初夏の風が吹く、ポカポカとした陽気だった。信は
畑はずいぶんと拡がってきた。最初は荒れ地だったこの土地を、ここまで拡げてこれたのは、ある種の達成感すらあった。
血と粉塵に塗れ、戦場を駆け巡っていたのが、遠い昔のことのように感じられた。今の敵は、この広大な大地だった。
「おーい、信!」
まだ幼さの残る声が、信の耳に響いてきた。
「どしたー、なんかあったかー?」
「
「なんだとっ!?」
あの日、咸陽で別れてから、実に一年以上が経っていた。無事であるとは聞いていたが、まさかこんなところにまで会いに来るとは思ってもいなかった。
貂の後ろでは、政が柔和な笑みを浮かべて手を挙げている。
信は目じりに浮かびそうになった涙を必死に振り払った。
「おう、元気そうじゃねぇか」
「ふっ、おまえもな」
ふたりで笑い合うのも、いつぶりだろうか。信はそんなことを考えていた。ふたりの隣では、貂も嬉しそうに笑っていた。
「おっさんは……いねぇのか?」
「ああ。さすがに同行は
昌文君は楚の公子だったのだが、楚に行くことは断り、政の従者となった。しかし、ふたりして外出すると、不要な警戒を招くと思い、置いてきたのだ。
「しかし、まさかおまえが開拓民になるとはな。趙はかなり良い条件を出したと聞いているが、なぜ断った?」
「あのな、今さら李牧の下でなんか戦えるかよ。たしかに俺の夢は大将軍だったけどな、どこでもいいってわけじゃねぇんだ。俺は……」
おまえの下で大将軍になりたかったんだよ、と言いかけて、信は口をつぐんだ。照れ臭かったのだ。
「俺は……なんだ?」
「なんでもねぇよ!」
「なんでキレてるんだ、おまえは……」
政は呆れたようにため息を落とした。
「あれから、色々あったな」
楚は投降した将兵を処刑したりはしなかった。また秦人を虐げたりもせず、仁愛をもって統治していた。
他国から勧誘された将もいた。それを受けた者もいるし、信のように野に下った者もいる。どちらも選ばず、死を選んだ者もいた。
かつて王騎の副将を務めていた将軍
何かが砕けるような音。その音の正体は、
そして、臭い。油の臭いだ。
彼らが騒ぎ出したと同時に、火の手が上がった。わけがわからなかったが、とにかく消火をしなければと、信は部下たちに指示を出した。
政の傷はまだ癒えておらず、信は政の眠る部屋に向けて走り出した。その途中で、政を背負った昌文君に出会った。
民兵たちには、政の傷は伏せられていた。負傷したことは知られていたが、大したことはないと布告していたのだ。
だが今の政は、顔からは血の気が引いて、一目で重傷なのがわかるような有様だった。とはいえ、外に出さないわけにもいかない。指令所からも火の手は上がっており、中に置いておくと倒壊に巻き込まれる危険があったからだ。
結局は荷物に見せかける形で外へと出すことになった。
昌文君は消火を急がせたが、火勢は増す一方だった。それもそのはずで、次々と油樽が落とされ、火矢が撃ち込まれていたのだ。
ただでさえ民兵たちは、気力だけでもっていたのだ。消火作業中に倒れて、動けなくなる者も大勢いた。
そして、黎明の光とともに、趙兵がなだれ込んできた。それを防ぐ気力など、民兵たちには残っていなかった。
李牧が告げる。
――最後の勧告である。いま降伏するのならば、秦王を含め、ひとりの命も取らぬ。水と食料を与え、ただちに治療も行う
信の心にも、迷いが生じた。
――どうする信。とことんまでやるなら、付き合うぜ
「約束を破ったらぶっ殺す!」
そう吠えるのが精一杯の抵抗だった。結論から言えば、李牧の対応は紳士的だった。兵から武器を回収した後、直ちに治療と炊き出しを行った。
その後、丁重に政を保護し、咸陽へと向かった。同行を求める信に対して、李牧はいくつかの条件を付けてこれを受け入れた。
