ハリー・ポッターが目を覚ました時、部屋はまだ薄暗かった。しかし夜中の暗さではない。もうあと三十分もすれば、朝日の白い光が埃の積もった床を照らし始めるだろう。
隣のベッドではルークが静かな寝息を立てており、さらにその奥のベッドでロンが豪快にいびきをかいている。ハリーは弾かれるように上体を起こし、そのまま息を殺して部屋を出た。
グリモールドプレイス十二番地の邸宅は広い。廊下に立ち竦んでいると言葉に出来ない寒々しさが身を貫く。──一刻も早くペティグリューを捕まえて、シリウスをこの屋敷から解放しないと。そんなことを思わず考えてしまうぐらいには、この屋敷は寂しい気配に満ちていた。
ハリーはどこかふらふらとした足取りでダイニングルームへ向かった。食欲こそなかったが、昼食も夕食も抜いたまま寝てしまったために空腹を訴える胃を無視はできない。
昨日、アーサー・ウィーズリーの見舞いで訪れた聖マンゴ魔法疾患傷害病院にて盗み聞いた大人たちの言葉が、脳内をぐるぐると回り続けている。──僕にヴォルデモートが憑りついているかもしれない。
その可能性は、ハリーに言いようのない不快感と不安をもたらした。
ヴォルデモートが、僕の五感を通してこちらの様子を窺っているかもしれない。
ヴォルデモートが、僕の身体を乗っ取って弟や皆を襲うかもしれない。
──そして僕は、抗う手段を知らない。
だからこそハリーは皆から距離を取った。目を合わせず、声をかけられても無視をして部屋に閉じこもった。
大人たちの会話はルークもウィーズリー兄弟妹たちも聞いていたのだから、皆だって僕と一緒には居たくないはずだ。そんな自虐的な思考回路が脳を満たし嘲笑が零れる。
ヴォルデモートは今この瞬間も僕の思考を覗いているのだろうか。だとすれば、さぞ愉快に違いない。
そうしてダイニングルームの扉を開けた瞬間、目に飛び込んできた人影にハリーは悲鳴を上げそうになった。すんでのところで口元を押さえ、肩を跳ね上げるにとどめる。
他人の気配に驚愕したのはお互い様のようで、人影も少しばかり大仰なぐらいに飛び上がった。
「は、は、はりー……?」
「ジニー?」
驚かせてゴメン、とか、こんな朝早くから何をしてるの? とか浮かぶ言葉は色々あったが、ハリーに余裕は無かった。──今はただ早く、彼女から離れなくては。
「ごめん、その、邪魔して」
「ハリー待って」
後退りで部屋を出ようとしたハリーを、ジニーは慌てて呼び止める。
「その、眠れなくて……ココアを入れるつもりだったの。良かったら話し相手になってくれない?」
断るべきなのだろう。
ヴォルデモートに憑りつかれている可能性のある自分と二人きりになるなんて、危険だ。そんなことは彼女も十分承知しているだろうし、気遣ってくれているのだとしたら申し訳が無い……。
しかしハリーはNOと言えなかった。わずかに目を泳がせ、蚊の鳴くような声で「うん」だか「あぁ」だか呟く。
ハリーの控えめな反応を、ジニーは前向きに受け取った。微笑み、座るように促す。
「ちょっと待ってね、いま作るから」
まるで自宅の台所に立つように、ジニーは慣れた手つきでカップをもう一つ取り出した。
迷いなくてきぱき動く彼女の後姿を、ハリーはどこかぼんやりと眺めていた。
動きに合わせてさらさらと揺れる赤いロングヘア。弟よりも少し華奢で、しなやかな猫のように姿勢が良い。ウィーズリーらしくすらりと長い手足──彼女は優秀なシーカーだと、言ったのはアンジェリーナだったか。どうして今そんなことを思い出してしまうのだろう。
「おまたせ。甘すぎたらごめんなさい」
「甘いのは好きだから。……ありがとう」
受け取ったマグカップからは白い湯気が立っていた。取っ手のついていない部分に手を回すと、その温かさが悴んだ指先を解していく。
ゆっくりと啜り、嚥下する。程よい熱と糖分は、干からびて萎縮した脳と身体を一瞬にして弛緩させる力を持っていた。
「……おいしい」
「よかった」
ジニーは心底ほっとしたように微笑み、ハリーの向かいに腰掛けた。
「君は、怖くないの?」
「……何が?」
本当に分かっていないのか、それとも分かっていて聞き返しているのか……どちらとも取れぬ表情だった。
「僕のことが。……君も聞いてただろ。僕は『例のあの人』に憑りつかれてるかもしれない」
「あくまでも可能性の話でしょ」
「でも、その可能性はゼロじゃない」
「だとしても、恐れるべきは『例のあの人』であってあなたじゃないわ、ハリー」
予想外の返しに目を丸くするハリーに、ジニーは思わずとでも言うように破顔した。
「あなたとルークは似てないって言われてるけど……結構似てるわよね」
「……えっ、そうかな」
「物事を悪い方に考えがち。慎重……かと思えば、びっくりするぐらい大胆なこともする。そういうところはよく似てる」
「ルークと僕が似てるって、初めて言われたかも。……目以外で」
