メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
「ウマ娘母親小説合同4」
に寄稿させていただた作品の再掲となります。
※瑞穂国様に再掲許可はいただいております。
光の跡
「ふふふふーん♪ふふふーん♪っと、ここはこんなもんでいいかな?」
右手に箒、左手にちりとり。散らばった落ち葉を鼻歌混じりで掃きとる僕の頭上には、ちぎれた雲達がなんとも居心地悪そうに、点々と距離を保つ様に流れていた。
「あと五分かぁ。ま、誰も見てないしこれくらいで引き上げ……ああ、でもなんかこの隅っこのとこ気になるなぁ。それを言うなら、向こうもちゃんとやっとかないとバランス悪いか?見栄え、見栄えがなあ、一応来賓の方とか通るとこだし、うーん……」
このトレセン学園でも、もちろん普通の学校と同じように存在する放課後前の掃除時間……とはいえ、そこはやはり日本一の競技ウマ娘育成機関。校内の敷地面積だって、そんじょそこらの学校とは比べものになどならない。
という訳で、この学園の掃除当番は生徒のみならず、教師、事務員、更には我々トレーナー陣までひとまとめで回っていく。なんだか毎日が年末の大掃除みたいな規模で、着任したての頃は毎度毎度ただひたすら圧倒されていたっけな。
「しかしほんと、この広さを一人でって……校門掃除の当番だけ、労力ヤバくない?」
「ふふふ、確かに。分かりますよ?そのお気持ち♪」
「ねー、せめて二人……いや、三人は欲しいよねぇ」
という訳で、本日の当番である『校門』に対して、その雑で乱暴な振り分けについつい愚痴をこぼしてしまう僕。そんな俗々しい僕の独り言を優しく包み込んでくれたのは、もちろん我が担当ウマ娘、メジ……
「ん?君、今日は体育館じゃなかったっ……」
軽い違和感を感じて、そろりと視線を動かす。そこに立っていたのは、いつも通り見慣れた紫の瞳に、きめ細かい白い肌に、艶のある青鹿毛……青鹿毛?
「…………?」
「……うわあぁっ!?」
思わず、怯えた猫の如く後方に飛び退いた僕。そこに立っていたのは、我が自慢の担当ウマ娘……などではない、見ず知らずの一人のウマ娘なのであった。
「だ、誰っ……じゃなくて!すす、すみませんっ!人違いで、こんなっ、気軽に話しかけちゃってっ!?」
「まあまあ、間違いは誰にでもありますから?そんなに縮こまらないでくださいな♪」
「す、すみませんほんと……」
生徒……ではないな、そもそも制服着てないし。
見たところ僕より少し年上、二十代後半くらいと言ったところか。なんともシックで気品溢れる白いブラウスに、優しげな花の刺繍が施されたロングスカートに身を包んだ……そして、そんな上品な服装が霞むほど、指先から爪先までしゃんと張り巡った所作の丁寧さが強く印象に残る、不思議な雰囲気の、ウマ娘であった。
「っ、いでっ……!」
「あら?大丈夫ですか?お足が……」
「あ、ああ、大丈夫ですよ。ちょっと捻っただけ、みたいですので」
慌てて、失礼のないようこちらもぴしゃりと姿勢を正す。と、不意に右足から漂ってくる鈍い痛み。どうやらさっき飛び退いた反動で軽く捻ってしまったらしい。まあ、立てない程では無いのでひとまずは……
「まあ、大変!早くそこに座ってください?」
「えっ?いやほんと大したことは……」
「いけませんよ?頭で大したことがないと思っていても、身体自身は違うかも知れませんから。さ、ズボンを捲って?」
「えっ?え……ええ?」
先程の優雅な印象から一転、半ば強引に僕を植込みの段差に座らせて、患部をじっと観察する彼女。それからすぐに、ずっと背負っていた、その身なりには少し不自然に思える程大きなバックの中を漁り出し、手際よく取り出したのは、どこかひどく年季の入った、シール塗れの、少し不思議な雰囲気の『救急箱』だった。
「あれ?包帯?テーピング?」
「こういったものはやはり、まず動かさないのが大切ですからね?」
「いや、それはもちろん知ってるけど……って、手際良っ!」
「ふふ、こういったことは、慣れていますので」
取り出した包帯とテーピングで、あっという間に僕の足首を固定してみせた彼女。僕だって、トレーナーである以上応急処置の心得くらいはもちろんあるのだが……だからこそ驚かされたその手際の良さ。最早本職の医者や看護師も真っ青なスピードであった。
「はい、できましたよ?」
「あ、ありがとうございます。ちょっと大袈裟な気もするけど……でも、助かりました」
「いいえ、いいえ、この程度どうということはございません♪それよりも貴方に大事がなくて、本当に、よかった」
「ええ、それはまったく……」
彼女が手際よく、けれどもひたすら丁寧に巻いてくれた包帯を手でなぞって、ふと脳裏に浮かべてしまう我が担当ウマ娘の姿。
『包帯を巻く』か、そういや彼女も、とびきり上手だったなぁ。ちょうど同じように、手際よく、丁寧で、優しい手つきで……
「……」
「あの、大丈夫ですか?もしややはり、ご気分が……」
「あ、ああ!いやいや!なんでもないですよ!ほんと!全然!」
「それなら、良いのですが。ううん……」
「ふふ、その、なんて言うか、とてもお優しいんですね?」
「えっ?いえいえ優しいだなんて。ただ少し、心配性なだけですよ?よく家族からも『何でもかんでも、心配のし過ぎだ』なんて言われてしまって……」
「ああ、なんか分かるなぁ。僕も知り合いからいつも、『深く考え過ぎです』なんて言われるんですよ?『もっと気軽にやっていいんです』なんて。はは、分かってるんですけどねぇ……」
「あら?貴方も?私こそ、離れて暮らす家族の事が気になって、ついつい長電話し過ぎちゃったりなんて……ふふっ♪」
優しく、手で口を多いながらくすくすと笑みを浮かべるその清楚な姿に、なぜだか妙な安心感を覚えてしまう僕。と、なんだろうな。
身なりも、性別も、種族すら違う初対面の相手とこんなに通じ合うところがあるなんて。なんだかこそばゆいが、悪くない気分だ。たとえ見ず知らずの相手だろうが、同じ悩みを共有できるというのは、本当に幸福なことなのだな……なんて、しみじみと考える。
キーンコーン……キーンコーン……
「あっ!も、もう掃除の時間終わり!?す、すみません!僕もう行かないと!」
「あらまぁ、もうこんな時間でしたか。私もそろそろ行かなくては……申し訳ありません、つい話し過ぎてしまって……」
「いえいえ、本当に楽しかったですよ。僕、ここでウマ娘のトレーナーやってるんです」
「……トレーナー」
「ええ、なのでもしまたこの道ですれ違ったときは、その時はまた、お話ししましょうね?」
「……うふふ、そうですね?また、いつか……」
僅かばかりの名残惜しさを飲み込んで……軽く会釈をしながら、立派な校門を一人くぐっていく彼女の背を見送る僕。その姿が見えなくなった頃合で、僕はもう一度、自らの右足に巻かれた包帯を指でなぞってみる。
「やっぱり、なんだかそっくりだったなぁ」
改めて脳裏に浮かんできたのは、やはり我が担当ウマ娘の姿だった。高等部とはいえ、まだまだ幼さ、無邪気さを残す彼女。けれどももう十年ほど経てば、あのような更に優雅で気品溢れる一人前の女性へと成長していくのだろうか。
大通りを横切る、乾いた風が僕の輪郭を通り抜けていく。その冷たさに心臓が縮んで、思わず僕は、ため息をこぼすのだっ
「……ん?あれ?あの人今、学園に入っていかなかった?」
ふっ、と背後から戻ってきた意識で頭を働かせ、思い出す。確かに今、彼女がくぐり抜けて行ったのは、間違いなく学園の門構えの方……え?何?もしかして僕、部外者の侵入を許しちゃった?
