緊張という名の霧が、リンの心をじわじわと侵食していた。
「……やだなぁ……
誰に言うでもなく呟いたその声は、
あれからというもの、リンは何をしていてもそわそわとして落ち着かず、眠れば悪夢にうなされる日々を過ごしていた。重苦しい夢の中で絡みつく木の根。息苦しさと共に迫る魂への侵食。それを拒む術もなく、ただ縛られる――そんな夢を、彼女は繰り返し見ていた。
(嫌な予感がする……でも行かなきゃいけない)
そんな日常を破るように、
「リン! 修行だーっ!!」
元気よく現れたのは、魔王ミリム・ナーヴァだった。
勢いよく飛び込んでくるそのエネルギーに、リンは一瞬だけ表情を緩める。けれどすぐに曇った顔に戻り、視線を伏せた。
「……こんにちは、ミリム。今日も来てくれたんだね」
「当たり前なのだ! 前回の分も修行するぞーっ!!」
そう言ってリンの手を掴もうとしたミリムは、しかしすぐにその手を止め、リンの顔をまじまじと見つめた。
「……どうしたのだ? 顔色が悪いぞ?」
「ううん、大丈夫。ただ……
「そっかー……」
ミリムは頷きつつも、すぐににっこりと笑顔になって言った。
「でも大丈夫なのだ! ワタシがついてるから、リンは心配いらないのだ!」
「ありがとう、ミリム……」
「ってことで修行するぞー!!
気合い全開のミリムに押されるように、リンは重い心を引きずりながらも修行に身を投じることにした。
ミリムのスパルタ修行は相変わらず容赦がない。全力でぶつかってくる拳、跳躍する衝撃波、乱打の応酬――それに耐えながら、リンは自分の得意分野で対抗するしかなかった。
(肉弾戦は……やっぱり無理)
そう悟ったリンは、すぐに戦法を切り替えた。
視界と感覚を最大限に研ぎ澄ませる。攻撃は風に乗せ、回避は空気の流れに従い、魔素の消耗を計算しながら戦いを継続する――。
「おおっ、いい動きなのだ!」
ミリムの目が輝く。戦いが進むにつれて、リンの集中は研ぎ澄まされていった。
そして――。
《告。ユニークスキル「
唐突に世界の言葉が響いた。
「なっ……!?」
「やったな! リン、スキルだ!」
ミリムがリンの肩をがしっと掴み、喜びを爆発させる。リンは呆然としながらも、ほんの少し笑みをこぼした。
修行を終えた後、二人は
「はい、ミリム。あーん」
「おおっ、あーん……むぐっ。んー! 美味しいのだっ!」
ミリムの口元についた果汁を見て、リンはくすくすと笑った。その笑い声に、ミリムが目を細めて微笑む。
「元気が出てきたようだな!」
「うん、ミリムのおかげだよ」
ミリムは自慢げにふんすと鼻を鳴らした。
「これで
「……話すだけなんだよね?」
「そうなのだ!」
ミリムは元気に頷いた。だが、リンは心の奥で(話すだけで終わる気がしない)と感じていた。
その夜、リンは
《解。ユニークスキル「
まず、「
《この技は風の強さと速度によって、攻撃範囲の調整もある程度可能です》
「いつも使ってるのが便利になった感じだね」
次に「
《物理攻撃や魔法攻撃を分散し、攻撃を減衰させることも可能です》
「いつもミリムに最後砕かれてるやつだね…今度はきちんと防げたらいいなぁ」
「
《天候操作などの大規模な環境への影響は不可能ですが、小規模な気流の変化を使って相手の動きを惑わせる程度は可能です》
「…なんかいつか天候操作できそうなフラグ……いやまあいいや」
最後に「
「…だいたいが魔法でやってたことがスキルになって、簡単に使えるようになりましたって感じなのかな?」
《是。魔素の消費も大幅に軽減されます》
(これなら……
リンはさっそくラミリスに、念話でユニークスキルを獲得したことを報告した。
『――え、スキル獲得!?すごいじゃん!おめでとう!』
ラミリスの喜びが伝わってくる。リンは心の中で安堵しつつ、ラミリスに感謝した。しかしラミリスはふと、ため息混じりに言った。
『まさか……またミリムと修行してたの?』
(うん、そうだよ)
『アタシもその場にいたかったー!』
そのとき、通信用の水晶が鈍く光を放った。
――映し出されたのは、真紅の髪をかき上げるギィ・クリムゾンの姿。
『明日迎えに行く。準備しておけ』
それだけを告げて、彼は通信を切った。
リンは呆然としたまま、水晶を見つめていた。
(え、明日……!? うそでしょ……!?)
