「…………」
何も見えない、何も聞こえない。
どこまでも暗く、冷たい穴の底。
「……ここ、は……どこ……?」
思考にもやがかかる。
「そう、だ……ワタシは……」
必死に記憶の引き出しを探る。
忘れてはいけない、思い出さなければならない、大切な記憶の数々。
「……ダ、メ……思い、出せない……」
何よりも大切な人と築いた、忘れ難い思い出。
何もかもが、記憶から消えてしまう。
感じていた全てを、忘れ去ってしまう。
「……一人は、嫌……」
為す術なく、瞬光は深い暗闇へと落ちていく。
その時だった。
自身の身体が、暖かい体温に包まれる。
誰かに抱えられているような、そんな感覚。
瞬光はその体温に、感覚に、覚えがあった。
「……一人だと、怖くても……二人、なら……」
大切な
それがふと、脳裏をよぎる。
つい身を預けたくなるような……そんな温かさが、『触覚』を通し伝わっていく。
「……タクミ」
名前が、口から零れる。
瞬光は無意識に、
───────────────────────
「……!!」
ずっと真っ暗だった景色が、途端に明るくなる。
瞬光を抱えていたタクミは、とある空間に放り出された。
「……ここは──ってあれ?」
先程は暗くてよく分からなかったが……タクミは自身の身体がいつの間にか元に戻っている事に気がついた。
ここが瞬光の意識の中だということは何となくわかっている。
もしやそれが原因だろうか。
「………」
考えながら、タクミは辺りを見渡す。
その空間は、つい最近も夢で見た場所。
どこまでも続く廊下。無機質に光る蛍光灯。
わずかに、金木犀のケーキの香りが漂ってくる。
「俺がいた病院……だよな? なんで俺、こんなとこに……」
そしてふと、目に入る。
『…………』
「! あの子……」
病室の、僅かに開いている扉の前。
その扉の中を、こっそり覗き込んでいる少女がいた。
その少女は見間違いでなければ、幼い頃の瞬光だった。
幼い瞬光は、誰にもバレないようにこっそりと扉の中へ入る。
『ねえアナタ、何を観てるの?』
『あ……ご、ごめんね。なんか、凄く良い匂いがして……こっそり入ってきちゃったの』
その後病室の中から、話し声が聞こえ始めた。
「……」
こっそりタクミも病室を覗き込む。
幼いタクミと瞬光が共に病室のテレビで映画の『怪獣と少女』を観るその光景。
(……夢で見たものと同じだ。これは瞬姐さんの記憶か……?)
「……いい、匂い」
「!!」
気のせいか、今瞬光が何かを呟いた気がする。
まさか、『嗅覚』を取り戻したのだろうか。
瞬光に呼びかけようとしたその瞬間、再び空間に変化が起こった。
「…………っ」
そうして次にやって来たのは、適当観のタクミの部屋。
そこでは、記憶の中の瞬光とタクミが一緒に先程と同じ映画を観ている光景が見える。
液晶から、女の子の声が聞こえる。
『いのちをかけてたすけてくれたあなたが、おそろしいかいぶつだなんてとうていおもえないわ』
「…………」
「……この子のセリフ、覚えてるわ。アナタと観たのは……これで二度目だったのね」
「!! 瞬姐さん!」
先ほどまで一言も喋らなかった瞬光が、口を開いた。
目はまだ開いていないようだが、その『聴覚』は確かに機能している。
「瞬姐さん、俺の声が聞こえるか?」
「うん……聞こえる。外から聞こえる雨の音も、全部」
心底安心したような声で、瞬光は手を伸ばす。
おぼつかない動きで、優しくタクミの頬に触れた。
「……アナタの声も、体温も、温かい。アナタとなら、きっと……」
瞬光は抱えてられていたタクミの腕から降りるが……服の裾はまだ掴んだままにしている。
その時、再び空間が切り替わる。
次に来たのは、適当観の厨房。
外では激しい雨が降っている。
「……この、匂い。金木犀の……」
瞬光は目に見えなくても、目の前にあるのが金木犀のケーキの材料だと言う事は分かった。
「……今なら、レシピがなくても作れるかも。タクミ……
「……ああ、もちろんだ」
そして瞬光は、ケーキづくりに取り掛かった。
今まで何度か忘れていた細かい分量も、迷うことなく澄輝坪で考えたレシピ通りに進めていく。
「砂糖の分量は……うん、このくらいだったはず。後はかき混ぜて……」
「……」
タクミはまだ視覚がままならない瞬光の手助けをしながら、見守る。
彼女は真剣な顔つきで、味見をしながら、慎重に生地を作り上げていった。
そうして生地を焼き上げ、最後の仕上げに。
金木犀や白玉粉、金柑の皮。
「……うん、完成! タクミ、あーん!」
「ちょっと待て行動に移すまでが早──むごお」
何度目かも分からない口内へのダイレクトアタック。
タクミはゆっくり咀嚼し、ケーキを味わう。
「……美味しい?」
「……前より美味くなってる。やっぱすごいな……瞬姐さん」
「本当!? 良かった……!」