「いや、あんないい人が不審者なわけがないな。うん、大丈夫、間違いない」
そうだ、そうに違いない。きっと理事長の知り合いとか、なんかそういう人だろう。いやはや、あんないい人をちょっとでも疑うなんて、僕はどうしようもない薄情者……
[警告ッ!これより先トレセン学園所有地につき、関係者以外の立入りを禁ずるッ!]
「……いや、でも知らない人なのは確かだし、悪意がないにせよ、後々問題になったらむしろあの人にも迷惑が……でもあんなに良くしてくれたのに……いやでも、でも、うーん……」
◆
「あらあら、それはなんとも不思議なお話ですね?」
「ね?まあ一応、ほんとに一応たづなさんには報告したけど……でもほんとに報告して良かったのかなぁ?なんか申し訳ないっていうか、うーん……」
「ふふっ♪本当に貴方は、いつも深く考え過ぎですよ?何事も、もっと気楽にやっていいのではないですか?」
「……ふふっ、まあ、そうだね?ありがとう、アルダン」
掃除の時間も終わり、バタバタと後片付けを済ませてから戻ってきた僕のトレーナー室。で、既におすまし顔でソファーに腰をかけて、慌ただしく戸を開いた僕を暖かい目で出迎えてくれたのは、もちろん、我が担当ウマ娘『メジロアルダン』であった。
「それより、足は本当に大丈夫なのですか?捻ってしまったと仰っていましたが……」
「ああ、うん。ほらこのとおり、大丈夫だよ?」
「もう、本当にお気を付けてくださいね?貴方がもし大怪我でもしたならば、私は……」
「私は?」
「ふふっ、三日三晩、寝ずに看病させていただきますから、ね♪」
「それは……絶対に、誓ってでも、大怪我なんて出来やしないなぁ……」
「ふふふ♪」
あえて余裕綽々に屈伸運動をしてみせる僕に、これまた朗らかに言い放ってくるアルダン。ここまで付き合ってきた僕なら分かる、彼女の、どこまでも透き通るような『正直』さ。
やれやれまったく、昔みたいな無鉄砲な無茶も、もうやるわけにはいかないらしい。与えられたばかりの頃より随分狭苦しくなったトレーナー室を見渡しながら、僕は思わず苦笑いを浮かべるのだった。
「まあ、大事にならなかったのも、あの人のおかげかもしれないけどね?本当に、あんなに手際が良くて丁寧な手当て見たことないぐらいだ」
「あら、貴方がそこまで言うほどとは、本当に余程のものだったのでしょうね?」
「いやほんとほんと、トレーナー養成学校の先生でもあんなに上手い人はいなかったよ。ほら、見てよこの包帯の巻き方?」
「あら、これは……?」
ズボンの裾を少し捲りあげて、未だ巻き付けられたままの包帯を何の気なしに彼女に見せる僕。と、なんだかまじまじとその様を見つめながら、顎に手を置き、頭を捻るアルダン。本当に他意もなく、単なる世間話の延長で見せただけ、なのだが……?
「……あの、トレーナーさん?」
「ん?どうしたのアルダン?」
「その、つかぬ事をお伺いいたしますが。この包帯を巻いて頂いた方というのは、もしや」
ピンポンパンポン♪
『放課後のお時間に失礼いたします。生徒の呼び出しです。メジロアルダンさん、校内におられましたら、至急理事長室までお越しください』
「んっ?アルダンの呼び出し?」
「まあ?私ですか?」
不意にスピーカーから流れ出してきた、聞き馴染みのある落ち着いた声。これは、間違いなくたづなさん、だな。
たづなさんからの呼び出し、それも理事長室に、となるとなんだかただ事ではないような気もするが……
「ううむ、一体何のご用事なのでしょう?もしや、お説教?」
「いやいや、君に限ってそれはありえないでしょ?僕はトレーニングの準備しておくから、早く行っておいで?」
「ふふっ、それもそうですね?では、行ってまいります、トレーナーさん、また後で♪」
「うん、行ってらっしゃい、アルダン」
突然の呼び出しにも動じず、こちらに優しく手を振ってからトレーナー室を後にするアルダン。多少気になる所はあるが、まあ、他でもない彼女の事である、今度こそそう心配することはないだろう。というわけで僕はひとつ、大きな深呼吸をしてから本日使うトレーニング教本を何冊か本棚から取り出して、机の上に並べて……
……目の前のトレーニング教本と、未だ右足に巻かれたままの清潔な包帯が視界に入り込んできて、ふと僕は、物思いに耽ってしまう。思えばあの『日本ダービー』から、もうすぐ一年、か。彼女が死力を尽くして走り、走り、走り……そうして、それでも最後の最後、『サクラチヨノオー』に差し返されて二着に終わった、あのレース。あの時に彼女が痛めてしまったのも、同じ『右脚』だったな、なんて。
「大事がなくて、本当によかった、か」
もしも、僕の日々の指導がもっと的確なものであったのなら。
もしも、彼女の脚の具合をもっと細かく把握出来ていたのなら。
後悔なんて、掃いて捨ててもキリがない程、ある。あの日から一日たりとも、それを忘れたことなんて、ない。けれども。
あれから一年、ようやく彼女はあの日と同じ……いや、あの日以上の肉体を取り戻す事ができた。辛いことも沢山あったけど、それでも、『僕ら二人』で積み上げ、成し遂げた事だ。これこそ、そう深く考え込んでちゃいけないな。グダグダ悩み過ぎて彼女の勢いに水を刺してしまないように、もっと、気楽に、か。
「流石にお説教なんかじゃないだろうし、そんなに時間はかからないかな。急いで準備しないと……いや、まてよ?もしかしてお説教を受けるのは僕の方で、先にアルダンに事情聴取しているとか有り得るんじゃないか?いやでも、別にそんな悪い事は……あ、そういえばついさっき部外者が学園に入るのを見逃したんだった……いやでも、それこそアルダンには関係ないしな?うーん、うーん……」
ガララッ……
「あれ?もう帰ってきたの?理事長、は……」
性懲りも無く、うんうんと悪い想像を膨らませる僕の耳に、不意に入り込んできた優しいドアの開放音。そこに立っていたのは、いつも通り見慣れた紫の瞳に、きめ細かい白い肌に、艶のある青鹿毛……青鹿毛?
