楽器の演奏、人々の喧騒が遠くに聞こえる──あぁ、戻ってきたのだとハリーは息を吐き出した。
同時に正気へと引き戻される。
「ルーク!」
腕にしっかりと抱き寄せた弟は、目を閉じ脱力している。
泥で汚れた蒼白い顔はまるで死体のようで、ハリーの血の気が一気に失せた。
「ルーク、ルーク──目を覚まして!」
声を震わせ肩を揺さぶる。
このまま目を覚まさないなんて、そんなことが、あっていいはずがない。
「ルーク!」
「──……っ」
弟の、長い睫毛が震えた。
ゆっくりと、緑色に瞬く自分と揃いの瞳が開かれる。──安堵で、崩れ落ちそうになった。
「は、りー……?」
「ルーク……良かった、無事で──!」
「ハリー!」
焦ったような声が耳に届き、ポッター兄弟は顔を上げた。
ダンブルドアだ。
「ハリー、それにルーク、一体何があったのかね?」
「先生──ヴォルデモートです!」
ハリーの叫びが響き渡り、辺りがしんと鎮まった。
「……何じゃと?」
「ヴォルデモートが、復活したんだ!」
「ムーディ、先生が──死喰い人です! 僕を、墓地に送った──ポートキーで!」
そこまで言って、兄弟はハッと顔を見合わせた。
「「セドリックが危ない!!」」
***
──この一年、アラスター・ムーディとして防衛術の教鞭を執っていた人物が、実はポリジュース薬で変身した死喰い人であった。
この大ニュースはホグワーツの全生徒を震撼させた。
ポッター兄弟の証言によって駆けつけた教師陣に偽のムーディ──バーティ・クラウチ・ジュニアは捕えられ、これまで監禁されていた本物のアラスター・ムーディと、気絶させられていたセドリック・ディゴリーは無事に保護された。
そして、三大魔法学校対抗試合優勝という永遠の栄光は、ハリー・ポッターの手へと渡されることとなった。
彼はセドリック・ディゴリーにもその権利があると主張したが、セドリックは決して受け取ろうとはしなかった。
肝心の──ヴォルデモート卿が復活を果たしたという事実は、暗黙の了解として皆が表立って話題にするのを避けている。
ハリーとルークは好奇の、そして恐れの視線に再び晒される羽目となった。
闇の帝王の復活は事実だと慄く者
ポッター兄弟は嘘吐きだと誹る者
圧倒的に後者の方が多いだろう。
皆、真実に向き合うことを恐れているのだ。
何を聞かれてもハリーは『全て事実しか言っていない』とだけ答えた。
ルークも、何も語ろうとはしなかった。磔の呪文を掛けられたあの苦しみを──思い出したくはなかったからだ。
***
「クレール」
「──ルーカス」
ボーバトン、ダームストラング両校がホグワーツを発つ日の朝。別れを惜しむ人々の群れから少し離れたところに、ルークはクレールを連れ出した。
「最後に貴方と話せる機会があって嬉しいです」
「うん……良かった、見つけられて」
何の悪意も無いであろう言葉にすら、自分のクレールへの不誠実さを突き付けられたようでルークはその身を強ばらせる。
ハーマイオニーへのロンの態度を咎めるなんて、どの立場で物を言っていたのだろうか。
「クレール」
「……はい」
ルークは覚悟を決め、クレールへと向き直った。
罪悪感に負けないように、彼女の澄んだ青い瞳をまっすぐと見つめる。
「ダンスパーティーの日、置いて帰ってごめん。何度も話しかけてくれてたのに、ずっと聞き流すような態度をとってごめん。──最近、君のことを避けてた。傷つけた。本当に、ごめんなさい。……もっと、早くに謝るべきだった」
そうして、深く頭を下げる。
どんなに酷い言葉で罵られても受け入れる覚悟はあったが、クレール・ルーという少女がそんなことをする人物で無いことは知っていた。──だからこそ、こんなにも罪悪感と後悔が胸を満たすのだ。
「顔を……上げてください、ルーカス」
彼女は眉を下げ、どこか困ったような笑みを浮かべた。
「気づいてました。貴方が……私に興味が無いことを。──容姿にはちょっぴり自信があったんです。悲しいと言うより……悔しいですね。貴方の心を引き寄せるのに、私の魅力じゃ足りなかった」
「それは違うよ、クレール」
ルークは苦しそうに顔をくしゃりと歪ませる。
