ポケットに幻想を入れて 作:自産自消
「先生、進路相談がしたい」
先生を喫茶店に呼び出し、私は開口一番にそう告げた。
“……進路相談?”
「うん、進路相談……で、合ってるんだよね?」
“いや、私に訊かれても”
先生が困ったように笑う。こう言った相談事は初めてだから今一つ慣れない。それが先生相手だというのだから尚更だ。
紅茶のいい匂いが、テーブルの上のカップから湯気に乗って漂ってくる。この匂いを嗅いでいるだけで落ち着くのは、私がこのトリニティという空間に慣れたからだろうか。
“一体何があったの? こういう言い方は何だけど……アズサからそんな話が出てくるなんて思わなかったな”
カップに付属の角砂糖を2つ入れ、ティースプーンでかき混ぜながら先生が私に言う。
優しい口調だ。この先生の言葉に何度助けられたか分からない。だけど今放たれた言葉にだけは角が立っているように聴こえて、私の心が少しだけささくれ立つ。
「む……私がこういう話をしたら、ダメ?」
“いやいや、そういうわけじゃないんだ。ただ……”
「ただ?」
“アズサも、そういう未来のことを考えられるようになったんだなって”
確かに、アリウスにいた頃は毎日を生き残ることが精一杯だった。明日どうしようかと考えられるようになったのは、トリニティに編入してからの話だ。
「それは、先生たちのおかげ。補習授業部での毎日はとても楽しいから」
“うん、それはよかった”
「それについてはお礼を言わなきゃいけない。……ありがとう、先生」
“どういたしまして。でもそれは、アズサが自分で勝ち取ったものだから”
先生との会話は楽しい。それは先生があまり自分の話をせず、私の話したいように話させてくれるからだろう。だから、私も話したいように話してしまう。
でも、今回はそれではいけない。ちゃんと話さなければならないことがあるのだから。
「んんっ……話を戻すね。今日先生に来てもらったのは、進路相談がしたかったから」
“ああ、そうだったね。でも私は突然進路相談がしたくなった理由が訊きたいな”
喫茶店の中は生徒たちの談笑で賑わい、シャンデリアの綺麗な照明もあってかキラキラと輝いている。この中に私がいると思うと、自然と背筋が伸びる気がした。
だからこそ、今の自分ではこの人たちに不釣り合いなのではないかと強く思った。
「きっかけ……きっかけは、1週間前」
“1週間前に、何かあったの?”
「……私は、補習授業部以外にも友人がいる。それこそ、クラスメートの子とはよく話す。とは言っても私から話すことはあまりなくて、あっちから話しかけてくれることが大半なんだけど」
私はごく一般的な形のコミュニケーションをとることが苦手だ。今までは必要最低限の、コードネームや隠語に塗れたものしか経験がなかったのだ。当然と言えば当然だが、やはりトリニティという空間の中では浮いてしまう。
それを物珍しがってか、あるいは単純に私自身に好意を抱いてか、私に気さくに話しかけてくれる生徒が複数人いた。ヒフミも交えて昼食を一緒にすることもあった。
“それは、いいことだね。すごくいい”
先生が優しく笑う。自分の功績ではないのに、それだけで誇らしく思えてしまう。
でも、今回はそれが少しだけ重荷なのだ。
「1週間くらい前に、進路についての話になった」
何てことはない雑談の種だ。放課後に何をするかとか、この後の授業が何だったかとか、そんな話題と同じくらいに軽く投げかけられた話題だった。
大学という教育機関に行ってより専門的な学業を身に着けたいという友人もいれば、海外を旅してみたいという子もいた。家業を継ぐことが決まっていると言っていた子もいたっけ。
「……でも、私には何もなかった」
“何も?”
「分からなかった。将来とか、考えたことがなかったから」
『白洲さんはどうなの?』と友人の1人が私に声をかけてきた。『私は』と声に出そうとして、その続きを紡ぎだせないことに気付いた。
背中にじっとりとした汗が走った。視界がぐるぐると回り、目の前にあるものが何だったかも一瞬分からなくなった。それくらい、今の私には衝撃的な質問だった。
“その時は、何て返したの?”