「……?」
「……うわあぁっ!?」
思わず、怯えた猫の如く後方に飛び退……くのを今度は我慢して、その人影を凝視する僕。そこに立っていたのは、我が自慢の担当ウマ娘、などではない、見ず知らずの一人のウマ娘、でもない、確かに見覚えのある優雅な佇まいの、一人のウマ娘であった。
「まあ、貴方先程の!うふふ、まさかこんなに早く、またお会いできるだなんて♪」
「えっ!?あっ、さ、さっきの!?なんで……?」
「お足の方は、お変わりございませんか?腫れが出たり、出血などされていませんでしょうか?」
「あ、え、ええ、ほんと、お陰様でもう全然、痛くも痒くもありません、けど」
「うふふ、それは良かった♪何卒お大事になされてくださいね?」
「は、はい……」
あからさまに動揺する僕の様子を観察しつつ、どこまでもマイペースに語りかけてきたのは、他でもない、先程校門前で出会った件のウマ娘なのであった。
「あの、つかぬ事をお伺いいたしますが、貴方は、どうしてこんな所に?」
「ああ、実は今、トレセン学園の中を少し見学させていただいてまして、ですね?」
「見学……ああ、なるほど、それなら良かった……」
「良かった?」
「い、いえ、こっちの話です」
ゲストの入館証をこちらに小さく見せてくる彼女に、僕は大きく胸を撫で下ろす。良かった、本当の本当に部外者という訳ではなかったんだな。いやほんと、こんな身なりの綺麗な人を疑う方がおかしいかもしれないけど……
「本当の用事は別にあるのですが、時間が空いてしまったので見学でも、と。それで、少し歩き疲れたので一休みできる場所を探していたのですが……まさか貴方にまたお会いできるだなんて♪」
「なるほどなるほど。あ、お疲れなら、よろしかったらこちらに……」
「まあ!ありがとうございます♪」
「あ、すぐに飲み物お出ししますので……ええと、なにがあったかな……」
「うふふ、そこまでお気遣いなされなくても大丈夫ですよ?貴方こそお座りくださいな?」
「あ、は、はい。失礼、します」
なんとも珍しい来客にあたふたする僕に向かって、優しく、諭すように声をかける彼女。なんだか逆らう気も起きずに、僕は言われるがまま彼女の正面に腰掛ける。
「あ、そういえばこれ、よろしかったらお食べください?」
「んっ?これは?」
「アメリカの……これは、カリフォルニアだったかしら?お土産の、ミックスナッツです♪」
「え、アメリカの?そんなの貰っていいんですか?」
「うふふ、主人が仕事で海外を飛び回っていまして、帰国する度に食べきれない程のお土産を買ってくるのです。これもまだまだ家に二箱程残っていますので、是非、どんどんいただいてくださいな?」
「へぇ、それはまた、立派なご主人様ですねぇ……」
「ふふっ、それほどでも……と、言いたいところですが……そうですね?間違いなく、自慢の主人です♪」
なんとも堂々と、さらりとそんな事を言ってのける彼女の様子に、思わずこちらも笑みがこぼれてしまう。しかし本当に、この人と話していると落ち着くな……まるで、少し年の離れた、親戚のお姉さんと話しているような……
「ああ、それとこれも。ええと、これはインドのお土産のチャイ、ですね?とっても美味しいので、是非飲んでください♪」
「あ、ああ、ありがとうございます」
「それから、これはイギリスの紅茶です。朝に飲むと、しゃっきり目が覚めますよ♪」
「あ、どうもどうも……」
「あとこれは、南アフリカのビルトン。見た目は少し……ですけど、意外と美味しいのですよ♪」
「えっ?何?ビル……」
……なんというか、お姉さんというより、これではまるでお母さ
「それにしても」
「ひっ!?は、はいっ!?」
「相変わらずおひとりなのですね?校門掃除の当番さんは?」
「あ、ああ、そ、そうなんですよ?いやー、いつも大変で大変で……」
突然話題を変えた彼女に、思わず背筋をガチリと伸ばす僕。び、びっくりした……一瞬思考でも読まれたのかと思って……
「ん?相変わらず?」
「ふふふ、よく分かります。私も在学中は、当番が回ってくるのがとても憂鬱でしたもの」
「在学中?てことは、もしかして……」
「あら、お伝えしておりませんでしたか?そうです、私はこの学園の……卒業生、なのですよ♪」
「へえ、卒業生……!」
彼女の口から語られた事実に、点在していた疑問符が綺麗に一つの線となる。なるほど、トレセン学園の卒業生。そりゃ、ああも迷いなく校門だってくぐるはずだ。
「卒業してからもう随分と経ってしまいましたが……ふふっ、本当にこの学園は、何一つ変わっていないのですね?教室も廊下も、この、トレーナー室だって」
「トレーナー棟なんかは、流石にガタがき始めてますけどね?最近エアコンの効きが悪くって……しかし、何一つ変わらない、ですか」
彼女の瞳が、まるでいたいげな少女に戻ったかのように微笑ましく輝き始めた。それにしても、彼女の在学中……彼女の風貌から見てそれ程遠い昔というわけではないだろうが、それでも間違いなく僕の知らない頃のトレセン学園ということにはなるか。なんとも純粋な好奇心が沸き上がり、僕もまた、ワントーン声色を高くする。
「ええ、何一つ♪懐かしいわ……ファン感謝祭ではクラスのみんなで屋台を出店しましたの。うふふ、私が半分冗談でスコーンと紅茶のセットを売りたいと言ったら、みんな乗り気になっちゃって……そこからみんなで、何日もかけてお紅茶を淹れるレッスンをしたのです♪」
「ふふっ、それはまた、想像するだけで面白いですね?」
「そうでしょう?あ、それとリーニュ・ドロワットも♪ビーちゃん……ああ、当時の友人とご一緒に踊る事になったのですが。ビーちゃんったら、当たり前のように誰もついて来れないようなテンポで踊り出すものですから。ふふ、本当に大変でしたよ?」
「それはそれは……」
上品で耽美な第一印象から一転。大口を開けて、なんとも瑞々しい笑みを浮かべる彼女に、思わずこちらの頬も緩んでしまう。
「……」
……そう、褒められた事ではないのは理解しているが。
僕の目の前で笑う彼女の、そのえくぼに、目元の皺に、優しく手で抑えた口元に。どうしても感じてしまうのは、やはり我が担当ウマ娘メジロアルダンの面影。
いずれアルダンも、このトレセン学園を巣立つ時が来る。その時に彼女は、同じように笑えているのだろうか。ファン感謝祭もドロワも良い思い出だったと、全てを受け入れ前に進む事が出来るのだろうか。最近調子の悪かったエアコンが急に息を吹き返したのか、妙に乾いた風が、僕の輪郭を通り抜けていった。
「ふふ、本当に懐かしいです♪感謝祭もドロワも、今でも続いていますよね?今はどのようになっているのかしら?」
「え?ええ、そうですね!今年のドロワ、実は僕の担当ウマ娘も出ることになって!『親バカ』みたいに思われるかもしれないんですけど、彼女の着る予定の衣装が本当に本当に綺麗で……あ、写真見ます?写真!」
「ふふふ?そんなに鼻息を荒くして……あら?」
先程まで物思いに耽っていたことを慌てて脇に置いて、僕は携帯の画面、スカイブルーに染まるカメラロールを漁り始めた。いやはや、この間見せてもらったあの衣装、本当に綺麗だったなあ。完璧としか言いようがないスタイルに、身にまとった純白のパンツスタイル。どこからどう見ても……
「ええと、どれがベストショットだろう?これはめちゃくちゃ表情がいいけど、でもこっちは脚線美が……ん?」
「……」
「え、えっと?」
なんて、本来の目的を半分忘れつつ画面を凝視していると、なんだ。
先程まで絶え間なく聞こえていた朗らかな声がピタリと止んで、唐突に、トレーナー室は静寂に包まれる。
「そうね、これもまた、何一つ変わらないのね」
「え?それは……」
ふと、彼女が手に取ったのは、先程僕が準備をして、机の端に置いておいたトレーニング教本。その表紙をそっと指先でなぞる彼女の瞳は、何故だか先程までよりほんの少しだけ、冷ややかに凍りついて見えた。
「あ、ああー?確かにその教本も、かなり昔から変わってないですもんね。確か初版が、丁度五十年前とかだったかな?」
「ええ、そうでしたね。もちろん私も、使っていましたよ」
かつての伝説的なトレーナーが執筆した、トレーニング教本。当時にして革新的な指導要領が数多記されており、出版から半世紀経った現代でも、ウマ娘やトレーナー、レースに携わる者ならまず間違いなく一度は目に通したことがあるであろう、マスターピースのような存在の一冊。
を、ただひたすら無表情で見つめる彼女。その様子に僕もまた、次の言葉を決めあぐねる。
「……ウマ娘。彼女たちは、走るために生まれてきた」
「……!」
「時に数奇で、時に輝かしい歴史を持つ別世界の名前と共に生まれ、その魂を受け継いで走る。それが、彼女達の運命」
不意に彼女が口にしたのは、その教本の表紙を捲った1ページ目のまえがきの文章。これもまた、『ウマ娘』に関わる者なら間違いなく一度は耳にしたことのある言葉、なのだが。
「くだらない、わね」
再び移ろいだ、彼女の表情。まるで土砂降りのスコールが近付いてきたかのようにその雲行きは怪しく、思わずその様子に、僕は反射的に身構えてしまう。
「あ、も、申し訳ございません、なんだか興を削ぐような事を口走ってしまって」
「ああ、いいえ、そんなこと……何か、きっとあなたにとっては、重要な事、なんですよね?」
「……ええ、そうね。とても、とても忘れられないことでは、あります」
忘れられないこと、というより、忘れてはいけないこと、だろうか。彼女の口振りから、何故だかそんな雰囲気を感じ取る僕。けれども、どうだろう。
これ以上踏み込んで良いのだろうか。彼女と何の『接点』もないであろうこの僕が、不用意に彼女のその暖かい血の通った心に触れて、そうしてそれを、万が一強い力で押し潰してしまったり、爪を立ててしまったり……そんなことを、してしまえば、僕は。
「……」
こんな時、彼女なら。『メジロアルダン』なら、どうするのだろうか。
「……あの」
「あ、ああ、申し訳ございません。そうですね?もっと明るくて楽しいお話をしましょう?ええと、何のお話だったかしら、ええと」
「大丈夫、ですよ」
「は、はい?」
「もしも貴方が今、何か悩み苦しんでいる事があったとして。もしも万が一、僅かでも僕が力になれることがあるのなら。そうだとしたら、僕は絶対に協力を惜しみません」
「え、ええと……いえ、そんな、悪いですよ。先程、お会いしたばかりでしょう?」
「いいえ、いいえ、そんなことありません。『ウマ娘』を幸せにする、それが『トレーナー』の仕事、ですから」
「……」
「……」
……あれ、なんか、凄い空気になっちゃったぞ?
