兎にも角にも金だ金。
金が無ければ身動きの取りようがない。
背に腹は代えられない。借金するのは確定事項として、問題は誰から借りるか。正確には誰からなら借りれるかだな。
少なくともこのクレスケンスには貸し手はいない。規模の大小問わず商会の拠点も無ければ、貴族は俺しか住んでいない。そしてクレスケンスは領土の面積の大部分を山と湖と森林で占められており、ある程度纏まった集落はここ以外に9つしかない。そのどれもが200人前後の村であり、7000人程度しか住んでいないクレスケンスが残念なことに領内の最大都市となってしまっている。参考までに皇都レーヴェは400万人、隣接する都市リュンネで60万人。対してクレスケンス、全土で合わせて約1万人くらい。他人事だったら拍手を送りたいくらい見事なまでの過疎っぷりである。なので領内を頼ることは不可能だ。
こうなった背景はまあ、そりゃ親父やそれより前の世代の色々な経済的失策も絡んでるだろうが、流石にそれを言うのは八つ当たりにしかならないだろう。政策云々を論議する以前に可住地がクレスケンスには少ない。特に冬場は厳しく極寒で、東西に伸びる唯一の街道が封鎖状態に陥り陸の孤島と化すこともしばしば。そんな地域に住む人間なんて俺やエウテュのような土着か、それか相当な物好きくらいである。いいや、土着と言えどこんな僻地に住んでる俺自身もまあ変わり者なんだろうなあ。俺の同年代の知り合いは15歳になった途端、大多数が人口の多い年に蜘蛛みたいに散っていった。今や年に一度顔を出すと言って律義に帰ってきてる奴は2割くらい。裏切者め。俺だって立場が無ければ逃げてやるさ。冬とか近所で遭難して死にかけるしエグイ辛いんだぞマジで。
クレスケンスの背信者共のことは一度置いて話は戻そう。
何でもいい。金が要る。借金もとい融資を受けないと復興どうこうの話にならない。
「税金を上げるのはどうですか? もう少しくらいなら上げること自体は出来ると思いますけど」
エウテュがすっかり俺から奪い取ったコーヒーを飲みながら、視線をぱちくりとさせた。
「去年上げたのに今年も上げたらそれこそヤバいだろ」
「ですけど破綻するよりはいいんじゃないですかね。あとは新しい税金を作るとかどうです? 薪税とか作って税率40%とか設定すれば白金貨4枚くらいにはなりますよ」
「お前って俺よりグロいな考え方」
「そうですかね? 地域が潰れるよりは良いんじゃないでしょうか」
こてんと首を傾げるエウテュ。
いや死ぬぞ。身体の弱い高齢者ばかりなのに冬の寒さを凌ぐ薪にまで税金を掛けたら本気で人口3割は減るぞ。
当然エウテュだってここで生まれ育って16年。そのくらいのことは常識として分かっている。それでもこんなことを平気な面して宣うのは何だかんだと本気で地元愛があるのだ。金持ちと結婚したいとか公言する割に、エウテュの芯には地元のためなら多少の負担位構わないという鉄の意志がこの若干ほわほわした見た目に反して内包されている。ぶっちゃけ引くわ。引く。最後の一人になっても住んでそう。俺怖いわお前のこと。
しかし、ただでさえもう税金負担率は自治体トップクラスなのにこれ以上追加税など取ったら何を言われるか本気で分からん。今だってまだ俺がそういった政策を打ち出していないから住民たちから好意的にみられているだけで、若造がそんなことしてみろ。一瞬で造反される。
「論外だ論外。住民を疲弊させてどうするんだよ」
「そうですか。でも他に手段なんてありますか? 可能な手段は全部手を尽くした後が今なんですからね?」
「それを考えるんだよ。主に借金の線でな」
「考えてみましたけどクレスケンスにお金くれるところなんて無いですよ絶対に!」
「くれるだなんて耳障りが悪い。借りるだけだ」
「返済見込みが無ければ同じことですよ!」
道理だな。良いことを言うじゃないか。
そうだ、クレスケンスに金を貸さない理由の大半は金が返ってくる可能性が恐ろしいほど低いからだ。金と金利が返ってくるなら一考くらいはされるはずだ。
