魔法史、魔法薬学、マグル学──新学期初日は比較的ルークにとって好ましい授業が続いた。魔法史は座学が中心のため、実技が壊滅的な自分にとっては貴重な点数源だ。催眠の呪いが籠められているに違いないと噂されるビンズ先生の授業で、最初から最後まで正確に意識を保てることは『特技』と言っても過言ではないだろう。
魔法薬学は言わずもがな。今年度最初の授業の課題を至極あっさりと片付けたルークは、授業後スネイプに居残りを命じられた。
「なんでしょう、スネイプ先生」
ルーク、そして、ドラコだけが残された地下牢教室。形式的に質問として言葉を吐きながらも、これから何を言われるのかなんて考えるまでもなかった。去年は
「さて、もう予想がついているだろうが『特別授業』についてだ。──今年は試験を課さない。曜日の指定もするつもりはない、君たちが望むなら今日からでも教室使用の許可を出そう」
もったいぶるでもなく、スネイプはさらりとそう告げた。しかしその内容は、あまりにも天恵。
「そ、それは、許可さえいただければいつでもこの教室を使っても良いということですか?」
上ずったドラコの声に、ルークも期待を隠せない表情でスネイプを見つめる。
「そう聞こえなかったかね?」
答えはYES。ルークとドラコは今に飛び上がらんばかりの興奮を必死に抑えながら、熱い視線だけをちらと交わし合った。必要の部屋には確かに何でも揃っていたが、調合に必要な素材が手に入るのは
三年生の時よりもさらに自由度が増すということ。魔法薬学に狂った者として、これ以上のご褒美もないだろう。
「ただし、他の教科の成績があまりにも酷い場合は許可の範囲を検討しなおすことを忘れないことだ」
スネイプは鋭い視線に飽き足らず、首ごとルークに向けた。ドラコの成績は心配される範囲から遠く外れている。紛れもなく己
「……はい」
即答できない己のなんと恨めしいことか。腰に差した杖をローブの上からそっと撫ぜる。──どうか、そろそろ僕の言うことを素直に聞いてくれよ、そんな思いを込めながら。
***
闇の魔術に対する防衛術の教師は何の呪いか一年ごとに変わっている。故に、教室の様子も毎年全く異なるのだ。今年はどんな感じだろうかとワクワクしながら向かうのが、学年を重ねた生徒たちの恒例行事となっている。──しかし、今年は違った。皆どうにも不安そうな表情で、足取り重く教室へと向かう。
それもそのはず、今年防衛術教師のポストに就いたドローレス・アンブリッジなる女は着任早々恐ろしくつまらないスピーチを長々と披露した実績をすでに解除している。『話が長くつまらない』教師とは、否応なく学生に嫌われるものなのだ。
教室に入った生徒を出迎えたのは、満面の笑みを浮かべながら教壇に座るアンブリッジであった。
目に鮮やかすぎるフラミンゴ色のローブは、それだけで強烈な存在感となる。すなわち、威圧感。
各々微妙な表情を隠せもしないまま席に揃った生徒たちをぐるりと見渡し、アンブリッジは立ち上がった。
「こんにちは、皆さん」
嫌味なほどよく響き渡る声だった。ぼそぼそと数人が「こんにちは」と返す。ルークもその一人だ。
それがどうもお気に召さなかったらしい。アンブリッジは幼子を叱る母のように、チッチッと舌を鳴らした。
「いけませんわ、皆さん。良いですか。挨拶ははっきりと、大きな声で! 『こんにちは、アンブリッジ先生』!」
『こんにちは、アンブリッジ先生!』
一瞬、ここはプリスクールだったかと錯覚。
何人もがうんざりとした内心をあからさまに態度に示したが、アンブリッジは酷くご機嫌な様子で頷いた。
「えぇえぇ、良いでしょう! では皆さん、杖は仕舞って、羽ペンを出してくださいね」
これ幸いと言わんばかりに杖をしまいかけたルークは、視界の端に映るハリーの歪んだ表情に気付いてそっと動きを止めた。──あぁ、何とも荒れそうな予感である。
しかしアンブリッジの笑顔の圧には敵わない。結局すべての生徒が文句を漏らすことも許されないまま杖を鞄に押し込み、代わりに羊皮紙と羽ペン、そして新品の教科書を広げた。
「さて皆さん」
満足そうに頷いたアンブリッジが妙に気取った仕草で杖を振ると、黒板にするする文字が現れる。
【授業の目的】
「この学科の授業はこれまで、進みや内容が随分と乱雑でしたね。──それもそのはず、頻繁に変わる教師たちが皆、魔法省の定める指導要領に従っていなかったことが原因です」
したがって! アンブリッジが甲高く声を跳ね上げた。
「皆さんの学力は魔法省が期待するレベルを大きく下回っている、と言うのが悲しいことに現状です」
アンブリッジは再び杖を振り、皆の視線を黒板へと誘導した。
【1.防衛術の基礎となる原理を理解すること】
【2.防衛術が合法的に行使される状況認識を学習すること】
【3.防衛術の行使を、実践的な枠組みに当て嵌めること】
「しかし不安に思うことはありませんよ」
アンブリッジの気味の悪い猫撫で声が、生徒たちのやる気を極限まで削いでいく。
「今年からはこの
ルークは隣に座るハリーの機嫌がみるみるうちに急降下していくのを肌で感じ取りながら、真新しい質感を残した教科書をそっと開いた。
