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今日はシャーレ当番の日。私は鼻歌交じりで廊下を歩く。シャーレ当番はその周期が長く、各学校の人数を調整していると言っても1か月ごとになっている。だから私は1か月ぶりに先生と一緒に仕事ができる。先生と会うのはとても楽しみだ。
「こんにちは!今日の当番のノノミで……す……?」
すぐには先生が見つからず、やっと見つけたその場所はソファの上だった。上といっても座っているのではなく、棒のようになって突っ伏しているという奇妙な状況だけど。近づいてみれば、寝息のようなものが聞こえる。
「先生?そんな風に寝ていると風邪をひいてしまいますよ?」
……反応はない。やはり本格的に寝ているらしい。机の方を覗くと、飲みかけのコーヒーと書類の山、いや、よく見れば書類たちはすべて終わっている。カレンダーから察するに、昼までの資料だったのだろう。すべてをやりきって、緊張の糸が切れて眠ってしまったというところだろうか。
「……お疲れ様です、先生。」
頼りがいのある先生だけど、やっぱり生徒にはその裏の苦労を見せたくないものなのだろうか。せめてものねぎらいの言葉をつぶやく。
突っ伏しているからか、ソファに寝息がさえぎられて苦しそうだ。先生の体制を仰向けに変えておく。すると、かわいらしい寝顔がよく見える。
「あ、また産毛が生えてきていますね。この前みたいに、先生が起きたら剃らせてもらいましょうか。」
私は座り込んで、先生の横顔をいとおしく思いながら眺める。普段は苦労を隠し通そうとする人だ。それを目の当たりにするのは少し珍しい。
「そうしたら、ついでに耳も掘らせて……。」
ふと耳の穴を覗くと、なんということだろうか。耳がきれいで耳かきの必要がないほどだった。そういえば聞いたことがある。エンジェル24にて、以前はまったく減らなかった耳かきを、最近購入する生徒さんがぽつりぽつりと出てきていると。まさか先生にしているのか?それは私の専売特許だったはずなのに!私が最初なのに!私の数少ない、積極的なアプローチだったのに!
「よーし!」
私は立ち上がる。
「今日は当番として、先生を癒します!!」
――――――――――――――――――
『ん……あれ、私、寝ちゃって……?』
私は目を覚ます。ああ、そうか。5徹の末作り上げた資料を漸く提出して、そのまま寝てしまったのか。
「あ、先生、目覚めたんですね。おはようございます。」
『あれ、ノノミ?そうか、今日はノノミが当番だったね。っていうかあれ、今何時?!』
「ちょうど5時を回ったくらいですね。」
『たしか、ノノミは2時ぐらいに来てもらう予定だったよね。3時間も待たせてしまって、面目ない……。』
「いえいえ、先生の寝顔が見られたので、私にとってはむしろうれしかったです。」
『うーんでも、埋め合わせぐらいはさせて欲しいな。』
「では、残りの時間を私にくださいませんか?」
『わかった。ノノミに私の時間をあげるよ』
「ふふっ。ありがとうございます」
そうやって、ノノミがほほ笑む。包容力がありつつも、どこかあどけなさをはらんだ声は、とても私の胸に響いた。
「それでは、最初に、産毛の処理からやっていきましょう。さあ、私の膝に頭をのせてください」
ノノミが細身の剃刀とその他化粧品を持ち、ソファに座っていた。ただし、シャーレではなく、私の住む家だった。シャーレから家までが近いので、そっちの方がたくさん先生を癒せる、とノノミは言っていたが、ばれたらかなりまずいことになりそうな……。
「どうしたんですか?先生。言うことを聞いてくれないと、癒せませんよ?」
……ヨシ。もうどうにでもなれ!私は疲れているんだ!目の前にパラダイスな空間があるんだ!ここに飛び込まずして、何が漢か!
