中華において実り豊かな土地というのは、古来より華北の地であった。この平原地帯では古くから粟や麦が栽培され、中華の人々の腹を満たしてきた。
その一方で華南、いわゆる長江流域の江南は開発が遅れていた。この地域が本格的に開発され始めたのは、三国時代だと言われている。
主な理由は、江南には低湿地帯が多く、湖沼が多く存在したことだ。水源が潤沢にあるということは、一見すると農耕に適したように思えるが、逆に水が多すぎて開発が困難になっていたのだ。
要するに、湿地を農地にするのは大変で、大規模な土木工事が必要だってことだ。重機なんてないこの時代では、なにをやるにもマンパワーに頼るしかない。
だから、賊狩りが必要だったんですね。
盗賊や野盗というのは、基本的には生活困窮者の集まりだ。幽連以外の蚩尤四人は、護衛ではなく街の治安維持や盗賊退治を頼んでいた。
退治というか、説得(物理)を頼んだのだ。服従か死か、というやつだな。まあ服従といっても、普通に給金は払うし、労働者と変わりはない。
一応、罪人ではあるから、一定期間は労役として働いてもらうが。
兄上に頼んで人を送ってもらってはいる。商人たちも、奴婢やら奴僕やら下僕やらを売りに来ている。
普通に人身売買なんだが、今の時代では当たり前に行われている。悲しいかな、人の命が安い時代なのだ。
だが、それでも人が足りないんだよ。つーかこれもう国家事業なんだよな。
中華ってさ、人が溢れてるみたいなイメージ持っている人が多いけど、長いこと戦乱が続いてきたから、そこまで人口って多くないんだよね。
たしか、総人口が一億を超えたのが、宋の時代とかじゃなかったっけ。それに今は国境があるから、移動するのもなかなか面倒だしな。
ぐだぐだと並べてきたが、要するに人が足りないってことだ。
あとは農具だな。どんどん作ってはいるが、生産が追いつかない。平和になったとはいえ、さすがに武器を溶かして農具にするわけにもいかないし。
山師を雇って鉱山でも探すしかないか。
そして、人が増え、経済が活発になっていくにつれ、予想外の問題が出てきた。
「金がねぇ」
思わず口に出してしまうほどに、金がない。物理的に足りなくなってしまったのだ。楚で流通している貨幣は二種類あり、ひとつは
もうひとつは、貝の形を模して青銅で鋳造されている貨幣だ。商人たちが扱うのは、
ただでさえ、秦・斉・韓と三国が亡んで、それらの国の貨幣が金属としての価値しか持たなくなったのだ。これを鋳造して貨幣を増産してくれればいいんだが、どうも動きが鈍い。
まあ慎重になるのもわかるんだが、どうすっかなぁ。俺も説得できるほどの知識があるわけじゃないし。経済はふわっとした知識しかないのだ。
しかし現実として足りてないのもたしかなわけで……。
お金の代わりになるものがあればいいんだ。有価証券……小切手……
そうだ。宋だよ。
商人たちから金を預かって、手形を発行する。商人たちは重い貨幣を持ち歩かずにすむというメリットもある。問題は信用なんだが、やっぱり国に保証してもらうのが一番かな。
一度兄上と話し合ってみよう。GOサインが出れば、商人たちとも話し合おう。実際に使うのは彼らだし、その道のプロだから、俺なんかよりよっぽど良いアイデアが出てくるだろう。
◇
「少しいいか? 話がある」
ある日の朝、幽連が
「どうした。なにか欲しいものでもあるのか?」
「ああ、休暇をもらいたい」
休暇だとぉ? そんなん俺が欲しいわ。なるべくホワイト体制にしようとはしてるが、労働者はともかく、管理者、つーか頭使える人間は少なすぎてそうもいかねぇんだわ。
やっぱ学校でも作って、人材育成に力入れるのが結局は近道なのかもしれん。
「何日くらいだ?」
「半年。場合によってはもっとかかるかもしれん」
「ずいぶんな長期休暇だな。理由を聞いてもいいか?」
「里帰りをしようと思ってな」
里っていうのは、あの里だよな。
「里帰りの理由は、聞いてもいいのか?」
「……そうだな。おまえは知っておくべきかもしれん。祭のこと、蚩尤の歴史については知っているな」
俺が首肯すると、幽連は続ける。
