第24話 学びは広がる
この時期の──八歳から一二歳までのおよそ四年間、私の日常はおおよそ安定していた。
任務に行ったら等級詐欺で特級呪霊と戦い、死にかけるどころか普通にいっぺん死ぬような怪我を負うこともない。だいたい二級、強くても精々準一級の呪霊をただひたすらに祓うだけの日々。私からすれば、机上の空論を検証するのにもやや物足りないレベルの日常である。
そこに佳子とツーマンセルで挑むのだから、任務の難易度は最早散歩。現場に向かうまでの時間の方が滞在時間よりも長いなんてことすらザラだった。
ではその期間、平安京が安定していたかといえば──それが、なかなかどうして、そうでもなかった。
「──ふぅ、このくらいにしておこうか」
そう言って、栗色の髪に
その背から生えた翼と頭上の輪が消え、同時に周囲に展開されていた式神たちが消える。
「……はぁ、はぁ。ありがとうございました」
そんな天使と向かい合うようにして、私は肩で息をする。……いや本当に、疲れた。流石に地力で言えば天使は違うな……。……戦い方にしても私とは違いすぎる。
──現在地は、安倍氏邸宅の修練場。
私は今、最近の日課である格闘術の稽古を天使につけてもらっていた。
「不服そうだね、尊。何か納得がいかなかった部分でもあるのかい」
「……そうですね。もう少し、やれたかな、とは」
天使の術式「邪去侮の梯子」の術式効果は、"術式の消滅"。
これは文字通り「術式の消滅」だ。呪具に使えば刻まれた術式は消えるし、人間に使えばこれもやはり刻まれた術式は消える。ただ、人間の場合は術式が消えた際に脳も破損するので大抵は死んでしまうだけで。
当然、身内同士の模擬戦では使えない術式である。しかし天使の術式には、術式以外に他にはない特色が二つ存在している。
一つは、呪具。
天使の術式が発動準備段階に入ると、彼女の手元に
もう一つの特色。こちらが重要だ。
即ち、
私のような後付けとは違い、「邪去侮の梯子」は術式の中に最初から式神が内蔵されている。この式神自体は天使の意志で操作することはできないが──式神術というのは、それだけで収まるものではない。
「式神の部分発現。上手くすれば、私の戦法も幅が広がりますから」
──式神術は、何も完全顕現だけが能ではない。
乙骨が「リカ」を不完全顕現させていたのは「縛り」の関係だが、不完全顕現にはそれ以外の利用方法がある。たとえば宿儺もまた十種影法術で不完全顕現を使っているが、玉犬の形状を不定形のまま呼び出すことで完全破壊を防いだり、魔虚羅を法輪のみ分離発現して術式効果を継続させつつ完全破壊を防止したりと、完全に戦法に組み込んでいる。これを推し進めると、満象でやっていた「式神を出さずに術式効果だけ使用する応用」に繋がっていく訳だ。
……準備期間があったとはいえ、宿儺が「式神を顕現させずに術式のみ行使する」なんていう離れ業を使えたのも、おそらく天使という"手本"があったからだろう。一度でも宿儺に技を見せれば、その技術は学習される──というのは、ほかならぬ天使自身が新宿で語っていた事実である。
つまり、式神術というのは不完全顕現も上手く扱い戦法に取り込んでようやく一人前なのである。
そして、その点で言えば天使の
「邪去侮の梯子」に内蔵されている式神。
この式神は、自在操作不能の縛りゆえに飛行能力を有している。これは十種影法術のように式神が術式を有している訳ではなく、言うなれば縛りの結果生じたバグのような挙動だが──これを、部分発現によって強引に自分に付与しているのだ。
当然翼と光輪は操作できないが、天使は副次的効果の飛行能力のみにピントを絞ることで自身の飛行を可能としている。
結果、天使が得たのは三次元的な高速移動の戦闘術。
天使の戦いに、踏み込みや踏ん張りといったものは存在しない。全て飛行能力によって自由自在に賄われている。
最高の教材。
間違いなくこの平安の世においても一つの高みにある技術だ。身の危険がなかろうが、こんなものを前に退屈を感じるなど怠惰どころか傲慢ですらある。
「ふふふ、見上げた向上心だ。結界術については私など及びもつかない領域にいるというのにね。この上
「その割には、私の自惚れでなければ楽しそうに指導してくださっていますが」
「そりゃあ楽しいとも。後進がめきめきと上達していくのを見るのは気持ちがいいし──それに、神の理に則してもいるしね」
「……?」
