ずっと、言えなかったこと。
ずっと、言いたかったこと。
だから、勇気を振り絞って『それ』を口にした瑞希のことをまずは褒め称えるべきだ。例え遅すぎたのだとしても、例え戻れなかったのだとしても、まずは称賛するべきだ。彼は己のトラウマを乗り越えた。乗り越えて見せた。それは誰にでもできることではなく、それは誰にでもしていいことではなかった。
『彼女』は、彼は、孤独を克服した。独りよがりを超越した。それは……とてもすごいことだと。
『暁山瑞希は……『男』なんだ』
秘密。嘘偽り。騙り。本当の性を隠して触れ合ってきたんだ……という事実。『それ』は当然ながら、許されざることだった。
『女』同士だからこそスルーされてきた発言はある。『女』同士だからこそ許されていた接触はある。同性故に許されていた許容は……あるのだ。
前提条件が覆る。あれも、これも、何もかもが。明らかに……東雲絵名は暁山瑞希を女だと思っていたし、まさか瑞希が男だなんて夢にも……思わなかったことだろう。だから、だから、だから。絵名は。
「そっか」
まず、そう言った。そこにどれだけの感情と感傷が込められているのかは瑞希には分からなかったけれど、それでもその一言を放つのには多大な……それこそ瑞希の告白と同程度の勇気が必要だったはずだ。秘密を受け止めるということ。真実を受け入れるということ。真相をありのままに受け止めるのは……きっと難しいことだから。
「………………」
「………………」
沈黙が密室満たす。瑞希は思う。絵名は……何を考えているのだろうか、と。
瑞希は絵名を知っている。自惚れではなく、瑞希絵名は友達で、……ひょっとしたら『かつてのあの子』と同じように瑞希にとって絵名は親友……。
だけど、『あの子』はダメだった。もちろんそれは『あの子』が悪いわけではなくて、……今ならば分かる瑞希だけが……悪いわけでもなくて。価値観が違くて、ただそれだけの当然のすれ違いは……それゆえに哀しいことで、だけど……起こりうることなのだ。
『今』でさえ。いや……絵名は…………受け入れてくれるだろう。少し考えているだけで、ほんの少しショックを受けているだけで、『この程度』のことで絵名は瑞希を…………切り捨てたりはしない。しない……が。けれども。
が、けれども、それでも。もし、万が一が、その想定が。
『変なの』
トラウマはそう簡単に忘れられないからトラウマなのだ。信じているからといって信じ切れるとは限らない。悪く言ってしまえば瑞希の絵名への信頼は……瑞希に過去のトラウマを乗り越えさせるほどのものではないのだから。
そして、だ。
永遠にも感じられたその沈黙がついに破られる。
第一声は、やはり。
「ありがとう、瑞希」
「っ」
「話してくれて、ありがとう」
彼女は、礼を言った。言いづらかったはずだ。秘密にしたかったはずだ。隠しておきたかったはずだ。それでも彼は言うことを選んだ。そこにどれほどの『想い』があったのか、察せられないほど鈍くはない。
言いたかったこと。
言えなかったこと。
当然のことだった。こんな秘密、あけすけに話せるはずもない。彼女は彼だった。そんなこと言えるはずもない。責められない。とてもではないが責め立てられない。あの時、あの屋上で、あんな風に突拍子もなく明かされて、そりゃあ正気でいられない。
『優しさが嫌だ』と、瑞希は言った。
この三日間絵名はその言葉を咀嚼し続けて、考え続けた。そして出した答えがある。
あの時言えなかったこと。
あの時追いかけられなかった訳。
その釈明を、今。
「私も……瑞希に言いたいことがあるの」
「絵名……も…………?」
「うん、聞いてほしい。瑞希に……。私の『答え』を。嘘偽りない……飾らない『本音』を」
「ぁ」
真っ直ぐと絵名は瑞希を見つめて、その両手を瑞希の手に合わせた。
「っ」
震えている。誰の手が? 絵名の手が……だった。唐突に、瑞希は理解する。そっか、絵名も怖いんだ……。それは当然のことだった。この三日間、瑞希は絵名の前に姿を現さなかった。最悪の想像だってしたはずだ。安心と、焦燥と、混乱と、勇気と……。もっと色々な『想い』を今の絵名は抱いているはずだ。
あの時、あの廊下でした最悪の別れ。
『向き合えなくて──────ごめん』
『──瑞希!!』
一歩進めば霧が晴れることを九割九分わかっている。それでも、その一分が怖くて踏み出せなかった。絶対にないって分かっていても、信頼しているからこそ、それが反転する可能性が怖かった。
絶対なんてことは『絶対』にない。親友も、家族も、今までの関係性はこれからの関係性を保証しない。まふゆの本性を知らなかった。奏の過去を知らなかった。絵名の諦観を知らなかった。だから……『言えなかった』。
なのに、絵名はそれを踏み越える。そうしてくれる。瑞希の『真実』と真摯に向き合って、きっと答えを出してくれたんだと。そんな風に思える。
だから、それは絵名の本当にどうしようもないほどの…………。
『ボクはその優しさがみんなの中に生まれちゃうことが────どうしもなく……嫌なんだ……っ!!』
(っ、……ちが、う)
ずきり、と心が痛んだ。今すぐにでも逃げ出したくなった。
分かっている。分かっている。分かっている!
