庭先で幽連と広が睨み合っていた。幽連は右手に剣を握り、脱力したようにだらんと両腕を下げている。対する広は、前傾姿勢で剣を構えていた。
小枝から小鳥が飛び立ったのが、合図だった。広が剣を突き出すようにして前に出た。そして幽連とすれ違ったと思った瞬間、地面に倒れた。
んんん、見えねぇ!
なんとなく、すれ違いざまに幽連の腕が動いたように見えたが、対峙していたら反応すらできなかっただろうな。
「動きが直線的すぎる」
「……ぐぅ、誘いはひとつ、入れたんだがな」
「私にそんなものが通用するか」
広のフェイントも見えなかったな。だいぶ腕を上げたようだ。それでも、幽連の前では子ども扱いか。
「ふたりとも、少し休憩しよう」
「ああ」
「そ、奏様! これは、情けないところを……」
俺が来たことも気づいてなかったのか。よほど集中していたみたいだな。果実と椀を幽連に渡す。
「
どちらも幽連の好物だ。以前は
砂糖(正確にいうと少し違うが)は高く売れるが、大規模なさとうきび畑を作るわけにもいかない。優先すべきは穀物だからな。
けど、売れるんだよなぁ。水飴も人気だし、やっぱり甘味はよく売れる。だが虫歯が怖い。歯ブラシも作って予防はしているが、怖いものは怖い。食べ過ぎないよう、気をつけてはいるんだがな。
他国の将軍などに流して、糖尿病や虫歯にさせるという手も思いついたが、さすがに迂遠すぎたのでやめた。
まあそんなことをしなくても、商人たちは適当に他国へ売ってくれているようだが。
江南の統治は、特に問題もなく上手くいっている。兄上が下地を作ってくれていたようで、役人たちは驚くほど従順だったのだ。
◇
江南に移住して二年が経った頃、兄上から呼び出しがかかった。
「再び、秦に対して合従軍を結成することになった」
「なるほど」
以前に、再び合従を組むことがあったら知らせてくれと頼んでおいたのだ。
ことの発端は、秦が魏を攻撃して、山陽という土地を奪い取ったことから始まる。この時代、領土を獲得しても、奪還されることが常であり、開発にはあまり力を入れなかった。
しかし秦は、この地を東群として平定することを宣言した。これは、山陽は絶対に手放さないという意思表示であると同時に、秦が領土拡大に力を入れるという決意表明でもあったのだ。
これに敏感に反応したのが、趙だった。
「李牧は、六国で合従を組むつもりのようだ」
音頭をとっているのは李牧か。
だが六国? たしか函谷関の戦いは、楚・趙・魏・韓・燕の五国合従軍だったはず。斉は含まれていない。ということは、最初から参加しなかったか、それとも途中で離脱したか。
実は、函谷関の戦いは史料がほとんど残っておらず、秦の指揮官すら判明していない。
こちら側の盟主も、春申君である説が濃厚だが、絵図を描いたのは趙であるとも考えられている。
別動隊が
だが、合従軍が五国だったことは間違いない。
「斉は、裏切るかもしれません」
「……なぜ、そう思う?」
「遠交近攻策を覚えておいでですか?」
「それがまだ、残っているというのか」
そのパイプが、まだ残っているとしても不思議はない。
「さすがに刃を向けることはないでしょう。自国の王が病に倒れて戦争どころではなくなった、などと理由をつけて、軍を引き上げるくらいですかね。秦にとっては、一国が離脱するだけでも、勝ちの目は多少上がりますから」
「となれば、斉との国境は固めておく必要があるな」
「ならば、廉頗将軍に任せてはいかがですか?」
「……廉頗か」
反応は芳しくない。どうも兄上は乗り気ではないようだ。
「廉頗将軍では不足ですか?」
「廉頗は楚に来てから日が浅い。楚兵を使いこなせるかわからん。
名声は中華に轟いているのだが、感情は別ということか。
「山陽で秦軍に不覚を取ったことも、廉頗の評価を下げている」
「あの戦では、廉頗将軍は指揮官ではなかったのでしょう」
「……よく知っているな」
兄上は渋面を作った。あれは、魏王の中途半端な判断が敗因だったと思う。他国の廉頗に全権を預けるのは不安だったのだろう。なにせ、廉頗は亡命する直前まで趙の将軍として魏に侵攻していたのだ。
だから総大将を魏の将軍にして、廉頗を副将としたんじゃないかな。
