1.
──やっぱり、まだ僕は夢を見てるんじゃないだろうか。
ルーカス・ポッターは、目の前に広がる光景に瞬きすら忘れて立ち尽くした。
煉瓦が生き物のように蠢き壁が開いたと思えば、人々でごったかえす大通りが現れたのだから。
しかも、石畳の路地に立ち並ぶ建物全てが微妙に斜めっている。ショーウィンドウから見える商品の中には、訳の分からないものも沢山あった──例えば、なんで箒なんかが高級そうに飾られているのか分からないし、その一見洒落てるだけの箒に人が群がっているのも理解不明である。
そして何より、行き交う人々は皆おかしな長いローブを身に纏い『いかにも』な三角帽を被っている人も多い。
そう、ここは、魔法使いの買い物通りなのだ。
「ルーク……ここ、すごいね」
隣で同じように呆然としていた双子の兄が、息を漏らすようにそう呟く。
「うん、とってもユニークだ……!」
「さて、まずは金庫だな。学用品を買うための金を下ろさなきゃなんねぇ」
そう言ってズンズンと歩き始めたのはハグリッド。びっくりするくらい巨大な身体を持つ彼は、昨晩ルークたちのもとを訪れて、自分たちにまつわる驚きの真実を教えてくれた人だ。これから自分たち兄弟が通うことになるという、ホグワーツなる学校で森番をしているらしい。
体格に見合って一歩一歩の歩幅も大きいハグリッドを慌てて追いかけながら、ルークの脳裏にはここ数日の怒涛の日々があたかも走馬灯のように駆け巡った。
***
ルーカス・ポッターは、ごく普通の11歳の男の子である。周りの人と違うところをあえて挙げるとするならば、両親がいないということだろうか。顔も声も覚えていない両親は交通事故に巻き込まれて亡くなったのだと、預けられているダーズリー家の伯父伯母に教わった。質問は許されない環境だったので、両親に関して知っていることはそれくらいだ。
両親は居なかったが、ルークには双子の兄がいた。その名もハリー。クシャクシャの鳥の巣みたいな黒髪に、ヒビの入った眼鏡をかけている。小柄で貧相な身体付きはルークと揃いだが、髪型も髪色も顔立ちも全く似ていない。唯一似通っているのはアーモンド型の明るいグリーンの瞳で、二人は自分の体のパーツで一番この瞳を気に入っていた。
二人は自分たちのことを普通の人間だと信じて疑ったことはなかったが、身の回りでは小さい頃からちょっと不思議な出来事がよく起こっていた。
例えば、そう、坊主になってしまうまですっかり刈られてしまったハリーの黒髪が一晩で元の鳥の巣に戻ったり。従兄弟のダドリーに追いかけ回され、泣きながら逃げていたはずのルークが気づけば家の屋根の上に居たり。
そんなちょっとした不思議を当の本人たちは全く気にしていなかったのだが、ダーズリー家の夫妻は違った。不思議な──彼らの言い方に沿わせるなら『
夫妻の双子に対する沸点は異様に低かったので、地雷を踏んでしまわぬようできる限り存在を消しながらの生活だった。
そして、その生活が成人まで続くのだろうと信じて疑わなかった。
──その日々が、この数日ですっかりひっくり返ってしまうとは。
突如家に届くようになった、双子宛ての大量の──本当に大量の──手紙。
手紙から逃げた先の孤島に現れた巨大な男、ハグリッド。
彼が告げた双子にまつわる、もっと言えば双子の両親にまつわる真実。
ハリーもルークも、そして二人の両親も魔法使いだというチョット信じ難い御伽噺のような話だったが、二人は初対面のハグリッドの言葉を信用し、ここまで着いてきた。
ハリーは真実に対して動揺や警戒よりも興奮を抱いていたし、ルークにとってはあの家を離れられるのならば理由なんてどうでもよかった。
ハグリッドの言葉に対する警戒も疑惑も、ダイアゴン横丁という名前らしいこの通りに連れてこられた時点で、すっかり消え去っていた。
あとは、新しい日々への期待と興奮だけが胸にある。
***
「ハグリッド……まだ買うものがあるの?」
「何だ、ルークはもうへばっちょるのか。あとは杖だけだな。ほれ、大鍋と望遠鏡は俺が持つぞ」
「ありがとう……」
ハグリッドに大きな包みをふたつ渡しながら、ルークは心配そうな表情で声をかけてくる双子の兄を見遣った。