というか、そりゃそうか……アルダンみたいな朗らかで人当たりもいい綺麗なウマ娘ならいざ知らず、こんなどこにでもいる冴えない男なんかにそんなこと言われたってなぁ。
くう、幸せにだのなんだの言葉吹かせすぎた……穴があったら、今すぐ埋葬されたい気分……
「あ、ああー、な、なんちゃってー?そんな、僕なんかができることなんて、あるわけ……」
「それなら」
「は、はいっ?」
「それなら、ひとつ、ご質問してもよろしいでしょうか?『トレーナーさん』?」
「……っ」
彼女の口から飛び出した『トレーナーさん』という言葉。その、たった一言を耳にした、ただそれだけで逆立ってしまう、僕の全身の毛。
その声色も、イントネーションも、特徴的な語尾のしっとりとした息遣いも。面影を感じる、どころではない。何故だかは分からないが、彼女のその台詞はどこをどう切り取っても我が担当ウマ娘、メジロアルダンの言葉と瓜二つ、であった、けれども。
その表情は暗く、その口調は冷たく……ともすればまるで、まるで他でもない、僕自身が他ならぬ『メジロアルダン』自身に拒絶されているかのような、そんな錯覚を、覚えてしまったのだ。そうして間を置かずに、とても動揺を隠しきれない僕に向かって、彼女は宣言通り『質問』を投げかけてくる。
「貴方が、貴方の担当ウマ娘に日夜なされていることは……それは本当に、本当に『彼女』の幸せの為になっているのだと。胸を張って、そう言えます、でしょうか」
◆
消えたはずの右足首の痛みが、ズキリとぶり返してくる。こんなにも部屋は冷え込んでいるのに、額には汗がとめどなく流れ落ちる。
僕のやっていることは、本当に彼女の、『メジロアルダン』の幸せの為なのか?間違いない、僕というトレーナーは、メジロアルダンというウマ娘を幸せにする為に存在しているのだ。そこに嘘偽りは無く、きっと彼女だって……
彼女だって……
……そこですぐに答えが出せないのが、どうしようもなく心配性で優柔不断な、僕の悪い癖である。
「……どうして、そんな事を?」
「ええ、気に障ったのなら、申し訳ございません。けれども、私も子を持つ母親でして」
「は、はい」
こ、こんなに若いのにお子さんまでいるのか……すごいな……ではなく。
答えに窮した僕は、思わず質問を質問で返してしまう。その問いに少しだけ雰囲気を元に戻した彼女は、再び穏やかに、けれどもその温度感は保ったまま、優しく語り始めた。
「もしもこの世界の何処かに、不当に虐げられている子供達が居るのならば。それは、それだけは、絶対に許されざることです。そんなことは、絶対に止めなければならない」
「それは、もちろん、僕もその通りだと思います」
「しかし、どうでしょう。もしもそんな非道が、世の中に『美徳』として扱われているのならば……すなわち」
「すなわち?」
「私達ウマ娘は、本当に『走るために生まれてきた』存在、なのでしょうか?」
「……!」
まるで、僕の今まで見ていた世界が根こそぎひっくり返るような、そんな、衝撃。
『ウマ娘は、走るために生まれてきた』
古く古くから、それこそこのトレーニング教本で引用されるよりもずっと古くから、『ウマ娘』という存在の、その存在理由として当たり前に用いられてきた『走るため』という言葉。その言葉を、あろうことか『ウマ娘』本人から否定される。その事が、その事実が、何故だか異様な程、言葉以上の重みを持って僕の肩にのしかかってきたのだった。
「よろしければ、少し、昔話にお付き合いいただけますか?」
「あ、は、はい……もちろん」
彼女の言葉がうまく咀嚼できず、ただひたすら硬直する僕に向け、彼女はふと、遠く遠く、ここでは無いどこかへ向けて、言葉を紡ぐ。
「全く自慢ではありませんが……実は私、レースの世界ではそれなりに名の知れた一族の生まれなのです。幼い頃から親戚達の輝かしい戦績を見て、憧れて、いつかは私もあんな晴れ舞台の主役になりたい。『時代』を創り出したいと、躍起になっていました」
「時代、を」
「ふふふ、まるで鳴かず飛ばずでしたけれどもね?勝ちはおろか、掲示板入りすらそうそう出来ないレベルでしたので……走っても、走っても、ゴールは遠のくばかりで」
「……」
「家柄の事もあって、最初は目をかけてくれる方も沢山おりましたが、そういった方々も一人、また一人と減っていって。けれども、名家としての世間体もあり、健康体のまま途中で辞めるという訳にもいかず。正直その頃には、もうレースへのモチベーションなんてほとんど残っていませんでしたね?」
そんなことを、なんとも朗らかに言い放つ彼女。けれどもきっと、それも敢えてのこと、なのだろうな。
僕は、僕自身はウマ娘ではない。だから彼女達の心情はきっと一生かけても完全には理解しきれない。けれども、昨年のダービー。走り終わった後のアルダンの姿を目の当たりにして、初めてほんの少しだけ分かった気がする、ウマ娘にとっての『負け』の、本当の意味合い。きっとそれは、単なるスポーツの勝ち負け程度の話では、ないのだろう。
そうだ、『走るために生まれてきた』らしい彼女達にとっての負けとは、それ即ち『人生の否定』に他ならない。お前の人生は間違いだったと、暗に公衆の面前で晒される屈辱。年端もいかないうら若き少女たる彼女達に、その事は果たして、どれ程の傷を植え付けてしまうのだろうか。それこそ、僕なんかには計り知れないものであった。
「でも、それでもこの学園での生活は幸せだった。レースのことは本当に辛かったけれど、その辛さを共有出来るご友人が沢山いましたし、ファン感謝祭もドロワも、そんな友人達と共に取り組む学校行事は、とびきり、とびきり楽しかったから」
「それは……」
「それに、私には『ビーちゃん』がいたのです。私の大親友で、寮でも同室で、ドロワで結局ろくに踊れなかった後も、来年こそはベストデートを取ろうね!だなんて無茶を言っては、その度余裕そうに笑っていた。柔らかい笑顔が、素敵な娘」
「ビーちゃん……ですか」
「ビーちゃんはですね、思いきり負けて帰った私にいつも言ってくれました。『ウマ娘は走る為に生まれたのだから、今、どんなに辛くても頑張り続けさえすれば、最後は絶対幸せになれる。そういう風に、できてるんだ』と……モチベーションは全くありませんし、その言葉だって本気にしてはいませんでしたが……それでも、ほんの少しだけその言葉は、私の『走る理由』になってくれた。彼女の言葉を聞いている時だけは、これは自分が幸せになる為に、自分で決めた道なのだと、そう信じる事ができたのです」
しんとした室内に、エアコンの駆動音。そして今日も遠くから聞こえてくる、ウマ娘達の猛るような、燃えるような掛け声。
今日ばかりは、それがなんだかノイズに感じて、僕は少しだけ身を乗り出して、彼女の言葉に集中する。
「けれども、ビーちゃんは強すぎた」
「強すぎた?」
「ええ、同期の中でも圧倒的に強かった。一度だけ公式戦で一緒に走ったことがあるのですが、本当にスタートも、道中も、最後の追い込みまで、なにもかも完璧な走り、完璧なウマ娘、だったのです」
「ああ、それは、また……」
「そしてもちろん、そんな彼女を世間は見逃さなかった。史上初のトリプルティアラも夢物語ではない存在として連日持て囃され、テレビや新聞にも引っ張りだこ。そして当の彼女も、とても純粋で人懐っこい性格でした。出来うる限りの取材やファンサービスに応えながら、そんな人々の期待を裏切らないよう、ただでさえ尋常ではないトレーニングメニューを更に詰め込んで、詰め込んで……」
乗り出していた身を、少し引いて。思わずその先の言葉から耳を逸らそうとしてしまう僕。
言うまでもなく、トゥインクルシリーズ史上初のトリプルティアラを達成したのは、現在もトレセン学園に在学中の『メジロラモーヌ』である。と、いうことは、すなわち、つまり、この思い出話の結末は。
そんな僕の気持ちを……きっと分かって、全て承知の上で、彼女はゆっくりとその次の言葉を紡ぎだした。
「そうして、ビーちゃんは壊れてしまった」
「っ……!」