「大王様が廉頗将軍を信任する。兄上の抱えている食客の中から腕利きを預ける。そのくらいの演出が必要でしょう。そうすれば、楚兵も廉頗将軍に従うでしょうし、士気も上がるはずです」
「……ずいぶんと、廉頗を買っているのだな」
「此度の決戦、秦の興亡だけではなく、楚の興亡もかかっております。出し惜しみをしている時ではありますまい。使えるものは、使わねば。私も微力を尽くす所存です」
この時のために、危険な橋も渡った。実際に動いたのは、広や修たちだが、よくやってくれたよホントに。
「……江南の戸籍調査はどの程度進んでいるのだ?」
「ほどなく終了します。練兵を終えた者が十万。動員するだけなら、あと二十万は。あまり徴兵はしたくないのですがね」
「相変わらずだな、おまえは。しかし出し惜しみをするなと言ったのはおまえだ。兵はまだ伏せたままでいい。だが号令をかければすぐ動けるようにはしておけ。いざとなれば、斉との戦で使う」
「かしこまりました」
兄上は小さくため息を落とし、肩をコキリと鳴らした。
「しかし、今まで軍務に口を挟まなかったおまえが、今回はどういう風の吹き回しだ?」
「最近の秦の侵攻は、凄まじいものがあります。おそらく秦王は、中華の統一を目指しているのでしょう」
「……李牧も、そのようなことを言っていたな。まあ、だからこそやつは動いたのだろうが」
長平の恨み、首都邯鄲を包囲された危機感、その後も度々侵攻を許している。割と趙は窮地なのだ。そこで知った秦王の中華統一という目論見は、合従を組む格好の材料にできる、と李牧は考えたのだ。今ごろは各国を回って、他人事ではない、と説得しているのだろうな。
「おまえも色々と動いているようだが、表に出るなら、それなりの職は用意してやれるぞ」
「それはまあ、おいおい。今はまだ大丈夫です」
函谷関の戦いは、中華の趨勢を決める大きな転換点である。楚の興亡も、この一戦で決まるといっても過言ではない。さすがに静観はできないだろう。
◇
年が明けてしばらく経ち、合従軍の秦攻めが現実味を帯びてきた。
今は首都
「世が、大きく動きそうか?」
馬車の中で、幽連が小さくつぶやいた。
「世の動きに、興味があるか?」
「多少はな」
この数年で、幽連も変わった。最初の頃に比べて、雰囲気はかなり
それでも幽連は、やはり特別だった。観と見に優れ、洞察力がある。経験を積めば、将軍にだってなれるかもしれない。だが、本人にその気はないようだ。
「私の"仕事"は、見つかったか?」
「幸か不幸か、まだ見つからないな」
幽連に"仕事"を頼んだのは、一回だけだ。それも、かなり悩んだ。なにしろ今の"彼"は、なにも悪いことはしていないのだからな。とはいえ、力を付けてからだと、対処するのが難しくなってしまう。
史実では春申君を殺し、一族郎党を皆殺しにした男だ。
さすがにそれを看過することはできない。悩んだ末に、処理することにした。
だがやはり、気分は良くない。もう余程のことがない限りは、幽連に"仕事"を頼むことはないだろう。
「金が必要なのか?」
「いや、そういうわけではない。あれだけの金を送っておけば、里のババア共もおとなしいものさ」
里、まあ蚩尤の本部みたいなものだろう。仕送りというか、献上金みたいなものかな。里について、詳しくは語ってくれないので、俺の想像でしかないが。
とそこで、急に馬車が止まった。
「何者だ!」
御者の、
剣を提げていることで、御者も警戒しているようだ。しかし、あの民族衣装は……。
「幽連、おまえの友人か?」
俺に促されて小窓を覗いた幽連は、小さく笑った。
「ああ。昔の、友人だよ」
幽連は馬車の扉を開け、ふわりと飛び降りた。悠然とした仕草で、少女へと近づいていく。
「
「ようやく見つけたぞ。幽族の連!」
「おまえは先に帰っていろ。私はこいつと、話がある。場所を変えるぞ、羌瘣」
羌瘣と呼ばれた少女は小さく頷き、道のわきに逸れていった。なにか、嫌な予感がした。ここで別れたら、二度と会えないような、そんな予感が。
「幽連!」
気づけば、叫んでいた。
「……なんだ?」
「……晩飯までには、帰って来いよ」
幽連は、軽く手を挙げただけだった。ふたりは道を外れ、林の中へと消えていった。
いやぁ、ついに出会ってしまいましたね。