことになると、ほとんど正気ではなかった。けれど、ゴール前にいるときだけは、誰よりも頼りになった。
その代わり。
そんなものになれる気は、まったくしなかった。
アンジェリーナは続けた。
「でも、最後の一本は悪くなかった」
それだけだった。
だが、ロンには十分だった。
「キーパー、やってくれるね?」
「はい」
今度は、声が裏返らなかった。
アンジェリーナはうなずき、他の選手の方へ向かった。
その瞬間、フレッドとジョージが左右から飛んできた。
「聞いたか、ジョージ」
「聞いたとも、フレッド」
「ウッドの代わりか」
「まず朝四時に起きて、雨の中で戦術会議だな」
「次に、クァッフルを恋人だと思えと言われる」
「最後に、夢の中でもゴールポストを守らされる」
「無理だそんなの!」
ロンは叫んだ。
ジニーが観客席から降りてきた。
「悪くなかったわよ」
「それだけかよ」
「それだけ言われたら十分でしょ」
ジニーは肩をすくめた。
ハーマイオニーは少し遅れてやってきて、まずロンの左手を見た。
「冷やした方がいいわ。腫れてる」
「今、僕は感動の場面にいるんだけど」
「感動していても腫れは引かないわ」
ヘンリーも箒を手に近づいてきた。
さっきまで上空で歓声を浴びていたシーカーが、今は少し遠慮がちにロンを見る。
「すごかったよ、ロン」
ロンは少し黙った。
朝なら、その言葉にむっとしていたかもしれない。正しすぎる。優しすぎる。ハリーじゃない。そう思ったかもしれない。
今も、思わないわけではない。
だが、ロンはクァッフルを止めた。
アンジェリーナの前で。
ヘンリーが同じ空にいて、スニッチを追っていて、みんなの目がそちらへ向きかけても、ロンはゴール前に戻った。
ヘンリーの言葉を、少しだけ受け取れる気がした。
「まあな」
ロンは言った。
「でも、次はもっと止める」
ヘンリーは笑った。
「うん。僕もまた練習に付き合うよ」
「投げるなら本気で投げろよ」
「わかった」
「あと、変な励ましはいらない」
「変な励まし?」
「君ならできる、とか、僕たちのゴールを守る人だ、とか」
ヘンリーは少し考えた。
「じゃあ、何て言えばいい?」
ロンは答えに詰まった。
ハリーなら、何と言うだろう。
たぶん、もっと雑で、もっと腹立たしくて、でもちゃんと隣にいる言葉だ。
「……抜かれたら、フレッドとジョージに一生言われるぞ、とか」
ヘンリーは瞬きをした。
それから、少しだけ笑い方を崩した。
「じゃあ、抜かれたらフレッドとジョージに一生言われるぞ」
「もう遅い」
「そっか」
ロンはため息をついた。
そのやりとりは、完璧ではなかった。
ハリーではなかった。
それでも、少しだけ息がしやすかった。
夜、ロンは談話室の隅で羊皮紙を広げた。
暖炉の火が赤く揺れている。フレッドとジョージは何か怪しい商品の改良をしていて、たまに小さな爆発音がした。ジニーは少し離れたソファで本を読んでいる。ハーマイオニーは宿題をしているふりをしながら、ロンの羊皮紙を気にしていた。
「見ないでくれよ」
「見てないわ」
「見てるだろ」
「見守っているの」
「同じだろ」
ハーマイオニーは羽ペンを置いた。
「違うわ。見守るのは、邪魔しないことよ」
ロンは羽ペンを握った。
アンジェリーナの前で飛んだときのことを思い出す。観客席の声。抜かれた球。熱くなった顔。上空でスニッチを追うヘンリー。最後に止めた一本。
主役ではなかった。
それでよかった。
ロンは続きを書いた。
『僕はハリーに嫉妬したことがある』
書いてしまってから、やはり手が止まった。
これは載せられるのか。
載せたら、フレッドとジョージに一生からかわれる。ジニーにも何か言われる。ハーマイオニーは真面目な顔で「大事なことよ」と言うだろうし、それはそれで困る。
ロンはその一文を消そうとした。
だが、消せなかった。
嘘ではない。
むしろ、ここを消したら全部嘘になる気がした。
*
羽ペン通信 ホグワーツ
つまり、ハリー・ポッターは本当に英雄なのか?
