リンは天魔大戦に向けて、各地の土地の強化を始めることにした。
「
《解。各地に点在する
リンはその言葉に少し考え込んだ。やはり、ギィに助けを求める必要があるようだった。
(うーん、仕方ないか……)
水晶にギィの姿が映った瞬間、リンの胸に走ったのは、わずかに冷えた感情だった。
忘れようとしても、どうしても忘れられない言葉があった。
「面白そうな駒」
「飽きたら放るかもしれねぇ」
あの時、悔しさと怒りを抱えながらも、言い返せなかった自分がいた。今また、こうして彼に助けを求めようとしている。その事実が、彼女の中に小さな棘のように残っていた。
「ギィさん、土地の強化のことで相談したくて……どうしていいか分からなくて」
震えを抑え込んだ声でそう告げると、ギィは軽く笑ってみせた。彼にとっては、さして深刻でもない話題らしく、あくまで飄々とした調子だった。
『最初だけオレが同行してやる。あとは一人で回れ』
その一言に、リンの心が僅かに波立つ。どうしてそんなに当然のように、自分が「やれる」と思っているのか。彼女が今、どれほどの不安と葛藤を抱えながら歩いているのか――彼には分かっているのか、それとも。
「……分かった。お願いします」
呟くような返事と共に、リンは心の内に決意を込めていた。
駒なんかじゃないと、ちゃんと見せてやる。必ず。
ギィとともに訪れたのは、古い森だった。
霊気と魔素の入り混じった空気が静かに漂い、木々のざわめきがまるで生きているかのように感じられる。
その森の奥――ひときわ大きく聳える一本の樹が、彼女の視界に映り込んだ。
「この木が……」
思わず息を呑む。
見慣れた
「そうだ。お前が住んでいるあの
ギィの皮肉を含んだ忠告に、リンは苦笑を返す。
「……わかってるよ」
その言葉と共に、彼女は手を差し伸べ、木肌にそっと触れた。
ぴりりとした魔素の反応。だが、拒絶はされていない。
目を閉じ、集中し、ゆっくりと魔素を流していく。
やがて、樹皮がほのかに光り始めた。
森が震えた。空気が揺れる。
だがそれは、恐れではなく祝福のような震動だった。
「……できた、と思う」
振り返れば、ギィが腕を組んで立っていた。
その目に宿る光は、ほんの少し――予想外の満足を示していた。
「悪くねぇ。やれるもんだな、お前」
その言葉に、リンの唇が微かに動く。
「当然だよ……駒だなんて言わせない」
まるで無意識のような反発の声だったが、ギィはそれに驚いたように眉を上げ、次の瞬間にはふっと口元を緩めた。
「へぇ、根に持ってたのか。けど、駒は駒だ。それでも動く駒なら、見ごたえはある」
「……いつか、盤面ごとひっくり返してやる」
強く、真っ直ぐな瞳。
その意志の強さに、ギィは挑発的に笑った。
「上等だな」
そのやり取りの中にある火花のような緊張と、それでもどこか確かに築かれつつある信頼。
リンの肩から、わずかに力が抜けていった。
会話の終わりを告げるように、森の奥から気配が近づいてきた。
姿を現したのは、数名の
彼女たちはリンを見るやいなや、瞬時にひざをつき、恭しく頭を垂れた。
「
「わっ、そんな畏まらないで!」
慌てて呼びかけるリンに、彼女たちは神聖さすら感じさせるまなざしを向けてくる。
「どうか……この森をお守りください」
その声は、信仰でも敬愛でもなく――願いだった。
守ってほしいという、純粋な祈り。
「もちろん。この森も、自然も、あなたたちも……守るよ。それが私の役目だから」
静かに、でも確かな声でそう告げる彼女の横顔を、ギィは無言で見つめていた。
そして肩をすくめ、小さく呟く。
「これでこの辺りは強化された。あとはお前が一人で回るんだ」
「……分かってるよ。ちゃんとやる。駒じゃなくて、私の意志で」
その言葉に、ギィの唇が僅かに上がった。