リンは、再び緊張の波に飲まれていった。
翌日――
リンは
(準備しておけって言われても……なにをどう……)
昨日の夜もろくに眠れなかったせいで、頭はどこかぼんやりしていた。実を食べて魔素は補充したはずなのに、妙な焦燥感だけが残っている。
風が木々を揺らし、葉の音が心地よく耳に響くが、その音も今の彼女にはほとんど届いていない。
(実を食べたら眠気はわりと平気になるからいいけど……寝るの好きなのになぁ……)
ふと、リンの脳裏に「夢」の内容が蘇った。
自分を呑み込もうとするかのような恐ろしく冷たい感触。
魂ごと囚われて、逃げることなど叶わない。
リンは、あの夢の体内を侵食する感覚に僅かに覚えがあった。
(……あの夢、
辿り着きたくはない答えを振り払うように、リンはぶんぶんと頭を振った。そして思考を素早く切り替える。
「…ギィさん……本当に来るんだよね……」
リンは深く息をつきながら呟いた。その瞬間、空気が静止し、辺りの空間に何かが変わる気配が漂う。リンは息を呑み、目の前に現れる異変をじっと見つめた。
荘厳な扉が、静かに
リンはその突然の異変に目を見開き、胸が早鐘を打つような感覚に陥った。辺りの空気が張り詰め、周囲の静けさが逆に異様な緊張感を高める。扉は、まるで空間そのものを歪めるようにそこに立っていた。
「これって……」
リンは声を震わせながら、無意識に後ずさる。だが、すぐに気づいた。これはギィだ。
恐る恐る扉を見つめていると、その扉が音もなく開かれ、真紅の髪をなびかせたギィ・クリムゾンが、悠然とその向こうから現れた。彼の登場と共に、リンの心は一層引き締まる。
「よう、リン。準備はできているか?」
「え……は、はいっ!」
ギィの真紅の瞳と視線が交差した瞬間、全身がぴしりと固まったような気がした。彼は言葉少なに手を差し出し、リンは恐る恐るその手を取る。
(怖いけど……大丈夫。行こう、私)
その手に触れた瞬間、空間がぐにゃりと歪んだ。
次に目を開けた時、そこは厳寒の大地――遥か北方に位置する、ギィの住まう城だった。
冷たい空気がリンの肌に触れるが、精神生命体であるがゆえ、不思議と寒さは感じない。リンはその広大な景色に目を奪われ、思わず息を呑んだ。
「……わあ……」
氷の城壁が陽光を反射し、まるで宝石のように煌めいている。魔素の粒子が空中を舞い、辺り一帯に神秘的な雰囲気を作り出していた。
「すごい……」
リンはその美しい、そして恐ろしくもある光景に息を呑む。遠くに見える雪山の頂まで続く広大な氷の大地が、どこまでも続いているように思えた。
「入れ」
ギィが促し、リンは驚きと共に城の中に足を踏み入れた。中に入ると、外とは打って変わって温かな空気が漂い、無数の燭台やシャンデリアが、柔らかな光で空間を照らしていた。
「す、すごい……」
リンは再び驚きの声を漏らしながら、あたりを見回す。城内はまるで異世界に迷い込んだかのように壮大で、装飾の一つ一つが緻密に作り込まれている。
ギィは、そんなリンの様子を静かに見つめていた。彼女の緊張と驚きを感じ取りながらも、その目にはどこか楽しんでいるような光があった。
「さ、座れ」
ギィは手を軽く振り、リンを豪奢なソファの前に案内する。リンは少し戸惑いながらも、その言葉に従ってソファに座った。緊張で硬くなった体を少しだけほぐしながら、ギィの動きをじっと見守る。
「どうだ? 外の世界に出て、少しは変わったか?」
ギィは軽く笑みを浮かべ、リンに問いかける。リンはその質問に戸惑いつつも、しばらく考えた後に小さく頷いた。
「うん……外に出るのはすごく楽しかったし、少しだけ、自信がついた気がする」
リンは正直に答えた。ラミリスとの時間やミリムとの修行が、少しずつ彼女の心を強くしてくれている。ギィの厳しい目の前でも、以前ほどの恐怖心は感じなくなっていた。