「あっ。もう、先生、そんなに勢いよく頭をのせなくてもいいのに。でも、いい子ですね。えらいえらい。」
包容力を最大限に発揮した声。うん。もう逆らえない。
「それでは、始めていきたいのですが、剃刀でやる前にクリームをぬりましょう。」
そういって、ノノミがクリームを出し、私の顔に少しずつ、こすらないでたたくようにしてぬり広げていく。絶妙で柔らかいタッチに、すでに眠気を引き立てられている。そうやって何も考えないでいると、何かを忘れているような感覚が急に浮かび上がってくる。なんだろう?
「それでは、剃刀で剃って行きますよ~」
刃物であるのにくすぐったさの先にある心地よさを感じてしまう。心地良い音も、私の体のリラックスを助ける。ノノミを見ると、いや、いろいろ覆われていて半分以上見えないけども。すごく、愛おしいものを見るような目に、どうしようもなく満たされた気持ちになるのを感じた。
「はい、どうでしょうか、先生」
ノノミによる産毛剃りは終わりを迎えた。名残惜しさもあるが、繰り返しするのは肌によくないと聞いたので、致し方なし。起き上がろうとすると、
「そういえば。先ほど使ったクリーム、あれ、とても自然ないい香りがして、私のお気に入りのやつなんです。」
「先生も、同じ匂いになっちゃいましたね」
耳元でしっとりと、ささやかれる。…これは、ずるい。
「あ、そろそろいい時間ですね。晩御飯にしましょうか。」
『あ、ご飯は私が……』
「ダメです。先生は大人しく待っていてください。今日は私に主導権があるので、大人しくしてください」
『……わかった。じゃあありがたくお願いしようかな』
「はい!おまかせください!」
ノノミがキッチンに入る。
「あ、先生。冷蔵庫などの中身、勝手に使ってしまってもよろしいでしょうか?」
『うん。全然OKだよ』
「ありがとうございますっ」
ノノミの声は一つ一つが弾んだ様子であった。そんなに楽しいことがあったのだろうか。うーーん。楽しいこと……うれしいこと……あれ、今日って確か9月1日……。
あ。
ノノミ、誕生日じゃん。
そういえばなんか数日前当番に来たホシノに「うまくやりなよ」的なこと言われていた気がする!そして私は!何も!誕生日プレゼントを買っていない!そしてこの時間に空いている店なんてコンビニかファストフードぐらい!これは!詰んだ!
『あっ、ノノミ……』
「あ、先生、もうすぐできますよ~」
とりあえずお誕生日おめでとうと告げようとしたが、おいしそうな炒める音がそれを遮る。
『「いただきます」』
食卓に並んだのは意外にも庶民的な生姜焼き。一口食べてみる。
『!これ、すっごくおいしいね!どうやって作ったの?』
「そんな大げさですよ。料理アプリの検索でヒットした、一番上のレシピ通りに作っただけです。なにも特別なことはしていませんよ。」
『なるほど。隠し味は愛ということか』
「……先生、いきなりそういうこと言うのはずるいです」
カチャ、カチャ。あまり多く会話を交わすわけではないが、会話が途切れるわけではない。空白だけど、決して空虚じゃない時間が流れていく。……いや、誕生日おめでとうって、言いづらい!そもそもプレゼントを買っていないから、言うだけでもハードルを感じてしまう。ノノミは何も言わずにただ私に尽くしてくれている。そもそもノノミには、お詫びに時間を挙げたはずなのに、私がこんなにもらってばかりでいいのだろうか。いや、よくない。しかし今は返すこともできない。どうしようか。そうやって悩んでいるとノノミが口を開く。
「それにしても、夏ももう、終わってしまいますね」
『そうだね。このまま秋が来て、あっという間に冬だよ』
「冬はいろいろと着こめるので私は好きですが、そうですね。このまま、すぐに時間が過ぎて言っちゃいますよね。先生はなにか、やり残したことはありますか?」