また変なことを言い出した。
天使はたまに、良く分からないことを言う。おそらくキリスト教の教義的なものだと思われるのだが──よく分からない。「汝、隣人を愛せよ」みたいなことを言ってくれればピンとくるのだが……。まったく
「気にしないでいいよ。私の信条を端的に言語化しているだけだ。それより、いいのか? 確かこの後、任務があったろう。晴明の付き添いだったか」
「……あぁ、そうでしたね。では、そろそろ支度をします。確か病人を診るとかって話でしたが……」
「病人……。気を付けるんだよ。この頃は
「はい。……晴明様もいるので大丈夫とは思いますが」
疱瘡──この頃猛威を振るっている感染症のことだ。
感染症、というと私は現代のイメージと、朧気ながら昔に外国で流行っていたものという印象しかない(前世の無学が憎い……)のだが、この時代でも、感染症は意外と広まっている。
しかも感染症という認識すらなく、疱瘡のように神やそれに類する存在によって引き起こされているという認識だった。私にしても、単行本で疱瘡が天然痘という伝染病であると説明されていなければ、何らかの呪術的な現象を疑っていたかもしれない。
天使に挨拶をして修練場から出た私は、諸々の支度を整えてから邸の大広間で待機する。半刻ほどすると、豪快な足音を立てながら晴明翁が大広間に戻って来た。
「おう、待たせたな尊! 鍛錬の調子はどうだ?」
「すこぶる順調です、晴明様。お陰様で式神術の学習も捗っています」
「うはは、そうかそうか。お前の"順調"に驕りはないからな……。重畳重畳」
晴明翁は楽しそうに笑って、
「天使を食らうか……。齢一〇にして末恐ろしい術師よな」
「恐縮です」
「もうちょっと可愛げがあってもいいんだぞ。佳子を見習ってみるとか」
「……脳を半分ほど抉れば可能かもしれませんが……」
「言うのォ~」
佳子を出汁に使われたのでちょっと毒を吐いてみると、晴明翁は感心したように顎髭を扱いた。
……佳子関連になると私の遠慮が薄くなるのをなんとなく悟られている気がする。まぁ、別に晴明翁とコミュニケーションを取りたくない訳ではないし、これはこれで(佳子が私にぼろくそに言われていることを除けば)いいのだが……。
ちなみに、当たり前のように「脳」という単語を使っているが、実はこの時代、意外にも人間の臓器に関しての知見はそれなりに整っていたようだ。
もっとも一般の医学に応用されるような知識ではなく、あくまで反転術式の運用を前提とした術師のためのマッピングという意味合いでの知識ではあるのだが……。現在の平安では陰陽師が祈祷と称して病人の為に祈ったりするが、これは一部の反転術式のアウトプットが可能な術師がやっていることを見様見真似で実践して「仕事した感」を演出しているのが大半である。酷い話だ。
その点で言うと、晴明翁はその「一部の反転術式のアウトプットが可能な術師」に属する。なので晴明翁の祈祷はめちゃくちゃ効くのだ。必然、依頼も高位な貴族から、かつ切実な病状になってくる。晴明翁……いや安倍氏が晴明翁の一代にして凄まじい地位を獲得できたのも、そういうのが関係しているのだろう。
「尊の呪力操作も、そろそろ様になって来た頃だ。反転術式を教えても良い頃だろう。……反転術式の習得は本人の適性に左右されるというのが今の呪術界の定説だが、俺はそうは思わん。反転術式は、技術さえ頭に入っていれば誰でも使用自体は可能だ」
「……左様でしょうか。私には、適性が大きく影響を及ぼすようにしか思えませんが」
実際この二年、佳子のやつに反転術式を使わせて見様見真似で反転術式を覚えようとした。しかし、ヤツはまだ反転術式のアウトプットまでは完璧にものにできておらず──二年前できるとか言ってた癖に──、軽い擦り傷を治療する程度の反転術式では見様見真似もクソもなかったのである。
理論についても色々学ぼうと努力はしてみたものの、結果は散々……。仕方がなく、私は反転術式については一旦見切りをつけて式神術を学び始めたくらいだ。
「理論を知らなければそうなる。だが、それは反転術式と
「……
座学が始まった。
瞬時にそう判断して、私は腰を入れて晴明翁に問い返す。私の様子が一瞬で切り替わったのを見て取って、晴明翁はスッと居住まいを正した。
「ああ。……そもそも「反転術式」という言葉だが、何故こう呼ばれているか分かるか?」
「何故……、…………」
……そういえば何故だろう。
