クリスマス休暇はあっという間に終わり、再び課題に追われる忙しい日々が始まった。
去年の今頃、ルークは意識をほとんどヴォルデモートに乗っ取られていたため記憶がほとんどない。それでも学年末試験がなくなったおかげで特に困ることもなかったが、今年はそうもいかない。むしろ二年生の授業内容後半がすっぽりと抜けているせいもあって、最近では授業についていくのも大変なくらいだ。
そんな事情もあり、クリスマス休暇を過ぎてからはドラコと二人で必要の部屋に集まる機会はめっきり減ってしまった。彼も彼でクィディッチの練習に追われているらしく、仕方のないことだった。
勉強に関してルークがいつも頼りにしているのはハーマイオニーだが、この時ばかりは彼女に縋れない事情があった。──そう、いろいろあったのだ。
まず一つ目の事件が起きたのはクリスマスの朝、ハリーに届いた一つのプレゼントが発端だった。差出人不明で届けられたのはファイアボルト──つい最近発売されたばかりの高級箒だ。
突如として世界最高峰の箒の持ち主となったハリーが歓喜の雄たけびを上げて大興奮するのも当然だろう。それこそ、箒の価値が全く分からないルークの手を取って小躍りするほどの喜びようだった。
ルークと違ってファイアボルトの素晴らしさを知っているロンは同じく大興奮で、送り主候補の名をあれこれと挙げる──マクゴナガル、ダンブルドア、ルーピン……。
そのすべての名が外れだったことが分かったのは、なんと翌日の夕方だった。グリフィンドール寮に現れたマクゴナガルが、ハリーからファイアボルトを取り上げたのだ。その説明はマクゴナガルからではなく、ハーマイオニーの口からなされた。
彼女曰く、ファイアボルトの送り主がシリウス・ブラックであるかもしれない、と。ハリーとロンは「そんな馬鹿な」と一蹴したが、マクゴナガルは違ったらしい。
この一件で、ハリーたち二人とハーマイオニーの間には少しばかり険悪な空気が流れるようになってしまった。
幸いなことにファイアボルトはレイブンクロー戦の前にハリーの手元へ戻ってくることとなり、彼はその試合で見事スニッチをつかんだ。
これもあってハーマイオニーとの仲も元に戻るかと思われたのだが、そのタイミングで二つ目の事件が起こってしまった。
ロンのネズミ、スキャバーズが姿を消したのだ。ロンはこれをハーマイオニーの猫、クルックシャンクスの仕業と決め込み彼女を苛烈な言葉で非難した。──結果、ロンとハーマイオニーの仲は拗れに拗れ、完全な冷戦状態となってしまった。
ハリーは愛するペットを失ってしまった
それでは自分がやるしかない、とルークが何とか必死に頭を巡らせ、フクロウよろしくロンとハーマイオニーの間を駆け回り、やっと二人を仲直りと呼べる状態まで持って行けたころにはイースター休暇の時期となっていた。
こんな状態のハーマイオニーに勉強を教えてくれと縋るわけにもいかなかったので、ルークは勉強時間の多くをジニーと過ごした。
ホグワーツのカリキュラムというのはほとんど変わらないため、去年のルークが受けられなかった──というより無意識状態で受けていた授業内容を復習するには、一つ下のジニーが適任だったのだ。
***
恐ろしいほど目まぐるしく日々は過ぎていき、ついにクィディッチ
グリフィンドール対スリザリン、因縁のある寮同士の戦いということで校内はひどく殺気立ち、今日を迎えるまでにあちこちで小競り合いが頻発するほどの状態だった。
「ルーク、今にも倒れそうな顔色だけど、大丈夫?」
「あぁ、ハーマイオニー……うん、全然大丈夫じゃない、吐きそう」
「あなたが試合をするわけじゃないのに大げさね」
「いやもう、本当にね」
観客席、試合が始まる直前のひりついた空気の中、ルークはキリキリ痛む胃を抑えながら前方を見上げた。
世界最高峰の箒に跨り深紅のクィディッチローブを靡かせている兄と、彼に向かい合う形でホバリングしている緑のローブをまとった大切な友人。
──ハリーに勝ってほしい、でも、ドラコに負けてほしくない。
相反する二つの強い感情による息苦しさと、兄や同寮の友人を裏切っているかのような罪悪感、クィディッチというスポーツに対する純粋な恐怖等々に追い詰められ、ルークの身体は絶不調だ。ちゃんと朝から胃薬と元気爆発薬を飲んだのに──調合をどこか間違えてしまったのだろうか。
もはや試合なんて永遠に始まってほしくない──そんなルークの切なる願いを打ち砕くかのように、鋭いホイッスルの音が青い空に響き渡った。
***
クィディッチ優勝戦の夜、グリフィンドール寮は文字通りお祭り騒ぎだった。あまりの騒ぎ様に常ならば厳しい叱責と減点を言い渡しに来るはずのマクゴナガルですら、選手たちへの労いの言葉とカボチャジュースとお菓子の追加を持ってきただけで帰ってしまった。
興奮が渦巻く寮の談話室を誰かが抜け出たとしても、誰も気づかないだろう。それでも外に出れば教師陣やミセス・ノリス、厄介なポルターガイストのピーブズに出会う可能性がある。だからルークはこっそりと兄の寝床に置いてある透明マントを拝借して、寮の外へと出た。
すでに消灯時間となっているため、廊下には一切の人影がなかった。ルークは杖先に光を灯すこともせず、通い慣れたルートを早足で歩く。
向かう先は必要の部屋だ。──特に目的はない。ただ、勝利の喜びに満ちたグリフィンドールの寮から、少しでも離れた場所にいたかった。
