ハロウィーンが終わって数日が経っても、ホグワーツは『秘密の部屋』の話題で持ちきりだった。
娯楽の少ないホグワーツであまりにもセンセーショナルなこの出来事は、好奇心旺盛な子供たちの興味を大いに刺激した。
被害に遭ったのが皆に嫌われているフィルチの猫、ミセス・ノリスだったというのも、不思議な興奮と熱意を巻き起こす原因となったかも知らない。
ハーマイオニーが秘密の部屋について探るために食事と睡眠以外の時間を読書に費やすという恐るべき生活を始める中、ハリーの気がかりはもっぱら双子の弟についてだった。
「ルーク、もうちょっと食べないと……ほら、ベーコンエッグとか美味しいよ?」
「ハリー、ありがとう。でも、その、もうお腹いっぱいなんだ」
「お腹いっぱいって、かぼちゃジュース一杯飲んだだけじゃないか!」
あの事件の夜、壁に残された文字と吊るされたミセス・ノリスを見て失神してしまった弟は、次の日から一気に元気がなくなった。
ただでさえ細い食がさらに細くなり、目の下のクマを見る限り睡眠もろくにとれていなそうだ。臆病で気の弱いルークでも、さすがに心を乱されすぎだとハリーは思う。しかしどんなに尋ねても、ルークは「大丈夫」としか言わない。
「元気出せよ。そんなに怖がる必要なんてないさ。ミセス・ノリスは死んだんじゃなくて、ただ石にされただけだろ?」
朝から自分の顔ほどもあるミートパイを頬張りながらロンが言う。
「そもそもあんなチクリ猫、いないほうがどんなにせいせいするか」
「ロンったら、そんな言い方はやめて」
ぎゅっと眉間にしわを寄せて苦言を呈したのはジニーだ。どうやら無類の猫好きらしい。
「でもルーク、ロンの言う通りそんなに恐ろしい出来事じゃないわ。あんなの、誰かのいたずらに決まっているもの」
「うん、そうだよね……」
ルークは力ない、へらりとした笑みをジニーに向けた。
ジニーは知らないのだ。ハリーとルークが聞いた不思議な声のことを。
誰にも聞こえない声が聞こえるなんて変だ、というハーマイオニーの助言を受けて、教師をはじめとした誰にもこのことは言っていない。ハリーもルークも、それが正解だと思っている。
ただでさえミセス・ノリスの第一発見者として一部の人に疑いを持たれているのだから、これ以上怪しい言動で立場を悪くしたくはなかった。
***
ルークのことは心配だったが、ハリーには彼ばかり気にかけていられない理由があった。クィディッチシーズン初戦の日が近づいていたのだ。
今シーズン最初の対戦相手は因縁深いスリザリンということで、キャプテン・オリバーの気合の入り方は尋常じゃない──それこそ秘密の部屋には小指の爪先ほども興味を向けていないほどだ。
ハリーもハリーで、スリザリンのシーカーにはあの嫌味で大嫌いなドラコ・マルフォイが選ばれているのだから、何としてでも勝たねばならないと思っていた。
こうしてルークへの不安に心を揺らされながらも、馬鹿みたいにキツい練習の日々を乗り越え、ついにクィディッチ初戦の日を迎えた。
試合が始まった直後から六回も連続でスリザリンにゴールを決められ、グリフィンドールには痛いスタートとなった。
スリザリンチームはメンバー全員の箒が最新のニンバス2001という文字通り金にものを言わせた布陣となっており、その物理的な差はどうしても無視できない。
それでも、今ならスニッチさえハリーがつかめば大逆転でグリフィンドールの勝利だ。観客たちの熱気がすごい会場で、ハリーは目を凝らして必死に金色を探す。
ふとグリフィンドールの観客席に、弟の姿を見つけた。いつもは心臓に悪いと言って後ろの方で見ているのに、今日は最前列にいる。多分ジニーに引っ張って来られたんだろうなと容易に想像がついた。少し気弱なルークと気の強いジニーは、なかなか相性がいいようだ。
その時だった。ひゅっと恐ろしい音を立てながら耳元をブラッジャーが掠った。またか、と首を振って少し高度を上げる。今日でもう三回目だ。いつもはビーターのウィーズリー兄弟が上手くブラッジャーを制御しているのに、今日はやたらとハリー目がけて飛んでくる。
と思ったら、視界の先でブラッジャーは急激に方向転換して、またもハリーに向かって一直線に飛んできた。しかし今度はハリーが避ける前にジョージ──フレッドかもしれない──が飛んできて打ち飛ばしてくれた。
「気をつけろ!」
ハリーがしっかり頷いたのを見て、またも飛び去って行く。
しかしその後も、ブラッジャーはほんとにしつこく何度も何度もハリーを狙ってきた。紙一重で避けているが、その度に観客席の方からは大きな悲鳴がいくつも上がる。せっかく最前列で応援してくれている弟が真っ青になっているであろうことを想像してしまい、ハリーはたまらなく申し訳ない気持ちになった。
「やぁポッター、バレエの練習かい?」
ふと頭上から降ってきた嫌味な声に、ハリーは思い切り顔をしかめて振り返る。
「マルフォイ!」
そしてすぐにその表情が固まった。──金のスニッチがいる。マルフォイの頭の少し左後ろあたりを飛んでいるのだ。
ハリーはすぐにでも手を伸ばしたい衝動に駆られ、しかしすんでのところで踏みとどまった。マルフォイの方がスニッチに近いところにいる。箒の性能を考えれば、今マルフォイにスニッチの存在を気付かれると負けかねない。