分かっている。
分かっている。
分かっている。
だから!
だからっ!
もう、逃げたくない。
もう、逃げないから。
ちゃんと、この瞳に……向き合いたいから。
「………………うん、聞かせて……絵名」
「…………うん」
大きく彼女は息を吸った。
大きく彼は息を吸った。
性差。
男と、女。
つい三日前まで『女』同士だった二人が、今は、男女の仲だなんて。
「あの時、瑞希はさ」
目を瞑る。あの時の行動を思い起こす。間違っていた、と思う。けれど、結果的には間違えてよかった。だって、考える時間が生まれたのだから。『嘘』と向き合う時間。
場当たり的に瑞希を引き留めることはできた。それをすれば瑞希はきっと『今』も、『これから』も絵名達と一緒に居てくれた。けれどそれは『暁山瑞希』としてではない。絵名の知っている瑞希ではない。
考えた。考えて考えて考えて。気持ちの良い言葉を掛けるためではなく、瑞希を引き留めるためではなく、ただ真剣にその『真実』と向き合う為に。自分自身の『想い』を掘り下げて、その『嘘』に対する『想い』を只管に掘り下げた。
そして出した結論がある。
だから『それ』が、……………………この『問題』に対する絵名の『答え』。
「『優しさが生まれるのが嫌だ』って、言ったわよね。私達の中に……瑞希に対する『優しさ』が生まれるのが……嫌だって」
「うん、……そう言ったよ。……ボクは、……このボクにとっての『ボク』は、……『これ』が『普通』なんだ」
『異常』なのは理解している。実の姉でさえ、瑞希が『変わっている』のは認めることだ。男はスカートなんて履かないし、可愛いモノが好きなわけじゃない。裁縫もしないし、声変りを怖がったりしない。けれど、『異常』は『普通』だった。瑞希にとっては『普通』で、『日常』だった。
今思えば、なんて馬鹿な思想だ。『女の恰好をする男』を『当たり前』として受け入れてほしいだなんて。
世の中には二種類の人間しかない。男と、女。身体的特徴でそれらは割り振られて、そこは変えちゃダメなことだ。
二重人格者や性同一性障害は『イレギュラー』。『女の恰好をする男』なんて第三の割り振りは存在し得ない。
それでも、願ったことがあった。この『異常』を『あるがまま』に受け入れてほしいと。
馬鹿な話だ。
傲慢な話だ。
そんな願い……受け入れられるわけもないのに。
「この三日間、ずっと考えてた。瑞希を探しながら、瑞希に会ったら何を言おうって、瑞希と何を話そうって、私は……どうするべきなのかって、……ずっと考えてた」
だけど絵名は『答え』を出してくれた。ミレニアム懸賞問題よりも複雑な難問に答えを。
それは…………嬉しかった。果たして過去にもいただろうか、暁山瑞希という『人間』をこれほどまでに『想って』くれた人が。
『違う』からこそ……絵名は誰よりも瑞希の近くにいたかった。
「瑞希」
「うん」
「結論から、言うね」
「うん」
そして、絵名はもう一度だけ目を閉じた。一瞬の内の今まで積み上げてきた想い出が脳内を駆け巡る。初めてナイトコード越しに会話をした時のこと、『セカイ』であった時のこと、初めて合作した時のこと、まふゆの問題の解決に一緒に取り組んだこと、ミステリーツアーに言った時のこと、一緒に山登りをしたこと、共に文化祭を回ったこと。
そして、あの屋上の一件。
過去は無かったことにはできない。けれど、それを乗り越えて未来を紡ぐことはできるはずだ。
一番正しいことは分からない。だけど、『これ』が……絵名が考え抜いて出した最後の答え。
告げる。
眼を開く。
瞳に彼の姿だけを映した。
絵名は言った。
「
それが東雲絵名の出した答え。
「私はきっと、あんたに『優しく』振舞わないってことは、できない」