「──っ」
必要の部屋が目と鼻の先にある廊下の途中、大きな窓がある場所にぽつんと人影があった。雲一つない夜空にぽっかりと浮かんだ満月が、その人物を照らし出している。
「……ドラコ」
誰もいるはずのない空間から聞こえた声に、ドラコがハッとしてこちらを見る。
ルークはするりと透明マントを脱いだ。月光によって生み出される影が、一つ増える。
「ルーク、なぜここに」
「必要の部屋に行こうと思って。……特に意味はないんだけど」
「そうか」
真っ暗な廊下がここだけ切り取られたみたいに明るかった。その白い明るさが、沈黙をさらに深いものとする。窓の外、眼下には湖が広がっていた。風もないのだろう、凪いだ湖面に満月が映り、まるで世界に月が二つあるみたいだ。
「──ドラコ」
自分よりわずかに高い位置にある肩が揺れ、ゆっくりとこちらに顔が向く。
「一年生の時、一緒に空を飛んだの覚えてる?」
予想外の話題だったのだろう。ドラコの瞳が瞬いた。
「僕が箒を飛ばせなくて……というか、何もかもが上手くいかなくて、みっともなく君の前で大泣きした日」
「──あぁ、覚えてる」
「君が後ろに跨らせてくれて、僕は初めて空を飛んだんだ。……あの時見た景色は今でも脳裏に焼き付いてる。きっとこの先、一生忘れない。あんなに綺麗な世界を見たのは初めてだった」
沈んでいく夕日を反射して煌めく湖面、夜のベールを纏って色を変えていくグラデーションの空、暗い影を地に落として聳え立つホグワーツ城と、城を取り囲む雄大な山々。地上に縛り付けられている限り決して見ることのできないその景色は、ルークの心を蝕んでいた悲観的な感情を一瞬で吹き飛ばしてしまった。
「得意なことを伸ばせばいいと、最初に言ってくれたのも君だった」
今の自分を支える、根幹たる言葉をくれた。
ルークは大切に、思い出を噛みしめるように目を閉じる。
「君はあの時のことをそんな大げさなものだとは思ってないだろうけど、あの瞬間は僕の人生の転換点だったよ。──君に救われた」
大きく見開かれたブルーグレーと視線が交わった。ルークは何だか妙に凪いだ気持ちで、ゆったりと微笑む。
「僕は箒で飛ぶのが苦手なままだけど、君が空を飛んでる姿を見るのは好きだ。すごく自由で、空を──飛行を心の底から楽しんでるのがわかる。ちょっと羨ましいくらいに」
「……ルーク、」
──にゃあ
足元から聞こえた小さな鳴き声が、ドラコの言葉を遮った。
予想だにしていなかった第三者の登場に、二人は文字通り飛び上がって驚く。
「み、ミセス・ノリス」
ふわふわな毛並みと、ランプみたいに黄色く光る大きな目。可愛げもなく皺を寄せた怒りの表情で唸り声をあげている。深夜に校内をうろつく不届き物に対して振りまく愛想は当然持ち合わせていないらしい。
「不味いな、フィルチが来る」
「入って」
ルークは素早く抱えていた透明マントを広げてドラコ共々すっぽりと被った。
ほとんど同時に、数メートル先の暗がりにランタンの明かりが灯る。
「誰かいるのか?」
しわがれた声──フィルチだ。
闇夜にまぎれた校則違反者を探し出そうと、ミセス・ノリスそっくりな黄色の瞳をぎらぎらさせている。
ルークとドラコはマントの中でほとんど息を止め、できうる限り足音を立てないように用心しながらそっとその場を離れた。
***
「ここまでくれば大丈夫かな」
殺気立った管理人から十分な距離はとれただろう、というところでルークは透明マントを脱いだ。
しょっちゅうベッドを抜け出して夜のホグワーツを探検している兄と違って優等生な弟は、ほとんど初めての経験に体が酷く強張っていた。改めて兄の強靭なメンタルを実感してしまう。
「危機一髪だったな」
「見つかったら減点だけじゃすまないね」
「あぁ、まったくだ」
「──寮まで送るよ」
もう一度透明マントを広げ入るように促すが、ドラコは首を振った。
「目くらましの術も使えるから大丈夫だ」
「ン、そっか」
「──ルーク」
「なに?」
言葉を探すように、視線が揺れる。
暗闇に降りた沈黙は決して居心地の悪いものではなかった。
「……僕は、朝に飛ぶのが一番好きなんだ」
「──っ」
「朝日が昇るにつれて徐々に明るくなる空も、霧に揺らめく城も、静かに澄んだ空気も……一番好きだ」
「また……後ろに乗せてくれる?」
緊張を表すように僅か強張っていたドラコの表情が、ふっと緩んだ。ともすれば冷たい印象を与える色素の薄い瞳が、柔らかく細められる。
「君が、望んでくれるなら──いつでも」
瞬間、ルークの脳内に
何かの箱が開く音、あるいは、何かの鍵が嵌る音。
──それは気づきの音だった。心の深いところでひっそりと芽生えていた感情に、向き合った瞬間の音だ。
おやすみ、と早口で言って背を向けた彼に、おやすみと返す自分の声がどこか遠くに感じる。
そのままふらふらと、透明マントを被ることも忘れて寮へと戻る。熱に浮かされたような覚束ない足取りで。
幸い誰ともすれ違うことはなく、グリフィンドール寮はまだ熱気の渦に包まれたままだった。
興奮のままパーティにふける
心臓が、正常な働き方を忘れたみたいにめちゃくちゃな動きをしている。過剰に送り出される血液に、全身が熱い。無意識に吐き出した三音──その響きの甘さに眩暈がして、思わず目を閉じる。
自覚の衝撃は決して軽くない。ルークはそのまま、気を失うように眠りに落ちた。