返済能力の証明として、収益力があることを示すのが手っ取り早いだろう。いまの収益の柱は主に木材や魚を始めとした一次産業。歳入を増やすにはより二次産業、三次産業へ転化させて付加価値の割合を増加させる必要がある。だがクレスケンスには技術が無く、精々現状安定してあるのは土木工事くらい。三次産業として観光をどうにかしようと画策した時代もあったがそれは住民のトラウマとなって久しい。必然的に目先の目標としては二次産業の発展───今考えている事として、そこかしこに生え揃った木材を生かして木剣や簡単な魔道具とか、そういった物を量産する工場の設立となる。金無いからそんな設備投資も出来ないが。
ほんと、返済能力の証明のために金が要るとは世知辛い世の中だ
でも返済能力の証明はなにも金を稼げることを分からせるだけが手段じゃない。
「逆説的に返済能力があれば貸せるってことだな。つまり金を貸す理由を作ればいい」
「返済の確実性以外の理由でお金を貸す理由ですか?」
再びエウテュは不思議そうに水色の眼を見開いた。顔が動いたのに連動して青髪のアホ毛がぴょんと揺れる。
普段こそ少しだけアホっぽいが、馬鹿じゃない。こういう鋭さがエウテュにはある。お陰で薄くだが光が見えた。
「取れる手は幾つかある。真摯に付き合いを続けて信頼を作るか、何かしら金銭以外の貸しを作って人情に訴えかけるか」
「どれも無理ですよ。前者はまず時間がかかりすぎますから今すぐお金が必要な私たちに向きませんし、後者は難易度が高いです。貴族や商人に都合よく貸しを作る機会があるなら今頃クレスケンスはここまで悲惨な財政状況になってないですからね」
「そうだよなー。一応もう一個思いついたのがあるんだが」
「なんですか?」
「クレスケンスの名物と言えば春先のテンペルートだろ。やっぱりこれをどうにかして活用するのが一番なんじゃないか?」
「それは一か月前に話をしたじゃないですか。今以上にどうこう出来る物でもないと」
話を蒸し返したからかエウテュは呆れたように嘆息する。テンペルートが何故この地域でだけ違った表情を見せるのか、その理由が分からない現状は輸出可能な商材にはならないだろう。精々、この一週間限定で観光客を呼び込むくらいしか出来ることは無い。多少は自治体にも金が入ってくるが、必要な額からすれば微々たるものだ。
エウテュは溜息を堪えるような顔をしながら話を続けた。
「しかもテンペルートの調査だって30年前くらいに正式にシードゥス魔法学院に依頼してやられているんですよね、それで何も分からなかったんだから今更どうこうも無いです。諦めてくださいスノウ様」
「でもお前、ウチの地域で特筆するのなんてこれくらいだぞ。廃坑になった銀山なんかよりよっぽど良いに決まってる」
まあ比較対象が廃坑と言う時点で相当ハードルが低い気もするが、それを言えばキリがないので吞み込んだ。
「それは分かるんですけど……」
その言葉は理解と納得を頭で分別したような微妙な響きを孕んでいる。元銀山の散々たる現状でも思い出しているのかもしれない。
「別に決まったわけじゃないさ。まだ多少再考する時間はある。取り敢えず資金調達方法を検討する猶予は残り1か月。それまでに結論を出す、じゃなければクレスケンスは財政崩壊する。エウテュも引き続き思いついたら何でも言ってほしい」
「わかりました……頑張ります」
荒涼としたクレスケンスの未来でも想像したのか、エウテュは重々しく頷いた。
領主の仕事は多岐に渡る。自治体の運営方針の策定、税金の運用、公共事業の推進、社会福祉の提供、領地内の治安維持。少し挙げただけでこれほどある仕事を領主が一手で担ってる。当然基本は目的別に組織立って行われる。領主か行うのはあくまで意思決定だけで、その他の細かい部分は例えば治安維持なら雇った衛兵団の隊長だったり税務なら組織内の税務部に、みたいな形で下層の仕事は部下へと投げる。勿論これは一例であって中には外部組織にぶん投げる領主もいるにはいるが、大抵はそうやって仕事を分配して上手い感じに回してる訳だ。
中でも治安維持行為のために専門の衛兵隊を編成している領主も多い。貴族ってのは汚れ仕事が好かない輩ばかりで、きつい汚い印象の付きがちな業務はそうやって自分から切り離す。一理あるとは思うよ俺も。貴族ってとは面子商売で、清廉潔白な印象は交渉の上で大きなアドバンテージとなる。ただ俺はあまりにも距離を置きすぎるのもどうかと思うが。
で、何が言いたいかと言えば俺は今警邏をしている。
クレスケンスじゃ警邏も領主の仕事である。
領主が警邏をしている地域なんてきっとここだけだ。
さあ君もクレスケンスに来て領主様と握手を使用!
