19.
「──ハリー、……ハリー、待ってったら!」
真夜中過ぎ、住宅街から少し外れた通りに、ポツンと二人分の人影があった。
くしゃくしゃの黒髪に眼鏡をかけた少年が不機嫌なオーラを滲ませながらずんずんと突き進むのを、赤髪を緩く縛った中性的な少年が焦った表情で追いかけている。
二人はこの時間の散歩というのにはあまりに似つかわしくない、大きなトランクを引きずっていた。
「ハリー、まずいよ! 早く戻らなきゃ!」
「戻るだって?!」
後ろの少年──ルークの言葉に、前を歩いていたハリーがしかめっ面で振り返った。
「冗談じゃない! もういい加減……うんざりだ」
低い石垣に腰を下ろしてそう吐き捨てるハリーに、ルークは痛ましげに眉を下げる。
「僕だって気持ちは同じだよ。でも……こんな風に飛び出して、これからどうするのさ?」
不安に声を震わせる弟に、ハリーは段々と怒りが鎮まってくるのを覚えた。代わりに押し寄せてくるのは、パニックだ。──これからどうする?
ことの発端は三日前に遡る。
三日前から、ポッター兄弟は恐ろしい苦行の日々を強いられていた。伯父であるバーノンの妹マージが、ダーズリー家に滞在に来ていたのだ。
マージは見た目も性格もバーノンにそっくりで、そして彼以上にポッター兄弟を忌み嫌っていた。
彼女のいる日々は劣悪な精神修行かと思えるほどに最悪を極めていたが、それでも二人は何とかお互いに励ましあいながら乗り切っていた。
どんな嫌がらせにも暴言にも無視と受け流しを決め込み、何も知らないマージに魔法の存在を悟られないようにと並々ならぬ忍耐を燃やした。
そしてついに迎えた滞在最終日、ディナーの時間にとうとう事件は起こってしまう。マージの暴言の矛先が、ポッター兄弟から彼らの両親へと移ったことが引き金となった。
耳を覆いたくなるような言葉の数々に、怒りが限界を迎えて爆発したのはハリーの方だった。魔力の暴走を起こした結果、なんとマージの体は風船のように膨らんでしまったのだ。
両親を貶められた口惜しさと悲しさで身を震わせるルークの目の前で、
そうして怒りで我を忘れたまま荷物をまとめたハリーを、ルークはただ追いかけるしかできなかった。
「マグルの前で魔法を使っちゃったのはこれで二回目だ……」
「……一回目は僕じゃない、ドビーだよ」
「うん、それは分かってるけど……魔法省はドビーのことを知らない」
ハリーはハッと顔を上げ、弟を見上げた。彼の顔は不安と恐怖に染まっている。当たり前だ。今この状況から考えられる未来は最悪を極めている。
未成年の魔法使いがホグワーツ外で魔法を使うのは重大な違反行為。それをあろう事かマグルの前で二回も破ってしまっては、ハリーの退学は避けられない。ハグリッドのように杖を折られてしまえば、この先どう生きていけばいいか見当もつかなかった。
「ドビーのとき、魔法省からの通達は僕宛だった。今回も、おばさんを膨らませたのは僕だ。だからルークは──」
「ハリー」
悲痛さをにじませたルークの声に遮られ、ハリーはぐっと押し黙る。彼が望む言葉でないのは分かっていた。ハリーがホグワーツをやめさせられるとなれば、きっとルークはついてくるだろう。ハリーだけが不幸の身に落ちることを、弟が受け入れられるはずがない。
言葉を失ってしまったハリーの隣に、ルークは同じように腰を下ろす。
「いまからおばさんを探して、元に戻せたら許してもらえないかな?」
「……無意識に使っちゃった魔法だから、戻し方がわからない。それに、どこまで飛んで行ったかもわからないおばさんを魔法なしに探すのは無理があるよ」
「……だったら、ダンブルドア先生に事情を話して……彼なら助けてくれるかも」
ぽつりと零れたルークの言葉に、ハリーはパッと顔を上げた。ダンブルドア先生なら、と期待を抱いて大きく頷く。
「そうしよう。少なくとも一回目は、うん、僕のせいじゃないわけだし」
「それじゃあとりあえずロンドンまで行こう。漏れ鍋からなら、ダンブルドア先生に連絡できる手段があるはず」
「そうだね。──あぁ、ヘドウィグかグレアがいればなぁ」
ハリーの嘆きにルークは苦笑を浮かべた。すこしでもマージおばさんに違和感を持たれないよう、ポッター兄弟の愛鳥たちには家を空けてもらっていたのだ。
ようやく光明が見えた、と少しばかり気持ちを弾ませた二人だったが、ふとルークが声音を落とす。
「ねぇ……どうやってロンドンまで行く?」
ハリーが口をぽかんと開けて固まった。そして見る見るうちにその表情が翳っていく。
「お金、持ってない」