──彼女の魅力が足りないとか、そういう話ではない。誤解を与えたまま、彼女をフランスに帰したくは無かった。
「君は十分すぎるくらいに魅力的だよ。容姿だけじゃない、人柄も含めて。…………僕は、」
本当のことを言うべきだと、真摯に向き合うべきだと頭ではわかっていた。──それでも、勇気が出なかった。
拒絶、否定、侮蔑……その感情がどれか一つでも彼女の顔に浮かぶ様を想像すると、途端に気道が狭まって息を吸えなくなってしまう。
「……他に、好きな人がいるんだ……」
「──そう、だったのですね」
パチリ、とクレールの瞳が瞬く。
「貴方は本当に隠し事が上手……私、ずっと貴方を見つめていたつもりだったけど、貴方のことを何も知れなかったような気がします」
「その……うん、ごめん……」
これはもう、癖のようなものなのだ。
ダーズリー一家で徹底的に沈黙を強いられ、ルークには自己主張性というものが著しく欠けている。
魔法界に来てからも結局、改善はせずにむしろ悪化した気さえする。
弱くて、普通じゃなくて、臆病者で情けない──そんな自分が心の底から嫌になる。
ハリーに、友人たちに、見捨てられることが何よりも怖い。
ここまでルークが劣等感を拗らせてしまったキッカケ──ホグワーツに入学し、それまでずっと一緒だった兄との距離を急激に感じたこと、あるいは二年生、弱みに付け入られて両親の敵に魂を奪われてしまったこと……あるいは、日々の小さな失敗の積み重ねだろうか。
「僕は……自分を知られるの、怖いんだ。知られて、失望されて、離れていかれるのが怖い」
まぁ、失望されるほど期待もされてない気がするけど──そう自嘲的に笑ったルークに、クレールは悲しそうに目を伏せる。
「貴方の周りにいる人、みんな優しいです。彼らも……そして私も、何を知ったところで貴方を好きだという気持ちは簡単に揺らいだりしません」
「──クレール」
「出来ることなら、私がそれを貴方に解らせてあげたかったけど……時間が、もう無いですね」
か細く声を震わせたクレールは、それでも気丈に顔を上げ柔らかく微笑みを浮かべて見せた。
「これだけは忘れないで。──初めて研究発表会で会った時、貴方が私に話しかけてくれたこと、私の話を真摯に聞いてくれたこと、本当に嬉しかった。私は貴方の優しさに惹かれたんです。……例えそれが、貴方のほんの一面だったとしても構わない。ホグワーツでの関わりからも知れた貴方の真っ直ぐさは、誰が何と言おうと美徳です」
「……真っ直ぐ、さ?」
あまりピンと来ず、ルークは首を傾げた。
散々クレールから逃げ続けた自分が、真っ直ぐなどと称されていいものだろうか。
「魔法薬学に対する熱意も勿論ですけど……恋をしていると知って心底納得してしまいました。──ルーカス、貴方は真っ直ぐに、その人だけなんですね」
「そ……れは、──はは、女々しいだけだよ。希みなんてこれっぽっちもないんだ」
「女々しい? 随分と哀しい表現をするのですね。女々しいではなく、一途と言うべきです」
まるで頬を叩かれたかのような衝撃に、ルークの瞳が見開かれた。
「他の人に目もくれず、想い人を真っ直ぐ見つめる貴方の感情を否定する権利は、誰にもありません。ルーカス、貴方自身にもです」
言葉が出てこなかった。
諦めるべきが当然、異常な感情を持つのは罪悪──そう責め続けてきた自分を、クレールは真っ向から否定した。
「──ルーカス」
遠くで、マダム・マクシームの声が聞こえた。
──出立の時間だ。
「Je te souhaite un avenir radieux」
クレールはこれまで見せてきた中でも最上級に美しい笑みを浮かべた。青いシルクのスカートをふわりと掴み、完璧なカーテシー。
さすがのルークも息を呑み、瞬きを忘れる。
その隙に彼女は長い髪を静かに揺らし、背を向けた。
「クレール──!」
去っていく小柄な彼女は、あっという間に人波に紛れて見えなくなってしまった。
ありがとう、と投げかけた声は、果たして届いただろうか。──彼女の耳に、心に。
「……貰ってばっかで、何にも返せなかった……」
立ち尽くすルークの呟きは、別れを叫ぶ生徒たちの声に掻き消された。