「あぁ、確かにそっくりね。お母さま譲りだって聞いたわ。……とっても綺麗」
ジニーは僅かに目を細め、ハリーを見つめた。小窓から射し込む朝日に照らされ明るく輝くブラウンが、真っ直ぐ自分に向いている。ハリーの心臓は途端にせわしなく動き始め、どうにも気恥ずかしくなって俯いてしまった。──おかしい。だって……ジニーはロンの妹だ。
「……私ね、『例のあの人』があなたに憑りついてるってことは無いと思うわ」
「えっ」
「だって私、あなたのことを『別人みたい』って思ったことないもの」
ジニーの口調ははっきりしていて迷いが無かった。しかしその根拠はどうにも納得しがたく、ハリーは怪訝そうに眉間へ皺を寄せる。
「どういうこと?」
「ルークよ。三年前の彼こそ、実際『例のあの人』に憑りつかれていたでしょう?」
鈍器で殴られたような衝撃が頭に走った。
そうだ。どうして忘れていたのだろう。『秘密の部屋事件』が起きたとき、確かにルークはヴォルデモートに憑りつかれ頭も体も乗っ取られていた。
「あの頃のルークは、まるで別人だったわ。表情も言動も……でもハリー、あなたはずっと
「……ルークから──」
ハリーの声が掠れた。急く心を鎮めるように、冷めかけたココアを一口すする。
「何か言ってた? ……その、『例のあの人』に憑りつかれてた時のこと」
「どうかしら……あんまりその時のことは話してくれないのよ。私に罪悪感を抱かせたくないんだと思うけど……」
ジニーは記憶を探るように暫し目を閉じ、あぁと声をあげた。
「──覚えてないって言ってたわ」
「覚えてない?」
「乗っ取られてる間の記憶がすっぽり抜けてるそうよ。壁に血文字を記したり、コリンたちにバジリスクをけしかけたことも記憶にないって。二年生後半の授業のことを全く覚えてない、って三年生の時は半泣きになってたわ」
ジニーは懐かしむように小さく笑った。
「ハリー、あなたはどう? 自分が何をしていたのか思い出せない、みたいなことがある?」
「いや……無い、と思う。……うん、ちゃんと覚えてる」
「じゃあきっと大丈夫よ。……それにもし『可能性』が本当なら、ダンブルドア先生はあなたがここに来ることを良しとしないはず。そうでしょ?」
ジニーの主張はもっともだった。本当にヴォルデモートがハリーの脳をジャックできるならば、不死鳥の騎士団本部たるこの場所にハリーを連れて来られるはずがない。
「……そうだね」
ハリーは笑った。
安堵の笑み。しかし力なく、どこか怒りさえ込めて。
「それじゃあ、そう言ってくれればいいのに。ダンブルドアは何も言ってくれない。シリウスも……騎士団も。当事者は僕で、戦うべきも僕のはずだ。……僕だって、戦えるのに」
無意識のまま拳に力がこもる。掌に爪が食い込む痛みはハリーに理性を留めてくれた。しかしそれでも、行き場のない衝動がエネルギーとなり、身体の中で燻っている。
「ハリー」
──その手に、ジニーが触れた。
筋が浮き出るほど力んだ拳を、白く華奢な手が包み込むように触れる。ハリーはまるで呼吸を思い出したかのように肩を震わせた。
「みんな、あなたのことを思ってる。……けど、それにしたって狡いわよね」
「……ジニー」
「あなたも私も、まだ子供だわ。それは事実。でも、子供だって子供なりに、色々考えてるのにね」
色々考えてる。
その言葉に、ハリーの表情が一瞬、泣きそうに歪んだ。
大人たちは、何もするなと言う。何もしなくていいと言う──できるわけがないのに。
考えずにはいられない。起こりうるあらゆる可能性を考えて、何かをせずにはいられない。全ては大事な人を守るためだ。
守られるだけというのは、言うほど簡単なことじゃない。どうして、みんなわかってくれないんだろう。
「君は……君は僕より年下なのに、僕よりずっと、物事を冷静に見てる。……見習わないとな」
「見習う必要なんてないわ。私は……当事者じゃないもの。他人事みたいな顔で偉そうなこと言ってるだけよ」
ジニーは笑って、手を引いた。──引こうとした。
離れかけた手を、ハリーが掴む。無意識だった。
「ご、ごめん」
ジニーは何も言わなかった。僅かに目を伏せ、緊張を誤魔化すように細く息を吸う。彼女の華奢な指先が、再びハリーの手に添えられた。互いに言葉も無いまま、男女の違いが明確に顕れた手を絡めるように繋ぐ。ハリーの心臓はいよいよ高鳴り、その鼓動はジニーの耳にまで届いてしまうのではないかと思えた。
熱い。己の輪郭を辿れるくらい、身体が熱を持っている。ふと目をやると、ジニーの白い耳が赤く染まっていることに気が付いた。その気付きはハリーに少なからず衝撃を与えた。
ジニーは、ロンの妹だ。────けど、僕の妹じゃない。
日はすっかり昇り、広々としたダイニングルームは朝の空気に満ちている。
朝食の支度に降りてきたモリー・ウィーズリーの足音が近づくまで、二人の手は繋がれたままだった。