「最初は、何時でも起こりうるようなトレーニング中の怪我でした、もちろん大したことないというわけではありませんが、それでもきちんと休養を取れば、またすぐに走れるようになる程度の怪我。けれども、時期が悪かった」
「それって、もしかして……」
「ええ、ティアラ三冠、その最後を飾るレースの丁度二ヶ月前のことです。だから、ビーちゃんは焦った、今まで見たこともないほど焦っていた。彼女の怪我はすぐに報道陣にも広まって、もはやトリプルティアラも絶望的だという人も現れ始めた。それを聞いて、更にもっと、ビーちゃんは焦り始めた」
「ちょ、ちょっと、それは……」
「……今回の怪我は軽傷で、その後すぐにトレーニングに復帰できたと、最後のティアラにも間に合いそうだと。他ならぬビーちゃん自身が発表して、トレーニング姿も公開したことによって、そんな報道も落ち着きました。やはりトリプルティアラの座は、彼女にこそ相応しいと。世間も、学園も、彼女のトレーナーも、『諦めるな』と。皆がそう、背中を押してくれた」
「……」
「二度目の怪我は、その直後でした。しかも今度は、完治まで少なくとも半年以上はかかると診断される程の、大怪我」
もう、やめてくれ。もう、それ以上話さないでくれ。
瞳を閉じて、心の中でうわ言のように僕は呟いた。けれども、どうしたってこの耳を塞ぐことなど出来ない。彼女はまだまだその口を閉じることなく、特に暖かくも冷たくも、厳しくも優しくもない、淡々とした声で話し続ける。
「分かっていたはずです、ビーちゃんは賢い子でもありましたから。今トレーニングを再開すればどうなるか、自分では分かっていたはずです。それを分からなくしたのは……なんでしょうね」
「……」
「けれども。それでもビーちゃんは変わりませんでした。『ウマ娘は走る為に生まれたのだから、今、どんなに辛くても頑張り続けさえすれば、最後は絶対幸せになれる。そういう風に、できてるんだ』彼女がそう呟く度に、彼女のトレーナーは泣いて喜び、復帰戦の予定を前のめりで立ててくれました。学園は最新のトレーニング環境を整えてくれて、URAも広報宣伝に積極的にビーちゃんを使って、世間にその存在をアピールし続けてくれました」
「……」
「私も、私なりに出来ることを模索しました。ビーちゃんの傷がいつ疼いても対応出来るよう、包帯の巻き方、患部の固定方法。独学ですが、看護の勉強をしてみました。私の勝つ姿を見せることが出来れば、少しでも勇気をあげられるのではないか。そう考えて、あんなにやる気の無かったレースも、少し頑張ってみたりもしました」
相槌すら打つ余裕もなく、僕はただただ、彼女の話を耳に詰め込まれる。彼女は何の目的で僕なんかにこんな話を聞かせているのだろう。考えがとても纏まらない、とにかく今はせめて、僕もまた『ビーちゃん』の無事を祈ることしか出来なかった。今更祈ったところで、きっと、遅いというのに。
「復帰戦、彼女の丁度一年ぶりのレース。結果は、6着」
「っ……!」
「今までのビーちゃんからは考えられない程、まるで覇気も何も感じられない走りでした。そしてその直後、三度目の怪我。テレビや新聞は、今年のティアラの話題で持ち切りでした」
「……」
「それでも、ビーちゃんは変わりません。『ウマ娘は走る為に生まれたのだから、今、どんなに辛くても頑張り続けさえすれば、最後は絶対幸せになれる。そういう風に、できてるんだ』、時には物陰で一人。時には真夜中の布団に潜り込みながら、一人。時には、走れもしないターフにふらふらとやってきては、一人。もはや誰も聞いていないのに、ビーちゃんはいつまでも一人、その言葉を、呟き続けて、いました」
絶え間なく動き続けていた彼女の口が、次第に、ぽつりぽつりとその速度を緩めていく。窓の隙間から吹き込んでくる冷たいすきま風は、僕の肌感覚に向けて『何かの終わり』を容赦なく、突きつけてきた。
「そうしてまた一年近く経ったある日、ビーちゃんは『消えて』しまいました」
「えっ」
「突然、一週間程学園にも寮にも帰らなくなったと思えば。ある日私の知らぬ間に、私達の部屋から綺麗さっぱり彼女の私物が無くなっていました」
「それ、って」
「自主退学。先生からも、彼女のトレーナーからも、それ以上の事は教えていただけませんでした。友人達は皆、今年も差し迫ったドロワの話題に夢中でした。まるで、初めから、ビーちゃんなんて存在しなかった、みたいに」
「……」
「私とビーちゃんのお話は、これで終わり。それからの彼女のことは、本当の本当に、全く存じ上げません。そしてその後も、私はどこにでもいるウマ娘の一人として、走っては負け走っては負け、そのまま何事も無く卒業したのでした。おしまい」
パチン、と彼女が両手を鳴らし、物語の幕はあっさりと降りる。僕の胸に、埋まらない穴を残しながら。
「……改めて、ご質問させていただきます、『トレーナーさん』。貴方が、貴方の担当ウマ娘に日夜なされていることは……それは本当に、本当に『彼女』の幸せの為、ですか?」
◆
そうか、僕はただ、運が良かっただけなんだな。
彼女の昔話を聞いて、真っ先に脳裏に浮かんできたのは、他でもない。『メジロアルダン』、彼女の浮かべた、柔らかい笑顔であった。彼女がダービーで負った怪我……もちろん大したことないというわけではないが、それでもきちんと休養を取れば、再び走れるようになる程度の怪我。彼女はそれを受け入れ、クラシック最後の菊花賞を回避し、時間をかけてあの日以上の肉体を取り戻す事ができた。けれども。
もしも、あの日負った怪我が取り返しのつかないレベルのものであったのなら……僕はそれでも、彼女を今日まで支え続ける事が出来ただろうか。
もしも、彼女が無理を通してでも菊花賞に出たいと言い出していたのなら……僕はそれを、彼女の心に傷を付けてでも止める事が出来ただろうか。
答えられない。僕には何一つ、答える事が出来なかった。そうだ、僕が今日まで無心で前を向き続ける事が出来たのは、彼女の怪我が運良く取り返しのつくようなレベルのものであり、そして彼女がそれを、自分自身の中で受け入れることができたからに他ならない。僕はそんな彼女の成し遂げた事にタダ乗りさせて貰っていただけ、『僕ら二人』で成し遂げた事なんて、何一つなかった。もしもこの道中、何か、どこかが一つでも違っていたならば。
唐突に揺らぎ出す、僕の視界に映る世界。僕は今までずっと、こんなにも不安定な場所で彼女を走らせていたのか。こんなにも不安定な場所で走る、彼女の姿を見て、僕は『幸せ』を感じて……
「違う、僕の方、か」
「?」
そうだ、彼女じゃない。僕が、僕の方が彼女に『幸せ』を貰っていたのか。
気が付いてしまった、この世界の本当の形。僕の、僕らの行いは、ウマ娘達を幸せにする為の行いではない。僕らは、不安定な彼女達に頼られることによって『自己肯定感』を与えられる。自らが指導したウマ娘の勝つ姿を見て、『成功体験』を与えられる。全て、逆だった。トレーナーがウマ娘を育てるのではない、ウマ娘達から与えられている沢山の物のお陰で、僕らトレーナーは『生かして貰って』いる。
と、いうことは。
刹那、僕の脳内で弾けた火花。
『ウマ娘は、走るために生まれてきた』
そうか、この言葉の、本当の意味は。
「……『へその緒』」
「???」
『へその緒』、母体と胎児を繋ぎ、栄養を胎児に送り込む為の器官。
そして、そうだ、『ウマ娘』と『人間』を繋ぐ『へその緒』。それこそが、この言葉の本当の意味。種族の違う、姿形の違う彼女達と僕達を繋ぎ止める、唯一のもの。
言うまでもなく、ウマ娘の身体能力は人間を遥かに超越している。大の大人が寄ってたかっても、走るウマ娘一人さえ、止めることはまず不可能だろう。
更にウマ娘は、知能までも人間と遜色ない生物だ。動物のように言葉が通じない。細かい指示が伝わらない。なんてことはないし、なんなら純粋な学力ですら、正直僕はアルダンに勝てる気すらしない。
……ならば、なぜ?なぜ、この世界はそんな『ウマ娘』と『人間』が『共生』出来ているのか?