記者:ロン・ウィーズリー
まず最初に言っておく。
ハリー・ポッターは、朝から晩まで英雄らしくしているわけじゃない。
寝坊もする。宿題も忘れる。怒るとわりと面倒くさい。それから、これは本人には言わないでほしいけど、かなり頑固だ。
だから、僕が本屋で『稲妻の少年』をぱらぱらめくったとき、最初に思ったのはこれだった。
誰だ、こいつ。
少なくとも、僕の知っているハリー・ポッターは、こんなに都合よく立派じゃない。
もちろん、ハリーが勇敢じゃないと言っているわけじゃない。あいつは勇敢だ。ときどき、こっちが止めても聞かないくらい勇敢だ。いや、勇敢というより無茶かもしれない。危ない場所に行くなと言われると、だいたい行く。止める方の身にもなってほしい。
でも、あいつは最初から英雄だったわけじゃない。
僕がハリーに初めて会ったのは、ホグワーツ特急の中だった。
そのときのハリーは、魔法界のことをほとんど知らなかった。蛙チョコレートに驚いて、百味ビーンズの変な味に顔をしかめて、動くチェスの駒を見て目を丸くしていた。
英雄というより、腹を空かせた、やせっぽちで、眼鏡をかけた、少し困った顔の男の子だった。
そのとき、僕は少し得意だった。
だって、あの有名なハリー・ポッターに、僕が魔法界のことを教えていたからだ。
世界中が知っている名前のやつが、蛙チョコレートのカードも、クィディッチも、魔法界の家族のことも、ろくに知らなかった。変な話だ。でも、僕にとってのハリーは、そこから始まっている。
だから、ハリーを英雄とだけ呼ばれると、少し変な感じがする。
ハリーはローブを汚す。腹が減ると機嫌が悪くなる。チェスで負けると悔しそうな顔をするし、勝てそうになるとわかりやすく嬉しそうな顔をする。
何かを一人で抱え込むこともある。本人は隠しているつもりかもしれないけど、全然隠せていない。
ハリーは怖がらないわけじゃない。怒らないわけでもない。間違えないわけでもない。いつでも正しいことを言えるわけでもない。
だから、英雄という言葉だけでハリーを片づけるのは、やめてほしい。
英雄は宿題を忘れないように聞こえる。
英雄は怖がらないように聞こえる。
英雄はいつでも立派で、正しくて、誰かに助けてもらわなくても大丈夫な人間みたいに聞こえる。
そんなわけがない。
それから、もう一つ書いておく。
僕はハリーに嫉妬したことがある。
ハリーはいつも真ん中にいる。本人が望んでいなくても、みんながそうする。何かが起きると、まずハリーを見る。ハリーなら何か知っているんじゃないか。ハリーなら何とかするんじゃないか。ハリーなら特別なんじゃないか。
隣にいる僕は、ときどき嫌になる。
そう思う自分のことも、嫌になる。
『稲妻の少年』に出てくる少年は、やたら立派だった。
言うことが正しくて、態度もきれいで、まるで最初から英雄として本の中に立っているみたいだった。
でも、僕の知っているハリーは違う。
同じ寝室で寝て、同じ授業に遅れそうになって、同じ食堂で飯を食って、たまに僕の皿から勝手にポテトを取るやつだ。
つまり、ハリー・ポッターは本当に英雄なのか?
正直、僕にはわからない。
あいつは英雄かもしれない。
でも、その前に、僕の友達だ。
蛙チョコレートに驚いて、百味ビーンズで変な顔をして、チェスで負けて悔しがって、宿題を忘れて、危ないところへ行って、それでも最後には友達のそばにいた。
それが、僕の知っているハリー・ポッターだ。
ワールドカップの日本VSスウェーデンを見ながらキーパーって大事だよねと思いました。