メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
5分後のスターダスト
「世界は、五分前に始まったのかもしれない」
てのひらに乗った金木犀のひと房を、見つめながら彼女が呟く言葉。僕は首を傾げる。
「なにそれ?」
「『世界五分前仮説』という、有名な思考実験のひとつです。この世界は神が五分前に創りだしたものである、という仮説を立てた時、それはどうやっても反証できない。という」
「あー、うん、うーん?」
熾烈な五日間を乗り越えた末の金曜日、二時間に渡るトレーニングを終えた後の、クールダウンタイム。三十分前までは鮮烈に照っていた、今はほとんど沈みかけの太陽と、一昨日まではしゃんと咲き誇っていた、今はスターダストのごとく足元の歩道に点々と散る金木犀を見つめながら。
彼女は……丁度二年半ほど前、彗星のように僕の前に現れた我が担当ウマ娘、メジロアルダンは。しかしそれら全てを嘲笑うかのような笑みを、今、この場所で浮かべるのであった。
「やっぱり、アルダンは博識だね。そんな言葉初めて知ったよ」
「いえいえ、私も先日、バスの中で読んでいた本の中にこの言葉が出てきて、それで気になって調べただけですよ?」
「そうやって、きちんと調べて理解しようとすることこそが君の凄いとこなんだけどね?しかし、『世界五分前仮説』かあ。実に興味深い。興味、深い、けど」
「ふふっ、けれども。『そんなこと、あるはずないだろう』なんて、そんな表情をしていますね?」
「えっ?いや、そんな……そんな、まあ、そうだね?」
あっさりと思考を読み取られ、バツ悪く鼻の頭を掻きむしる僕。けれど、これだってそうだろう。
僕の表情や仕草から、こうして彼女が僕の気持ちを言い当てられるのも、丸二年半積み重ねた時間があるからこそ。ものの五分間程度関わっただけでは、こうはいかないはずだ。
「しかしどうでしょう?ひっくり返して考えて見れば、『神様が五分前に、そのような設定でこの世界を生み出した』としたら?」
「そんな設定で……?」
「例えば、この金木犀の花。この子は今しがた地面から私が拾いあげましたけれど、きっとその前は、あの向こう側の木に咲いていたうちの、ひと房だったのでしょうね」
「まあ、そうだね?」
「けれども、実はこの金木犀は五分前、初めからこの地面に置かれた状態で誰かに創り出されていたものなのだ。と言われたら、果たして私たちはそれを根拠立てて否定できますでしょうか?」
「え?えーと、それは……」
そっと、彼女から僕へと譲り渡された金木犀の花。それはほんの数ミリグラム程度、けれども確かな重みを持って、僕の手の中でやさしい香りを放ちだした。
「それはまあ、確かにできないね?僕たちはこの子があの木に咲いていた所を見ていないし……それに、例えこの子があの木に咲いていたことを覚えていたとして、今度はその記憶が正しいものであるという証明ができない」
「その通り、そしてそれは、この世のありとあらゆる全てのものに言えるのです」
彼女が軽々しく呟いた、けれども確かな重みを持ったその言葉。何かしら反証しようと僕は顎に手を置き、思案する、が。
「この世の、ありとあらゆる全てのもの、か」
何故だか、その思考は僕の脳と頭骨をすり抜け、キラキラ宙へと舞い散るばかり。
確かにこの金木犀は、僕らが認識した瞬間には既に寂しく地に落ちていた。あの夕陽は、こうして意識して視界に入れた時には、既に消えかけていた。この身に当たる風も、頭上を通り抜けた烏も、みんな、みんな。
そしてこの二年半の間に積み重ねた、彼女と僕の大切な思い出、この信頼、いつの間にか君が僕に寄せてくれていたこの感情だって、つい五分前、誰かが創作した『キャラ設定』みたいなもの……なのだとしたら。
だとしたら、なんて残酷な話なのだろ───
「ふふっ、この仮説を知った時、なんだか私は凄く、心が軽くなったんです。大袈裟かもしれませんが、これは一種の『救い』だな、と」
「救い?」