どれだけ残酷で、どんなに悲痛な『想い』だったとしても、『これ』が絵名の『本当の想い』。
「傷を付けるつもりで言うわ。あんたは、間違いなく『違う』。私はあんたの『趣味』に『理解』を示すことはできるし、それを変わってるとは思っても『異常』とまでは思わない。これは事実」
「…………………………………………」
「だけどたぶん、私は『それ』を『普通』だと思うことはできない。奏には、まふゆにはできるかもしれないけど。私にはできない」
「…………………………………………………………………………………………」
「私はずっと、瑞希のことを『女』だと思ってた。同性だと思ってた。だからあの屋上であんたの同級生が『暁山瑞希は男だ』って言った時、『そんなわけない』って、『嘘だ』って思った。…………私は、『暁山瑞希』は『女性』だって思ってたから」
「…………」
「それは疑いを持つことだってあり得ないくらいの常識で、だからあの時の私は……あんたの言う通り『びっくり』した。……それこそ、『実は地球は平面だった!』って言われたくらい」
「……ふふ、何それ」
「それくらい『当たり前』だったってことよ。……あんたが『女』なのは」
嘘をつくことはできた。『真実を知っても私は変わらないわよ! 馬鹿にすんな!』と、強く言い含めて騙すこともできた。
でも、しなかった。
絵名は…………瑞希のことが大好きだから。
「だから『優しくしない』のは無理だと思う。……どうしたって、これから先は『暁山瑞希』のことを『女の恰好をした男』だって思って接しちゃうし、……そこから生じる『あれや』『これや』に気を使っちゃうと思う。……たぶん、今までと同じように会話なんてできなくて、気楽にショッピングに誘ったり、旅行とか打ち上げのの計画を立てたりも……『今まで』と同じようには、できない」
「………………………………」
「私は『女』で、あんたは『男』だから」
「……うん」
生まれついての性差。それはどうしようもないことだった。その答えを責めることはとてもじゃないけどできなくて、加えてこの問題に明確な悪人がいるわけでもない。
そんなことは分かっている。
分かっているけど。
「っ」
知らず、瑞希の頬を雫が伝った。違う、止めろ、そんなモノを見せるな。絵名は答えを出してくれた。それがどれだけ悲しく辛い結論だったとしても。『嘘』をつかずに『本心』を告げてくれた。分かっている。絵名は全然悪くない。分かっている。ボクも悪いわけじゃない。その『答え』は当然で。むしろ変な『優しさ』を見せなかった絵名のことを嬉しくさえ思う。それだけ絵名が瑞希のことを考えてくれたという証で、嘘を吐かなかった絵名はそれだけ瑞希を想ってくれていたということで。だから嬉しさを感じさえすれ涙を流すべき場面じゃない。そもそも逃げ出したのは瑞希の方で、別れたの瑞希の方だ。絵名が見つけてくれたから会いに来てくれたから再会できただけで、絵名が動かなければ瑞希は絵名と会う事なんてたぶん一生なかったはずだ。だから感謝こそすれ憎悪を抱くのなんておかしいし恨み節なんてありえない。甘い妄想をしていた自分を恥ずべきであって。絵名の言っていることは当然のことだ。瑞希は男で絵名は女。同性ですらない赤の他人。嘘を吐き続けていたのは瑞希の方で、言えなかったのは瑞希の罪だ。最初から言っていれば違ったかもしれないけれど、それをしなかったのは瑞希の罪だ。だから。
でも。
そっか。
これで、終わりなんだ。
なんて。
「でも」
そんな瑞希のあまりにもあんまりな『想い』を感じて、絵名は瑞希の指に指を絡めた。
強く、強く、強く! もう二度と離さないように強く!