「その歴史を、終わらせる。そのための帰省だ」
「なるほど。では、全員連れて帰るのか」
「いや、それではおまえの警護ができん。帰るのは私ひとりだ」
「……ひとりで大丈夫なのか」
「
そりゃまあ、忘れられない名前ではあるが……。おまえの腕を持っていった女だし。
「今回はあいつの誘いだ。あいつも思うところがあるのだろう」
あの四人から聞いたが、羌瘣の姉を、幽連が祭で討ったらしい。しかもタイマンではなく、囲んで叩いたから羌瘣は恨みを抱いたようだ。
一応、共闘は掟で禁じられているらしい。まあ強力な個を生み出すのが祭の目的だから、当然といえば当然だが。
それでも、突出した人間が一人いれば、なんとなく最初に叩いておこうとなるのは共通認識だと思うんだがな。バトルロイヤルでは基本戦術みたいなものだし。
まあ、納得できるかどうかは、別問題かもしれんが。
「だが、蚩尤の風習は千年も続いてきたんだろう。簡単にやめられるものなのか?」
「まあそこは、話し合いだな。ババア共も、老後の蓄えは十分にできただろうし」
話し合いで解決できなければ、たぶん話し合い(物理)になるんだろうなぁ。だが同族で殺し合うのも忍びない。使うか使わないかは任せるが、せっかくだから市中警備用に造ったあの剣を渡しておくか。
「その里というのは、どこにあるんだ?」
「蚩尤……蚩尤族は、氏族ごとに分かれて山々に点在する。まあ、大体は西の方だな」
ほとんどこの中華を横断するわけか。片道二、三か月ってとこかな。道路整備もしたいんだが、軍事的に色々とマズいらしい。街道を整備するくらいが精々だな。
「死して悔いなし、滅して已むなし、というわけではないか」
「そこまで"洗脳"されているやつは
脱走者もそこそこいたと言っていたし、そこまで徹底した"教育"というわけではないようだ。
「なら、
兄上に呼ばれているのだ。ことの発端は、例の小切手、というか引換券の相談のために郢へ行った時のことだ。そこで色々と話し合い、それはまとまったんだが、話の流れで、法についての知識はあるのかと聞かれた。
その質問に、俺はこう答えてしまったのだ。
――多少は
これが間違いだった。全然、全く、これっぽちも存じ上げません、と答えるべきだった。
まあそれも不自然な答えではあるが。江南では独自の法を敷いているし。
兄上の食客から専門家を何人か借りているが、一応江南のトップは俺だから、まるっきりわからないというのは、少々無理がある。
そういう経緯があって、しばらく経った頃に、郢に来て法の講義をしろというお達しが届いたのだ。
なんでそうなるんだよ。法家なんて俺より優れたやつが何人もいるでしょうが、とツッコミを入れるわけにもいかず、頭を抱えながら
「そうだな。ならばそうしよう」
そんなわけで、俺たちは郢に向けて出立した。
◇
「ようこそ、いらっしゃいました」
郢にある兄上の館で出迎えてくれたのは、朱英という男だった。兄上の食客の一人で、剣の腕が立ち、その実力は兄上に預けた三人の蚩尤も認めていた。
あとたぶん、これは彼の独断だと思うが、俺の周囲を調査しているようなのだ。おそらく俺を警戒しているのだろう。史実でも李園の危険性を訴えたのは彼だし。
まあ、やましいことはしていないので、調べたいなら存分に調べればいいさ。
「今日は、よろしくお願いいたします」
「お願いするのは、こちらの方です。すでに皆さま、お集まりでございます」
固い物言いだな。こちらの方が年下なのだし、もっとフランクでもいいのに。まあ雇い主の弟であるし、仕方ないのかな。
そのまま大部屋へと案内される。室内には二十人ほどのおっさんがいた。
いやいや待って。もっとこう、子どもとかが相手じゃないの? みんないい歳したおっさんだよ。ほとんどが俺より年上に見える。
これやばくない? 用意しているのは初心者用のテキストだぞ。法についての入り口みたいな解説しかしてないやつだ。こんなの出したら鼻で嗤われるぞ。
「奏、時が惜しい。さっさと始めろ」
一番後ろで腕を組んで座っていた兄上がせかしてくる。くっ、こっちの気も知らないで、好き勝手言ってくれる!
