第1話 case:花海咲季
「・・・ふぁ…んん〜〜〜っ!!」
初星学園高等部アイドル科1年生にして、編入試験合格者第1位の成績を誇る花海咲季の朝は早い。時刻は現在午前4時。アラームなど掛けずとも、彼女のルーティンワークと生活リズムから構築された体内時計が、まだ陽も沈んでいるこの時間に脳へ覚醒を促す。布団をめくって上体を起こし、欠伸を一つ。両腕を目一杯高く掲げて宙で合わせながら、天辺から背骨にかけて目一杯に伸びをする。最後に脚を伸ばしてベッドから立ち上がった
まずは台所へと向かい、冷蔵庫を開けて天然水が入った未開封のペットボトルを手に取り、パキッという軽快な音でキャップを開けてそのままゴクゴクと一息で飲み干していく。半分ほど飲んで口を離し、キャップを閉め直して冷蔵庫へ戻す
次に向かうは洗面所。自慢の赤みがかった髪をバンドで束ね、蛇口を捻って両手いっぱいに水を溜めて顔を入念に洗う。ひとしきり洗い終えたら髪のバンドを外し、歯ブラシと歯磨き粉を手に取ってガシガシと歯を磨く。上の歯と下の歯を2往復ずつ磨き終えたら、うがいをして洗面所を後にする
最後にクローゼットの前に立ち、前日の内から用意していたジャージへと着替える。そのまま靴下も履き替えて、ベッドの真横にある就寝台からヘアゴムを手に取り、慣れた手つきでお決まりのツインテールを作る。そして就寝台の引き出しからタイマー機能付きの腕時計を左手首に巻いて、パチンと金具を留める
ここまでわずか15分足らず。寝起きの状態から完全覚醒までを終えた花海咲季は、その勢いのまま自室を出る。鍵をかけてドアノブを引く確認まで戸締りを確実に行い、まだ誰もいない寮の廊下を歩いていく。階段を下りてロビー兼共有スペースを抜けて寮の扉から外に出る
「いち、に、さん、しっ…に、に、さん、しっ…」
小声でリズムを刻みながら屈伸、伸脚、前後屈、体側、アキレス腱伸ばしと準備運動を行っていく。最後に大きく息を吸って、吐いて深呼吸を二度行う。手首と足首をブラブラと遊ばせ、首を右に左に回しながら寮の前に敷かれた石畳を歩いて行く。そして寮の門を跨いで歩道に出たところで、軽いジャンプを繰り返す。息を整えたところで右足を後方に引きながら屈んで、左手首に巻いた腕時計のボタンに右手の人差し指を置いた
「・・・スタート」
ピッ!腕時計から鳴る電子音が、彼女にとっての真の意味で1日のスタートの合図だ。軽快な足取りで早朝すぎる誰もいない歩道を、全身で風を感じながら駆け抜けていく。学生寮から学園の校門までの道をあっという間に通り過ぎて、その先にある大橋の側道から川沿いの道へと出る
「はっ…はっ…はっ…」
規則的なリズムで呼吸して、川沿いの道から学園を囲う山々に拓かれた峠道を走っていく。ランニングで走った距離と時間が比例するように進んで、まだ暗がりだった世界が地平線から登り始める太陽と共に彩られていく皐月の朝
朝陽に照らされた咲季の額の汗が光って、ゆっくりと滴り落ちていく。やがて朝焼けの時間が終わって陽が完全に登り切った時、咲季は学生寮から大山までと、大山の外周に拓かれた道を走り終え学生寮の門前へと戻り、ピッ!と腕時計のタイマーを止めた
「ふぅ〜…良いタイムだわ。絶好調ね」
タイマーに刻まれた数字を見て、満足気に息を吐いて思わず笑顔で独り言。寮から少し離れた歩道をゆっくりと歩きながらクールダウン。たっぷり10分ほど掛けて息を整えつつ、汗が引き始めた所で同じく朝のランニングを終えた1人が寮の門へと戻ってきた
「おはよう手毬。朝のランニングお疲れ様」
月村手毬。初星学園高等部1年生。つまりは花海咲季と同期…どころか、彼女と同じ1年1組に属するクラスメイト。しかし咲季と違って学園の中等部からの内部進学組だ。青みがかった長髪に端麗な顔立ち。咲季よりも一回り背丈がある彼女は、普段からキツイ目元がランニングの疲れのせいか更に目尻を吊り上げ、まるで睨みつけるかのように咲季に返答した
「・・・あぁ、花海か。何か用事?」
「用事なんてないわ。クラスメイトと会ったら挨拶くらいするでしょう?それにしても今日はなんだか早いわね。いつもだったら帰りの時間被らないのに。オーバーペースで走るとトレーニング的には却って逆効果よ」
