メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
天地ガエシ
「みんなー?準備運動はバッチリかな?」
「はーい!シーザリオせんせい!」
「うふふっ、それじゃ……まずはフォームのチェックから始めましょう、全体!整列!」
「うむ、その歳にしては上々の走力だ。あとはペース配分を覚えて……」
「うおぉーーー!!!全力出し切りますよ!せーの、バクシンバクシンバクシーン!!!」
「ばくしんばくしんばくしーん!!!」
「たわけ!子供達に妙な事を教えるな!」
──────────────
「ふぅ、今年も盛り上がってるなぁ……」
土曜日の午前中、爽やかに吹く風向きの変わり方で、じわじわと移りゆく季節を感じる今日この頃。僕はいつもと同じようにトレセン学園の学園内ターフ、その縁の段差に腰掛け、これまたいつもと同じようにそんな景色を眺めていた。
けれど、いつもと違う事がひとつだけ……
「では、次の組のみなさーん?準備はよろしいですかー?」
「はーい!」
「ばっちりでーす!」
「がんばるぞー!」
「ふふっ、ではいきますよー?位置について、よーい、どんっ♪」
「ふふ、アルダンも頑張ってるみたいでなにより、だね?」
今日もターフの上で満開の笑顔を咲かせる、我が担当ウマ娘メジロアルダン。その目線の先には、そんな華奢な彼女よりも更にふたまわり程小さなウマ娘達が、所狭しと整列していたのであった。
他でもない本日と明日の二日間は、近隣のジュニアレースクラブの子供達を学園に招き入れ、在籍中のウマ娘達が先生役として子供達にレースのいろはを指導する毎年恒例の人気イベント『トレセン学園・ジュニアトライアル』、その開催日。そしてそんなイベントに、今年はアルダンも学園に在籍するウマ娘として参加することと相成った……というわけで彼女のトレーナーたる僕もまた、彼女達のお目付け役として出動しているというわけである。まだまだ現役真っ只中な彼女であるが、人のふり見てなんとやら。きっと今回の指導者としての経験もまた、彼女自身のトレーニングやレースに良い影響を及ぼしてくれることだろう、多分、恐らく、きっと。
「はーい、それでは次の組のみなさん?位置について、よーい……どんっ♪」
「うりゃーーーっ!」
「うおぉぉおおお!」
「はぁあーーーっ!」
「せいやあああっ!」
「にしても、ジュニアレースクラブの娘たちかあ。みんな子供らしく全力でまっすぐで、微笑ましいこと……」
そんな彼女の頼もしい後ろ姿、焼け付いてしまいそうな目をなんとか僅かに逸らし、僕はひたむきにターフを踏み鳴らしていく若々しいウマ娘達に視線を移した。
朝一番、彼女達の今の実力を測る為に行われる800メートル五人立ての模擬レース。とはいえまだまだ発展途上の彼女達のこと、特出したところもなく、全員が拮抗した団子状態でレースは進み行く。
「……ふんっ……ふんっ」
「ん?でもあの娘だけ、ちょっと遅れちゃってる……?」
しかし、レース中盤戦。そんなまとまった集団の中からじわじわと後方に外れていく一人のウマ娘の姿を、僕の眼は思わず過敏にキャッチした。ジュニアレースといえど、そこはやはり真剣勝負の世界。どんなに頑張ろうと周りに置いていかれてしまう娘がいるのも、やむを得ないこと……
「………………」
……いや、違う?