「な~んて売り文句じゃ誰も来ねえよなあ」
思わず溜息が零れてしまった。
俺だってこんなの好きでやってるわけじゃない。前々から自衛団から募ったり冒険者を日雇いで募集して警邏させていたのを、三か月前に俺が領主に就任したのを契機にその割合を減らして俺が出ることで小銭を節約している。本当に酷い有様だ。
「あ、スノウ~今日も散歩してる!」
幾ら乗り気になれないと言えど、これもクレスケンスでは領主の仕事なので目を光らせながら歩いていれば俺の腰ほどしかない背丈の少女が俺に手を振ってきた。茶髪のおさげが特徴的なこの子供はリリナだ。クレスケンスにある酒場の一人娘で、領主となる前から軽く知り合いである。
俺は手を振り返す。
「おーリリナ。言っとくが散歩じゃないからな、悪い人がいないか巡回してるの」
「スノウは冒険者さんなんだね!」
「俺はここの領主だ!」
「領主さんは冒険者さんみたいに警備の仕事なんてしないよ?」
純粋に疑問そうな目を向けられて俺は目を逸らした。
クレスケンスでは違うの! クレスケンスは貧乏だから俺がやるしかないの!
そう伝えるのは簡単だ。でもこの年から酷な現実を教える必要はあるまい。
「ふっ、いつかリリナにも分かる時が来る。領主が巡回をしなくてはならないのっぴきならない事情ってやつをな」
「のっぴきならないー?」
「……重要過ぎて他人に任せられないって意味だ」
「ふーん。難しくて分かんないや」
体を大きく揺らしながらリリナはにっこりと春を振り撒いた。こういうのを見るとクレスケンスも捨てたもんじゃないなと思う。
「今日はリリナ一人なのか?」
「そうだよ! お母さんからお肉を買ってくるように頼まれたんだ!」
「店で使うやつか。危ないから暗くなる前に帰れよ?」
「リリナは大丈夫だよ! だってここ悪い人なんていないもん!」
レーヴェで同じことを言えば世間知らずに思われるだろうが、クレスケンスであれば一理ある言葉だった。田舎過ぎて悪人も愛想を尽かすような土地だ。ついでに閉鎖社会なので外部から逃げ込んだ犯罪者などが居てもすぐに住民によってバレてお縄になる。田舎特有の文化だ。こういう治安の良さも、俺が怠いと思いつつも巡回行為を肩代わりしている理由の一つである。流石に無法地帯を一人で領主が歩けないからな。普段はクソ田舎と言って憚らないがこういう平和なとこは嫌いじゃない。
「いないかもしれないが一応だよ一応。何かあったら次お前んちの酒場に行ったときにオリオおばさんから怒られるからな」
因みにオリオおばさんとはリリナの母親で、クレスケンス唯一の酒メインの飲食店『ルーナの酒場』の店主兼元冒険者である。普段は良い人なのだが、男泣かせな筋肉と上背を誇示する野性的で強面な女性で、いつだかに酔って暴れた冒険者10人を1人で叩きのめしたとか。流石は元Aランクのエリート冒険者は伊達じゃない。後リリナのことを溺愛している。なので冗談じゃなくリリナには何かある前に早く帰ってほしい。オリオおばさんから治安維持をもっと真面目にやれとかクレームくるの絶対に嫌だからな俺。
と、真剣にこちらは考えているが子供にはそんな配慮もとい保身は伝わっていないようで、鈴が鳴るような高い声で無邪気に笑った。
「あははー! それ見たい!」
「見たくなるな! 絶対に遅くなる前に家へ帰れよ!」
「大丈夫だよ、お母さんが怒ってもリリナが痛いところよしよししてあげる」
「それ全然大丈夫じゃないし殴られた後じゃねえか!」
こんの野郎と少し腕を広げて脅せば楽しそうにリリナは走り去っていった。子供は良いな。無邪気でいつも楽しそうで、こっちまでその気持ちが伝播されてくる。俺にもこんな時期があっただろうか。無かった気がするけど、昔を懐かしむと今の苦労が薄れる錯覚があって大変心地良い。願わば俺もただの子供に戻りたい。
リリナと別れ、再度前を向き直して警邏を続ける。
ふいに目に入った木々に立ち止まっては春の趣を感じつつ、町中を隈なく歩き回った。
規模自体がそう大きくないので、今から練り歩いて帰れるのは日が暮れ前だろう。
