「上手くいったわ」
深夜、静まり返った談話室の片隅にて、ハーマイオニーが興奮を抑えながら何度もそう繰り返すのを、ハリーはどこか他人事のように眺めていた。
「思っていたより人は集まったし、警戒してた冷やかしも無かった」
「まだ分からないぜ。アンブリッジに告げ口した奴がいるかも」
「大丈夫よ。皆から署名をもらったあの紙に私、呪いをかけたの。『ダンブルドア軍団』のことを外部に漏らしたらその……
「うへぇ……常々思ってるけどさ、僕、君だけは絶対敵に回したくない」
聞いてるだけで気の抜けそうなハーマイオニーとロンの会話に加わることもせず、酷く神妙な顔で黙ったままいるハリーに、ジニーがどこか躊躇いがちに声をかけた。
「ねぇハリー、何か気になることでもあったの?」
「えっ」
「ずっと考え込んでいるように見えるから」
気づけばロンとハーマイオニーも黙りこくって、気遣わしげな視線をこちらに向けている。ハリーはちょっと困ったように苦笑しながら首を振った。
「その、ルークを誘うかどうか迷ってて」
途端、アァと皆が納得するように頷き空気が弛んだ。
「別に隠す必要もないだろ。誘うだけ誘ってみたらいいじゃないか」
ロンの声音には呆れが隠しきれていない。何をそんな真剣に悩む必要があるのかと、表情が言外に伝えてくる。
「むしろ積極的に誘うべきじゃない?」
ハーマイオニーは言った。
「彼こそ防衛術をもっと磨かないと」
「ルークを表立って戦わせるつもりはない」
「あなたにそのつもりがなくても、『例のあの人』がどう動くかはわからないでしょう。常に最悪を想定しておくべきだわ」
いかにも合理的な彼女らしい意見に、ハリーは押し黙るしかなかった。
アンブリッジによる何の役にも立たない『闇の魔術に対する防衛術』授業に耐え兼ね、ハリーを中心として自主的に防衛術を学ぶグループを設立しようという話になった時、ルークはその場にいなかった。会合第一回兼説明会であった今日も然り。ルークはまだ、ハリーたちの企みを知りもしないはずだ。
「彼が参加することに、あなたはどうして消極的なの?」
ジニーの疑問はもっともだった。
ハーマイオニーも言った通り、実践が苦手なルークこそもっと防衛の手段を身に着け磨くべきだ。彼がハリーの弟である限り、背負わされるリスクはどうしたって無視できないのだから。
しかし──
「……巻き込みたくないんだよ」
あまりにも弱々しく、そして切実なハリーの声に、隣でジニーが小さく息を呑んだ。
「ルークはもう二回も、アイツに殺されかけてるんだ。……一度目は日記を介して、二度目は直接。それは別に、ルークが弱かったからじゃない。たとえルークがハーマイオニーぐらい優秀な魔法使いだったとしても、同じことが起きてたんじゃないかって思ってる」
「どういうこと?」
「アイツは──ヴォルデモートはそれだけ確かな脅威だってことだよ」
その名を口にすると、三人は僅かに表情を引き攣らせる。ハリーはそれを、見ないフリをした。
「いや、むしろ……ルークが抵抗の手段を持ってたら、もっと最悪の結果になってたかもしれない」
言いながら、ハリーはゆっくりと首を振った。脳裏に浮かんでしまった嫌な想像を掻き消すように。
「もちろん君たちを……君たち
ほとんど消え入りそうに掠れた言葉。それは、一種の強迫観念。
──自分が【生き残った男の子】であることを知る以前。まだ何者でもなく、何も持たざる者だった幼少期、ハリーをハリーたらしめるのは【ルークの兄】という肩書と【弟を守る】という使命のみであった。
もちろん、今は違う。
いまの自分は一学生で、生き残った男の子で、ロンやハーマイオニーたちの友人で、
それでも──
「あなたの気持ちはわかったわ」
感情の濁流に呑み込まれそうになったハリーを、ジニーの静かな声が掬い上げた。
ジニーの手が、そっとハリーの背に添えられる。掌を通じて伝わる温かさが、ハリーの強張った身体を穏やかに弛緩させた。
「でも、守り方は一つじゃない。