膝に手を突いて肩を上下させながら息を整える手毬に向かって、クールダウンまで終えて平常時の呼吸に戻った咲季が言った。しかし手毬はその一言に対してお礼を言うどころか口調を更にキツくしながら返答した
「余計なお世話。ただ今日は目が冴えていたから早めに走り始めただけ。それに私が何時にどう走ろうと、あなたには関係ないでしょう」
「なによ。人が親切心で忠告してあげてるのに、その言い方はないんじゃないの?」
「なら、私からも一つだけ忠告しておく。私も今日は目が冴えてたからこの時間に走り終わったけど、普通ならこれくらいの時間から走り始める。あなたも走り始めるのは完全に夜が明けてからの方がいい」
「・・・最近の夜は、物騒だから」
冷酷で人を突っぱねるような刺々しい口調の中、なぜか最後の言葉だけ少しの間をおいて、手毬は言った。顎から滴る汗を拭って息を整えながら喋っていたから、呼吸の区切りがそこにあったのかは定かでないが、咲季は特に疑問も持たずにそのまま手毬の傍を通過しながら寮へと戻った
「そうね、忠告痛みいるわ。だけど多少なら自衛の術も持っているし、何より私はこのルーティンが性に合ってるから。それじゃまた後でクラスで会いましょう」
大半の人はこの月村手毬の口のキツさに怯えるか、反対に何くそと食ってかかる。もちろん咲季は最初に彼女の言い分に食ってかかった。しかし今はそうでもない。入学から約1ヶ月。これが彼女の生来からの性格だと、これも月村手毬という人物の味なのだと理解した
それからはむしろ好意的に彼女を見ている。トップアイドルになるという同じ目標に向かって進む、切磋琢磨し合う強力な好敵手として、自分にとっての壁となり得る存在は、根っからのスポーツマンである花海咲季にとってはむしろウェルカムだ
「さて、体を冷やさない内に『SSD』を飲んでシャワーを浴びましょう」
咲季は共有スペースに置かれた冷蔵庫から、プロテイン等を調合する為のシェイカー容器を取り出した。その中身はスーパースタミナドリンク。略してSSD。咲季曰くトレーニングで得られるスタミナ増幅、パワー増強、脂肪燃焼効果等、様々な効果をこのSSDを飲めば更に上昇できるらしい。スポーツに従事する人間からすれば夢のような飲料だが、相当の欠点もある。まず謎に発光する不気味な色合いをしていること。そして味がべらぼうに不味いこと
材料は栄養素を考慮した各種野菜や動物性タンパク質から出来ているらしいが、パレットに様々な色の絵の具をぶちまけた後、それをごちゃ混ぜにしていけば、いつしかドブ色になると言えば想像がつきやすいだろうか。結果としてSSDは味と色合いがそれ相応になるのだが、咲季本人にその自覚はない。また寮内の共有スペースの冷蔵庫に大量に入っているコレは、咲季本人用でもあり、ご自由にどうぞという咲季なりの気遣いなのだが、手をつける人間はごく一部の例外を除いてまず現れない
その健康以外の大切なものを度外視した飲料を飲み干した咲季は、自室に戻り脱衣所兼浴室へ直行。着ていた衣類を全て洗濯籠に投げ入れ、一糸纏わぬ姿でシャワーを浴びる。汗の染みた体をシャンプーと共に丁寧に洗い流し、髪のケアも欠かさない。たっぷりお湯を浴びて浴室を出て、バスタオルで水滴を拭き落とし、下着を身に付けた後にドライヤーで髪を乾かしいく
そして完全に身体についた水分を乾かし切って、咲季は制服へと袖を通す。胸ポケットに校章がプリントされた白のYシャツを着て、青を基調にしたチェックのスカートと、濃紺のカバースカートの革ベルトを腰で留める。白の靴下を履いて、もう一度自室を出て共有スペースへと戻る
現在午前6時。やっと普通の人が起き始めるかという時間に咲季は共有スペースの冷蔵庫を明けて、朝食の用意を始める。しかし、彼女にとっての朝食の用意は盛り付けだけだ。手抜きでスーパーやコンビニの惣菜の買置きがあるのかと思えばそんな筈はない。無論、栄養満点の作り置きがある