その一瞬、ハリーは周囲への警戒が疎かになった。その隙をついて、とうとうブラッジャーがハリーに激突した。骨が砕ける音がして、左腕に激痛が走る。
観戦席からいくつも悲鳴が上がる。ハリーは激痛で朦朧とする意識の中、何とか顔を上げた。マルフォイはきっと嘲笑うような表情をしているだろう──しかしその予想に反して、彼はずいぶん焦ったような顔で何かを叫んでいる。
「下に避けろ!」
反射的に頭を下げると、頭上すれすれをブラッジャーが風を切って通り過ぎて行った。マルフォイが叫んでくれなかったら後頭部に激突していたに違いない。ハリーはぞっとして、大嫌いなライバルがとった行動の不可解さに気づく余裕も持てなかった。
その時、腕の痛みでぼやけた視界の端に金色がちらりと見えた。ハリーはためらいなく箒を急転回させ、その金色を追う。
マルフォイも同じく金のスニッチの存在に気づいたのだろう。一拍置いて、その後ものすごいスピードでハリーに迫ってくる。明らかにハリーよりも速いが、スタートダッシュで付けた距離の差は大きかった。
ハリーは両足でしっかりと箒を挟み、折れていない方の手を伸ばす。手のひらに、冷たい感触が当たった。それをしっかりと握りこむ。そしてそのまま、ハリーは箒ごと地面に突っ込んだ。
ワーワーと観衆のどよめきや口笛が響く中、ハリーは仰向けに転がったまま右手を高く上げた。その手にはしっかりとスニッチが握られている。思わず、あぁ──と息が漏れた。
「勝った」
そのまま意識を飛ばしてしまいたかったが、そうもいかない。
ブラッジャーが自分を目がけてものすごい勢いで降ってくるのを見つけ、ハリーは大きく目を見開いた。避けられるとも思えず衝撃を覚悟したその時、
「フィニート・インカンターテム!」
世界一頼りになる親友の声が響いた。ハーマイオニーの杖から奔った光は見事ブラッジャーを四散させ、ハリーは何とか事なきを得る。
「ハリー!!」
ルークが、誰よりも早くハリーのもとに駆け寄ってきた。
「ハリー! あぁ、折れちゃってる、どうしよう! 僕いま痛み止め持ってきてなくて──」
今にも泣きだしそうな顔でわたわたしている弟を見ているとなんだか逆に落ち着いてきて、ハリーはさっきまで腕の痛みでぼんやりしていた意識がはっきりしてくる気がした。
「ルーク、落ち着いて。僕は大丈夫だから」
「そうだよ、落ち着けって。このままマダム・ポンフリーのところに連れてけばすぐに治してくれるさ」
ロンが宥めるようにルークの肩を叩いてそう言った。
「その必要はありませんよ」
頭上から降ってきた声に、ハリーは絶望を感じて体を震わせる。
「このロックハートがすぐに治してみせましょう」
心配して駆け寄ってきてくれたグリフィンドール生たちと一緒に観客席から降りてきたのだろう。ロックハートは自信満々に翡翠のローブから杖を取り出した。
「やめて……何もしないで!」
「怖がらないで、何も心配することはありませんからね」
必死の抵抗をしても、いつものように白い歯を見せてお得意のスマイルを返してくるロックハートに、ハリーは気絶しそうだった。
ロンは諦め、憐みの表情をハリーに向けている。頼みの綱のハーマイオニーは悲しいことにロックハートの信者だ。止めてくれるはずがない。そしてルークは人に強く何かを言えるような性格じゃない。──絶望だ。ハリーは医務室で数日過ごす覚悟を決めた。
「やめて!」
だから、群衆のざわめきをかき消すぐらいに響いた弟の声に、ハリーは驚きで目を見開いた。
「このまま医務室に連れていく。先生は、何もしないで。杖をしまって」
めったに見せない苛立ちをにじませたルークにも、ロックハートは動じなかった。やれやれという表情を作り、まるで幼子を宥めるかのような甘ったるい声でルークの名を呼ぶ。
「お兄さんが怪我をして動転してしまう気持ちはよくわかりますよ。しかしこういう時こそ、君が落ち着かなくては。──さぁ、ハリー、腕を出して」
「ハリーに触るな!!」
ぶわりと風が巻き起こり、地面の砂が舞い上がった。それがルークの魔力暴走によるものだと──そもそも今の怒鳴り声がルークのものだと認識するのに、ハリーは数秒の時間を要した。
十二年も一緒に過ごしてきて、弟が他人に怒鳴り声をあげるところを見たのは初めてだった。
ハリーを取り囲っていた人も、普段からは想像もつかないルークの剣幕に圧倒されて呆然としている。あのロックハートでさえもだ。
「ハリー、立てる? このまま医務室に行こう」
「あ、うん、ありがとう」
ルークに肩を借り、ハリーはよろよろと立ち上がる。すぐにロンとハーマイオニーも立ち上がり、同じように助けてくれた。
こうして、クィディッチ初戦は見事勝利をおさめ、骨折はしたがロックハートに魔法をかけられるという最悪の事態は回避できた。それなのに、ハリーの心は晴れず不安でざわついていた。弟の、様子が何かおかしいと。
その後ハリーはマダム・ポンフリーに薬を飲まされ、骨折は瞬く間に治った。
翌日のホグワーツはグリフィンドールの勝利と、ロックハートがあのルークを怒らせたという話題でもちきりだ。──しかし二日後、その話題はさらに大きな出来事に掻き消されることとなる。
一年生のコリン・クリービーが何者かに襲われ、石にされたのだ。ミセス・ノリスに続いてついに生徒から犠牲者が現れたというニュースは、薄れかけていた秘密の部屋への恐怖と興味を再燃させるのには十分だった。