全力を出し切って失速した、にしては上がりきっていない息、必要以上に周りを伺うような、あの目線……
「今、自分でわざと速度を緩めた、のか?」
「うりゃーーーっ!よーし、いっちゃーく!」
「うわーっ!やっぱり強いなー!」
「でもみんながんばったよね!」
「やっぱりレースってたのしいね!」
「……………………」
初めてトレセン学園のゴール板を踏み抜き、興奮冷めやらぬ子供達……から、数秒遅れでゴールする件の娘。当然ながら、その順位は間違いなく最下位。
それでもその娘は眉ひとつ動かさずに、他の娘達の輪から二、三歩離れた位置で先程自分が走っていたターフを、黙って見つめるばかりなのであった。
「……ねー、ニコちゃんまたこっちにらんでるよー?」
「うん、なんかあのこ、こわいよねー……」
「せっかくトレセンきたのに、今日もぜんぜん誰ともしゃべらないねー?」
「ね?レースきらいなら、トレーニングこなきゃいいのにねー?」
「……なんだ、あの娘……?」
──────────────
「ああ、『ニコちゃん』のことですね?」
午前中のプログラムを終え、皆で持ち寄ったお弁当を囲むランチタイム。その片隅で、僕はアルダンに午前中感じた違和感を耳打ちで尋ね出す。
「府中すくすくレーシングクラブの、ニコちゃん。私も少し気になって、先程彼女のクラブのコーチさんにお話を伺ったのですが……」
「ふむふむ?」
「なんでも彼女は今日に限らず、ここ最近レースを走ると決まって途中でやる気を失って、全力で走るのをやめてしまうそうなのです。それに普段の合同練習でも近頃は周りの娘達に混ざらず、すぐに一人でどこかに行ってしまうのだと……」
そんな僕の疑問に、一手先の回答を返すアルダン。とりあえず怪我や不調ではなさそうなのはよかった、けど、そうなると……
「なるほどなるほど、となるとなんだろう?本当はもうクラブやレース辞めたいけど、周りに言い出せなくて……とか?」
「そうですねぇ……ただ彼女、練習自体にはいつも遅刻せずに来て、座学や一人でできる基礎トレーニングは真面目に取り組んでいるそうなのです」
「あら、そうなの?」
「ええ、ただレースとなると、どうしても……コーチさんも何度か理由を尋ねているそうなのですが、何も語りたがらないそうで……」
空になった弁当箱を両手に抱え、アルダンの語る言葉を僕は深く反芻する。けれどどうだろう、いつも彼女のことを見ているはずのコーチでも解き明かせなかった、彼女の本心。見ず知らずの僕なんかが考えたところで、なにか出来る事があるとは……いや、もしかすると最悪、彼女のこころを更に深く傷付けてしまう、なんてことだって……
「……せっかくこうして出会えたのです。最終的に彼女が何を選択するにしても、今よりほんの少しだけでもこの機会を『楽しんでほしい』もの、なのですが」
「…………!」
「トレーナーさん?」
「……いや、ううん、なんでもないよ?そうだね、せっかくこうして来てくれたんだし、少しでも楽しんでほしい……いや、彼女も楽しめるように、僕らで頑張らないとね?」
「ふふっ?そうですねっ♪」
木陰に出来た、小さな小さな木漏れ日。その光に照らされた彼女の、憂いと希望が入り交じった複雑な表情。その様を見て僕はふと、彼女と出会ったばかりの頃の記憶を……透き通るほど純粋で、無垢で、けれどもどこか不安定で今にも壊れてしまいそうだったその姿を、無意識に思い出していた。
「えっと、一日目の午後は各々の自由トレーニング時間、だったよね確か?」
「ええ、子供達も私達も各自自由に過ごす時間……なので、トレーナーさん?」
彼女からの目配せに、僕はボトルの底に僅か残ったコーヒーを流し込み、たるんだ目尻を引き締める。そうだな、見ず知らずなんて言い出したら、きっと僕ら全員が初めはそうだったはずで……肝心なのは、そこからどう『変われるか』。
憂いから希望に、そしてあの空みたいな満天の晴れ間へとコロコロ変化していく、僕の目の前に佇む彼女の表情。いつかの彼女と同じように、今日の『彼女』にもなにか今までと違うルートを、違う『楽しみ』を示すことができれば、きっと。
「ああ、それじゃ一緒に会いに行ってみようか、ニコちゃんに!」
「ええ、よろしくお願いいたします♪」
──────────────
「たのしく!ない!!!」
「あっ、あー……そ、そっか?そう……だよね?」
昼下がり、自由トレーニング時間。学園の広い広いターフに目を輝かせながら、思い思い憧れのウマ娘達と、思い思いのトレーニングに勤しむ子供達。
の、輪から相変わらず二、三歩離れた位置からその様を見つめていた……ええと、府中ニコニコレーシングクラブの、ニコちゃん……だったかな?とにかく、容易に見つけたその小さな栗毛姿に、早速僕らは声をかける……が。
「で、でもね?このお姉ちゃん知ってる?メジロアルダンっていう、すっごい、ものすっごい強いウマ娘なんだよ?」