まずは白の平べったい食器を取り出す。ホテルビュッフェの皿ような区画がいくつも分けられたソレは、咲季のお気に入りだ。その区画の一つにまずは緑色のペースト状に固めたほうれん草カレーを盛り付け…否、塗りたくる。そして茶色い味噌汁ペーストを別の区画に塗り、玄米と卵の白身、魚等を混ぜ合わせた小麦色のペーストを塗る。最後に茹でたブロッコリーと鶏のササミ肉をそのまま乗せれば、花海咲季特製『トップアイドル養成ご飯』の完成だ
食器ごと電子レンジに入れて、2分ほど温める。これは余談だが、このペースト状の料理は見た目はともかく、SSDと違って味はそこそこイケるらしい。しかし一部の有識者をしてケミカルな料理と言わせしめ、一度食べればごく一部の例外の人を除いて二度と食べたくなくなるのが普通らしい
電子レンジから食器を取り、共有スペースの食卓に着いて咲季は朝食を摂り始める。一口、二口とよく噛んで口を動かしながら飲み込んでいく。合間の飲み物はもちろんSSD。他人が見ればまずボディビルダーのソレと見紛う食事をしていたところに、淡い薄桃色のショートボブの髪型をした、初星のブレザーを白のズボンと共に着こなす、中性的な印象を受ける女性が声を掛けてきた
「おはよう花海さん。今朝も早いね」
有村麻央。初星学園学生寮の寮長にして、童顔で中背ながらも、困った人を率先して助け、面倒見がいい性格も相まって、初星のリトルプリンスの二つ名で呼ばれる高等部の三年生。その彼女の挨拶に、咲季は朝食を食べる手を止め、ガタン!と勢いよく席を立って頭を下げながら返事をした
「おはようございます!麻央先輩!」
「わあっ!?び、ビックリした…何もそんな立って挨拶してくれなくてもいいのに」
唐突な最敬礼に思わず驚愕して肩を浮かせた麻央は、微笑を浮かべながらも後輩の気合たっぷりの挨拶を受け流した。しかし挨拶とは常日頃繰り返すものだ。出会い頭に『今朝も』と言ったように、朝の顔見知りのはずの咲季の挨拶がいつもと違ったのには、理由があった
「いえ、その。今夜の外泊届けを申請したくて。当日になってしまい申し訳ないんですが、どうぞよろしくお願いします」
そう言って咲季はスカートのポケットから取り出した二つ折りにされた書類を、寮長の麻央へと手渡した。ヘッダーに外泊届けと書かれたソレは、学園が寮生からお預かりしている生徒の身の安全、健全な生活、寮生同士の治安を妨げる無断外泊を防ぐ為の書類だ。咲季が麻央に手渡した外泊届けの理由には、実家への帰省のため、と尤もな内容が記載されていたが、届けに目を通した麻央は神妙な面持ちで尋ねた
「・・・なるほど。今夜なんだね」
「はい。手続きをよろしくお願いします」
「分かった。コレはボクの方で受理して、後に続く必要な事も済ませておくよ。困ったことがあればいつでも言って。分かっているとは思うけど、十分に気をつけること。いいね?」
「もちろんです。この日の為に色々と準備を重ねてきましたから」
「だとしても、万一の時は躊躇わずに令呪を───」
「麻央先輩」
ただ実家に帰省する為の外泊届け。そのハズなのに、何かと気を使ってくる麻央に対して、咲季もまた特に気にすることもなく頷いていた。しかし、麻央の口からある特定の単語が出た瞬間、咲季は彼女の話に割って入った。静かな警告。それに気づいた麻央は、右手で口を覆いながらハッと目を見開いて辺りを見渡したが、人の気配が他にないことを確認すると、ホッと一息ついてガシガシと頭を掻いた
「ボクとしたことが…朝でまだ頭が回り切っていないとはいえ、未熟だな。ごめん花海さん、ボクから言えるのはそれくらいかな」
「いえそんな。私の方こそ、当日の朝にいきなりすみませんでした。以後気をつけます」
「いいんだよ、これくらい。門限破り常習犯のことねには花海さんを見習ってほしいくらいだ。っと、朝食の邪魔をし過ぎるのも良くないね。それじゃ、健闘を祈っているよ」
受け取った外泊届けをブレザーの内ポケットに入れると、麻央はヒラヒラと手を振りながら共有スペース台所へと姿を消していった。咲季もまた椅子に座り直し、朝食を食べ進めていく
「んんっ、ごちそうさまでした」
「おはよう咲季っちー。お粗末さまでしたー」