反転術式はカテゴリ的には呪力操作が近い。本来負のエネルギーである呪力を掛け合わせて正のエネルギーに変える技術なのだから当然だが、なら「呪力反転」みたいな名前になっていないとおかしいのではないだろうか。
当然といえば当然の疑問に行き当たった私に、晴明翁は頷き、
「そう。"術式"と銘打たれている以上、肉体の治癒術としての反転術式は何らかの術式を回していることになる。それこそが「反転術式」と我々が呼んでいるものの正体で──実は
「………………、」
この時代には、+や-といった概念は存在しない。
学問通り一遍は貴族子女の嗜みとして教えられるが、算術は一九ある学習部門のうちの最後、「雑事」に指定されているもので、加減乗除くらいまでしか教わらないのだ。なので、呪力の正負も陰陽という単語になっている。……これは余談だが。
「反転術式とは、人間の脳に刻まれている汎用的な術式だ。この術式は陽の呪力にしか反応しない。だから呪力を反転させて、反転術式用の呪力を精製する必要がある訳だな」
「反転術式の難易度が高いのは、呪力の反転と術式の行使を一工程で捉えているから……。工程を分けて考えれば、反転術式の会得はさほど難しくない……と?」
「概ね正しいが……全体を俯瞰すると、そう簡単な話でもない。二工程にしたとしても、陽転だけで高等技術だからな。陽転を維持したまま反転術式を回すというのもコツがいる。まぁ、楽になるのは確かだが」
「その点で言えば、土壇場で反転術式の出力までこなした佳子は凄まじいな。アレは実戦で実力を発揮するクチだろう」と笑いながら、晴明翁は私を見据えた。
その眼は、私が新たな疑問に行き当たったことを察していたようだった。
「聡いお前ならこう思っただろう。"ならば何故、呪力の陽転を体系化して教えないのか?"と。当然、これには理由がある。……陽の呪力は、陰の呪力を中和するのだ」
「…………なるほど」
言われて、私は晴明翁の言いたいことを概ね把握した。
「陽の呪力は、陰の呪力を中和する。反転術式を二工程の技術として学ぶと、呪力の陽転と反転術式の行使に一瞬であっても間が生じてしまう。そしてその間に、
つまり必然、反転術式を行使しようとすればその瞬間、陰の呪力を消す必要が生じる。
治療しようとするとその瞬間呪力強化が失われるし、呪力効率も大きく損なわれる。これはかなり大きな隙になるが──呪力の陽転と反転術式の発動を一工程のものとして学習し習得すれば、隙も呪力のロスもゼロにできるのか。
……だから現代には「呪力の陽転」という言葉は残らず、単に「反転術式」と一つに纏められたうえで技術が伝承されたんだな……。
だが……。
「……それを今、私に説明してしまってよかったのですか? 既に私は二工程で認識してしまいましたが……」
この説明を聞いた以上、呪力の陽転は多分もう使える。
そうなるとおそらく反転術式の方も使えるようになっている気がするが……呪力の中和は厄介な特性だな。これが実戦で来るとなると、少々厄介なことになる。
余計なことを……と思いつつ若干恨みがまし気に視線を向けるが、晴明翁は大して気にした様子もなく軽く手を振って応えた。
「あー、問題ない。そもそも、俺の経験上、お前のような頭でっかちはまず反転術式を使いこなせん。一遍死んでも無理だったのだろう? じゃあなおさら無理だ」
「なっ……」
それは……確かにそうかもしれんが!
「まず原理を理解し、その上で反転術式を
「……………………否定はしません」
……くそっ。確かにそっちの方が面白そうだなと思っている自分がいるんだよなぁ……!
この翁、あんまり邸に帰って来ないくせにこういうところで私のことを理解しているのが怖い。いったい、どこまで見透かされているのだろうか。
「理論を学習したところで、次は実践だ。これから俺が受け持つ患者のところに行く。通常の反転術式では治療ができない
晴明翁はそう言ってから、ちらりと外へ視線を向ける。
「見て盗め。お前なら、まぁ可能だろう」
…………
「あの。差し支えなければ、どなたがどのような症状なのかお教えいただいても?」
「そうだな。前以て伝えておくか……」
私が問いかけると、晴明翁は頷いて、次にこう答えたのだった。
「
………………あれ? ひょっとして今回、今までで一番重要な任務なのでは???
尊の前世知識に、呪術廻戦単行本で説明された以上の天然痘に関する知識はありません。