同じくらい小柄で細いのに、疲れ果てている自分と違ってケロリとしている。いったい何が違うというのか。
「ルークはダドリーから逃げないで隠れてばっかりだから体力が僕より無いんだよ」
双子パワーとでも言うのか心の中を読まれたように言い当てられ、不貞腐れたように唇を尖らせる。
走って逃げ続けるよりさっさと隠れてしまった方がよっぽど賢いじゃないか。それに、こんな人混みには慣れてないから疲れるのも当然だ。何より一番最初に訪れた銀行のトロッコが効いた。
「それよりハグリッド、杖はどこで買うの?」
「そりゃあもちろんオリバンダーの店だ。お、ちょうど着いたぞ」
ハグリッドに倣って足を止め、二人揃って訝しげに首を傾げた。
「ここ…?」
今まで回ってきた店の中ではダントツで古そうな店構えだ。杖と言えば魔法使いにとっては必須なツールだろうし、まさかこんなこじんまりとしたお店だとは思っていなかった。
しかし確かに、店の扉には『オリバンダーの店──高級杖メーカー』と刻まれている。
「中に入れば杖が買える。俺は、アー、ちっと買わにゃならんもんがあるからな、二人で先に入っちょれ」
そう言って、ハグリッドは大股で人波に紛れて行ってしまった。
双子は一瞬顔を見合せたが、店の前でいつまでも立ち尽くしているわけにはいかない。恐る恐るというようにハリーの方が扉に手をかけた。チリンチリンと来客を告げるベルが軽やかな音を立てる。
中に足を踏み入れると、随分と埃っぽい。叔母のペチュニアがここにいたらどんなに顔を顰めることだろう。
店には誰もいないようだった。カウンターの奥には所狭しと細長い箱が積まれている。あの一つ一つに、まさか杖が入っているのだろうか。
「いらっしゃい」
「ぅわ、っ」
そろそろとカウンターに近づくと突然頭上から声が降ってきて、ルークは思わずハリーのシャツを掴んだ。
「こんにちは」
声の正体は銀色の大きな瞳を持つ老人だった。彼が店主のオリバンダー老人だろう。優しそうな笑みを浮かべていて、いい人そうだ。
緊張したような声色で挨拶を返すハリーにルークも続くが、驚いて叫んでしまった気まずさから少しきまり悪げな感じになってしまった。
「これは……もしやハリー・ポッターさんではないかな? そちらは弟さんで」
「僕らのこと知ってるの?」
「もちろん知ってるとも。魔法界でポッターさんを知らない人はいませんよ。……そして二人のご両親のことも。ジェームズ・ポッターさん、リリー・ポッターさん。御二方がこの店で杖を買われたあの日のことは、昨日のように覚えておる」
オリバンダーから発せられた両親の名前に、二人は小さく息を呑んだ。きゅっと唇を引き結び、彼の口から両親の話が続けられるのを待つ。
「お父さんの方は28センチ、マホガニーのよくしなる杖じゃった。そう、変身術には最高の。お母さんの方は柳の木でできた、26センチ」
オリバンダー老人はカウンターから出て、ハリーとルークの方に近寄った。月のような瞳が二人をじっと見つめている。
「二人とも、お母上と同じ目をしていなさる。なんとも懐かしい……」
そして老人は、細い指でハリーの前髪をそろりとかきあげた。現れたハリーの額にあるのは、稲妻型の傷。ハリーもルークも、両親の命を奪った交通事故の時にできたものだと思い込んでいたが、ハグリッドは違うと言った。事故ではなく、恐ろしい魔法使いに付けられたものだと。ただの傷ではなく、呪いだと。
「この傷をつけたのも、残念なから儂の店で売った杖じゃ」
静かな口調だった。
ルークもハリーも神妙な表情で瞬く。詳しく尋ねようとしたが、それより先にオリバンダーは二人から離れて声の調子をころりと変えた。
「さて、それでは杖を選ぶとするかの。……いや、こうは言ったが実の所、杖が持ち主を選ぶのじゃ。ではまず……ルーカス・ポッターさんから」
「あ、はい!」
思わず勢いよく返事をしたルークに微笑みながら、オリバンダーはポケットから長い巻尺を取り出した。なんとそれはひとりでに浮き、ルークの体のあちこちの寸法を測り始める。
「杖腕はどちらかの?」
「つ、杖腕? えっと、あー、右利きです」
「では右腕を前に出して…そうそうそのままで」
