メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
「あら、なんだかこの辺りは静かですね?」
「海岸のだいぶ隅っこの方なのかな?穴場、見つけちゃったみたいだね?」
夏合宿が始まってから、十数度目の午前中。
丸一日の休息日、せっかくだから海辺のお散歩と洒落こみましょう、なんてアルダンに提案されやってきた長い長い海岸線。
のんびりまったり他愛もない話に花を咲かせながらたどり着いたのは、人影のひとつも見当たらない、静寂に包まれた浅瀬であった。
「ふふ、賑やかなのも良いですが、ここでならゆっくりとお話できそうですね?」
「ね、ほら、どことなく海も綺麗だよ?ちょっと浸かってみる?」
「そうですねぇ……気が向いたら、ですかね?」
「あら、せっかく水着で来たのに、もったいなくない?」
「貴方に、褒めていただけた。それだけで私は充分なのですよ。ね、トレーナーさん?」
「──うん、本当に、本当に似合ってるよ、アルダン」
「……では、もう少し近くで見せてあげましょうか?トレーナー、さん♪」
「こ、こらこら、調子に乗らないの」
彼女のなんとも熱っぽい囁きに、不均等に脈打つ身と心。平静をなんとか取り繕いつつ、逃げ場を探す小魚の如く僕はきょろきょろと目を泳がせた。
「……ん?なんだあれ?」
「どうされました?」
「なんか……あそこ、なんかある、よね?」
きょろりと目線を動かした、輝く浜辺の奥の方。
何かが視界の端に映り込んで、思わず僕は、それに向けて指を差す。
「箱……いえ、小屋……?でしょうか?それにしては小さすぎるような……」
「なんだろう、気になるね?ちょっと、近づいてみよっか」
アルダンと共に、ずんずんと砂を踏みしめながら『それ』を目指して真っ直ぐに突き進む。ある程度進んだ段階で、ようやくその全貌がはっきりと見えてきた。
ちょうど僕の背丈の半分くらいだろうか。木製の、小さな家のようなものらしい。簡素な屋根も取り付けられているが、海風の影響か随分と腐食が進んでいるように見える。
「よいしょ、っと……ん?なんだこれ、石?」
「石、ですね?それもなんだか、自然のものではなさそう……」
ようやっとそこに辿り着いて、二人しゃがんでその中を覗き込んでみる。すっぽりと、丁度のサイズで納められていたのは、なんだか不思議な形をした石であった。
「石像、なのかな。それで言うとこの小屋は『祠』ってところかな」
「何の石像なのでしょう……触っても、よろしいのでしょうか?」
「一応、先に断りを入れておこうか、きっと許してくれると思うよ」
二人並んで、思いを込めながら十秒ほど手を合わせる。そうしてまずはアルダンが、こびり付いた砂粒を優しく払ってから、そっと輪郭をなぞるように指先を動かした。
「……これは」
「どう?何か分かった?」
「これは恐らく……いいえ、間違いなく。人魚の像、みたいですね?」
「人魚の、像?」
「ええ、かなり劣化しているようですが、それでもはっきり分かります。こっちは人間の頭に長い髪、そしてここは腕。ですけど、ほら、ここから魚の鰭になってますよね?」
「んん?んー……あ!ほんとだ!」
彼女のなぞる指先に、注意深く両目のピントを合わせる。彼女の言う通り、確かに人間の体に魚の足が張り付いた、『人魚』としか言いようの無い姿を、それは浮かべていた。
「角が削られて分かりづらくなっていますが、きちんと鱗の一枚一枚まで彫られていますね。きっと作られた当時は、凄く精巧な姿をしていたのでしょう」
「精巧。精巧、かぁ」
「トレーナーさん?」
「あ、ううん、そうだなぁ。日本にも全国各地で『人魚伝説』ってのは沢山あるんだよね。人魚の肉を食べて長い命を得た八百比丘尼とかが有名だけど、これもそういう類のもの、なのかな」
「確かどこかのお寺には、人魚のミイラなんてものもありましたね?しかしこの石像、こんなに丁寧に彫られているということは、きっとこれを作った方は何かしら、人魚に対して並々ならぬ思いがあったのでしょうね」
「……確かに、それは間違いなさそうだ」
時に不死の象徴、時に災いの調べとして語られる、日本の人魚伝説。けれどもこの石像は。
女性らしいなだらかさを持った肉体に、印象的な長い髪。畏怖や信仰の対象としてだけでは無い、もっと根源的な感情……人魚の『美しさ』を表現する為に作られたかのような造形を、経年劣化しきった今でも、確かにここに残していた。
「日本に限らず、ギリシャ神話のセイレーンにライン川のローレライ。半人半魚の姿をした存在は本当に世界中、至る所に残っていますよね?」
「うん、しかも美しい歌を歌ったり、それで人々に幻覚を見せて船を難破させたりなんて、特徴も概ね共通してたりね」
「ふふ、なんだか世界中に同じような伝説が残っているなんて、凄く奇妙で面白いですよね?実は本当にそんな存在がどこかに居て……なんて、空想が捗ってしまいます♪」
彼女の、ふんわりと浮かび上がりそうな笑顔を横目で捉えながら、ふと考える。
間違いなく、人魚とは『空想』の存在である。けれども彼女の言うとおり、確かに今日まで世界各地に確かな強度を持って『存在』し続けている。それは、何故なのだろうか。
何故、我々は『存在しないもの』を『精巧』に作り出す事が出来るのだろうか。
頭の中で、パチリと火花が散る。なぜだか、その事は僕にとって、とても大切なことのように思えた。