「しってる!こないだテレビでみたもん!たかまつはい!」
「高松宮杯ね?でもその歳でG1以外も見てるのはすごい!で、そんな超強くて超綺麗なアルダンお姉ちゃんが、是非ともニコちゃんと一緒にトレーニングしたいって!」
「超綺麗なのは今関係ないですね、トレーナーさん」
「ね?こんなチャンスなかなかないよ?だからさ、向こうで一緒に……」
「やだ!つまんない!」
「なんだと!?アルダンのどこがつまんないってんだ!耳の先からつま先まで魅力たっぷりだろ……」
「トレーナー、さん?」
「ん、んんっ!ん、そ、そっかぁー?それならしょうがないねー?」
く、くそう……やっぱり子供って、分かんないなぁ……
「……トレーニングの気分ではないのなら、せっかくだから、トレセン学園の見学でもしないかしら?図書室に体育館、プールなんかもあるわよ♪」
「………………」
「そ、そうそう!面白いもの沢山あるよ!理事長の畑とか、VRウマレーターとか、ラーメンの屋台とか!ん?よく考えたらなんで学園の中にラーメンの屋台が?」
「……やだ!やりたくない!!!」
「う、ううむ、私達が嫌だというのなら、別のウマ娘のお姉さん達を呼んでこようかしら?ええと、ええと……あ!あそこにドリームジャーニーさんとオルフェーヴルさん、それにゴールドシップさんが!」
「大丈夫そのメンツ?子供には刺激強すぎない?」
「やだ!やだ!やだ!」
「………………」
「………………」
丁寧に、丹念に腰を落として、彼女と目線を合わせて語りかけるアルダン。と、見よう見まねでしゃがみこむ僕。けれども依然として彼女は首を縦には振らず……僕らはしばし、目を見合わせる。
「……ねえ、ニコちゃん?ニコちゃんはさっきのレース、走ってて楽しかったかしら?」
「……たのしくなかった」
「……!そう、そうなのね?それなら……楽しくないのなら、無理に走る必要はないのよ?」
「………………」
「私達はトレセン学園の味方でもクラブチームの先生達の味方でもなくって、ニコちゃんの味方だから。だから、私達に出来ることなら、なんでも貴方の力になりたいの。走りたくないって、貴方が自分で言いたくないなら、先に私達が先生達とお話してくるわ?」
「……うん、うん、アルダンの言う通り。それに『ウマ娘は走る為に生まれてきた』なんてことは絶対ないし、この世の中、レース以外にも楽しい事、面白い事は沢山あるか───」
「……やだ!レースは走るの!」
「えっ?」
レース後半、先頭の背中に追いつくかのようにようやく見えてきた……と思いきや、トリックスターのようにまたしても僕らを突き放し、なかなか捉えさせてくれない彼女の本心。レースが楽しくない……のに、レースは走りたい?矛盾してないか?それ?
「……ええと、君、やっぱりレースは、走りたいの?」
「走るの!」
「楽しくないのに?」
「走る!」
「うーんと……えーっと……それは……なんで?」
「………………」
「……トレーナーさん」
「うーん……」
苦し紛れな僕の問いかけを見透かすように、膨れた顔のまますっかりだんまりを決め込んでしまう彼女。相変わらずその本心は分からない、分からないけど……けれども僕だってウマ娘のトレーナー。教育者の端くれとして『言わなければならない事』は、言わないと。
「……わかった、ごめんね、もう無理には聞かない。けれど、ひとつだけいいかな」
「…………」
「どんな事情があろうと、レース中にああいう風に急に減速したりしちゃダメだよ。途中で気分が悪くなったとか、脚が痛くなったとかなら別だけど、そうじゃないのなら」
「…………」
「ほら、ウマ娘って凄く速く走るでしょ?前を走ってるニコちゃんが急にスピードを緩めたら、後ろの娘が避けきれずに衝突しちゃうことだって、あるかもしれない」
「……!」
「やる気とか真面目さとか、気持ち的な話ももちろんあるけど、まずはもっと根本的な話。君のやってることは凄く危ないことなんだ、それは、わかってくれるかな?」
「……………………うん、ごめん、なさい」
僕の言葉を、そのピンと伸びた両の耳にしまい込んでから。彼女は数秒の間を置いて、ものすごくバツの悪そうな表情を浮かべたまま……けれども、ちゃんと僕の両の耳に届くくらいの声で返事を返してくれた。
そうだ、彼女だってきちんと言葉の通じる一人のウマ娘。一言一言丁寧に、真摯に言葉を紡げば、伝わらないことなんてないはずだ。
「あ、じゃあさ、一度トレーニングとか練習とかじゃなくて、純粋にアルダンと走ってみない?」
「え……!トレーニングとか、練習とかじゃなく……!?」
「ん?あ、ああそうだよ!トレーニングとか練習とか、そういう……楽しくないやつじゃなく!アルダンも、いいかな?」
「ええ、もちろん構いませんよ♪」
「……………………!」
僕とアルダンの提案に、本日初めて、その水晶のような澄んだ目を輝かせる彼女。そうか、ようやく解ったぞ。彼女自身の、その望みが……!