オリバンダーはカウンターの後ろの棚をゴソゴソと漁りながら、杖に関して説明してくれている。ルークは必死で理解しようと頭を回すが、ユニコーンの毛だの不死鳥の尾羽根だの、架空の生き物──と思っていた──の名前を羅列されてはただただ目を瞬くしか無い。
「なんでそんなとこ測るの…?」
隣のハリーがボソリと呟いたのを聞きとめてみれば、勝手にルークを測っていた巻尺が今度は鼻の穴の広さ? 大きさ? を測っている。
確かにこれはなんの意味があるのだろうか。ポカンとしていると、オリバンダーが「もう良い」と声をかけ、巻尺はポトリと床に落ちた。思わずそれを拾いオリバンダーに手渡すと、ありがとうと微笑んでもらえた。お礼を言われ慣れていないルークは思わず照れて下を向く。
「では、まずこれを試してご覧なさい。アカシアにドラゴンの心臓の琴線、24センチ」
渡されたのは真っ直ぐでつやつやしている木の棒だった。これを使えば魔法が放てるのか、とワクワクしながらそれを受け取る。
「振ってみなされ」
言われた通りに振り上げてみたが、振り下ろされる前にオリバンダーはそれを手からひったくった。
「違う違う、これではないの。ふむ、それではこっちじゃ。サンザシにユニコーンの毛、27センチ」
最初に受け取ったのと比べても随分細く、黒々としている。持ち手のところに華奢で精緻な銀の装飾があり、優美という言葉が似合う杖だった。
受け取ると、先程は感じられなかった温かみが指先から右腕にじんわりと広がる。
──あぁ、これだ。
そう思った瞬間、パンと杖先から弾けるように花が飛び出た。色とりどりの花びらが、ヒラヒラと宙を舞う。オリバンダーは満足そうな笑顔で「ブラボー!」と手を叩いた。隣のハリーも同じように拍手をしながら目を輝かせている。
自分は本当に魔法使いなんだという実感に包まれ、ルークは高揚感に頬を染めた。
「うむ、うむ。素晴らしい。その杖はきっと、これから先あなたを助けてくれますよ。では次、ハリー・ポッターさん」
「あ、はい!」
ハリーの杖選びはルークの時と違って随分難航した。二本目、三本目とまともに杖を振る間もなくオリバンダーは違うと言って取り上げてしまう。
ダメだった箱がカウンターに積み上がり、流石のハリーも不安げに眉を下げていた。対照的にオリバンダーはなんだか楽しそうで、それがルークにとっては不思議でならない。
もう何本目かの杖をハリーが受け取った途端、杖の先に光が点り花火のように流れ弾けた。
「ブラボー!」
オリバンダー老人が嬉しそうに手を叩き、ルークも釣られるように拍手する。ハリーは喜びよりも安堵の表情でほっと息をついた。
「いやはや、良かった。……しかしなんとも…なんとも不思議な事じゃ」
ルークとハリーの杖をそれぞれ箱に戻し紙で包みながら、オリバンダーは浮かされたような声でブツブツとそう繰り返した。
「なにが不思議なんです?」
思わずハリーが尋ねると、オリバンダーはふと顔を上げる。
「儂は自分の売った杖を全て覚えておる。ハリー・ポッターさん。貴方が選ばれた杖の芯に使われていた不死鳥の尾羽根には、一枚だけ兄弟羽が存在しておる。その羽根を芯とした杖が貴方に──」
再び、オリバンダーの細い指がハリーの額に触れた。
「貴方にこの傷を負わせた。──これを運命と言うのか……いや、なんとも不思議じゃ」
ゾッとした。運命という言葉がルークの心に引っかかり、思わずハリーの腕を掴む。
怯えたようなルークの様子に気づいたオリバンダーは、安心させるように声あげて笑った。
「何、そんな不安がる必要はありませんよ。『例のあの人』はもう居ないのですからな」
例のあの人。両親の命を奪ったやつのことだ。
名前を呼ばれないことで、その不気味さが際立つような気がした。
ふ、と沈黙の降りた店の窓が不意に、コンコン、と叩かれる。振り返ると窓の外にハグリッドが立っていた。彼の両手は何かをぶら下げている──それは鳥籠だった。
右手に持っている籠の中では、純白の雪のよう色をしたフクロウが腹に嘴を突っ込んだ状態で眠っている。左の方には、白いのよりも少し小柄なアッシュグレーのフクロウが鋭い目でじっとこちらを見ていた。
ハッピーバースデー。
ハグリッドのモジャモジャの髭の下で、唇が確かにそう動いていた。