リリナにはさっき散歩と先ほど言われてしまったけど正直言ってそんなに的を外していない。犯罪率は低く揉め事すら珍しいクレスケンスだ、俺も大概の時間をこの地元で過ごしている訳だがそう言った諍いは年に一回あるかどうかだ。高齢化率が高いことも一翼を担っているだろう。皮肉なことに血気盛んな若者がいないことで喧嘩が少ないのだ。この平穏で何もなく過酷な環境を生涯の地と見定めた老人たちに内輪割れをする余裕などなければ、それ以前に純粋に温和な気質の老人ばかりである。ほんっと人間環境に置いては過ごしやすい土地である。擁護のしようもないクソ田舎だけどな。
そんな訳で警邏は良い気分転換になる。室内に閉じ籠って考え込んだところで出ないもんは出ない。なら重い腰を引きずってでも外に出た方がまだマシな考えが出てくるかもしれない。そんな期待を持ちながら週に3回程度の頻度で俺は警邏に出ている。
しかし残念なことに今日はそんな年に一度の外れの日だったみたいだ。
そろそろ家に引き返すかと裏路地を使って時間短縮を試みていると怪しい男が先のT字路を右へ曲がるのが見えた。後をこっそりと付けて目視に成功。容姿を確認する。
まず黒い外套を羽織っている。布地が所々解れているな。それに身長に対して丈が長いのか歩くたびに地面と擦らせていて、何とも不格好だ。印象や面子を命と同程度に重んじる貴族や商人ではない。性別の判別は不可能。
フードですっぽりと頭を覆う。顔は俯いてるせいで分からない。ズボンは焦げ茶の地味な色合い。
都会であれば雑踏に紛れる服装だろうが、クレスケンスでは露ほども見ない格好だ。余所者確定。一気に警邏の面倒臭さを思い出した。俺は散歩は嫌いじゃないが不審者に事情聴取をするのは嫌いだ。だって面倒だし大事だったら解決も非常に怠い。ああもうやっぱりケチらず冒険者に任せるべきだったか?
「おいそこのアンタ、クレスケンスの人間じゃないよな。観光客がこんな寂れた通りに来るだなんて随分とご機嫌じゃないか。何処に行くんだ?」
後悔を引きずりながら使命感で声を掛ければ、前の不審人物は早歩きになってしまう。連れないなあ。
「おいおい待てって、旅に現地人との交流は付きものだろ? 酒の飲める良い店知ってるぜ俺、まあ酒場はこの町に一軒しかないんだが。味は保証する」
「失せろ」
「そうは行かないな。なんせその真っ黒な恰好は目立つんでな、怪しい奴がいる怖いよって通報があったぞ? 都会とはちょっちここは常識が違うもんでね、良ければ服が売ってる露店に案内するけどどう?」
「失せろと言っている」
嘘を交えつつプレッシャーを掛けるが、全く気にした様子はない。
荒い言葉だったが、それ以上に中世的な声だ。
俺には変声期を迎えたばかりの女の声に思える。だから何だと言えば別に何もないんだが。
全くにべもないな。これだと本当にちょっくら事情を聴かないといけなくなりそうだ。
「別に危害を加えようって訳じゃない。ここじゃ平和が一番、平和平和」
「だったら僕に話かけるな鬱陶しい」
「分かった分かった」
「着いてくるな!」
イライラした様子で女は振り返った。
フードから相貌が漏れ出る。見て驚いた。金髪の少女だ。顔立ちから推測すれば十代前半、ただそれにしちゃ上背があるな。整った顔を盛大な顰め面にしてこちらを冷たく睨んでいる。
だがしかし、最も目を引くのは耳だ。根元から直線状に突き出して、先っぽでピンと尖っている。
要するにエルフ族?
いやいや、俺初めて見たんだけど!
と、逸る気持ちは抑えねば。
冷静に考えてみればやっぱりこの女は怪しすぎることこの上ない。
エルフっていうのはこんな田舎と比較にならないほど鎖国的な気質を持っている。人族よりも長い生涯を生まれ育った地域で過ごし、自らが生活圏として定めた地域から足を踏み出すことはほぼ無いに等しい。だから多種族の生活圏で目にすることは滅多に無いし、俺も初めてエルフなんてもんを見た。
それにこの辺りのエルフならクレスケンスの北部国境を越えた先、ジュニオール大森林の中でひっそりと生活していると聞く。こんな場所まで迷子、ということもないだろうな。
「どこから来たんだ?」
「いい加減殺すぞ土民。僕に構うな。土弄りをしている汚い手を退けろ」
エルフは俺の手を払うなり、大きく舌打ちを一度鳴らしてきた。
あ、もうカチンときた。これに堪えられるほど器デカくねえんだよこっちは、下手に出てりゃ好き勝手言いやがって……!放題いいやがって!