「よーし!それじゃ早速……と、その前に入念にストレッチ!しとこうね?」
「うん!うん!」
「例えトレーニングや……ましてや、レースなんかじゃなくても。怪我の危険だけはいつでもあるからね、だからいつでも、丁寧に、丹念に、だ」
「うん!う…………ん?」
「……そうだよね、レースやらなんやらの勝ち負けになんて囚われなくっても、ただひたすら走るだけでも、凄く凄く、楽しい事、なんだよね。僕も君のおかげで思い出せたよ、ありがとう、ニコちゃん」
「………………………………」
そうだ、彼女はきっと『走ること』自体が好きなウマ娘。きっと本当はレースの勝ち負けとか栄光とかそんなのは必要なくって、ただただこの広い世界を走り回ることができれば、彼女はそれで、よかったんだ。
けれども、不幸にも彼女は『ターフの上』以外の走る場所を知らなかった。ウマ娘の居場所が、レースだけなのだと、幼心にそう思ってしまったのだろう。
だから、僕は伝えたい。その脚は、ただ思う存分自分の為だけに使っていいんだと。ウマ娘達はもっともっと自由に、世界中のどこでだって、走っていいんだと。
「さあ、行こうニコちゃん!僕とアルダンが学園中、街中……いや、世界中を案内してあげ
「たのしく!!!なぁーーーーい!!!!!」
──────────────
「全体!整列!……はーい、これにてジュニアトライアルの一日目はおしまいっ!みんなー?今日は一日、楽しかったかな?」
「たのしかったー!」
「おもしろかったでーす!」
「ふふっ!それはよかった!じゃあ今日はおうちでゆっくり休んで、また明日も頑張ろうね?」
「はーーーい!!!」
夕方、爽やかに吹く風向きの変わり方で、じわじわと移りゆく季節を感じる今日この頃。僕はいつもと同じようにトレセン学園の学園内ターフ、その縁の段差に腰掛け、これまたいつもと同じようにそんな景色を……そんな、景色、を……
「何がダメだったんだろう……」
「何がダメだったんでしょうね……」
……そんな景色をアルダンと共に仰ぎ見ながら、ただただ、己の無力さに打ちひしがれるばかり、なのであった。
「なんか、途中までいい感じだったような気がしたんだけどなぁ……」
「ええ、途中の一瞬だけですが、確かにニコちゃんも笑ってくれていたような……そんな風に、私も見えたのですけどね」
果たしてあれは、夢か幻だったのか。一瞬だげ、けれども確かにこちらに笑顔を向けてくれていたはずの彼女は……しかしその直後、何故だか遅れてきた台風のようにパンパンに顔を膨らませ、そうしてまるで木枯らしの如く、その場からあっという間に走り去ってしまったのであった。乙女心と秋の空とはよく言ったもの……なんて……
「……少しだけ、焦って駒を進めすぎたのかもしれませんね、私達」
「アルダン?」
「急いては事を仕損じる……ほんの少しだけ彼女と通じ合えてしまったのが、かえって私達の視野を狭めてしまった……のかも、しれません」
「少しだけ通じ合えたせいで、視野を狭めてしまった。偶然の符合を、必然的なものだと勘違いしてしまった……何より、彼女の事も自分達の尺度に収めようとしてしまった、のかな、僕は……」
「ええ、私達はきっともう一度、初めから彼女の事を辿り直す必要があるのかもしれません」
それでも、めげずにもう一度頭を捻り始める彼女の姿を見て、僕もまた、再び顎に手を置く。地平線の向こう、半分だけ隠れた鮮烈な夕陽。去りゆくそれを惜しむように、僕は口を開く。
「まず、どうして彼女は楽しくもないレースを走ろうとするんだろう」
「そう、ですよね。それが一番の大きな謎ですね」
「正直僕だったら、楽しくないって思うことなんて一秒でもやりたくないと思うけどなぁ。給料が貰えるわけでもあるまいし」
「………………」
「……アルダン、何か思いついた?」
「いえ、対したことではないのですが。そもそもレースにおける『楽しい』とはなんでしょう?」
「『楽しい』とは?」
彼女の口から飛び出したそんな問に、僕はますます強く自らの顎を握り掴む。確かに、普段当たり前に使っている言葉だけど、そういえば。
「ふと思ったのです。ニコちゃんに限らず、そもそも私達ウマ娘は何が楽しくてレースなんて走っているのか、と」
「なにが、楽しくて……確かに、そもそも全力で何百何千メートルも走るのって普通に苦しいし。それにそんな年に数回、二、三分しかないその時間の為に、他の楽しい事を我慢して何ヶ月も何年もトレーニングを続けるのって、当たり前に苦痛以外の何物でもないよね」
「それでも私達が、レースを辞められない理由。レースをしていて、一番『楽しい』瞬間は……」