『私はほとんど外出できなかったからね。夏らしさを感じられる期間ではなかったかな』
「そう、なんですね」
『私はそんな感じだったけど、ノノミはどうだった?』
「なん言えばいいか、確かに多くのやりたいことができましたが、同時にやり残したことも多く在って、不完全燃焼感があるんです。来年にやればいいと言っても、そのころにはホシノ先輩が卒業してしまうので、同じメンバーでするのは難しいかと。なんだか、大人になることに抵抗を覚え始めている自分がいて……」
なるほど、ノノミは以前、ウィッシュリストを作っていた。そうやってささやかな夢を見つけられる、素敵なところを持つが故の悩みなのだろうか。
『私は思うんだけどね』
『アビドス高校のみんなは今からでもやってくれそうな気もする。』
「?でも夏はもう終わってしまいましたよ?海だって、そろそろ入れなくなりますし。」
『それはほら、行動力で』
「行動力……。ふふっ」
ノノミが、鈴を転がしたように、いや、羽のように柔らかに笑う。
『それに大人になんて、なってもならなくても、アビドスのみんなは自然に集まるさ。今のみんなを見ていると、そう感じる。だから、気負った考えをしなくても、いいと思うな。ノノミが将来どんな職についても、変わらないことだってあるし、大人になってからできることだって増える。それを楽しめばいいと思うな。最悪、勢いで突っ切ればいい』
「先生、最後に雑になってませんか?」
『ナンノコトカナ』
「でも、そうですね。」
しばらく、ノノミが考え込む。
「先生、ありがとうございます。おかげさまで楽になりました」
『どういたしまして。こんな私の言葉なんかでよければね』
「さあ、冷めないうちに食べちゃいましょうか」
……一層、誕生日おめでとうに持って行きづらくなった。
『それで、ノノミさんや』
「なんですか?先生」
『どうしてベッドにいるのでしょう』
ご飯を食べ、お風呂に入り、耳かきやらなんやらやっているうちに流れるままに就寝フェーズまで行ったが、ノノミは帰らなかった。
「それはあれです。終電なくなっちゃったね、というやつです」
『まだ11時だよ。普通に電車あるよ』
「まさか先生は、か弱い乙女に夜道を歩かせるおつもりですか?」
『……じゃあ私はソファで寝るから、必要なものがあったら……。』
「先生?どこに行くんです?寝具ならここにあるじゃないですか。ほら。」
そういって、ノノミが毛布を持ち上げ、空間を指し示す。豊かな体はベッドをいくらか占領しており、一緒に毛布に入ると密着は避けられないだろう。だがしかし、教員たるものそんなことはしてはいけない。アウトだ。……まあ家に連れ込んでいる時点でアウトだが。ともかく、一緒に寝るのはだめだ。私は全速力で、使っていない来客用の布団をベッドの隣に敷き、眠る支度をした。ノノミが少し頬をふくらませて起こっているのが見えたが致し方ない。
『じゃあ、おやすみ、ノノミ』
「おやすみなさい。先生。今日は、どうでしたか?」
『すごく癒された。ノノミがいてくれてよかったことばっかりだよ。』
「それは良かったです。あと、厚かましいかもしれませんが、もう一つ、何か言うことがありませんか?」
『え?言うこと?なんだろ。ノノミに毎日癒してほしいくらいだった、とか?』
「……先生、そういうところ、少し嫌いです」
『え?なんで???』
ノノミはそっぽを向いてしまう。
「おやすみなさい。先生」
『……ああ。おやすみ。ノノミ』
夕方からノノミに癒やしてもらっていたのでスムーズに眠りに落ちることができた。ああ、そういえば、ノノミにお誕生日おめでとうって言うの、忘れてたな……。
意識は完全に沈んだ。
だんだんとふける夜、だんだんと終わる夏。でもまだ続く夏の蒸し暑さ。それらをよそに、ノノミの頬は赤いままだった。
「誕生日プレゼントは、もうたくさんもらったんですよ、先生」
ぼそっと、ノノミは呟いた。