とりあえずこのテキストはカバンの中に封印しておこう。
「えー、どうも。奏と申します。僭越ではございますが、今日は法について語らせていただきます」
ペコリと頭を下げる。さて、どうするかな。いっそディベート形式にしてお茶を濁すか?
というか、あまり歓迎されていないみたいなんだが? みんなきつい表情で目つきが鋭い。なんでこんな若造にものを教わらにゃならんのだ、とでも思っていそうだ。
兄上に逆らうわけにもいかないから、嫌々参加してるんだろうなぁ。
「まず奏殿は、法というものをどうお考えなのか。お聞かせいただきたい」
と思っていたら、どうやら積極的なやつもいるようだ。最前列の厳ついおっさんが問いかけてきた。いや、これはあれか、初手でプレッシャーかけてやろうという魂胆か。
「人が生きる社会において必須のものであります。法による厳格な政治を行い、君主の権力を強化し、富国強兵をはかる。それが法というものです」
これが一般的な法家思想なのだが、彼はどうもお気に召さなかったようだ。
「ありきたりな答えですな」
と、鼻で嗤うように言った。
やはり初心者の集まりではないようだ。しかもみんなプライドが高そうな顔してるし。面倒なことになったなぁ。
「ならばもう少し語らせていただきましょう。先ほど厳格と言いましたが、法というのは複雑すぎたり、厳しすぎたりしては、民を混乱させることになります。それが国を亡ぼすこともありましょう。かつての秦国にて新法の改革をした商鞅も、自ら制定した法によって身を滅ぼしました」
史実において
そりゃ当たり前に逃げるよな。言い訳すら聞いてもらえず斬首だもの。
「な、なんと!?」
「
「しかし事実であろう」
「なんだとっ!?」
「秦は亡びたのだ。いい加減に認めろ!」
なんだなんだ!? いきなり騒がしくなったぞ。つーか今ヤバイ名前が聞こえたような気がするんだが……。
なんかおっさんたちが
そう思っていたら、パンと手を叩く音が室内に響いた。
「静まれ。おまえたちはもう楚の文官なのだ。議論するのは良いが、場をわきまえろ」
兄上の一喝で、場は静まり返った。
「奏、続けろ」
「はい。えー、法は厳しすぎても複雑すぎてもいけないということですね。それは複雑すぎると民が理解できないからです。民衆はそれほど理知的ではありません。そもそも法を発布しても読める人間が限られています」
この時代の識字率はかなり低い。将軍でも字が読めないという人間もいるくらいだ。百姓なら推して知るべし、だろう。
とそこで、李斯(仮)の隣のおっさんの手が挙がった。
「どうぞ」
「わ、わた、わたしは、言葉がた、達者ではありません。書、にて、まとめてまいりましたので、目を、通していただきたい」
このタイミングで? つか嚙み噛みだな。つかえているというか……もしかして吃音か?
というか分厚いな。五十枚くらいあるぞ。内容もびっしりだし、俺が速読を習得してなければ数時間はかかりそうだ。
……ふむ。なかなか過激なことが書いてあるな。極端というか、
相手が誰であろうと、粛々と講義を続けるだけだ。
「貴重なご意見ありがとうございます。では今回の講義の資料として使わせていただきましょう。まずそうですね……国家運営において、君主は必要か否か」
「そ、それは不敬な発言ですぞ!」
そう叫んだのは、兄上の前に座る初老の男だった。
「ただの議題です。他意はありません」
「しかし……」
「かまわん。続けろ」
兄上の一声で、初老の男は黙った。
「質問の意図を説明していただけますか?」
「そのままの意味ですよ。例えば、今の趙国の王は、政治には全く口を出さず、すべてのことを家臣に任せているようです。それでも国は問題なく運営されています」
「それは平時だから治まっているのだ。戦時となれば、主権を持つ君主が必要となる。そもそも法となんの関係があるのか!」
李斯(仮)が拳をダンと床に叩きつけた。むむっ、わからんかったか。つかこれ、韓非(仮)の提出した書類に書いてあったことなんだけどね。
賢者が政治を指導することを望んでいる儒家的な考え方を真っ向から否定する法治国家が理想で、君主も法に従う法治主義を掲げている。