明るいブラウンの瞳が、暖炉の火を反射し燃えるように煌めいている。どこまでも真っ直ぐなその視線に、ハリーの心臓は一瞬動き方を忘れた。
「ジニー──」
「ェヘン、ェヘン」
ロンだった。しかし、あまりにもアンブリッジの咳払いにそっくりの声色だったためハリーもジニーも肩を跳ね上げる。
「ちょっと」
ジニーは兄の悪趣味で無遠慮な横入に眉を吊り上げるも、ロンはひょいと肩を竦めてそれを受け流した。彼の隣ではハーマイオニーが、やれやれと言わんばかりに首を振った。
「あー、その、ルークにちゃんと話すよ」
「えぇ、その方がいい」
「……ところで、そのルークはどこ?」
「…………えっ?」
ロンの言葉は、小さな爆弾も同然だった。
一瞬にして、空気にピンと糸が張り詰める。
「部屋で寝てるんじゃないの?」
「さっき見たときはシェーマスとディーンしかいなかったけど」
「今日はルークもホグズミードに行ってたのよね? 帰ってきてるとこ見た?」
「わ、わからない。朝食の後はさっさといなくなっちゃって、そこから、見て……ない……」
ハリーは青ざめ、言葉を失った。時計を見る。日付はとうに跨いでいて、談話室に四人以外の人影はない。必死に記憶を辿るも、ルークの居場所に繋がるような会話は思い出せなかった。
「そういえば最近、ルークの姿をあんまり見ないよな。……どこ行ってるんだ?」
ロンの声も不安そうに揺れ、ますますハリーの不安と焦りを煽る。
「ジニー、何か聞いてない?」
「えぇっと、今年から特別授業の自由度が高まったってことは聞いてるわ。普段はたぶん、地下牢教室かその隣の貯蔵室にいるんだと思うけど……」
「もうとっくに閉まってるわね。……あっ、ハリー、忍びの地図よ!」
「それだ!」
ハーマイオニーのひらめきを聞くや否や、ハリーは杖を振った。
「アクシオ! 忍びの地図!」
呼び寄せ呪文はハリーの得意の一つだ。男子寮の部屋から真っ直ぐ飛んできた古ぼけた羊皮紙に杖をかざし、性急に合言葉を唱える。
「我、ここに誓う。我、よからぬことを企む者なり」
…………もしも。
もしもあと十分早く忍びの地図が開かれていたならば、ハリーは目撃したことだろう。七階の廊下にて、大事な弟の名の隣に大嫌いな同級生の男の名が寄り添うように並ぶ様を。
しかし幸か不幸か、その
ルーカス・ポッターの名は、思っていたよりもずっとあっさり見つけることができた。よりにもよって、グリフィンドール寮の入り口前に。名前と足跡は暢気に動き、やがて談話室入り口の手前で止まった。談話室の扉が開く音が響くと同時に、四人は顔を上げる。
「ぅわっ、え、起きてたの?」
ルークだ。解かれた長い髪を背に流し、目を瞬かせている。手には透明マントが抱えられていた。
ロンとハーマイオニー、ジニーの三人は安堵の息を吐いたが、ハリーはそうもいかなかった。怒ったように顔を顰め、低い声で弟の名前を呼ぶ。
「どこに行ってたの」
「どこって、別に……ホグワーツにいたよ」
「誰と?」
「友達と」
「こんな時間まで?」
「ホグズミードで材料が手に入ったからストリーラーの解毒薬を調合してたんだ。どんなに頑張っても八時間はかかる」
嘘を言っているようには見えなかった。真っ直ぐにハリーを見つめ返し、答えには淀みがない。
「透明マントを勝手に借りたのはごめん。返すよ」
バツの悪そうな顔でマントを差し出され、ハリーは無言のまま受け取った。
「じゃあえっと、僕は寝るから、おやすみ」
そのまま男子寮へと続く階段を昇ろうとしたルークを、ハリーは再度呼び止めた。
「その友達って、どこの寮?」
「──スリザリンじゃないよ。ご心配どうも。おやすみ」
わかりやすく気分を害したという顔をしたルークは、珍しく不機嫌を露に吐き捨てた。残されたのは、納得がいかないと言わんばかりに顔を顰めるハリーと、呆れを隠しもしない友人たちである。
「ハリー、一応言っとくけどさ、ルークは君の息子じゃないんだぜ」
「知ってるよ、そんなこと」
これほど説得力が無い返事というのもそう無いだろう──と思いながらも口にはしなかった三人は、実に賢明であった。