「おはようございます、花海さん」
自分がこの朝食を作るのに必要な食材を作ってくれた人への感謝を込めて、咲季が手を合わせていると、その背後から如何にもギャル風の女性と、見るからに大人しそうな女性の二人組に声をかけられた
オレンジ色に金色のメッシュが入った目映いばかりの長髪、ギャルな見た目らしからぬ鍛え抜かれた脚を中心に抜群のスタイルをした高身長の女性は紫雲清夏
対して小動物のような印象を受けるもう1人は、葛城リーリヤ。銀髪のミディアムヘアに澄んだ薄青の瞳。日本人離れした白い肌。守りたくなってしまうような大人しそうな見た目はしかし、咲季よりも身長が一回りほど大きい
2人とも咲季、手毬と同じく1年1組のクラスメイトだ。寮生活においても相部屋の2人は、よほどの仲良しなのか、一緒に行動していることが多い
「おはよう清夏、リーリヤ。今日の中間試験、二人とも自信は?」
「あーや、あたしはダンスはパスってもらった。とりあえず歌唱だけ受けるかな。まぁ何とかなるっしょくらいの感覚」
「私は…自信はないけど、精一杯頑張ります」
二人に尋ねたように、今日は一学期の中間試験当日だ。ダンス部門と歌唱部門、二つの実技試験が行われる。無論、咲季は本人の性格と編入試験の結果もさることながら自信と準備は万端といったところだった
「そう…頑張りなさいリーリヤ。それはそうと、本当に勿体ないわよ清夏。あなたのその無駄なく鍛えられた脚なら、きっと試験くらい訳ないでしょうに」
「あはは、まぁその内ね。咲季っちも試験頑張ってね。結果楽しみにしてるからさ」
「あ、ありがとう花海さん。また後で学校でね」
暫しの別れをクラスメイトの2人に告げて、共有スペースの台所に立ち、咲季が食器を洗っていると、彼女によく似た容姿をした女性が声をかけた
「おはようお姉ちゃーん!今日も朝ごはん貰うねー!」
「ええ、おはよう佑芽。たんと食べなさい」
肩くらいまでの赤茶の髪が右側にお団子を一つ作って束ねられていて、花海咲季とよく似た容姿の、誕生日が一年一日違いの咲季の実妹。花海佑芽。天真爛漫な性格で、姉に劣らぬ身体能力を持つ彼女は、咲季の料理とSSDを姉が料理を始めた頃からずっと好んで食べている例外の1人だ。そしてもう1人の例外は、彼女のすぐ後ろにいた
「おはよう、2位の人。私もいただきます。いつもありがとう」
「・・・相変わらずカチンと来そうになる呼び方だけれど、その事実も中間試験の結果が出るまでよ!おはよう篠澤広!よ〜く味わって食べなさい!」
「うん。結果、楽しみにしてる」
篠澤広。ミステリアスの一言に尽きる印象の通り、独特な雰囲気を醸し出す一年生。アルビノかと疑わしくなるほどの白い肌と白い髪。スラリとした背丈と、今にも折れてしましそうな細い手足。困り眉の下には、見ている者を吸い込みそうな夕焼け色の瞳が輝いている
佑芽と同じ1年2組に所属を置く、学業の天才。14歳で海外の大学を卒業したのち、自分に最も向いてないと思うアイドルを目指して初星学園高等部の門を叩いたという異色の経歴を持つ彼女は、編入試験の際に筆記試験で満点を取り、実技試験で0点を取るという離れ業でコレを合格。広本人も自覚する壊滅的な体力の問題を解決するため、友人になった佑芽から咲季の料理を勧められ、効果も勿論のこと、味と食感を被虐的な意味で気に入り、それ以降は感謝と共に恒常的に食している
「さて、それじゃあ戻ろうかしら」
洗い終えた食器を乾燥機に入れ、共有スペースを出て階段を登り、再び自室へと戻る。洗面所で再び歯を磨き、鏡で髪型を整え直す。部屋に戻って鞄を手に取り、机の上の本棚から、今日必要な教材を抜いていく。それらをバサバサと鞄に入れたら、クローゼットを開けて、ワイシャツだけだった装いにブレザーを着る。部屋に立てかけてある姿鏡の前に立ち、制服に皺や汚れがないかをチェック。ヨシ、という掛け声を一つ出して、鞄を肩に掛けて自室を出た
「いってきまーす」
返事はないが、彼女は決まってコレを言う。こうして花海咲季の1日は始まる。そしてこの日が、彼女にとっても新しい意味で始まりの1日となる