「でも、ね」
変わらないモノなんてない。全ての事柄は時間によって移り変わっていく。変わらない想いなんてないし、変わらない関係性もない。
暁山瑞希と東雲絵名。
男と女。
「でも、それでも、……瑞希」
知らず、泪が零れ落ちた。
選択を間違えたかもしれない。掛けるべき言葉を間違えたかもしれない。嘘を吐くべきだったかもしれない。
これが、最後になるかもしれない。
けれど!
「私、私ね……っ」
だけど!
それでも!
本当に!
「私は……っ! あんたと一緒にいたい! 『今まで』みたいにはきっとできないけど! 『今まで』みたいに一緒に居たい!」
「っ、絵……な…………」
「ミステリーツアーに一緒に行って楽しかった! 打ち上げの計画を立てて楽しかった。私の描いた絵に動きを付けてくれていつも嬉しかった! 一緒に曲を作る時間が『当然』だった! 『ニーゴ』は……四人のグループで、そこに瑞希がいないなんて考えられなくて! わ、わたしっ、私はっ!」
馬鹿なことを言っているのは分かっている。どれだけの『想い』を抱いて瑞希が告白してくれたのか。絵名の行為はその全てを踏み躙る馬鹿な行いだ。
これが、絵名と瑞希の最期の会話になるかもしれなくて。
ありのままの、想いを。
「だから、だから、だからさ、瑞希ぃ……」
「っ絵名……」
「すごい、すごく……すごく酷いことだけど! とてもじゃないけど言っちゃいけないことだけど! だけどっ、それでも私はっ! 私はっ、瑞希と一緒にこれからもっ、奏とまふゆと一緒に『みんな』で『ニーゴ』で曲を作っていきたいから! だからっ」
何一つとして瑞希の『想い』は受け入れられなかった。
酷い我儘を言っている。
とてもじゃないけど『親友』への言葉だとは言えない。
「だからっ! だからっ! だからっ!」
でも。
でも。
でも。
「『優しくしない』なんて無理だけど、『気遣わない』なんてできないけど、『変わらない』なんて……不可能かもしれないけど! だけどっ!」
「……………………」
「私──
「っ、ぁ」
「だから、だからっ!」
縋りつくように、祈る。
しがみ付くように、願う。
寄りかかるように、冀う。
「……………………瑞希も──────
「…………………………………………………………………………」
「こんな、お別れなんて、……私は嫌………………………………………………」
酷い睦言だった。本当に馬鹿みたいな『想い』。……でも嘘じゃないだ。ワガママだけど、『本心』なんだ。
一緒に居たい。何も受け入れられないけど、それでも一緒に居たい。
トモダチ以上の親友と。こんな風にお別れをしたくはない。
そう、絵名は思って。
それで瑞希は。
暁山瑞希は、だから、言った。
「…………あ、はは……ははは! はは、……頭可笑しいんじゃないの……絵名さぁ」
絵名の言っていることは全く瑞希を馬鹿にしているとしか思えない。滅茶苦茶で、支離滅裂で、自分勝手で、荒唐無稽な妄言だ。
その要求を瑞希が受け入れると思っていることが可笑しいし、そんなことを言って瑞希が絵名を拒絶しないと思っていることも可笑しい。
ほんと、笑える。
でも、本当に笑えるのは。
本当に、馬鹿なことは。
「ねぇ、だったらさ、……絵名…………ひとつ、たった一つだけ……質問に答えてくれる」
言っても、いいよね。
今なら赦されるよね。
暁山瑞希という『男』の奥の奥の奥の奥の奥の奥の底の底の底の底の底の底の底の裏の裏の裏の裏の裏の裏の裏の裏の深い深い深い深い深い深い深い深い。
そんなところにあった、さいごの『 』を。
まるで、 うように、瑞希は。
「さっきさ、……絵名は『ボクのことを大好きだ』って言ったよね」
「……言ったけど」
「それは、…………絵名の本心?」
「っ、当たり前でしょ! 私は瑞希のことが──」
遮って。
言った。
「ボクも好きだよ」
「……」
「ボクも絵名のことが大好きだよ。むしろ今、ボクはこんな『ボク』と真摯に向き合ってくれた絵名のことが『今まで』よりも、もっとずっと大好きになった」
「っ、瑞希!」
言った。
「
「…………………………………………は?」
「絵名、キミは……こんな馬鹿なボクのことを…………受け入れてくれる?」
それが、彼女達の将来を決める…………最後の問い掛けだった。