どうやらケーキをつくる過程で、無事に『味覚』も取り戻したようだ。
「……今なら、はっきり思い出せるわ。タクミと一緒に露店に行って、そこで新しい金木犀のケーキのレシピを考えて……」
そしてそれを、タクミと共に味わった事。
もやが晴れたかのように、鮮明に思い出す事が出来た。
「……あれ? さっきまで聞こえてた雨の音が、聞こえない……」
「ああ。雨は止んだ……外は晴れてる」
「…………」
「瞬姐さん。俺が今から行きたいとこ、一緒に行ってくれるか?」
「……うん。多分ワタシも、同じところに行きたいって思ってる」
タクミは瞬光の手を握り、厨房の外へ出る。
外へ出た瞬間に感じた、暖かい日差し。
どこからともなく聞こえる町の人達の声。
正門を開け、水たまりに気を付けながら、タクミ達は澄輝坪の広場へと出た。
そして広場の空に浮かんでいたのは、鮮やかな虹の架け橋。
「……あ……!」
「……見えるか? あの虹」
瞬光の、ぼやけていた視界が一気に晴れる。
『視覚』を取り戻したその目は、あの日に見た七色の景色を、確かに覚えていた。
そして。
「……タクミ……!」
ずっとこの目で見たかった大切な人の顔を。
助けに来てくれたその姿を。
瞬光は今、視界に映す事が出来た。
「……俺の顔は、見えてるみたいだな」
「……うんっ! ……アナタに、ずっと会いたかった……!」
瞬光は涙を流し、タクミの元にゆっくりと歩み寄る。
「……どうやら、『五感』と『記憶』は全て取り戻せたようね。よくやったわ」
「! アナタは……!」
「もう一人の瞬姐さん……」
いつの間にか白い瞬光が、タクミ達の前に姿を現していた。
「また会えて嬉しいわ。まさか、今度はアナタの方から来てくれるなんてね」
「瞬姐さんが二人……どうやって分裂したんだ……?」
「分裂……ね。それは恐らく、ここがアタシたちの意識の中だからかもね。この空間でなら、アタシはこの子と一緒に共存できる。けど……その時間ももう残されていないわ」
彼女は話を続ける。
「前まではアタシ、自分以外の為に命を懸けるなんてまっぴらごめんだって……そう思ってた。けど気づいたの。それは『アタシたち』の、本当の気持ちじゃないって」
自分の命より大切なものがあるのかと、守るべき理由はあるのかと……彼女は幾度となく自問してきた。
「けど、アナタと出会ったおかげで……今日、それが分かった。命を懸けるのは、アナタと一緒に歩む日常を、守るためなんだって」
愛情は『呪い』でもあり、決して打ち破られることのない『強さ』でもあるのだと……それを理解した。
「こうして『アタシたち』の思いが一つになった今、アタシの存在も……この子の一部に還る」
「……お別れ、って事か?」
「大丈夫よ、アタシは消えてなくなるわけじゃない。……心残りがないと言えば、嘘になるけど」
白い瞬光は、もう一人の自分の方を見る。
「……アナタは」
「『ワタシ』の願いは、『アタシ』の願い。これからも……ずっとそう。だから、今まで『アタシたち』がしてきた事を、誇りなさい」
「……うん!」
「……さて、そろそろお別れね。アナタ達がここに来てくれて良かった。お別れも言えないままなんて、嫌だもの」
白い瞬光は風に溶けるように、その姿を徐々に消していく。
その安らかな目には……安心と、僅かな未練が見える。
「たっくん……約束よ。これからアナタは色んな人と出会って、色んな景色を見る。けどいつどんな時でも……アタシがいた事を、忘れないで」
「……ああ。約束する」
タクミの返事に、白い瞬光はにこりと優しく微笑む。
やがてその姿は、完全に見えなくなった。
「…………」
そして次の瞬間。
「……っ!?」
いきなり空間が切り替わり、二人は暗い海の底へと放り出された。
しかし先ほどと違い、上に見える水面からは光が差し込んでいる。
「……っ、瞬姐さん! ここを出るぞ!」
「タクミ……!」
タクミは海の中で、なんとか瞬光を抱える。
瞬光も彼の腕に身を預け、必死にしがみつく。
「上がるぞっ!」
「うんっ……!」
タクミはオルフェノクの強化された身体能力で、高速で海の水面に向かって泳いでいく。
片時も放さず、一直線に向かう。
苦しく、冷たい。しかし。
(大丈夫……タクミと、一緒なら……!)
瞬光はタクミを信じ、ともに『外』へと向かう。
『お前は、見捨てられたのだ。悠久の闇に身を預け、運命を受け入れろ』
──違う。ワタシには、ワタシを待っている人がいる……!!
『お前には何も残らない。記憶も、五感も、お前の味方さえも……』
──アナタの言う事なんか信じない……! ワタシには皆がいる、リンがいる!
───タクミが、いるんだから……!!
声を振り切り、辿り着いたその光。
薄暗い部屋。無機質な天井。
一番に視界に入ったのは、大切な弟弟子の顔だった。