この危険な男を、李牧は目の届くところに置いておきたかったのだ。
そして咸陽に向かった一行は、驚くべきものを目にした。咸陽のいたるところに、「楚」の旗が立っていたのである。
それを目視した李牧は歯ぎしりをしながら、「……春申君!」とつぶやいた。その名は、信も知っていた。合従軍の盟主である。
どうやら合従軍も一枚岩ではないようだ、と信は思った。
もうずいぶんと、昔のことに思えてくる。
「おまえは、どうなんだ? 酷いこととかされてねぇか? 顔色は、悪くねぇみたいだが」
「ふっ、まあな。こうして外に出ることも許されている。見張り付きだがな」
少し離れたところでは、五人の男たちが遠巻きにこちらを眺めていた。
「多少の気遣いはあるようだ。おまえたちとの語らいを邪魔する気はないらしい」
「でもよぉ、はっきり言って意外だったぜ。あいつらがおまえを生かしておくのはよ」
「おい、信!」
遠慮のない言い草に、さすがの貂も口を挟んできた。
「ふむ。なぜそう思う?」
「だってよ。普通は、殺すんじゃねぇか? 王様ってのは、国の象徴みたいなモンだろ。それにおまえが生きてりゃ、おまえを旗印に反乱が起きる可能性もあるし」
「なるほどな。おまえも一応、考えてはいるんだな。それはだな…………いや、いい」
顎に手を当てて、政はしばらく考え込んでいたが、結局は話すことを諦めた。だがそれが、信の逆鱗に触れた。
「なんだよそれ! おまえ、いま諦めただろ! 俺に話しても理解できねぇって、諦めただろ!」
「まあ、そうだ。はっきり言って、おまえに理解できるとは思えん」
「ふっざけんな! できるつーの。おまえら勘違いしてるみたいだけどな! 俺は学ぶ機会がなかっただけで、頭自体はそんな悪くねぇんだよ!」
「…………」
「…………」
「なんで黙るんだよっ!!」
信は地団太を踏んで抗議した。
「わかったわかった。じゃあ説明してやる。簡単に言うとだな、国家というのは社稷を意味するんだ。だからそれを破壊することが国家の破壊、滅亡と同義なんだ。王族というのは、そこまで重要じゃない」
「……やべーぞ、貂。いきなりわかんねー言葉が出てきた。しゃしょくってなんだ?」
「おまえ、さっきまでの威勢はどーしたんだよ!」
小声で訊いてくる信に、貂は厳しいツッコミを入れた。
「うるせー! わかんねーモンはわかんねーんだよ。ちゃんとわかるように説明しろ!」
「なんでおまえはそんなにえらそうなんだ。社稷というのはだな、土地神を祀る祭壇「社」と、穀物の神を祀る祭壇「稷」のことだ。この社稷の設置をもって国家の成立とし、社稷の存在が国家そのものを表しているんだ。つまり社稷の存続が国家の存続を意味し、社稷の消滅が国家の消滅を意味するんだ」
「……なるほどな」
と相槌は打ったものの、信はいまいちよくわかっていなかった。だが、政の命が狙われることはない、ということはわかった。
そこには昌文君の尽力もあった。
「それにあの時、咸陽は落ちたとはいえ、函谷関には
「
信の
「そういえば、南の方で趙軍が楚軍の集積所を襲撃したらしい。知っているか?」
「……はぁ? いや、待てよ。今って四国で同盟組んでんだよな。そんなことしたら趙は……」
四国同盟の条項の中に、戦争を仕掛けた国は、残りの三国によって攻撃される、というものがある。この条項があるため、平穏が保たれているのだ。
「落ち着けよ信。李牧がそんなことするはずない。そうだろ、政」
「その通りだ、貂。趙はこれを否定している。野盗が趙の旗を利用しているだけだとな。その証明のために、自軍で野盗を討伐すると言ったらしいが……」
「他国の軍を自領に招き入れるのは、色々と問題がある。一応、そこまで見込んだ趙の策略っていう可能性もあるけど……」