違う。『共生』ではない、『庇護』だ。
まるで赤子が母親に育て、育まれるように、僕らはウマ娘という存在に守られ、生かされている。きっと彼女達の力が『走り』以外のものに向けられれば、我々人間などあっという間に淘汰されてしまう。今、僕の瞳に移る不安定な世界など、ものの一瞬で崩れ去ってしまう、のだろう。
『ウマ娘は、走るために生まれてきた』という論説は、きっと、彼女達の聖母の如き慈愛の現れ。その強大な力の矛先が人間に向かないようにする為の大切な約束であり、そして。
彼女達を指導する為の、トレーナーという役割。
彼女達の姿を語り継ぐ為の、観客という役割。
彼女達の意思を喧伝する為の、記者という役割。
まるで、我が子に名前を付けるように。僕達がこの世界に『役割』を持って存在できる許し、それを与えてくれる、祝福。
決してウマ娘の為ではない、むしろ、逆。『ウマ娘』の存在するこの世界で、我々『人間』が『人間』として生きていく事を肯定する為の、優しいフィクション。強い彼女達から、弱い僕達へ、深い愛情をもって伸ばされた『へその緒』。それこそが、あの言葉の真実。
しかし、今。
「……」
「え、ええと、申し訳ございません。そこまで気分を害するつもりでは……あと、その、へその緒、とは?」
しかし、今、そんな言葉に逆に縛り付けられるウマ娘がいるのであれば。人間の為にその身を犠牲にしてしまうウマ娘が、この世界にたった一人でも、いるのなら。それは、それだけは、絶対に許されざることだ。そんなことは、絶対に止めなければならない。
『へその緒』は、いずれ必ず断ち切らねばならないもの。僕らはいずれ、彼女達の庇護から抜け出し、真に彼女達と対等な存在として、この世界に『生まれなければならない』のだ。
「貴方の、言う通りだ」
「はい?」
「貴方の言う通りだった、そうだ、ウマ娘は、走るために生まれた存在、『なんかじゃない』」
「……!」
そしてこんな時、彼女なら。『メジロアルダン』なら、どうするのだろうか。
僕は今、その言葉を、彼女達から伸ばされた『へその緒』を断ち切って。目の前に佇む彼女の優しげな紫色の大きな瞳をしかと観察し、考察する。いつもアルダンが僕に対して……偏屈で変わり者で、いつも性懲りも無くあさっての方向に妄想を広げてしまう僕に対して、それでも懲りずに向き合ってくれるのを、その姿を、真似るように。
「そして、ごめんなさい。もしも僕らトレーナーの……いや、僕ら人間の言葉が、行動が、態度が、意思が。貴方のご友人を、そして貴方自身を傷付けてしまっていたのならば。今更遅いのは分かっていますが、それでも、謝らせて、ください」
「……それは、どうして、貴方が?」
「僕も、当事者だからです。貴方に訊ねられるまで気にも留めずに生きてきてしまっていたけれど。そうだ、僕は怠った、彼女一人に苦しみを押し付けた、貴方の言う通り、彼女の幸せなど微塵も考えていなかった。彼女がいなければ、もし、彼女が『消えて』しまったら、この世界に僕の役割など、まるで存在しないというのに」
僕は自らの胸に手を置き、とにかく真摯に、誠実に、噛み締めるように言葉を紡ぎ出す。これは他人事ではない。彼女達の身に起きた悲劇は、全てこの世界で、僕らが観察を怠ったから起きたこと。そして、もしかしたら明日にでも、僕の世界一愛する『メジロアルダン』の身にも、起こりうること。
「改めて、誓います。もしも貴方が今、何か悩み苦しんでいる事があったとして。もしも万が一、僅かでも僕が力になれることがあるのなら。そうだとしたら、僕は絶対に、協力を惜しみません」
「……」
「僕は貴方のことも、貴方のご友人のことも、全て、何もかも肯定します。その苦しみも悲しみも怒りも、そして喜びも。貴方達の『人生を肯定』してみせます。誰がなんと言おうと、貴方達の努力は、正しかった。そして正しい努力は、報われるべきだ」
「……!」
僕はズボンの裾を捲り上げ、未だ僕の足に巻かれたままの包帯を、他ならぬ彼女に見せつけた。そうだ、これこそ彼女の努力が間違っていなかった証拠。
「こんなに手際が良くて丁寧な手当、僕は他に見た事がありません。とても一朝一夕で出来ることじゃない。きっと、貴方はずっと、それこそトレセン学園を卒業してからもずっと、その腕で沢山の人を救ってきたんでしょう。卒業して、それでおしまい。なんかじゃないはずだ、貴方の、走る為にあるわけじゃない人生は」
「……そう、ですね、その通りです。トレセン学園を卒業しても、私の人生は、続いた」
「ええ、そしてきっと、その苦しみも」
「トレセン学園を卒業してしばらくの後、私はレースとは無縁の仕事に就いて、そこで出会った方と結婚し、三……いえ、二人の娘を授かりました」
再び、ぽつりぽつりと紡がれ始めた彼女の言葉。その言葉はここではないどこか、などではない。先程よりも不安定に掠れながら、けれども確かに『今』、目の前にいる僕の瞳に向けて語られたのであった。
……二人?
「娘達には、時間の許す限り沢山の事を教えました。芸術や音楽、お料理、お勉強……そうやって、貴方達の生きる場所はターフだけではないのだと、なんとしてでも伝えたかったのです」
「……はい」
「けれども、何故だか出会ってしまった。遠ざけようとすればするほど、まるで恋焦がれるように、彼女達はレースに惹かれていってしまった」
「……」
「そして今、彼女達は二人ともこの場所に……トレセン学園に、脚を踏み入れてしまったのです」
彼女の大きな瞳の奥の鮮やかな虹彩が、現実にフォーカスするようにぎゅっと縮こまる。常に一拍の余裕を持っていた彼女の表情も、段々と焦りを帯びたものに変わっていく。そうか、だから彼女はあんな昔話を、僕に……
「ん?」
あれ、今、『今』って言った?『今』脚を踏み入れたって言った?え、どういうこと?現段階で中高生の娘が居るってこと?計算合わなくない?