うんざりするぐらいに文字の暴力。防衛術の教科書とは思えないほど
「あの、先生──質問よろしいでしょうか」
「はい、ミス・グレンジャー」
「この教科書、呪文を使う内容についての記載がありません」
教室がにわかにどよめいた。
闇の魔術に対する防衛術と言えば、呪文学や変身術と並んで杖を振る筆頭の科目である。その教科書に、呪文の記載がないだなんて。
しかしアンブリッジの方はと言えば、それが何か問題でも? と言わんばかりに目を瞬かせた。
「えぇ、この授業では杖を振りません。
「でも、そんな!」
真っ先に文句を吐いたのは、当然の如くハリーである。
教室中の視線が突き刺さり、隣に座るルークがひゅっと身体を小さくする。
「理論中心の防衛術なんて、実践では何の役にも──」
「発言をするときは手を挙げてから!」
その場にいる全員の背筋が伸びるような、鋭く甲高い声だった。耳障り、と表現する他ないそれに、ハリーはますます渋面を深くする。
「……質問を、よろしいでしょうか」
「えぇどうぞ、ミスター・ポッター」
「杖を、呪文を使わずに、どうやって防衛術の使い方を学ぶんです?」
なるべく理性的に聞こえるように、ハリーはわざとらしくゆっくりと文節を切ってそう尋ねた。さぁ、納得できる答えを示して見ろ──と、好戦的で反抗的な態度は微塵も隠せていないが。
しかしアンブリッジはハリーよりもずっと
「防衛術を
「安全な防衛術なんて、実際襲われた時に役に立つとは思えません」
「襲う? ただの子供に過ぎない貴方を、いったい誰が襲うと言うのです」
その言い草が、ハリーの短い導火線に火を点けた。額に青筋を立てながら、それを誤魔化すようににっこり笑う。
「えぇそうですね、例えば──ヴォルデモート卿」
教室のあちこちから、か細い悲鳴が上がった。アンブリッジは笑顔を凍り付かせ、ルークは血の気が引くような思いで口元を引き攣らせる。
「グリフィンドール、十点減点です」
低く冷たい声、そして、「──はっきりさせておきましょう」一転して媚びるように甘ったるい声が、教室にじゅわりと響いた。
「皆さんはこれまで、
「でも──!」
「よいですかポッター! 貴方が子供っぽい妄想を捗らせるのは結構、英雄願望に浸って悦を感じるのも結構! しかしそれを他者に押し付け、無為無闇に混乱を生むのは感心しません」
ガタンッ、激しい音が響いた。
ハリーが立ち上がった反動で椅子の転がった音だ。
「妄想? 英雄願望だって?! 違う、僕は確かにアイツと戦った! ヴォルデモート卿は、復活したんだ!!」
「……ハリー」
その時、場にいる誰も予想できなかった声がぽつんと教室に落とされる──ルーカス・ポッターだ。興奮しきった兄とは対照的に静かな声色は、自然と教室中のざわめきを押し殺す圧を孕んでいた。
彼はす、っと立ち上がり、ハリーの腕を掴んでその身を引かせた。
「授業を中断させてしまって申し訳ありません」
ただ一言。感情を一滴だって滲ませぬ平坦な声色は、到底ルークの声から出たモノとは思えない冷たさがあった。教室中の視線を一身に浴びながらアンブリッジに頭を下げ、ハリーを座らせようと手に力を籠める。
「……なんのつもり」
「……ハリー、いま話すことじゃないよ」
ルークの態度が、ハリーの怒りに油を注いだ。
「『いま話すことじゃない』だって?!」
ハリーはいっそ憎々しげに顔を歪ませ、力強くルークの手を振り払った。
「ヴォルデモートは確かに帰ってきた! いまこの瞬間にだって、ひとりでも多くのマグル生まれを殺そうとしてるに違いない。これ以上に『いま』考えるべきことなんてないだろ?!」
「わかってる……わかってるけど、でも、それは今ここで、この場所で押し通すべき主張じゃない」
「主張?! 主張じゃない、事実だ!」
もどかしそうに眉を下げるルークと対照的に、ハリーはどんどんヒートアップしていく。──もう、止められないところまで来ていた。
「ルークだってアイツに『磔の呪文』をかけられただろ?!」
時が、止まった。
それは、決して口に出してはいけない言葉であった。
ルークの顔から一気に血の気が引いた。まっすぐ立っていられなくなり、机に片腕をつく。一瞬にして生気を失った弟の姿に、ハリーはようやく正気を取り戻した。
咄嗟に喉元までせり上がった謝罪の言葉を掻き消すように、「もう結構!!」アンブリッジの劈くような高い声が轟く。
「グリフィンドールは二十点減点です。ハリー・ポッター、ルーカス・ポッター! 二人には罰則を与えます。今夜十九時、わたくしの部屋においでなさい。この後大人しく授業を聞く気がないなら、さぁ今すぐ教室を出て行って!」
「そんな」とハリーは弱々しく抵抗の意を示した。
「僕はともかく、ルークは──」
何もしていない、そう続けられようとした言葉を遮って、ルークは再びハリーの腕をつかむ。さっきとは比べ物にならない強い力だった。
今すぐここから逃げたい。そんな、必死の感情を正確に読み取れてしまったハリーは、ようやく大人しく鞘を納めた。──そうして双子は、針よりも鋭い数多の視線から逃げるように、防衛術の教室を出て行った。