「──ルーク、……ルーク!」
どの学年も授業中だ。放課後の騒がしさが嘘のように静かな廊下を、ルークは脇目も振らずにどんどん突き進んでいく。どこに向かおうとしているのか、ハリーの腕を掴んだまま、ただ無心で足を動かし続けている。
様子がおかしい。……その原因は、責任は自分にある。どうかしていた。いくら頭に血が上っていたとはいえ、弟のトラウマを抉り返すなど兄として絶対に有り得ぬ行為であった。ハリーは後悔と焦りを募らせながら、それでも何とかルークの意識をこちらに向けさせようと何度も弟の名を呼ぶ。
「ルーク!!」
そうして何度目だったか。
ようやく、ルークはピタリと足を止めた。体力があるとは言えない弟だ。早歩きで棟二つ分を移動して、肩を上下させている。
「……ルーク……?」
こちらに顔を向けない弟に、ハリーは恐る恐る声をかけた。喧嘩と呼べるものではないのかもしれないが、それでも全面的に悪いのは自分の方だ。自覚があるから、どうしたって
「ハリー」
振り返ったルークの顔色は、酷いものだった。肌も唇も青褪め、まるで病人の様相である。
「ハリーの内心が、理解できないわけじゃないんだ」
ルークはハリーの腕を離し、石壁にもたれるようにずるずると座り込んだ。膝の間に顔をうずめ、ぽそぽそと力ない声を漏らす。
「間違ってるのは魔法省だよ。例のあの人は──ヴォルデモート、卿は、確かに復活したんだ。……リドルの墓での出来事は夢でも幻でも、妄想でもない。近いうちに、アイツは必ず僕らを、ホグワーツを襲撃する……って、僕も思ってる」
「──そう、そうだよ」
ハリーは立ったまま俯いた。蹲った弟を無理矢理視界から外し、艶々と磨かれた床を睨みつける。
「だから、備えなくちゃならないんだ。アイツと戦って、倒さないと。今度こそやらないと……また、誰かが殺される」
誰かが──例えば
磔の呪文を食らった記憶がルークにとってトラウマになっているのと同じように、ハリーにとっても、あの時の光景はトラウマであった。
己の無力が原因で、弟を守ることができなかった。死なせかけた。……二年生の、あの時と同じように。
守りたいのに、危険な目に遭わせたくないのに、幼い時分そう誓いを立てたのに──。
赤子の時に両親を喪った己にとって、ルークはたった一人の家族だ。世界の中心であり、全てだ。
ダーズリー家の奴隷に等しかった自分に、唯一存在価値を与え続けてくれていたのがルークであった。
──その彼を
「ヴォルデモート卿を、倒さないと」
使命感と呼ぶにはあまりにも、私怨が強すぎる。
ヴォルデモート卿と言う存在は、ハリーにとってまさしく脅威。──恐怖、では無いのだ。
「そう思えるのは、ハリーが特別、強いからだよ」
兄から弟へ向けられる強烈な執着。他ならぬ
「賭けてもいい、魔法省は絶対に、僕らの見た現実を事実とは認めないよ」
「なんで」
ハリーは苛立たしく顔を上げた。
何故、とそれが全てだ。
脅威が目前に迫っていて、どうして対策をしないのか微塵も理解できない。襲われる日をのうのうと待てとでも言うのか。
「怖いからだよ」
ルークの答えは簡潔で、明瞭だった。
「怖いんだよ。『例のあの人』って存在が、怖くて堪らないんだ。怖いから、『帰ってきた』って
「そんなの……」
ハリーにはどうしても納得がいかなかった。駄々っ子みたく口を歪ませ、地団駄を踏むように足を鳴らす。
「結局まやかしだ。僕らが必死に仮初の平和を維持しようとしても、奴らはどうしたってそれを壊しに来る。……なんでそれがわからないんだ」
痛いぐらいの正論だった。ルークは顔を上げぬまま、小さく笑う。
自嘲の笑み、他ならなかった。
「臆病で、弱くて、どうしようもなく愚かな人間は、頭で理解できていても現実を受け入れられないんだよ」
ルークの言葉はルーク自身に突き刺さる。
その痛みに耐えるように、顔を上げぬまま強く目を閉じる。
「悪いものから目を逸らして、耳を塞いで、此処は安穏の地だって無理やり自分に思いこませて動かない。……一度、痛い目を見ないと動き出せないんだ」
──