貂の言うように、楚の軍事力や生産力などの調査のための自作自演という可能性もある。しかしそれなら、このような大事にせずとも、こっそり間者を送り込めばよいだけの話だ。
「もちろん、その可能性もある。だが俺は、違うと思う」
「ああ、俺もそう思うぜ。もし趙軍が来たら、楚の旗を立てて襲い掛かるんじゃねぇかな。あるいは、魏の旗か、燕の旗か」
信も、その野盗の正体に感づいていた。確証はないが、あの男ならやりそうだと思ったのだ。函谷関の戦いで、各国の旗を集める機会もあったはずだと。
「一時的かもしんねぇが、平和になったってーのに、あいつは何がやりたいんだ?」
「あいつとは、もう少し話してみたい気持ちはあったがな。そうすれば、あいつの内心も、少しは理解してやれたのかもしれない」
桓騎は謎の多い男だった。元野盗ということと、蒙驁には
そして、信が口にした
昔、まだ七国だった時代に、政も七国同盟は考えたことはあった。だがその平和は一時のもので、世代を超えて受け継がれるものではない、と政は結論付けた。
だからこそ、中華統一という覇業を成し、恒久的な平和を築こうとしたのだ。
(だが俺は敗れた。それが天意だというのならば、天が俺の夢を否定したということなのか)
秦という国が滅亡した時、次に中華統一を目論むのは楚だと思っていた。なぜなら楚は、この十数年で急速に国力を増しており、それは他国の追随を許さぬほどだったからだ。
春申君の手腕により内政は安定し、軍事体制も確立された。秦の代わりとなり、中華を統一する。それで平和が訪れるならば、それはそれでよい、と政は思った。
しかし、楚が選んだのは、統一ではなく同盟による平和だった。それは政にとって、自分の夢を否定されたようなものだったのだ。
「なぁ、政。俺は、この平和がずっと続けばいいと思ってる。でも、そんな甘いモンじゃねぇとも思ってる。もしこの平和が破られたら、おまえはどうするつもりだよ」
信の言葉に、政はハッとなった。
「……そう……だな。三年後か、五年後か、あるいは十年後か。答えは出るだろう。間違っていたのは俺の方か、世界の方か。世界が間違っていたのなら、俺は……」
見張りの目があるため、それ以上は口にしなかった。だが、信にはわかった。政の目が死んでいないことが。
「……ところで、
言いながら、政はあたりを見渡した。貂は、村の子どもたちに文字を教える仕事をしていた。羌瘣も開拓とは別の仕事をしていると思ったのだ。というか、羌瘣が畑を耕している姿が、政にはどうも想像ができなかった。
「あいつは今、実家に帰ってる」
「……ついに愛想をつかされたのか?」
「ちげぇよ! なんでそうなるんだよ!」
信は憤慨して政を怒鳴りつけた。
「いや、だっておまえ、あいつの実家は……」
羌瘣は蚩尤という暗殺一族の里で育った。里に親代わりの老婆がいるとは、信も聞いていた。
「なんでも、「私の因縁にはケリが着いた。次は蚩尤の因縁にケリを着けてくる」って出ていったんだよ」
貂は両目の端を中指で釣り上げて、言った。どうやら羌瘣のマネらしい。
「ま、そのうち帰ってくんだろ。ちょいと間が悪かったな。なんならしばらく泊っていくか?」
「いや、外泊は許可されていないのでな。まあ、俺は息災だと伝えておいてくれ」
「おう」
「ああ。それとな、子が産まれた」
「な、なにっ!?」
「ほんと? おめでとう、政!」
信は驚き、貂は祝いの言葉を口にした。
「ありがとう」
政は小さく笑って、拳を差し出した。信と貂もにんまりと笑いながら、同じように拳を差し出した。
拳がぶつかり合う固い音が響いた。
政はただ中華を統一して、戦争をなくし、恒久的な平和を築こうとしただけなのに。
そんな光り輝く夢は、心ない誰かの手によって潰されてしまいました。悲しいなぁ。