「──あのアンブリッジとかいう女は一体なんだ?!」
「ロンったら、声が大きいわ」
大広間を出てすぐ、憤慨あらわに声を荒げた友人をハーマイオニーがぴしゃりと窘めた。
「貴方、自分が監督生だってことをお忘れ?」
「忘れるもんか。──一年生はちゃんとついてきてるだろ」
ちらっとロンが振り返ると、一年生たちは皆どこか怯えたように身を強ばらせる。
緊張しているのだろうか、とハリーは横から彼らに笑いかけるも、返ってきたのは怯えと今以上の緊張だった。
途端、ハリーは冷水を浴びせられたように頭が覚めるのを感じる。
(あぁ、この緊張は僕のせいか)
腹の奥にずんと重たい石が沈んだような心地だった。
ポッター兄弟を虚言癖の狂人と嘲った日刊預言者新聞の影響は、今年からホグワーツ生となる後輩にまで及んでいるらしい。
「アンブリッジのことはつまり……魔法省が、ホグワーツに介入するってことよね」
「……あんまり考えたくないことだけど、そうだね」
後ろでジニーとルークが囁き合うのが聞こえる。うんざりだった。何もかもすべてが。魔法省は何をしたいんだと、苛立ちがぐつぐつと煮えくり返る。
ヴォルデモートは復活した。これは事実だ。事実を事実のままに受け入れ、対策を早急に講じることの何がそんなに難しいのだろう。いずれ必ず訪れる闇の魔法使いとの戦争。それに備えることすら躊躇い、足踏みし続ける意味がどこにある。
「ルーク、気を付けてね。あのアンブリッジとかいう女、あなたやハリーをきっと警戒してる。何か仕掛けてきてもおかしくないわ」
「たぶんだけど……あまり大っぴらに事は為さないよ。魔法省はあくまで、僕らやダンブルドア校長を監視下に置きたいだけだ。こっちが目立つことをしない限り何も……」
「何もしなくても、僕らはもう目立ってる」
振り返ることもしないまま落とされたハリーの鋭い言葉に、ルークは口を噤んだ。
弟に苛立ちをぶつけてしまった罪悪感と後悔が一瞬で胸に迫り上がり、ハリーは唇を噛む。しかし咄嗟に謝罪できるほど、胸中は穏やかではない。
──寮に着くまで、もう誰も何も言わなかった。
如何に自分たちを取り巻く環境が変わっていこうとも、迎えてくれるグリフィンドール寮談話室の様子は何も変わらない。
内装を真紅で揃えられた荘厳で暖かな部屋に、ルークは詰めていた息を吐き出した。暖炉でオレンジ色の火が爆ぜるぱちぱちとした音の、なんと心地いいことか。プリベット通り四番地の自室なんかよりも余程くつろげるその空間に、ようやく『帰ってきたのだ』と実感が湧く。ここ連日の微妙な緊張感のせいで、身体は疲れ切っていた。明日からはさっそく新学期が始まるのだ。今日はもうさっさと寝てしまおう──と男子寮へ続く階段に足を向けたルークは、苛立ちを隠しきらない兄の声に動きを止めた。
「シェーマス、それどういうこと?」
後ろ姿しか見えない。しかし、ハリーの表情が怒りに歪んでいることが手に取るように分かった。
「『僕のせいで学校に戻るな』って言われた? まさかとは思うけど、君の母親は日刊預言者新聞を信じているの?」
駆け寄ってハリーを窘めようとしたルークだったが、その言葉が足を床に縫い留める。
「僕とルークが頭のイカれた嘘つきで、ダンブルドアはボケた老人だって、君の母親はそう言ってるわけだ」
「そんな言い方はしてない」
「日刊預言者新聞はそう言ってる!」
つい先ほどまでざわついていた談話室が、いまはしんと静まり返っていた。いやな静けさだ。ルークは心臓の鼓動が早くなっていくのを感じた。
「それじゃあ教えてくれよ」
シェーマスは明らかに気分を害したように顔を顰めて立ち上がった。
「あの夜、何があったんだ?」
「僕はもう何度も言った。あの日叫んだことが事実で全てだ。──それ以上の何かを知りたいなら、日刊預言者新聞を読めよ。母親みたいに、馬鹿げた記事を一から十まで」
「僕のママを悪く言うな!」
いよいよシェーマスが声を荒げた。怒りに燃えた目が、ハリーを睨みつけている。
「僕たちを嘘つき呼ばわりしたのはそっちだろ?」
