はっと目を覚ますと、見慣れない天井が視界に広がった。
いつもより段違いに寝心地の良い、厚みのある布団にくるまれている。
(ここ──どこだっけ)
ポッター兄弟は揃ってあまり朝に強くない。ぼんやりと思考にかかった靄を晴らすように、ルークは上体を起こして頭を振った。
自室とはまるで違う広い部屋、ベッドが三つ。まだ薄暗い中に双子の兄とその親友──ロンの寝息が響いている。
(そうだ……シリウスの家だ)
覚醒するのと同時に昨日──正確には今日の夜中──の記憶が激流のように押し寄せてきて、ルークは思わずこめかみを押さえた。三十日近くも無為に過ごしてきたのに、一日でこんなにも事態が急変するなんて。
昨晩、ハリーはマグルの住宅街でディメンターに襲われた。ルークはその場にいなかったので、詳しいことはわからない。ただ、ダドリーが一緒にいたにもかかわらず守護霊の呪文を行使したことで、魔法省からホグワーツ退学を知らせる手紙が届いた──これがすべての始まりだ。
そして真夜中、ダーズリー家にやってきた八人の魔法使いに護衛されながら、ポッター兄弟はグリモールド・プレイス十二番地……ここ、ブラック邸へと連れてこられた。
名付け親や友人たちとの再会で大いに喜びあえたかというと……そうでもない、というのが現実だった。
「──っ、」
隣のベッドでハリーが身じろぐ気配に、ルークは思わず息を詰めた。……昨日の今日で、何となく兄と顔を合わせるのが気まずい。
物音を立てないように全身全霊で神経を尖らせながら、ルークは滑るようにベッドから降りる。泥棒にでもなったかのような心地を味わいつつ慎重に部屋を出て、少し歩いた先でようやく息を吐き出した。
しかし屋敷内がどうなっているかわからないせいで、下手に動くこともできずに立ち尽くしてしまう。
──どうして自分はこうなのか、と幼少期から厭になるほど繰り返した自己嫌悪で吐き気がした。
「ルーク?」
思考回路が負のループに沈み込んで完全に無防備だったため、心臓が文字通り飛び上がった。
振り返ったその勢いで、長い髪がパッと揺れる。
「ぁ、……シリウス」
「随分と起きるのが早いな。──よく眠れたか?」
「うん、それはもう……ぐっすり」
ルークの返しに、シリウスは少しばかり眉を下げて笑った。小さい子のイタズラに困らせられたような表情。
「それにしては浮かない顔をしている」
誤魔化しはやはり効かないか──と、ルークも大人しく肩をすくめた。シリウスは優しく目を細め、ルークの肩に手を置く。
「昨夜のことを気にしているのだろう? ……ハリーは、君を除け者にしたいわけじゃないさ」
「うん……わかってる」
ふ、と乾いた笑いが零れた。
──わかってる。本心だ。心の底から理解している。
「ハリーは正しいよ。僕は『例のあの人』と戦う覚悟なんて無いんだ。『騎士団』に、入れる器じゃない。──入ることを、望んでもない。そんな僕に……情報なんて渡さないのが正解だ」
今、魔法界はどうなっているのか。
ヴォルデモートはどう動き、何をしようとしているのか。
ダンブルドアが対抗組織として創ったという『不死鳥の騎士団』──ここブラック邸を本部とする彼らが、どんな活動をしているのか。
ハリーはすべてを知りたがった。
そして、そのすべてからルークを遠ざけたがった。
過去に魂を奪われかけ、拷問の呪いをその身に浴びたルークはヴォルデモートに対して相応の恐怖心を抱いている。
悪夢に呻き、真夜中に飛び起きた回数は夏休みの間だけでも両手では足りない。
ハリーの行動は、そんな弟を理解しているからこそだ。……わかってる。
──寂しいなど、思う方が、傲慢だ。
「ルーク」
肩に置かれたシリウスの手に、力が込められた。痛みを感じるギリギリ手前の強さに、思わず俯いていた顔を上げる。
「──君には残酷かもしれない。……しかし、私も、ハリーに賛成だ」
シリウスのグレーの瞳が、真っ直ぐに……真っ直ぐ過ぎるほどに、ルークを射抜いた。
「僕が、弱いから」
「その言い方は正しくないな」
視線が外れる。何かを考え込むように、彼はそっと顎髭を撫でた。
「……少し、昔話に付き合ってくれないか」
着いてきてくれ。
彼は短くそう言って、ルークの背に手を当てた。
屋敷内は広い。外からはとても想像がつかないくらいに。きっと魔法で拡大しているのだろう。
シリウスにエスコートされる形で辿り着いた部屋。足を踏み入れた瞬間、ルークは思わず感嘆の吐息を漏らした。
部屋の奥、壁を覆う巨大なタペストリーが飾られている。色は褪せ、少なくない穴や
「──家系図?」
「あぁそうだ。我がブラック家のね」
シリウスの骨張った指が、タペストリーの一番上を指した。
高貴なる由緒正しきブラック家
"純血よ永遠なれ"
一際目立つよう太く大きく刺繍されたその文字に、つい頬が引き攣る。重すぎる『思想』は、触れると中々に痛いのだ。