零れ落ちた声にはこれでもかというほどの絶望が籠っていた。
ダーズリー家からお小遣いなどもらえるはずもない二人は、マグルのお金を一ペンスだって持っていないのだ。
「トランクを魔法で軽くして、透明マントを被った状態で箒に乗ってロンドンまで──」
「もし風でマントが飛ばされちゃったら、マグルに見られていよいよホグワーツに帰らせてもらえなくなる」
ハリーは去年、親友と空飛ぶ車でホグワーツに帰ろうとして新聞記事にまでなったのを思い出した。それに対して怒り狂うスネイプの姿もだ。
「絶対だめだね」
「うん……」
万策尽きた。
二人はいよいよ項垂れて、重苦しい沈黙が流れる。
ハリーの胸中ではさっきまでの激しい怒りはどこに行ったのか、後悔で渦巻いていた。──どうしてあの時、もうちょっと自制していられなかったのだろう。
巻き込んでしまった弟に申し訳なくて、いたたまれない。
その時、ふとハリーは妙に首筋がざわつくような気がして顔を上げた。なんとなく視線を感じるのだ。
しかし辺りにぽつぽつとある家からは一条の光だって漏れていないし、通りには人っ子一人いない。
「どうしたの?」
兄の妙な様子に、ルークは小首をかしげた。
「何か……気配を感じるんだ」
「えっ」
ハリーは立ち上がり、ルークを背に庇うようにして目の前の暗闇に目を凝らす。
「ルーモス」
杖を構えてそう唱えれば、杖先がぼんやりと光を灯した。
ハリーの背後で、ルークがひゅっと息をのむ。ほとんど同時に、ハリーも顔を引きつらせて小さく呻いた。
二人の目の前には
正体を確かめようと身を乗り出した瞬間、後ろから強い力で引っ張られてハリーはしりもちをついた。──と同時に、とてつもない勢いで現れた超大型バスが目の前で急ブレーキを踏み、思わず小さく叫び声をあげる。
「は、はりー……大丈夫?」
「う、うん」
ルークに引っ張られていなければバスに跳ね飛ばされていたかもしれない。ハリーは自分の心臓の音が体中に響くのを感じた。
全体が紫色に塗られた三階建てのバスだ。フロントガラスの上には金色の文字ででかでかと『
あっけにとられる二人の目の前でバスの扉が音を立てて開き、中から紫色の制服をまとった若い男が現れた。
「こんばんは、こちらは『ナイト・バス』。迷子の魔女、魔法使いの緊急お助けバスです。杖腕を差し出せばいつでもどこでも参じます。私はスタン・シャンパイク。今夜車掌を務めさせていただきます」
男は気怠げに抑揚なくそう言った。そして地面に倒れこんでいる二人を見やる。
「なぁに二人してすっ転んでんだ?」
こちらの口調の方が素らしい。堅苦しい喋り方よりもよほど見た目に似合っていた。
「何でもないよ」
二人はそう声を合わせ、いそいそと立ち上がる。──よくは分からないが、魔法界のバスだというなら都合がいい。
「このバス、ロンドンの漏れ鍋までって連れて行ってくれる?」
「十一シックル出しゃあな」
「オーケー、ありがとう」
なんてラッキーなんだ、とハリーたちは顔を見合わせ、トランクを抱えてバスに乗り込んだ。
外から見ても大きなバスだったが、中は二人の予想をはるかに超える広さだった。座席はなく、代わりに真鍮製のベッドが六台並んでいる。そのうちの一つ、端のベッドでは性別不詳の小柄な魔法使いが寝転がって、何やらむにゃむにゃと寝言を言っていた。
「アンタら、名前は?」
普通に名乗ろうとしたルークを、ハリーはさりげなく遮った。
「ネビル・ロングボトム」
なるほど、とルークは頷く。もしかしたら魔法省が規則を破ったハリーを探しているかもしれないのだ。そうでなくても、有名なハリー・ポッターがこんな時間に迷子になっているというのはよくない意味で目立ってしまう。
「僕はシェーマス」
とっさに思い付いた同寮の友人の名を口にすると、スタンは納得したようだった。
スタンは壁によりかかり、運転席への窓を軽くたたく。
「アーン、バス出しな」
運転席では年配の魔法使いがハンドルを握り締めており、スタンの声に頷いた。
ポッター兄弟は、これから一体どうなってしまうんだろう、とお互いに不安げな視線を交わす。──しかしすぐに、そんな先の不安を考えていられる余裕はなくなった。
激しい音とともにバスは発進し、反動で二人は思い切り吹き飛ばされる。──なんて荒い運転だ!
ルークは、これ以上吹き飛ばされてたまるかとベッドを支える柱を強く握りしめた。
しかし残念なことにあまり効果は得られず、漏れ鍋に到着したときには酔いと恐怖で真っ青だったことは言うまでもない。