「……それって、やっぱり『勝つ』瞬間だよね」
「ええ、私もそう思います」
まあ、さっき僕が彼女に対してそう誤解したように、勝ち負けなんて関係なくただ走るのが楽しいって娘もごく一部いるんだろうけど。
けれどもやっぱり大半の人にとって、こういう勝負事を『楽しむ事』は、すなわちそのまま『勝つ事』と同義なのだろう。負けて負けて、負け続けて、それでも楽しい!なんて風には、そうそうならないはずだ、けど。
「…………もしかしたら、楽しくないって」
「ええ、やはりニコちゃんも『勝ちたいのに勝てない』から。だから大好きだったはずのレースも楽しくなくなって、途中で走るのをやめてしまう、ということなのでしょうか……」
「……何か、何か引っかかるんだよな」
「トレーナーさん?」
今度こそQ.E.Dを打ちかけた思考を、僕はまるでゴール前のラストスパートのようにもうひと踏ん張り、掻き回してみる。
レースを走りたい、けれどもやっぱり勝てないから、レースはつまらない。本当にそれだけだったとしたならば、あの時の目の煌めきは一体なんだったのだろう。僕らの、あの一瞬の交信は、なんの意味があったのだろう。
◆
『……ねー、ニコちゃんまたこっちにらんでるよー?』
『うん、なんかあのこ、こわいよねー……』
『せっかくトレセンきたのに、今日もぜんぜん誰ともしゃべらないねー?』
『なんでも彼女は今日に限らず、ここ最近レースを走ると決まって途中でやる気を失って、全力で走るのをやめてしまうそうなのです。それに普段の合同練習でも近頃は周りの娘達に混ざらず、すぐに一人でどこかに行ってしまうのだと……』
『しってる!こないだテレビでみたもん!たかまつはい!』
『あ、じゃあさ、一度トレーニングとか練習とかじゃなくて、純粋にアルダンと走ってみない?』
『え……!トレーニングとか、練習とかじゃなく……!?』
◆
「……『自分で、わざと速度を緩める』?」
「トレーナー、さん?」
「そうだ、レースをしていて『楽しい』瞬間って、勝つ瞬間のその前にももうひとつ……『自分の作戦が上手くいった瞬間』だって、そうじゃない?」
「……!確かにそうですね?自分自身で用意していた戦術や、隠し技が綺麗に決まった時は、確かに凄く『楽しい』かも……!」
「そして、そうか、ニコちゃんの『楽しくなかった理由』って、もしかして……!?」
──────────────
「……はーいみんなー?すっごく名残惜しいけど、今年のジュニアトライアルももうすぐおしまいっ!みんなはどうだったかなー?」
「すっごくたのしかったー!」
「らいねんもくるよー!」
「ふふっ、それなら良かった!それじゃあ最後に……貴方たちがどれだけ成長したか、実戦で見せてもらいましょう……!」
「おー!!!」
日曜日、すっかりと日も暮れてきた頃合い……だというのに、昨日よりも更に勢いを増した子供達の声がターフにこだまする。二日間に渡って開催された『トレセン学園・ジュニアトライアル』、その賑やかな時間も、いよいよ終わりを迎えようとしていたのであった。
「条件は初日の朝と同様の芝800メートル五人立て。グループも同じ組み合わせで行きましょう、では全体、整列!」
「もうジュニアトライアルもおしまいかぁー……」
「でもでも!みんなさいしょよりはやく走れるようになったよね!」
「うんうん!みんなでいっしょにれんしゅうしたもん…………」
「……………………」
「……あれ?ニコちゃん今日もきてたんだ?」
「いままでどこにいたんだろー?」
「さあー?でもきょうもやる気なさそうだし、気にしなくてもいいんじゃないー?」
「……トレーナーさん。ニコちゃん、大丈夫でしょうか?」
「ああ……あれだけやったんだ、きっと大丈夫だよ、アルダン」
いつもと同じようにトレセン学園の学園内ターフ、その縁の段差に腰掛ける僕とアルダン。そしてその目線の先、二日間の練習成果を披露すべく、自信満々に首を揃える小さなウマ娘達。
そんな暖かく拡がる輪を、彼女は……ニコちゃんはやはり、昨日までと同じようにただ一人、冷ややかに見つめていた。
「……それでは次の組!準備はよろしいですか?」
「はーい!」
「ばっちりでーす!」
「がんばるぞー!」
「おー!」
「………………」
「では位置について、用意……スタートっ!」
スタート役のウマ娘の合図で、一斉に走り出す子供達。練習の成果か、そのフォームは初日よりも凛々しく洗練され、しかしその表情は皆変わらず、実に朗らかで、楽しみに満ち溢れていて……
「うりゃーっ!いくぞーっ!」
「まてまてーっ!」