「……『分からない』って答えた」
“それでいじめられたり、したの?”
「ううん、そんなことない。みんな『やっぱりそうだよね』とか、『私もこう言ってるけど全然想像つかない』とか、軽めに受け流してくれた」
実際のところどうなのかは分からない。ひょっとしたら裏で陰口を叩かれる隙を作りだしてしまったかとか思わないでもなかった。
でも、それは目の前の友達を信じない理由にはならない。現実として目の前に現れるまでは、私は私の思う『友達』を信じてみたいと思っている。
「でも……その、『答えられなかった』って事実が、ずっと頭に残ってた」
紅茶を一口啜る。少しの苦みはミルクのまろやかさと砂糖の甘さと調和して、舌が素人である自分でさえも美味しいと感じる仕上がりになっていた。これがロイヤルミルクティー、ミルクで煮出した紅茶。
それでもその『美味しい』という感情は、将来への不安と自分への失望であっという間に霧消してしまう。胸の蟠りを吐き出すように、1つ息をついた。
「寝る時も、勉強する時も、その悩みがとれなくって……ずっと、考えてた」
“……アズサは、焦ってるんだね”
「焦り……うん、そうだと思う」
先生はやはりすごい。私の今までの冗長な話から要点を搔い摘んで、ごちゃごちゃととっ散らかった私の頭を一瞬でスッキリさせてくれた。
私は、焦っていたのだ。友達に置いて行かれているような気がしたから。
「考えて、考えて……それでも答えが出せているかも不安だった」
“アズサ自身の答えは出せたの?”
「分からない。こんなことを悩むのは、生まれて初めてだから」
布団に潜り込みながら、将来の自分を想像しようとした。それでも経験したことがない「大人」という世界は不明瞭で、ふとした時に飲み込まれそうになった。
それでも、何とか答えのようなものは出せたと自分では思っている。
“それじゃあ……進路相談。アズサは将来、何になりたいの?”
「私は……ちゃんとした『大人』になりたい」
そう言った瞬間にピクリと、先生の眉が見たことのない上がり方をした。
私の眼は、それを見逃すほどに鈍くなかった。今だけはその鋭さが憎かった。
「……先生?」
存在を確かめるように呼び掛ける。先生は目を細めて私をじっと見つめ、『続けて』と優し気な口調のまま言った。
“アズサは、ちゃんとした『大人』になりたいんだね”
「う、うん。今のところは……」
“何でそう思ったのか、聞かせてくれる?”
理由は、目の前にある。
先生。私たちを教え導いてくれる人。
「私たちは……何度も、先生に助けられた」
自分の思いを確かめるように、一言一句間違わないように、言葉を口に出していく。それが先生の機嫌が直らないかという思いを抱きながらのものだということに気付いたのは、もう少し後のことだった。
「先生の背中を見て、私は……先生みたいになりたいって、思った」
念のため言っておくけれど、この願いに嘘はない。私の憧れは先生だ。それはエデン条約の事件以降から、私が胸に秘めていた夢だ。
先生は表情を変えずに、私の眼をじっと見ている。それが無性に怖くなって、私の口はたどたどしくも回り続けた。
「先生みたいな大人に、なりたいって……私の今の夢は、これ」
“アズサの夢は、『大人』なの?”
「……うん。私は、早く大人になりたい」
そう言い終わると、先生はその大きな手で額に手を当てた。いつもは優しく私たちを見守ってくれている先生の目が、今は見えない。それが恐ろしい。私の心は、猛烈な恐怖感に包まれていた。
“……そっか”
先生が、いつの間にか空っぽになっていたティーカップをソーサーに置く。カチャリという音がやけに大きく響いた。
“そっかぁ……それが、夢かぁ…………”
ああ、私は何かを間違えた。補習授業部で何度も覚えた感覚だ。
合っているだろうと出した問題の答えを間違えて、何を間違えたか途中の論述を見直す。普段から慣れていたはずのこの行動のやり方が分からない。
私は、何を間違えたのだろう?