「──シリウスの名前はどこにあるの?」
「……かつてはここにあった」
彼の指が、今度は下部中央あたりを指す。そこには黒い焼け焦げがあった。まるでタバコを押し付けた跡のようにも見える。せっかく見事なタペストリーに、それは余りにそぐわない
「私が家出をした後、お優しい母上はわざわざ抹消してくださったんだ」
彼の口調は穏やかなものだったが、言葉には確かな皮肉が込められていた。なんと返せばいいかわからず、ルークは黙り込んでしまう。
「……君に話したかったのは私の話でも、純血主義を拗らせた我が家系の話でも無い。──彼の、話だ」
シリウスの長い指が一点を指し示す。焼け焦げの隣に、その名は刻まれていた。
「──レギュラス・ブラック……?」
「弟の名だ」
「えっ! あなたにも弟がいたの?」
「あぁ。君たちと違って双子では無いがね。二つ下だった」
──懐かしむ、気配はなかった。その声の平坦さには、いっそわざとらしさすら感じる。
「……亡くなったの」
タペストリー……レギュラスの名前の下には、生年月日の他に死亡年月日が記されていた。十五年前に亡くなったらしいとわかる。
「愚かな弟だった」
シリウスは静かに言った。
「愚かだが……私より余程、
「……」
「レギュラスは、死喰い人に加わったんだ」
ルークの喉が鳴った。大きく見開かれたグリーンの瞳が揺れる。
「ご、ご両親も?」
「いや違う。……しかしヴォルデモートの思想に賛同はしていた。あの時代、純血主義を掲げる家系は皆そうだった」
シリウスの形の良い唇が歪んだ。
「レギュラスがアイツの配下となったこと、両親は喜び誇りに思ったはずだ」
吐き捨てるような口調にも、彼の苛立ちと嫌悪が乗っている。
「……レギュラスさんは、どうして、その……」
亡くなったの。
その問いは、ほとんど音にならぬまま吐息として唇から零れる。しかしシリウスは、ルークの疑問を取りこぼさなかった。──その話をするために、名付け子をここに連れてきたのだから。
「弟は、ヴォルデモートに殺された」
「ッ、な」
「ヴォルデモートの命令で殺された、という方が正しいのだろうな」
シリウスは淡々としたものだった。表情を崩すことも無く、タペストリーに刻まれた弟の名を見つめている。
「弟は……レギュラスは怖気付いたんだ。ヴォルデモートという存在に……ヴォルデモートに命令されて、己がしていることの重さに気付き、恐怖を知ってしまった」
「……」
「逃げようとしたのだろう。……だが、ヴォルデモートが大人しく辞表を受け取るなど有り得ない」
彼の指が、そっと、レギュラス・ブラックの名を──そして下に刻まれた、死亡年月日の上を滑る。
「ヴォルデモートに恐怖を覚える者は、覚悟よりも恐怖が勝ってしまう者は、彼奴に関わるべきじゃない。それが……どんな形であっても」
「……レギュラスさんを──」
ルークの声が、微かに震えた。
「──弟を、愛してた?」
「っ、……どう、だろうな……」
くしゃりとシリウスの顔が歪んだ。それは、この部屋に来て初めて彼が見せた、哀しみの色。
「ずっと、分かり合えない存在だった。……だが、……愛したいとは、思っていた」
「……そっ、か」
それ以上、彼を見ていられなくてルークはそっと視線を外す──そして、息を、呑んだ。
「…………ど、らこ」
巨大樹の枝のように張り巡らされた家系図、その端っこ。
ドラコ・マルフォイの名が、刻まれていた。
生年月日もルークが知るものと一致する。間違いなく彼だ。
「し、シリウス、なんでブラック家の家系図にマルフォイがいるの?」
「──あぁ」
なんてことないように、シリウスは軽く首を振った。
「親戚だからだ。純血を保つために聖28一族は結婚を繰り返している。ここに名が無いのはウィーズリーくらいだろう」
「……そ、う……なんだ」
ルークはまるで、吸魂鬼に背を撫でられたかの如く身を震わせた。
恐怖と言うより、いっそ畏怖にも近しい感情が腹の中で蠢き、脊髄を凍らせ、脳を麻痺させ、視界を白く明滅させる。
──思想など、個人の自由だ。
ルークは、言葉にせずともそう思っている。
しかし──、
(こんなのは、もう、呪いだ)
思想と一言で纏めてしまうには、積み上げられた歴史が、積み重ねられた血族が、積み立てられた犠牲が重すぎる。
それらが鎖となってドラコの身に絡み付く幻影を、ルークは確かに見た。
(──恐怖を覚える者が、ヴォルデモートに関わるべきじゃない)
だけど、
(関わらないという逃げ道が、最初から無いのなら)
その先に、待っている運命は──
ふっ、と、ルークの思考は不自然に途切れた。意図的に、途切れさせたのだ。
これ以上、何を見ても、何を考えても、自分にはどうすることも出来ない、出来ないのだから……。
こうして、彼は、彼らは目を逸らし続ける。
──逸らし続けたその先に、
ルーカス・ポッターの身と、ドラコ・マルフォイの魂を蝕む運命は、彼らの