しかし、なおも彼女は、僕のそんな絶望を笑い飛ばす。不意に吹いた強い風、植木にしがみついていた金木犀は、はらはらとその身を宙に投げ出した。
「清潔すぎる病室、窓の外で自由に走る親戚たち、動かない、この脚。どんなに前に前に進んでも、ふとした時、背後からそんな苦味が香ってくる。時折私は、はたして自分が走りたいから走っているのか、それともこの香りを振り切ろうとしているだけなのか、分からなくなる時があるのです」
「…………うん」
「けれども、この背後に本当は何もないのだとすれば、この苦い香りも、ただの錯覚なのだとしたら。それを理解した時、私は真に『自由』になれる、そんな気がするのです。本当に大切な『今』のためだけに、この脚を振るえるのだと、そう思えるのです」
「……なるほどね?」
重戦車の様な強い脚取り、鋭い分析力、状況判断力。彼女の強さの理由は、それこそ星の数ほど列挙できるけど。
『信じ込む力』。たとえその仮説が立証できようとできまいと、己がそうであって欲しいと思った事を、貫く力。それこそが世界中どのウマ娘にも負けない、メジロアルダンに備わった、最大最強の切り札、なのだろう。
「───さて、ここからが本題ですが。貴方ならばこの仮説、如何様に『反証』してみせますか?」
「……僕が、反証しようとするのがそもそも前提なんだね?」
「もちろんです。たとえどれほど常識的な事象でも、誰かにとっての救いとなる仮説であっても……理論的に納得できるまで『疑い尽くす力』。それこそが貴方の、メジロアルダンのトレーナーの、最大最強の切り札、なのですから♪」
「あはは、随分と高く買われたもんだなあ……」
なんて、苦笑いを浮かべた一秒後、早速無意識に首を捻り始める僕。キラキラと風に舞う、無数の金木犀の香りを深く吸い込んで、もう一度、思考を深く深く全身に張り巡らせる。
「……もしもこの金木犀が、初めから地面に置かれた状態で創り出されたとしたならば。必ず、そこには何らかの『意図』が宿ってるはず、なんじゃないかな」
「何らかの、『意図』ですか」
「うん、神様がわざわざ『木に咲いている金木犀』と『地面に落ちている金木犀』を分けて創造したとするなら、そんな手間をわざわざこの金木犀にかけたのであれば。そこには何らかの、神様自身の意図が介入しているはずだと、僕は思う」
「なる……ほど?」
角の方からパズルを組み立てるように、僕はひとつひとつ丁寧に、確かな『意図』を持って、脳内の言葉を組み合わせていく。そんな僕を、彼女はただ、ひたすらに見つめていた。
「例えばこの世界が小説か何かだったとしたらさ、わざわざなんの意味もないのに、『地面に落ちた金木犀の花』なんて登場させないでしょ?この後の展開を考えて配置したり、もしくは何かしらその物語の展開を示唆させたり、はたまた美しい情景描写に使ったり。わざわざ創り出しておいて『ただあるだけ』ってことは、ないはずだ」
「確かに、わざわざ登場させた上で完全に無意味ということは、そうそうないでしょうね?」
「つまり、そうやって何かしらの意図を持って役割を持たせている以上、その神様だって、この金木犀に何かしらの『感情』を抱いてる。それが何かは分からないけど……けれどその感情が芽生えてる時点で、神様がこの世界を形創る以前にも『金木犀』が存在したって、その証拠になる、よね?そう考えれば……この仮説は破綻するはずだ」
「……ふふ、お見事です、トレーナーさん」
「まあ、そう考えてしまえば、君の感じた『救い』も無くなっちゃうんだけど……」
ひと通り演べ終えて、僕は彼女に、ひと房の金木犀をそっと還す。バツ悪く下に逸らした目線の先には、相変わらずスターダストが拡がっていた。
「いいえ、いいえ、それで良いのです。確かに救いは無くなってしまいましたが……けれども、それ以上に大切な事を、思い出しましたから」
「大切なこと?」
「私が、『メジロアルダン』が今ここに居ることは、きっと意味のあることなのだ、ということです。もし本当に神様がいて、五分前に私をここに置いたとするならば……それはきっと五分後の私に、このことを気付かせるため、だったのかもしれませんね♪」