ハリーの方は、酷く冷めた目をしていた。氷のように冴えた声は、怒りと失望に満ちている。
「イカれた僕と同じ寝室で過ごすのが嫌なら、マクゴナガルに頼めばいい! 君のママを心配で泣かせないようにね」
それ以上は何も聞きたくないと言わんばかりに、ハリーはシェーマスに背を向けた。荒い足取りで男子寮へと向かうその途中、ルークと視線がぶつかる。……しかし何も言わず、言わせず、目を逸らされた。
重く淀んだ沈黙が覆う談話室に、木の扉が荒く締まる鈍い音が響き渡った。
「……シェーマス」
肌を突き刺すような静寂の中では、囁くような小声でもよく通る。名を呼ばれた彼は、何かに怯える表情でルークを見た。
「……ごめん」
「──え、」
ルークの言葉は予想に反するものだったのだろう。シェーマスの目が零れそうなくらいに見開かれる。
「……ハリーは最近、凄く苛立ってる。やらなきゃいけないことは明確なのに、周りがそれを阻むから」
「どういう意味?」
「──僕らは嘘をついてない、ってことだよ」
ルークの声はどこまでも穏やかだ。ハリーのようにあからさまな怒りが込められてない、淡々とした声音。
「……僕は一度、『例のあの人』に身体を乗っ取られてる。四年生以上のみんなは、それを知ってるよね?」
ぐるりとルークは談話室内を見渡した。
全員の視線が自分に突き刺さっている。みな一様に、どこか怯えるような、戸惑うような表情を浮かべていた。
「みんなと違って、直接殺されかける経験をした。……だから僕は、他の人よりよっぽど、『あの人』が怖いよ」
ルークの視線が床に落ちる。
「両親を殺された。自分も殺されかけた。アイツはハリーを、僕を──僕たち兄弟を狙ってる。怖くて堪らない。なんでこんなって何度思ったかしれない」
徐々に弱々しくなっていく声は、誤魔化しようもないほど震えていた。
「日刊預言者新聞が好き勝手書くのは仕方ないと思ってる。だって、彼らは僕らを知らない。……でも、君たちは違う」
ハリーとルークは双子だが、性格は必ずしも一致しない。
友人すら自分たちを信じてくれない事実に怒りを覚えたハリーと違いルークはそこに──ただひたすら、哀しみを覚えた。
「同じ寮で同じ時間を共有してきてる。臆病で、出来損ないで、どうしようもなく情けない僕を知ってる。……その上で聞きたい。この小心者の僕が──自分の命を狙う最悪の魔法使いが復活しただなんて、どうしてそんな嘘をつく必要がある?」
驚異的なまでに自分を過小評価するルークだけが、その言葉に説得力を持たせることが出来た。
何人もの息を飲む声が、深海の如く静かな談話室に響く。
「そ、それじゃあ……」
恐る恐る、パーバティ・パチルが声を上げた。彼女は親友であるラベンダーとしっかり腕を組み、青ざめた表情でルークを見つめている。
「本当に、見たの……? 『例のあの人』の復活を……」
彼女の震える声には、砂粒ほどの期待が混ざっているように思えた。──まさか、冗談だよ! と笑い飛ばすルークを、彼女は望んでいる。
しかし彼が彼女に返せるのは、残酷なまでの事実だけだ。
「見たし、聞いたし、死ぬような思いだってした。全部がただの悪夢であるなら、それは何よりも僕の本望だよ」
胃から苦味が迫り上がり、ルークは思わず顔を歪めた。
あの夜に感じた恐怖が、黒い手となり頬を撫ぜる。
パーバティとラベンダーの悲鳴が連鎖し、談話室には異様なざわめきが拡がった。
俯き立ち尽くすルークの背に、ジニーはそっと手を当てる。
彼女は、弟のような年上の親友──その繊細な心に負った傷を癒すように寄り添った。
「大丈夫?」
「……うん……大丈夫。──僕、もう寝るね」
「えぇ、おやすみなさい。あなたがいい夢を見れるように願ってるわ」
彼女の優しさに精一杯ぎこちない笑みを浮かべ、ルークは男子寮の寝室へと入った。
ハリーのベッド周りには既にカーテンが引かれている。寝息は聞こえなかったが、何も声はかけなかった。
フラフラと己のベッドに沈み込むと、そのまま急激な睡魔に襲われる。──意識が、途切れた。