「ふん、そうか。それならよかった」
ギィはそう言って、再びリンの髪を指で弄び始めた。リンはその動きに驚きながらも、何も言わずにただ静かに座っていた。
「本体の髪も、悪くないな」
「え……髪?」
「連絡しなかったことは置いといて、分身体は見事に作れてる。その分、外に出たことは許してやろう。だが、約束を破ったことには変わりないな」
その言葉に、リンは再び冷や汗をかきそうになる。ギィが何を考えているのかはわからないが、彼の目は全く笑っていなかった。
「と、ところで……」
リンはなんとか話題を変えようと、恐る恐る口を開いた。
「
ギィは少し考え込むようにしてから、口を開いた。
「
「そ、そんなに怖い会議じゃないんだよね……?」
「お前次第だが、オレがいる限り、お前に危害は及ばねぇよ」
ギィに髪を触られながらも、少し緊張がほぐれてきたリンは、そういえば何のためにここに連れてこられたんだろうと思案する。
ギィに尋ねようとしたところで、ギィはリンの髪から手を離して口を開いた。
「そろそろ準備を始めるか」
唐突にギィの低い声が耳に響く。彼の威圧感に押され、リンは一瞬言葉を失った。
「え、準備……?」
リンは困惑しながら尋ねた。ギィが言う「準備」とは一体何のことだろうか。リンは首をかしげるが、ギィの雰囲気に圧され、つい相手のペースに乗ってしまう。
「そうだ。今日、お前はこの城で装いを整えて、オレと共に
「きょ、今日!?!?」
声が裏返る。やっぱり、というか、まさかというか、心の準備なんてものはとっくに吹き飛んでいた。
「言わなかったか?」
「ぜんっぜん!!」
「じゃ、今言った。こっちに来い」
問答無用だった。
リンはギィに導かれるまま、城の中の一室――まるで舞踏会用に用意されたかのような豪奢なドレッシングルームへ通された。
「これを着ろ」
ギィが指を弾くと、空間にふわりと真紅のドレスが現れた。血のような深紅に、薄金の刺繍が縫い込まれた逸品。それはまるで、焔と薔薇が融合したような美しさを持っていた。
「……これ、私が着るの?」
「そうだ。今日は、お前を《特別》として見せつける日だ」
ギィの声に、リンの背筋が凍る。
――特別。
その言葉に含まれる意味を、リンはまだ知らない。
恐る恐るドレスを身にまとい、鏡の前に立つと――
「……だ、誰……?」
リンは息を呑んだ。
そこにいたのは、薄緑の髪を艶やかに揺らし、翡翠の瞳に深い思索を宿した美少女。ドレスの光沢が肌を照らし、凛とした気品を纏っていた。
「……私……なの?」
「悪くないな」
ギィの言葉に、再びドキンと胸が跳ねる。
ギィは、無言でリンの背後に立ち、彼女の髪に手を添えた。滑らかな手つきで髪を梳き、繊細な編み込みを始める。
「……ギィさん、髪も……?」
「他に誰がやる」
無骨な指先が、驚くほど丁寧に彼女の髪を整えていく。まるで、芸術品を仕上げる彫刻家のように。リンは言葉を失いながら、その手の感触を受け入れていた。
「よし、完成だ」
手鏡を差し出され、映った自分を見てリンはまた絶句する。
流れるような編み込み。サイドでふわりとまとめられた髪には、透き通る氷晶のような髪飾りが添えられていた。
「……ほんとに、私?」
「そうだ。オレが保証する。……堂々と胸を張っていけ」
その言葉に、リンの胸が少しだけ温かくなる。
「……うん。ありがとう、ギィさん」
その瞬間――
空間に、深い音が響いた。
ギィはゆっくりと立ち上がり、再び手を差し出す。
「そろそろ行くぞ。
「……はい」
リンは迷いながらもその手を取り、扉の前に並び立つ。空間が揺れ、広がったのは――魔王たちが集う、運命の宴の舞台だった。