……うん、とりあえずそこは、深く考えないようにしよう。
「ねえ、『トレーナーさん』」
「……はい」
「やはり私は、母親失格なのでしょうか?彼女達が自分の意思で選んだはずの道を、素直に喜べない。彼女達がレースに勝っても、どうしても私は、彼女達を満足に褒めてあげられないのです。こんな私が、彼女達の『母親』を名乗って、よいのでしょうか」
三度、彼女の口からこぼれ落ちた『トレーナーさん』という言葉。けれども今度こそ僕は怖気付かずに、誇らしさすら感じながらその言葉を耳にしまい込む。彼女達が僕にくれた、大切な役割、大切な名前を。
『へその緒』なんてなくても、繋がりなんてなくなっても。その名をまた、彼女は呼んでくれた。僕を『トレーナー』として必要としてくれた。その名に恥じぬよう、僕は懸命に、真摯にその頭を振り絞る。
「……きっと貴方は、ずっと孤独だったんでしょう」
「孤独……?」
「娘さん達のこと、だけじゃない。『ビーちゃん』さんのことも。レースが、速さが全ての世界。走ることそのものが美徳とされる世界で、それを疑ってしまうだなんて。それこそこの世界自体に水を差すような行為だ。誰からも、そうそう受け入れては貰えないでしょう」
「……ええ、そう、ですね。こんなことはどこの誰にも、今まで相談すら、できませんでした」
「けれども、貴方は間違いなく強いウマ娘だ。そんな孤独の中でも、貴方は最後までトレセン学園に通い続けた。娘さん達をこの歳になるまで、立派に育てあげた。ターフの上でも、それ以外でも、貴方は間違いなく『頑張り続けた』」
「……っ、頑張り……続けた」
「そんな貴方は、間違いなく『母親』と呼ぶに値する存在です。そして、そんな貴方は絶対に『幸せ』になるべきだ。走るために生まれた存在なんかじゃない、けれども『今、どんなに辛くても頑張り続けさえすれば、最後は絶対幸せになれる』。この世界がそういう風にできていることを、僕は信じて、肯定したい。貴方が彼女を、信じていたように」
「……!」
そうだ、彼女はきっと間違いなく、クラシック三冠やトリプルティアラすら霞むほど、途方もなく強いウマ娘だ。
親友から受け取っていた、走る理由という『へその緒』。それを自ら断ち切って、その親友の為に努力を重ねることができた彼女。だから彼女は『子』から『母』になることができたのだろう。本当に偉大な存在だ、ただ、ただ、感服するばかり……
けれども、ああ、次は僕の番だ。
「そして、きっとまだまだ信用してはもらえないと思いますが……娘さん達のことは、今度こそ、我々『トレーナー』に、任せて下さい」
「……」
「今度こそ僕らは誰も壊したりしない。僕らは彼女達が、自然に、健康的に、自らの意思でターフを去るまで、注意深く丹念に守り続けます。だから、お願いです。貴方は何も心配せず、貴方の思うままの言葉で、思う存分娘さん達を褒めてあげて下さい。それだけは、貴方にしかできないことです。お願い、します」
「……ふふ、あらあら、大した自信ですこと、ね?」
「当然です。『ウマ娘』を幸せにする、それが『トレーナー』の仕事。ただそれだけの為に僕らは生まれた……いえ、貴方達に生んでもらった存在、ですから」
「……ええと、私、貴方のお母さんではないのですが?」
「……ものの、例え、です」
今度は、僕の方から手を伸ばす。約束を結び返す。かつて彼女達が、そうしてくれたように。
「……ふふ、私にしかできないこと、ですか」
「とは、いえ。僕の担当ウマ娘は今のところただ一人で、他の娘を担当するというのも正直全く考えられないので……僕自身が娘さん達に直接何かしてあげられる、という訳では無いかもしれませんが……ううむ」
「あ、え、ええ。そのあたりは、それ程ご心配は、ない、かも、ですけど……」
暫し、僕は顎に手を置き考える。
他でもない、僕は『メジロアルダンのトレーナー』である。正直それ以外の肩書きにこれっぽっちも興味は無いし、僕の持てるスキル、時間、労力は全て『メジロアルダン』ただ一人の為だけに捧げる所存である。それだけは、どうしても譲ることはできない。なんとも大見得を切ってしまったが、そんな僕に一体、何が出来るのだろうか……
……いや、むしろそれでいいのかも、しれないな。
「……決めました。いや、元から決めていたつもりの事ですが、改めて、これまで以上に、本気で」
「はい?」
「僕は、僕の世界一愛するウマ娘……『メジロアルダン』を。この生涯を賭けて、世界中の誰よりも、幸せにしてみせます」
「……えええええっ!?」
「彼女がターフの上での栄光を願うなら、もちろんターフの上で……けれども、もし彼女がそれ以外での安らぎを望むなら。例えそれがどこであろうと、僕はそれを肯定し、どこまでも彼女に寄り添い、彼女の送る生涯を永遠に幸福で満ち溢れ続けるものにしてみせます。絶対に」
「ええっと、ええっと?少し待って……貴方、それはその、それって、どの立場で、どういう意味で……」
「そうして、世界の方に変わってもらう。世界中の皆が、ひたすら自由に輝き続けるアルダンの姿を見て、それに憧れて、自分もあのように何事にも縛られることなく生きてみたいと思うようになれば……きっと貴方の娘さん達も、世界中のウマ娘達も、今よりずっと自由になれるはず、ですから」
「……」
「……」
……あれ、なんかまた、凄い空気になっちゃったぞ?
というか、そりゃそうか……アルダンの事知らない人にそんなこと言っても訳分からないに決まって……
いや、駄目だ。僕はアルダンの事を世界一幸せにしながら、その世界中にアルダンの魅力を知って貰わなきゃいけないんだ。もちろん、目の前の彼女にだって。こんな所で臆してちゃ、いけない。
「……実はですね、メジロアルダンというウマ娘は、本当に、世界中の誰よりも魅力的な娘なんです」
「えっ?」
「まず、彼女はとにかく精神が美しい。気品に溢れ、誰にでも分け隔てなく言葉を尽くし、誰も不快にならないよう常に周りに気を配れるウマ娘なんです。更に彼女はとにかく真摯だ。もし目の前に落ち込んで、沈んでしまっている人がいれば、彼女はどこまでも真っ直ぐに寄り添ってくれる。その精神の美しさに、僕自身何度も救われてきた。そして彼女は教養深くもある、歴史、芸術、音楽、彼女はありとあらゆる分野に精通していて、更にそれを自らの糧として逞しく成長できる器量も持っている。先日、彼女と美術館に行った時なんかは、僕に沢山の作品の背景、それを作り出すに至った物語を沢山語ってくれたんです。その時の彼女の、目の前の絵画と自分自身を重ね合わせ、自らの現在地を再確認した上でより一層の覚悟を決めたような、強い強いアメジストのような視線は、まるでそれそのものが悠久の時を超える強度と輝きを持った芸術作品のようでありました。きっと、誰もが思わず手を伸ばしてしまいたくなってしまう程、その姿は美しかった。それに彼女は、芸術に明るくない僕のありのままの感想をも笑わずに受け入れて、自分なりの解釈を投げ返してくれた。彼女と比べればきっと鼻で笑われるような僕の稚拙な感覚すら、彼女は肯定してみせた。本当に、彼女は凄いウマ娘だ」
「えっと……あの、もしもし?」
「そして彼女は……そうですね、これを言うとなんだか浅く感じられてしまうかもしれませんが、そもそも彼女はシンプルに見た目が美しすぎる。目鼻立ち、顔のパーツごとのバランスはとても大人びて見えるけれど、その実、あの大きな瞳と緩やかに上がった口角、少しだけ丸みを帯びた輪郭と、パーツそのものは凄く少女らしい、愛らしい幼さを残しているんです。そんな大人っぽさと子供っぽさが、彼女のその小さな顔の中、綺麗に、完璧なバランスで同居している。本当にいつ見ても惚れ惚れする造形美だ。それにその長い髪も、まるでどこまでも広がり続ける青空とそのまま繋がっているようなあまりに美しい水色で、例えば真夏、よく晴れた空の元で彼女の姿を見つめれば、まるで彼女自身が世界そのものであるかのような錯覚に見舞われてしまう」
「え、ええと……その、申し訳ございません……先に伝えるべきでした……その、『メジロアルダン』というウマ娘は、実は、私の……」
「そうだ、彼女の魅力で忘れてはいけないのは、その声もそうですね?普段はまるで山奥から湧き出る雪解け水のように澄んだ美しい声なのですが、時折、本気の彼女が放つ猛々しい声は、まさしく身震いするほどの熱量が……」
ガラガラガラガラッ!