満足そうな、あるいは少しだけ嬉しそうな――そんな表情だった。
――そして数か月が経ち、リンはその間様々な地を訪れた。
土地の強化という任務は、肉体的にも精神的にも負担が大きい。だが、リンの足取りには迷いがなかった。それは、彼女が「駒」としてではなく、自分の意志で動いているという確信を胸に抱いているからだった。
そんなある日、リンは次の森にたどり着いた。
そこはこれまで訪れた場所とは異なる、独特な威圧感を持つ場所だった。広大な緑の海が広がり、空気は重厚で、豊かな生命の気配に満ちていた。
その空気を吸っただけで、リンの背筋が自然と伸びる。
「ここも……
呟いた彼女の前に、まるでその言葉に応えるように一人の女性が現れた。
長く豊かな緑髪、透き通るような肌。気品と神秘を纏った姿は、まさしく森の守人と呼ぶにふさわしかった。
「お初にお目にかかります、
落ち着いた声と丁寧な一礼。だが、リンは肩に力が入るその呼び方に、どこか居心地の悪さを感じたのか、すぐに苦笑を返した。
「リンです。そんなに丁寧にされると、ちょっとくすぐったいです……」
彼女の返答にトレイニーの目がわずかに見開かれる。
しかし次の瞬間には、柔らかな微笑がその表情を彩った。
「リン様……。お会いできて光栄です」
二人の間に、穏やかな空気が流れる。
トレイニーの案内で、リンは森の奥へと足を進めていく。
道すがら、トレイニーはこの森について語ってくれた。
このジュラの大森林が竜種の一体、暴風竜ヴェルドラの庇護を受けていること。
自分たち
「ヴェルドラ様はこの森の守護者であり、私たちにとっては恩人です」
誇らしげな彼女の言葉に、リンは静かに頷いた。
この森に、そしてこの地に生きる者たちの思いを、彼女は確かに感じていた。
やがて、森の中心に辿り着く。
そこに聳え立っていたのは、今まで見たどの
その存在感に、リンは思わず息を呑む。
「こちらが、私の本体である
トレイニーの言葉に頷きながら、リンはゆっくりと手を差し伸べた。
魔素を送り込む――それはもう、彼女にとって自然な動作だった。
魔素が樹へと流れ込むと、柔らかな光が広がり、森の空気が変わる。
風が囁き、草花が喜びに揺れ、命の気配が生き生きと輝き出す。
「……すごい……」
呟いたのは、トレイニーだった。
驚きと尊敬の色を湛えたその瞳が、リンを真っ直ぐに見つめていた。
「リン様……これほどの力をお持ちとは……」
「……そんな、大したことじゃ。私は、まだ修行中なんです」
謙遜するリンに対し、トレイニーは静かに首を振った。
「いいえ。あなたの力は、この森にとって希望です。……本当に、ありがとうございます」
そう言って、深く頭を下げるトレイニー。
リンは慌てて笑みを返した。
「こちらこそ、トレイニーさんがこの森を守ってるから、私もこうして力を貸せるんです。だから……また来ますね。きっと」
その言葉に、トレイニーもまた微笑み返した。
「はい、リン様。お待ちしております。……そして、どうかご無理はなさらぬよう」
その温かな声が、リンの胸の奥に染み入った。
森を後にしたリンは、空を仰いだ。
風が頬を撫でる。その感触に、彼女はふと目を細める。
かつてギィ・クリムゾンが言った言葉が、再び脳裏に蘇る。
「逆らう意思を見せる駒が一番おもしれぇ」
あれは嘲笑か、試練か。
だが――彼女は知っている。あの男は、ただの観察者ではない。
もし彼が本当に自分を「駒」と見ているのなら、自分はそれを破壊する。
この世界を、未来を、まるごと盤ごとひっくり返す――
そう、風が吹き抜ける先で、彼女は確かにそう願っている。
(私をただの駒だなんて、誰にも言わせない)
静かに、けれど強く。
リンはまた、次の空へと風に乗って駆けていく。
彼女はまだ止まらない。
その意志の先に、誰も知らない未来を刻むために。