「……先生?」
“…………ごめんねアズサ。ちょっと厳しいことを言うよ”
先生が机の上で手を組み、背筋を伸ばす。私もそれにつられて椅子に座り直した。
先生は怒っていない。むしろ私を慈しむようなその目つきはいつも通りのものだ。だからこそ、これから待ち受ける、私の見たことのない「導き」が恐ろしくて仕方なかった。
“その夢は……あまりに、漠然とし過ぎてる”
ズキンと胸が痛んだ。やっぱり、これではダメなんだ。憧れの元である先生にそう言われて、妙に得心がいった。
“いいと思うんだ。『大人になりたい』っていうのは、アズサの大事な夢だよ”
「…………うん」
“でも、それだけだと危な過ぎる。なぜなら、大人は誰でもなってしまうものだから”
かつてアリウスにいた、あの悪魔のような大人を思い出す。そうだ、彼女もれっきとした『大人』だった。
ああなりたいわけでは決してない。それでも、私が今出した答えのまま走り続けたら、いつの間にか目的と手段を取り違えてあのような大人になってしまう可能性も秘めていることに気付いた。
“私はね、アズサ。歳を重ねただけの人のことを、大人とは呼びたくないんだ”
真剣な口調で先生が言う。その言葉の1つ1つが、考えなしな私に重く響く。
“それに、アズサは私に憧れてそう言ってくれたんだよね”
「そう。私は、先生みたいになりたくって……」
“うん、それはすごく嬉しい。でも、私だけを目標にはしないでほしいな”
また、胸が疼くように痛んだ。
“アズサには、もっといろんなことを知ってほしい。私はそう思ってるよ”
「でも、先生。私は先生みたいに……」
“……うーん。私にも結構だらしがない部分はあるよ。そんな大人になりたいと思う? 本当に?”
『もちろんだ』と言いかけて、口が反射的に止まった。先生はその次元の話をしていないことが分かったからだ。
言葉の上っ面だけの意味ではないのだろう。確かに、私は先生のいい部分だけしか見ていなかったように感じる。
「……それでも、先生。分からないよ」
“何が分からないの?”
「それだと、私にはちゃんとした夢がないってことになる」
焦りをそのまま口に出す。だけど先生は私の眼を見て、笑って言った。
“大丈夫だよ、アズサ。そんなに急いで決めなくても”
「でも……」
“だって、アズサには親友がいるでしょ?”
「…………補習授業部の、みんな」
“うん。アズサの悩みにはちゃんと乗ってくれると思うから”
先生は『周りの意見も考えつつ決めろ』と言っている。それを覆すだけの材料がない今の私は、大人しくそれに従う外ない。
「……分かった。まずは、ハナコに訊いてみる」
“ハナコか。うん、いいと思うよ”
「ちょうど明日会う予定があるから。勉強を見てもらう」
“それじゃあ、勉強の質問のついでに訊いてみるといいよ。きっと喜んで話を聞いてくれると思うから”
先生が席を立つ。伝票を持っていることから、お会計は先生が払ってくれるつもりらしい。私は手を伸ばしてそれを押し止めようとしたけど、先生はどこかで見た小説の怪盗のようににっこりと伝票を指の間に挟んで笑った。
“いろんな人に話を聞いて、アズサの思う『大人』っていうのが何か、自分で考えてみてね”
そうして席には私独りだけとなった。目の前にはカップの半ばほどまで残った飲みかけのミルクティーだけが残っている。
ここはお菓子も美味しいと聞いていたのに、頼んでいなかった。今度来るときはクッキーでも頼んでみようと強く思った。
「……私の思う、大人」
これは先生からの宿題だ。それも私の将来にとってとても重要な、必ず提出しなければいけない宿題。
「まずは、ハナコ。ちゃんと聞いてくれるといいけど」
いつもわけの分からないことを言っている理知的な彼女の顔を思い浮かべて、ちょっぴり不安になったのは内緒の話だ。
先生「早く大人になりたいって、そう言ってるうちは子供なんだよなぁ……」