「えいや…………えっ?」
「え?あ、あれっ?どういうこと?」
……けれども、彼女だけは。
「あ、あれ、ニコちゃんだよね?」
「う、うん。でも、いつもと全然ちがうよ?」
「なんで……なんでいきなり、あんなに『前』の方に?」
「っ……うりゃああああああっ!うりゃりゃりゃりゃりゃーーーっ!」
まだまだ発展途上の彼女達の、特出したところもなく、全員が拮抗した団子状態のレース……から一人大きく、前へ前へと飛び出していくニコちゃん。彼女の想定外の行動に他の四人の表情からも、じわじわと笑顔が消えていく。
「うりゃりゃりゃりゃっ!やあーーーーっ!」
「ニコちゃん、なんであんなふうに?あ、あんなふうに走ったら、すぐつかれちゃうよ?」
「で、でも、もうすぐコース、半分くらいだよ……?」
「もしかしてニコちゃん、あのまま最後まで……」
「えっ?そんな!は、はやくおいかけなきゃ!」
そうしてそんな特出した彼女を追いかけるように、他の娘達の足取りも次第に速く、大きく……そうして二日間に渡ってみっちりと鍛えられたはずの、その丁寧なフォームも息遣いも、どんどんどんどん、乱れ始めて。
「はあ、はあ……!う、もうちょっと、もうちょっとでおいつける……」
「……ふ……んっ……!」
「う、えっ!?も、もうちょっとでおいつけそうなのに……おい、つけ、そう、なのにぃ……!」
「なんか今日のニコちゃん、いつもとぜんぜんちがう!あんな走りかた、まだぜんぜん教科書にでてきてないのに……!」
「あの走りかた……まるで、まるでテレビで見た……!」
「……!トレーナーさん、あれ!」
「うん……!成功だ!」
──────────────
「……ふふ、おはようニコちゃん♪」
「よかった、今日もちゃんと来てくれたね?」
「…………えっ」
遡ること、六時間ほど前。二日目の朝礼が終わった直後、僕とアルダンは早速彼女の……ニコちゃんの元へと足を運んだのであった。
「な、なにしにきたの!うぅー!」
「だ、大丈夫大丈夫!今日は無理やり何かさせようとか、そういうんじゃないよ!」
「………………」
「ええ、今日は逆に、私達からニコちゃんにお願いがあって来たの……いえ、お願いがあって、参りました」
「……?」
「どうか私と、本気でレースを走って下さいませんか?」
「…………!」
腰も膝も折り畳まず、全身をピンと伸ばしたまま放つアルダンの言葉、訝しむような表情を浮かべていた彼女の、その瞳が再び、瞬きだす。
「ほんきの、レース?それって、ほんと?」
「ええ、手加減一切無しの、本気のレースです。どうか私の挑戦、受けていただけませんか?」
「…………………………うん、やる!」
◆
「よーし、それじゃあ800メートル、芝、右回り!位置について、よーい、ドン!」
「えいや……」
「ふ……んっ!」
ドカッ……!
「えっ!?あ、う、うりゃあーっ!」
かくして、学園中ターフの片隅で始まったアルダンとニコちゃんの、本気のレース。早速アルダンはいつも通りの美しく力強いスタートを切って、ぐんぐんとニコちゃんを突き放していく。
「さ、さいしょからはやい……!これがほんきのレース……!はっはっはっ、うりゃーっ!」
「ふっ、ふっ、ふっ……!」
「う……でも、もうちょっとでおいつける……!もうちょっと……もうちょっ……」
「ふっ、ふっ……ふっ!」
「えっ?お、おいつけない!?もしかして、これっ……て……はあ……はあっ……!」
「……はあああぁっ!!!」
「あ………………」
それでも、それでもと必死にアルダンの背に手を伸ばす彼女……を充分に引き付けてから、アルダンはすかさずスパートをかけて、更にその差を広げていく。もはや話にもならない程の圧倒的な大差が付いて、そしてあまりに呆気なく、勝負の幕は降りる。
「……っ!両者ゴール!勝者、メジロアルダン!」
「ふふっ、やりました♪」
「っ……はぁーっ!はぁーっ!う……げほっ!げほっ!」
「っと!大丈夫ニコちゃん?どこか痛むところとか、ない?」
「……しい」
「え?」
「……ぐやじい〜〜〜〜!うわーーーん!!!」
高等部と小学生、トゥインクルシリーズ現役ウマ娘とただのジュニアレースクラブのウマ娘。はっきり言って勝負の土俵にすら立てていない彼女……
けれども彼女の瞳はその輝きを一切失わないまま、まるで一世一代の大レースに破れたウマ娘のような大粒の涙を流し始めたのであった。
「……やっぱり、そうか」
「ええ、トレーナーさん」
「ぐずっ……ひっぐ……やっぱり……?」
「君は真面目に走ってないわけじゃない。むしろ逆、誰よりもレースが好きで、誰よりも『本気で勝とうとしてた』……のかな?」