「お 母 様 っ !」
「ああ、そうそう、まさしくこんな感じ……えっ?」
「あら?」
メジロアルダンとはどのようなウマ娘なのか……ひとまずは概要だけ緩く語っていた僕の耳に突っ込んできた、身震いするほどの猛々しい声。噂をすればなんとやら、という奴か?
「あ、ああアルダン!お帰りなさい!丁度君に紹介したい人がいてね?この人は……ちょっと待って、今なんて言った?」
「あらまあ、『アルダン』!探したわよ?今まで何処にいたの?」
「それはこっちの台詞ですよ、また勝手に出歩いて……たづなさんから理事長室で待つように言われていたのでしょう?『お母様』?」
「……エッ、オカア、サマ?」
「……もしや、名乗っていなかったのですか?トレーナーさんに、自身の事を」
「うふふ、だって聞かれなかったんですもの♪」
「はぁ、本当に、お母様ときたら……」
勢いよくトレーナー室に舞い戻ってきた、我が担当ウマ娘メジロアルダン。彼女が発したその言葉を受けて、消えたはずの右足首の痛みが、ズキリとぶり返してくる。こんなにも部屋は冷え込んでいるのに、額には汗がとめどなく流れ落ちる。というか、まさか、そんなことって。
「申し遅れました。私……『メジロアルダンの母』です。娘がいつもお世話になっております♪」
「おっ……!?こ、ここ、こちらこそ、お世話になって、おりま……」
「……ふふっ♪」
とうとう、その正体を明かした彼女と向かい合う僕。その脳裏には、つい先程まで彼女と交わした言葉の数々が自動的にフラッシュバックされていく。いや落ち着け、落ち着け僕。いくらなんでもそんな不味いことは言ってないは……言ってな……
いや、無理だな。相当な事言ってるわ僕。今更何やっても無駄だ無駄。火葬土葬水葬自然葬、もうなんでもいいから今すぐ埋葬してくれ。
「まあ、初めから薄々分かってはいましたが……トレーナーさんの足、手当してくださったのもお母様なのでしょう?」
「あら?そんなことまでお見通しだったのかしら?」
「当然ですよ?あの包帯の巻き方。忘れるはずがありません。幼い頃……病気やその治療でボロボロだった私の身体に、毎日毎日お母様が巻いて下さった包帯。昔から誰よりも丁寧に……相手の身体への負担を最小限に抑えることを第一に考えた、どの専門書にも載っていない、お母様だけの巻き方」
「……!」
「忘れませんよ。私の命はきっとそれで繋ぎ止められた。それに私も貴方を真似て、包帯の巻き方を覚えたのですから、ね?」
「……うふふ、確かにそうだったわね?」
いや、そうだな。無駄なことなんてないか。例えレースに負けても、望みが叶わなくても、大切なものを失っても、人生はつづく。それを絶やさず続けさえすれば、努力して得たものは消えたりしないし、それが巡り巡って、別の何かがまた『生まれる』ことだって、ある。
「と、そんなことは今はいいのです。今肝心なのは、貴方がわざわざ学園までやってきた理由ですよ。突然訪ねてくるものですから、理事長もたづなさんも困ってらっしゃいましたよ?」
「あらまあ……それは、後ほど謝りに伺わなければなりませんね?」
「まあ、それもおおよそ想像はつきますが……トレーナーさん?先程まで何をお話されていたのかは分かりませんが、どうかお母様の言う事は真に受けないで下さいね?私が許しますので……」
「……いいや、大丈夫。僕ならもう、君に守られなくっても、大丈夫だよ、アルダン」
「トレーナー、さん?」
僕と彼女の間に無理やり割り込んでくるアルダンを優しく制して。僕は改めて、彼女の瞳をしかと見つめる。改めて見ても……そうだな、優しさと強さが同居したアメジストのような、アルダンにそっくりの、瞳だった。
「少しだけ驚きはしましたが、それでもさっき言っていた事に間違いはありません。僕は、僕の責任で貴方の娘さんを守り、育み、世界一幸せにしてみせます。だから……だから……」
「お願いします、お母さん……娘さんを、僕にください」
「えっ?」
「えっ?」
「……えっ?」
あっ、これ間違えたな、言葉選び。
「とっ、ととと、トレーナーさん!?その、い、いいい、今まで一体、何の話を!?」
「あっ!?い、いいいいや!これは違……いや違わないけど!」
「ち、違わないのですか!?それって、その、や、やっぱり……!」
「ああいや!違わないけど違うっていうか!ええと!その!」
「っ……ふふふっ……!」
右往左往と慌てふためく僕とアルダンの事を、少し上の目線から情緒たっぷりに笑い飛ばす彼女。その瞳は、やはりアルダンに……いや……?この表情、どちらかというと……
「……よろしくてよ?」
「ひっ……!?」
「ええ、それでは『今のところは』アルダンの事、貴方にお任せいたしましょう」
「……は、はい」
「けれども、もし万が一、私の愛する娘にまた傷を付けでもしたならば。その時は、またこちらへ伺わせて頂きますね……『トレーナー様』?」
そうだ、すっかり忘れていた……『メジロアルダンの母親』ということは、すなわち、つまり。
『それだけではない』ということを……
「さて、それではそろそろお土産でも持って、理事長さん達に謝りに行きましょうかね?」
「あ、お母様、それなら私も……」
「あら、私なら一人で大丈夫よ?貴方、そろそろトレーニングのお時間でしょう?」
「え、ええ、そうですが……」
「ああ、それとね、アルダン」
「は、はい」
「『日本ダービー』、とても良い走りでした。例え負けてしまったとしても……貴方は間違いなく、私の誇り、です♪」
「……!お、おかあ……さま……」
「これからも、トレーナーさんと仲良く、くれぐれも身体には気をつけて……ね?」
「……っ、はいっ!お母様も、お元気で!」
彼女はそう言い残し、僕らに優しく手を振ると……ドアの隙間から吹き付ける柔らかな風と共に、トレーナー室を後にし
「ああ、それとご飯はちゃんと食べないといけませんよ?睡眠もちゃんと取って……そうだわ?今度上等な枕を二人分お送りしますから、是非……」
「もうっ!分かりましたから!お母様!」
「うふふ、それでは、ごきげんよう……♪」
ガララッ……
「……と、またこんなにお土産を沢山……ほんと、申し訳ございません、お母様が……」
「あはは……」
……上等な枕かぁ、ちょっと、楽しみかも。
「……いいお母さんだね?ね、アルダン」
「……昔は、いえ、ほんの少し前までは。お母様のことは、正直顔も見たくないほど嫌っていました。いつまでも、私がトレセン学園にいることを認めて下さらない、邪魔ばかりしてくる、厄介でわからず屋な、つまらない大人だと」
「ま、それは、仕方ないよ。当然の感情だ」
「けれども、『日本ダービー』。あのレースの後、満足にトレーニングも出来ず時間を有り余らせていた頃……何を思ったか、お母様の戦績を調べてみたことが、あるのです」
「……ふむ?」
「何度負けても、諦めずターフに立ち続ける、強いウマ娘の姿がそこにあった。ただ数回の負けで心が折れそうになってしまう私なんかよりもずっとずっと強い、ウマ娘の姿が」
「……ほんと、『母は強し』ってやつ、だね」
そんなことを呟く彼女の背を、ふと仰ぎ見る。あの日と同じ……いや、あの日以上に逞しくなった、僕というトレーナーを女手一つで産み育ててくれた、その強い強い、背中を。
「僕も、頑張るからね、アルダン」
「もう、何を言っているのですか?それを言うなら、『僕ら二人』で、でしょう?」
「……ふふ、そうだね?」
いつか僕も、彼女達のように何か沢山のものを生み出せるだろうか。テーブルの上散らかった彼女のお土産達を鼻歌混じりで片付ける僕の視界、窓の外には、ちぎれた雲達がなんとも呑気そうに、点々と距離を保つ様に流れていた。
「……ところでトレーナーさん。本当に、お母様とどんなお話を?」
「それはまあ……おいおいね?」