「構うわ。ああーもう面倒くせえ! 俺だって好きで話しかけてるんじゃないの! お前みたいな如何にもって感じの怪しい奴を見過ごすのは職務的に出来ないから仕方なく話しかけてんの! だからさっさと名前と出身とここで何してんのか目的話せや浮浪者エルフが!」
「なっ……!? い、言うに欠いてこの僕が浮浪者だと!? 不快だ不敬だ不愉快だ! 本当に殺すからなお前!?」
「はいはい、どうでもいいけど目的を言えこの馬鹿たれ。それで終わる話なんだよこれは。仮に家が無くて彷徨ってるとか言われても絶対に笑わねないから」
「家くらいはある! お前の家より広くて豪華で綺羅びやかな良い家がな!」
「そこで張り合ってねえ! じゃあその家の場所教えろエルフ」
「お前みたいな土民に誰が教えるか!」
「土民土民うるせえよエルフだって森ん中で暮らしてんだから土民みたいなもんだろ」
「
手から何か出てきた。そう思った時には既に身体が勝手に動いて、半身を小さくずらすと、髪先からチリっと音がしたかと思えば熱波で焼けたような頭皮の臭いが鼻腔を突いた。呆然と髪先を触る。仄かに熱い感触に、漸く俺は火玉が真横を通り掠めたのだと気づいた。
炎魔法だ。しかも単なる魔法じゃない。
魔法の行使までが一瞬過ぎた。
分かった、一句詠唱だな。エルフ特有の魔法技術だ。
───精霊魔法というものがある。
エルフは代々、大地と空気と木々と水、それらに住まう精霊を介して魔力の質を格段に向上させるという。結果として魔法の効果を増大させる上に、通常なら一節必要な詠唱文言を一句まで短縮できるとか。それが精霊魔法の神髄らしい。ああもうチートだチート。運営にチクるぞこの野郎。
批難めいた顔を意識して作りつつエルフの顔を見た。俺以上にエルフは憎々しさを表に出し、額に皺を寄らせるとチッと舌打ちをした。
「運の良い人間だ。燃え残ったか」
「燃え残ったか、じゃねえよ! どうしてくれんの俺のこの滑らかな髪の毛の末端がちりちりだよ!」
「みすぼらしさがお似合いだ」
「お前なぁ……!」
エルフという生物はもっと静謐なもんだと思っていた。鳥の歌で朝を迎え、渓流のせせらぎの傍で昼餉を囲み、木々の天幕で夜の眠りにつく。自らを害する相手を除けば基本的に温厚で、日柄ずっと穏やかな暮らしを好む種族である───以上は昔読んだ種族にまつわる書籍の一文だが、いやはや全く当てにならないもんだ。実物を見ればどうだ。この狼の牙みたいに尖った態度のどこが穏やかで温厚だよ?
「もういい。僕のことは放っておけ人間。あとこの事を話せばお前を殺す」
「うん分かりました今日のことは水に流して見逃します───とでも言うと思うか? 馬鹿なの? 殺害を仄めかした挙句、攻撃魔法まで使ってくる奴を増々見逃せるか」
「お前本気で……!」
ぐー。
声を荒げようと獰猛な顔になったその瞬間、間抜けな音が空気を揺らした。
腹の音だと、より正確には目の前で魔法を行使しようと手を光らせたエルフのものだと、そう理解するのに一秒もかからなかった。
お腹、空いているのか。確かに服装は旅装束っぽさもある。荷物一つも無いところから見るに盗られでもしたのかもしれない。
「哀れすぎてなんかそうだな……飯くらいなら食わせてやるぞ」
「誰が土くれ野郎の飯など……!」
再度鳴った。かなり空腹のご様子。俺はこいつは本気で哀れに感じてきた。怪しいエルフかと思っていたが、こりゃまるで何日も餌にありつけていない野犬だな。飼い主を呼んで丁重に引き取っていただきたいところだ。
エルフは言葉を使わず、力無く首を一度こくんと縦に曲げた。