「よく戻ったな、奏。おまえを
兄上に帰国の挨拶をしに行ったら、いきなりそんなことを言われた。
「おまえ、農業についても興味を持っていたらしいな。あそこは
「それは、ありがとうございます。謹んでお受け致します」
もしかしてそのために呼び戻したのか? いや、まあいいけども。
こうして俺は沂南県へ行くことになった。
北では小麦の生産が盛んだが、南では米作りが盛んだ。この時代、適当に種もみを撒くのが常識で、塩水選や育苗、正条植えなど、そんなごく普通のことをやるだけで、収穫量は格段に増えた。
昔、ばあちゃんに教わった知識だが、結構覚えてるもんだな。
村人たちの反発はさほどなかった。やはり「春申君の弟」というのが、効いているのだろう。
最初はしぶしぶ従っているという感じだったが、成果が表れてからは従順になった。
兄上に頼んで、
ひよこの管理も手慣れたもので、今では養鶏分野の主任を任せている。
あの無駄を嫌う性格の兄上が、ひよこ鑑定士を認めるとは意外だった。孟嘗君の鶏鳴狗盗という例もあるし、とりあえず採用したのかもしれない。実際、ここで役立ってるしな。
孟嘗君と違って、凶状持ちやお尋ね者は
気性の荒いオスは闘鶏用としても売れる。鶏バトルはまだわからんでもないが、
まあ人間、金がかかればなんにでも熱くなれるのかもしれん。
そんな感じで村々を運営していると、水車の前で頭を打ち付けている老人に出会った。
「気狂いですかね?」
いきなり辛辣だな。成長期にぐんぐんと成長した広は、李玄を見下ろせるほどでかくなった。俺も平均よりは大きいんだが、こいつと並ぶとチビに見えてしまう。まあ別にいいけどさ。
こちらに気づいた老人が、俊敏なしぐさでこちらに駆けてきた。広が一歩前に出て、剣の柄に手をかける。
「県令の黄奏殿でございますかな?」
三メートルほど先で止まった老人は、拱手しながら問いかけてきた。
「いかにも、黄奏であるが、そこもとはどなたかな?」
「
「ほう、蘭陵県の。従者が見えぬようですが……」
「奏様ーーーっ!!」
背後から俺を呼ぶ声が聞こえてきた。修だ。
「蘭陵県の県令様がお見えです! 館にお戻りください!」
いま目の前にいるよ。
「従者を置いて飛び出してきたのか。無茶なご老公だ。間者と間違われて斬られても、おかしくなかったのですよ」
隣の広が呆れたようにこぼした。
「ほほっ、もう死を恐れるような歳ではないのでな」
それでも間者と間違われて斬られるのは名誉に傷がつくと思うが、まあいいか。
「まずは、館へ移りましょう。修、背中を貸してやれ」
「はい。どうぞ県令様」
「ほほっ、まあ厚意は受け取っておこうかの」
荀況は素直に背負われた。
来訪の理由を聞くと、村作りを直接見に来たのだとか。
村のやることは、全て書類にしたためて兄上に送っている。収穫状況なんかもすべてだ。脱税とかやってませんよ、という証明のためでもある。
「農業改革、区画整理、用水の整備、直接足を向けた甲斐は大いにありましたな」
「それはよろしゅうございました」
実は、館にはそのまま向かわず、そのまま村を一周したのだ。あれはなんだとか、どういう意図があるのか、とか色々聞かれて、結局二時間くらいかかったんじゃないかな。
ずっと背負いっぱなしだった修はさぞかし疲れただろう。こんなことになるなら、馬に乗ってくればよかったな。
俺の成果は、兄上を通してほかの県へ伝わっている。それで収穫量を増やし、富国強兵に繋げているのだろう。実績があるから、県令たちも従いやすい。
荀況は報告書だけを鵜吞みにせず、自分の目で確かめに来たのだ。歳の割に身軽な爺さんだな。元々は斉で暮らしていたらしいが、兄上に誘われて楚にやってきたのだと言った。
昔から、多少の付き合いはあったらしい。たぶん、斉に遊学していた頃に出会ったのだろう。
村作りや統治についてなど、一通り話し合った後、荀況は話題を変えた。
「
「ええ。秦の謀略に、まんまと引っかかったようですね」
「……やはり、そう見ますか」
この謀略を仕掛けたのは、
「最近は酒浸りのようです。諫められても怒り出す始末で……彼が倒れると、また秦が勢いづきますな」
「立ち直ってほしいところですが……」
まあ無理だろうな。老人がキレやすいのは前頭葉が収縮しているせいだと聞いたことがある。それによって判断力や感情の抑制力が低下していくのだとか。
まあ原因がわかったところで対処法がわからないから意味はないが。個人差もある。荀況はかなりの高齢だが、理性的なようだし。
アル中はめんどくせぇからなぁ。なかなか難しいものだ。
荀況の知名度ってどのくらいなのかな。荀子は知ってるけど、荀況は知らないって人は結構いそうだけど。
一応言っておくと、荀子の本名が荀況です。思想家のイメージが強いですが、統治者としても優秀だったようですね。