呑み込んだその言葉は、どんな魔法薬よりも苦く重く、心の奥底に沈んでいった。
「ハリーは正しいよ。でも、君が思ってるよりもずっと、みんな愚かなんだ。──魔法省は愚かだけど、力がある。ハリー、癇癪は抑えて。そうでないと、魔法省は君を全力で潰しにかかる。……君は正しい、でも、やり方は間違ってる。ヴォルデモートに抵抗する力を付けたいなら、他のやり方を考えないと」
ようやく顔を上げたルークの翠緑は、昏い涙に濡れていた。
***
城に黒々と夜影の落ちる時分、ポッター兄弟は足取り重く東塔の階段を上っていた。会話という会話もなく、ただ薄闇に足を取られないよう視線を落としながら歩を進める。
「──失礼します」
扉をノックする腕は、鉛のブレスレットでも引っ提げているのかと思うほど重い。
「どうぞ、お入りなさい」
煮詰めすぎた砂糖のように甘ったるい声が扉を貫通し、ポッター兄弟は揃って顔を顰めた。しかしいつまでも時間を無駄にするわけにはいかない。
覚悟を決めて入った部屋は、ある種予想通りともいうべきピンク色に染められていた。そして壁を覆うように飾られた、大量の猫の写真。──自画像で壁を埋めていたギルデロイ・ロックハートよりはまだマシなセンスと言えるだろう。
「さ、座って」
アンブリッジは妙に機嫌がよさそうだった。優雅に紅茶を啜り、そしてゆっくりと引き出しを開け二本の羽ペンを取り出した。
「罰則の内容は書き取りです」
考えていたよりもずっと軽い罰則だ。ルークはこっそりと安堵の息を漏らしたが、ハリーは逆に警戒心を強めて眉を顰める。
「書いてちょうだい。『僕は嘘をついてはいけない』」
「何回ですか?」
「そうね、その言葉が
「先生、インクもいただけますか?」
「あぁ、インクはいらないの」
ローズピンクに彩られた唇が意地悪く弧を描く。マグルのおとぎ話に出てくる悪い魔女のようだ。
ハリーとルークは一瞬顔を見合わせたが、各々目の前に置かれた羊皮紙に羽ペンの先を付ける。そうして、慣れた手つきでペンを滑らせた。
【僕は嘘をついてはいけない】
とたん、ピリッと右手に微かな痛みが走り、兄弟は揃ってアッと声をあげた。
見ると、手の甲に赤く文字が刻まれている──僕は嘘をついてはいけない。切り傷はみるみる塞がり、やがて消えてしまった。
「──先生、これは……」
「あら、どうかしたの?」
アンブリッジは底意地悪い笑みを誤魔化そうともしていなかった。ハリーは気遣うような視線をちらとルークに向けたが、結局「なんでもありません」と静かに言った。
何度書いたことだろう。羽ペンはどうやら、書き手の血をインクとして紙に写す魔法具らしかった。
──僕は嘘をついてはいけない
──僕は嘘をついてはいけない
──僕は嘘をついてはいけない……
何度も何度も繰り返し、羊皮紙を埋めていく。じくじくと痛みを与えながら手の甲に刻まれる文字はますます深く、ついに塞がらず蚯蚓腫れとして残るようになった。
何よりも不快だったのは、身に纏わりつくアンブリッジの視線だった。弱った獲物が死ぬのを待つハゲタカのように、じっとこちらを見つめている。ハリーは意地でも弱ったところを見せまいと、時計を見上げることさえしなかった。ルークも同じだ。兄弟が泣き言を吐き始めるのを待つ態度を隠しもしないアンブリッジに、得体のしれない恐怖を覚え顔を上げることができなかったのだ。
「よろしい、今日はここまでにしましょう」
ようやく終了の合図がかかった時、時計の針はとうに0時を超えていた。経過した時間を認識した瞬間、張り詰めていた糸が切れたようにドッと疲労が押し寄せる。ルークはぐらりと視界が揺れ、思わず大きく息を吐き出した。身体が泥のように重く、今すぐベッドに帰りたい。
「手を」
アンブリッジの笑顔に逆らう術はなかった。ハリーは荒々しく、ルークはよろよろと右手を突き出す。
「まァ、よろしいでしょう」
その直後、女は兄弟を絶望へと叩き落した。
「でもまだ足りないわね。明日また、今日と同じ時間にいらっしゃい」
「冗談だろう」と顔を見合わすも、文句を言う気力は残されていなかった。