これはかなり異端で、特に君主であろうとも法に縛られるというのが、かなり未来的な考え方だと思う。
「君主と法、どちらを上に置くべきかという問題です。我が国を例に上げましょう。今の大王様は剛腕によって良く国を統治されておりますが、遡ればどうでしょうか。先々代の懐王は、秦の
これは楚では有名な逸話だ。暗君だとはさすがに言えないので、秦の悪辣さと、張儀がおしゃべりクソ野郎だということが際立って伝えられている。だが王も王で、ちょっと迂闊だったんじゃないかなと思わなくもない。
だからそんな怖い顔しないでくれ。
「聡明な君主の出現は極めて
「それは王を否定するということか! 越権であるぞ、若造が!」
「そうではありません。王は王として、権力の象徴として存在する意義があります。しかし王が法を超える存在として君臨する必要があるかと問うているのです」
これが、法治国家が受け入れられない一番の理由だろう。最大の権力を持つ国王が、自分の判断で己の上に法を置くと決断しなければならないのだ。
またこの時代は、法とは庶民のためにあり、王侯貴族は法に縛られないというのが定説でもあった。
「かつて韓の宰相であった
韓非(仮)がうんうんと頷いている。やはりこいつ、韓非(仮)ではなく、韓非(真)なのでは……いやよそう。本物だと思うと、緊張してしゃべれなくなってしまう。
韓非に法の講義とか、釈迦に説法どころの騒ぎじゃない。韓非はもういないんだ。韓と一緒に亡んだんだ。
「しかし申不害が亡くなると、韓は再び他国からの侵略に悩まされることになります。つまり、一人の英雄によって国家の存亡が決まるのではなく、法が国を治めることが必要なのです」
「だからこそ厳格な法が必要なのだ!」
李斯(仮)の言葉に力がこもる。見かけによらず熱い男だな。
「そう簡単なものではありません。例えば我が国、楚の人々は、自分たちの文化や風習が曲げられることを嫌います。だからこそ秦は、かつての楚領であった南郡の統治に苦労したのでしょう」
まあそれがあったからこそ、あの奇襲が上手くいったんだがな。自分たちの常識と違うからといって、その地に残る風習や規律を
「法は必要です。しかし、法による完全なる統制が、常に上手くいくとは限らないということです。法で人々を縛ったところで、反発は必ずあります。それが反乱にまで発展することもあるやもしれません」
「くくくっ、奏よ。江南に布告している法を言ってやれ」
「はい、兄上。江南の法は三つだけです。盗むな、殺すな、火を付けるな」
庶民に小難しいことを言っても、その半分も伝わらない。だからこそ法は、簡潔でわかりやすいものでなければならないのだ。
劉邦も漢中入りした時に、秦の事細かな法を全て撤廃し、「人を殺せば死刑。人を傷つければ処罰。物を盗めば処罰」の三条のみに改めたというし。
秦がやったような、封建制度から中央集権制度への変革は、楚で上手くいくとは思わない。大きな反発があり、一手間違えば内乱となる。
その昔、呉起という令尹(宰相)が大改革を行い、楚の政治や経済は新たな段階に進んだ。しかし、当時の王である
難しいよなぁ、政治って。
同盟を組んでいる今、改革をやるという選択もあるのだが、それで国内が混乱している時に連合軍で攻められる可能性もあるんだよな。
李牧あたりがやりそうではある。三年というのが、微妙な期間なんだ。
……まさか李牧は、ここまで読んでいたのか? だとすれば、下手に内乱にでもなれば、付け込まれるかもしれんな。
なんか李斯(仮)が、ぐぬぬみたいな表情をしているが、わかるよ。あなたは改革派だろうからね。秦が中華を統一した時、政治的に一番活躍したのはあなただと思うし。
あとは韓非(仮)から提出された書類をテキストにして進めていこう。賛否あるような内容だから盛り上がるだろう。
俺の意見じゃないよ、韓非(仮)の意見だよ、と言い訳もできるし。
やれやれ。さっさと終わらせて帰ろう。
お久しぶりです。
そういえば前話で蚩尤の因縁とか書いたなーというのを思い出して、それを消化しようと書き始めました。
お時間のある方はもうしばらくお付き合いください。