「……それを言うなら、『この物語そのもの』も、じゃない?」
「……というと?」
「五分前、『世界は、五分前に始まったのかもしれない』なんて口にして、この物語を始めた君だってさ。五分後の僕に、何かを気付かせるため……だったんじゃないの?」
「はて?そうだとして、一体私は貴方に何を気付かせようとしたのでしょう?」
思い切って目線を上げた先、彼女の肩口越しに、風に乗って舞い散る金木犀の花々。流星群の様に流れ落ちるその様を目にして……僕は、大きく空を見上げる。
「─────これだ」
「トレーナーさ……あ、これは───」
そうして視えた光景に、僕は、そして彼女は、口をつぐんだ。
「───綺麗」
足元に沈んだスターダスト、目の前に流れる流星群、そして……とうとう沈みきった太陽と入れ違いに、頭上に現れた満点の星空。
彼女が口を開いてからの五分間、浮かんだ全ての点と点が綺麗に結ばれて、四方八方僕らの周りに現れた、苦しいほど美しい、宇宙。そのあまりの狂わしさに、僕らはただ、ただ、ただ、言葉を失っていた。
「……あっ!」
……その最中のこと。不意に僕らの間に吹き荒らした南風に攫われて、彼女の手のひらの金木犀もそんな宇宙のひとつに変わる。その様に彼女は、とても切なそうに、切なそうに、手を伸ばす。
その寂しげな様は……なんだか、つい最近視た、ような。
「……やっぱり、一緒に夏合宿来たかったね、『チヨノオー』」
「……!」
金木犀のやさしい香り、でも隠しきれない鮮烈な潮の香り。果てしない宇宙の、向こう側に見えた合宿所の灯り。
五分前、『世界は、五分前に始まったのかもしれない』なんて口にして、この物語を始めたアルダン。そんな、まるで関係の無さそうな物語で覆い被そうとしたその想いを、五分前の彼女の『意図』を、僕は恐る恐る『反証』してみせた。
「あれから、まだ一週間も経ってないんだ。やっぱりまだ、割り切れないよね」
「……ええ、そうですね。あの日きちんと送り出したつもりでしたが、やはり私は、途方もない欲張りみたいです」
僕とただ目を合わせて、けれども、ここではないどこかに向けて口を開く彼女。どれだけ気丈に関係のない話を紡ぎ出そうと、その『意図』は、その『感情』は、消せはしない。
やっぱり『この物語』は、『あの物語』の一話後のエピソードにしか、なれないみたいだ。
「ね、アルダン」
「……はい、トレーナーさん」
「やっぱり、どうやっても『あの物語』は描き終わってしまった。僕たちはもう、あの話の後の世界を、進まないといけない」
「……ええ、そうですね」
「でも、頼りないと思うけど……僕たちにはまだまだ、もっともっとたくさんの積み重ねた物語があるんだ。あの物語、よりも何話か前の話で言ったとおり……」
「言った、とおり?」
「君の大切なもの、全てが君から離れていったとしても。僕だけは、隣で寄り添う、そんな未来だけは保証するよ。必ず」
「……ふふ、ふふふ?そう、でしたね?そんなことも、確かにありましたね?」
……けれど、そうだ。この二年半の間に積み重ねた、彼女と僕の大切な思い出、この信頼、いつの間にか君が僕に寄せてくれていたこの感情。
『この物語』は、それら全ての後のエピソードでもある、はずだろう。
「……そうですね?私たちがこんな所でうかうかしていたら、戻ってきたチヨノオーさんに笑われてしまいますものね♪」
「そうそう、だからさ、これからの未来も信じてみようよ。そんな遠い未来じゃなくても、五分後とか、それくらいでいいからさ」
「ええ、そうですね……ではひとつ、トレーナーさんにご期待しても、よろしいですか?」
「ん?なになに?」
「……やっぱり夜は、寂しくて……少しだけ、合宿所を抜け出して、逢いに来て、いいですか?」
「……ほんと、ちょっとだけだよ?」
風の凪いだ海岸線、僕はまるで本を閉じるように手を叩き、彼女を呼び寄せる。
そして、いつの間にか消えていた金木犀の香りも、少し曇りがかった星空も。それら全てを特別な『感情』だと纏めあげて、僕はその手の中、新しい『世界』へと綴じ込むのであった。