「…………!」
悲しみから驚きに、そしてあの太陽みたいな真っ赤な頬へとコロコロ変化していく、僕の目の前に佇む彼女の表情。僕は今度こそ間違えた方向に進まないように、一言一言、注意深く言葉を並べていく。
「当然、トレーニング中だろうとなんだろうと敵に手の内は見せられないよね。同じクラブの娘達は勿論、将来トレセン学園に入学してデビューすれば、アルダンや他のウマ娘達とだって、いずれは」
「………………」
「そんでもって、君がレース中にやろうとしてたことって……まさしく今、アルダンがやってた事なんじゃない?」
「う、うぅー……」
僕なりに注意深く観察していた、レース中の彼女の表情。アルダンの策に容易く引っ掛けられたその直後、彼女のその目元口元は悔しさと同時に……例えるなら、まるで大好きな歌手のライブで自分が一番好きな曲が流れ始めた時のように、あまりに嬉しそうに、その脚と共に純粋に釣りあがってしまっていた。
思えばそうか、G1以外のレースもその歳できちんと観ているような娘が、レース嫌いな訳ないよな。好きなウマ娘とか好きなレースとか……『好きな戦術』なんかも、あっておかしくはないか。
「好きなんだね?『先行策』……いや、もっと言えば『逃げ』かな?きっと君ぐらいの歳のカリキュラムじゃ、まだ誰も教えてくれないんだろうけど」
「だって……だってかっこいいんだもん。マルゼンスキーに、カツラギエース……」
「ふふっ、なるほど?解りますよ?確かにとってもかっこいい方々です♪」
「最初に大きく飛び出して、そして『中盤にわざと失速』して脚を溜めつつ後ろのウマ娘を翻弄し体力を奪う。そしてラストスパートで一気に解放!なんて、確かに完璧に出来たらかっこいいよね?僕だって、もちろんわかるさ」
「……でも、まだうまくできない……うまくできたらぜったい、ぜったいたのしいのに……だれもうまいやりかた、おしえてくれない……」
「………………」
「せんせいも、みんなとなかよく、おなじようにやりなさいって……みんなとおなじじゃ、たのしくないのに……わたし、みんなとなかよくじゃなくて、もっとかっこよくなりたいのに……そのやりかた、だれもおしえてくれないの……」
「……トレーナー、さん?」
幾重もの選択肢の末、ようやく見えてきたその、透き通るほど純粋で、無垢で、けれどもどこか不安定で今にも壊れてしまいそうな姿。思わず彼女を……我が担当ウマ娘メジロアルダンを視つめた僕は、いつの間にか視つめ返されていたその視線に気付く。
「……よし!それじゃあ改めて提案!この超強くて超綺麗なアルダンお姉ちゃんと……一緒にトレーニング、しよう!」
「超綺麗なのは今関係ないですね、トレーナーさん」
──────────────
「う、ううぅ……おい、つけ……!」
「もう、ちょっと、なの、にぃ……!」
夕焼けに照らされるターフの上、今日一日の練習成果を遺憾無く発揮し躍動する、ニコちゃん。まるで狭苦しい都会の空を我が物顔で飛び回る一羽の烏のように、その姿はどこまでも、果てしなく自由であった。
「ふふふっ、完璧ですねニコちゃん♪トレーナーさん?これならきっと……」
「ああ、そうだねアルダン。このままのペースなら、間違いなく……」
「も、もうちょっとでゴールしちゃう……!はやく、おいこさなきゃ……」
「……はぁ、はぁ」
「……?ニコ、ちゃん……?」
「はぁ……ひぃ……ふぅ……へぇ…………」
「あ、あれ?ニコちゃん、なんか……」
「なんか、もう……」
「……む〜〜〜〜りぃ〜〜〜〜〜〜〜!!!!」
「……間違いなく、スタミナ切れするね!」
「で、ですよねぇ……」
◆
「はぁ、はぁ……い、いっちゃ〜く……!」
「はぁ、はぁ……つ、つかれたぁ……」
「じ、じゅんいは昨日とおんなじなのに……なんでこんなにつかれてるんだろ……」
「もしかして……というか、ぜったいさ……」
「………………」
再びトレセン学園のゴール板を踏み抜き、けれども、昨日よりもずっと浮かない表情を覗かせる子供達。彼女達のその視線は……昨日と同じく最下位でゴール板にたどり着いた、一人の少女に注がれていた。
「ね、ねえニコちゃん?今のって……」
「……う、ううっ」
「ニコちゃん?」
「うわぁぁぁああああああん!!!うわぁぁぁ!!!やだぁーーーーっ!やだやだ!こんなはずじゃ!こんなはずじゃなかったのにぃーーーーっ!!!」
「ニコちゃん!?あ、あわわわ!?」
「うそ!?あのニコちゃんが……泣いてる!?」
「は、はじめてみた……」
「うわぁぁぁん!ぜんぜん!ぜんぜんちがう!ぜんぜんーーーっ!」
「ふふ、良いレースでしたよ、ニコちゃん」
「あ……あるだんちゃん……」
「見てたよニコちゃん、まずは、お疲れ様」
「と、とれーなーも……」
「うん、相変わらず僕は呼び捨てなのね……」
相変わらず皆の輪から外れながら、けれども昨日とはまるで別人のように泣きじゃくり、頭を掻きむしり、膝を折り突っ伏し、全身で悔しさを表現するニコちゃん。まるで荒ぶる炎のように、駆け寄った僕達の姿をも睨みつける。
「いかがでしたか?今度こそ、楽しくレースできましたか?」
「……ない!たのしく!ない!」
「どうしてです?『作戦』は完璧に成功していたでしょう?」
「でも負けた!負けたから!負けるのは、楽しく……楽しく、ない……」
その熱量を維持しながら、けれども何か、自分の中で繋がり始めたような装いの彼女。そんな彼女に対して、僕は今日一日ずっと続けてきたように、丁寧に丁寧に言葉を紡ぐ。
「……解ったね、ニコちゃん。君が楽しくレースができないのは」
「…………………………」
「それは、君が『弱い』からだよ。作戦がうまくいかないからじゃない。作戦がうまくいってもいかなくても何も関係ないくらい、弱いから」
「…………………………」
「作戦が成功して一瞬だけ気持ちよくなってもも、結局みんな、勝てないと楽しくないんだよ。君はそれを勘違いしてた、マルゼンスキーもカツラギエースも作戦が上手くいくからかっこいいんじゃなくて、作戦が上手くいった上で『勝つ』からかっこいいんだ」
「…………はい」
「そして、確かに作戦を隠して周りをびっくりさせるのも一つの手だけど……けれども周りのウマ娘の走るスピード、体力の量、自分の限界が訪れるポイント。そういったものが元々分かってないと、どんな作戦を立てても結局勝てない。やっぱり『ウマ娘はひとりじゃ強くなれない』んだよ。仲良しでいようとか、みんな揃ってとか、そういう気持ち的な話じゃなくて、もっと根本的な話」
「…………はいっ」
「他のことは好きにしたらいい、今日練習した作戦だって、これからもっと好きな作戦ができたのならすぐに忘れてもいい。けれども今回のジュニアトライアル、これだけは、この『楽しくなかった』って気持ちだけは忘れずに持って帰るんだよ、いいね?」
「……はいっ!きょうはありがとう!ご、ございましたぁっ!」
「……ふふっ、『こうすれば楽しい』ではなく『こうなったら楽しくない』を覚えさせる、ときましたか?やっぱり貴方の見せてくれる世界は、予想外な事ばかりで楽しすぎますね♪」
「……なんか、なんだろう。かったはずなのに、なんだろう、この気持ち」
「うん、今日はかてたけど……でももしかしたら、明日にでも……」
「わたしも……三番なんかでまんぞくしてる場合じゃ、ないのかも……」
「うん……もっともっとがんばって強くならないと、だよね」
日曜日の夕刻、じわじわと変わりゆく季節にしがみつくような鮮烈な夕陽が、分け隔てなく僕ら全員を焦がし尽くす、そんな時間。
……結局、今日の僕はニコちゃんを楽しませることなんて出来なかったけど。
「ふう……さて、これにて一件落着という様子ですが……どうです?今回のジュニアトライアル、貴方は楽しめました?」
「……楽しくは、なかったかな。ウマ娘が勝たなきゃ楽しくないなら、トレーナーもまた指導したウマ娘が勝たないと、楽しくない、からさ」
「ええ、その気持ちは……私も生まれて初めて、理解できましたよ」
「うんうん、アルダンもお疲れ様?」
「本当ですよ?指導者のはずなのに、普段より沢山走る羽目になった上に……」
「ねえねえニコちゃん!今のってどうやったのー!わたしにもおしえて!」
「わ、わたしにもわたしにもー!」
「え……ええと……じゃあ、またたくさんレースしてくれたら……いいよ?」
「……貴方のせいで、未来のライバル達に塩を贈る事になってしまったではありませんか?本当に、ほどほどにしてくださいよ?トレーナーさん?」
「あはは……でもそっちの方がアルダンもこれから『楽しく』なるはずでしょ?」
「……ふふ、ま、そうですね?ですので今回はこれから、ニコちゃんと同じくらい私にも構ってくれたら、許します♪」
「ははは、やっぱりトレーナー業って、大変だなぁ……」
……それだってきっと、今の僕が『弱い』からだよな。だから、もっともっと強くならないと。
背にした子供達の笑い声と、胸に抱えた楽しくなさ、そして、そんな僕のすぐ隣で相変わらず笑顔を浮かべる彼女。その全てを大切に大切にしまい込んで、僕はまた、このターフから歩き始めるのであった。