「でも、私にとって人魚と言えば、やっぱり『人魚姫』ですね♪」
「人魚姫って言うと、アンデルセンの?」
「ええ、幼い頃、お屋敷にとっても綺麗な絵本があって、毎日夢中で読んでいた時期があったのです。その絵本に描かれていた人魚姫は、鱗の一枚一枚、鰭の一枚一枚が精巧にカラフルに彩られていて……その姿、今でも鮮明にまぶたの裏に焼き付いているのです」
もの憂げに、瞳を閉じるアルダンの横顔を、今度はまじまじと両の眼で納め切り取る。
その身にまとった翡翠色のベールと相まって、まるで彼女自身が空想の姫君なのだろうか──そう見紛う程の艶やかさを、確かに僕は感じ取った。
「けれども……けれども最後のページだけは、なんだかずっと、開くことが出来ませんでした」
「最後のページ、か」
「どれだけ人魚姫が身を尽くしても、たとえ苦痛と代償に脚を手に入れたとしても。どんな未来でも、王子様と結ばれることは無い。こんなに悲しい話、私は他に知りませんでした。知らなかったから、凄く、凄く怖かった」
「……本当に、ね」
……もし、彼女が本当に空想の姫君なのであれば。
痛みに悶え苦しみながら、『脚』を手に入れ地上に這い出てきた彼女は、一体これからどうなってしまうのだろう。
望みを何一つ叶えることが出来ずに、水泡と化して消え行く儚い人魚姫の姿が、僕のまぶたの裏にもありありと焼き付いていた。
「トレーナー、さん」
「アルダン」
「人魚姫はどうして、王子様と結ばれることが出来なかったのでしょうね。あれ程までに死力を尽くして痛みに耐えて、大切な声まで犠牲にして、それなのにどうして、泡となって消えてしまわなければならなかったのか……トレーナーさんは、どう、思いますか?」
「それ、は」
少しだけ、弱い吐息が混ざった彼女の声を耳にして。
もうひとつ、先程よりも大きな火花が頭の中をパチリと駆け巡った。
「──それはきっと、人魚が『空想』の存在だから、なのかな」
「空想の、存在?」
「砂浜を挟んだ向こう側、文字通り住む世界が違う……『空想』の住処からやってきた存在。だからこっちの世界では、何も得る事が出来ないんだろう」
目線は真っ直ぐに、けれども僕は、どこでもない場所を目掛けて言葉を繋いでいく。彼女の心と綺麗にリンクしたような、奇妙で奇怪な気持ちに苛まれながら、それでも、繋いでいく。
「脚を手に入れて、『向こう側』から『こちら側』へと旅立った人魚姫。けれども、自らの運命を何も変えることが出来なかったのは、きっと人魚姫が最後まで『向こう側』の尺度でしか物事を考える事が出来なかった、からなんだろうね」
「脚を手に入れてもなお、『人魚』である自分を捨てることが出来なかった、と……?」
「『脚を得た者は、引き換えに声を奪われる』なんて、『向こう側』の理屈を彼女は最後まで疑いもしなかった。だから彼女は真の意味で人間になることは出来なかった。人魚姫にとって脚を手に入れた事は、単なる状態の変化でしかなくて、『成長』では無かったんだろう」
我ながら、とてつもなく無粋で冷徹で、ともすれば人間性すら疑われてしまいそうな指摘であることは、間違いなく自覚している。
けれども、それでも言葉にするのは、彼女にはそうなって欲しくないから。メジロアルダンだけは、儚く砕け散る泡沫になんてなって欲しくない、からだ。
「人魚というのはきっと、人間達が空想した『完璧』な存在なんだろう。姿かたちは美しく、人間以上の力をいくつも持っている、理想の存在。だから、もしかしたらその理の外へ逸脱しようとしても、『本能』がそれを拒んでしまうのかもしれないね。人々が望む姿から逸脱しないようにする為のプロテクトが、彼女達には存在するのかも、しれない」
「なんだか、『海』そのもののイメージと同じような気がしますね。美しくて、けれども残酷で、容易く人々の生命を奪い取る時もあれば、けれども自らの身を切り与えて、人々に生命を与える時だってある。だから人々は、人魚に不変を求める……の、でしょうか」
「……!そっか、なるほど、ね」
間違いなく、人魚とは『空想』の存在である。けれども彼女の言うとおり、確かに今日まで世界各地に確かな強度を持って『存在』し続けている。
それはきっと『海』という、この星で最も強固なものを元に創作されているから。いつまでも不変である、不変で在らねばならない存在を土台としているから。
「……だとすれば、そもそも。何故人魚は人間に恋をしてしまうのでしょう。結ばれる事が出来ないと知っているのであれば、初めから……」
「それは……そうだなあ。それは、分からないけれども、でも」
「でも?」
「でも、それでも、変わることが出来なくとも、結ばれる事が出来ないとは限らないのかも、ね」
直感的に言葉を紡いでから、目の前の石像に、今度は僕自身の指を伸ばす。彼女の言う通り、間違いなく徹底的に、時間をかけて、狂気的にまでこだわり抜いて『精巧』に彫り上げられた美しい鱗模様が、確かにそこに存在していた。
「海の化身、理想の存在、なんかじゃなくて。人魚自身を一人の生き物として愛することが出来る人間だって、確かに存在する……僕は、そう信じたい、かな」
「……そう、ですね。それにきっと、自らの本来の姿かたちから解き放たれて、本当に自由に『成長』することが出来る。そんな人魚だって、確かに存在する……私は、そう信じたいです」
「……ああ、それじゃ、そう願おうか、二人で」
もう一度、二人並んで、思いを込めながら十秒ほど手を合わせる。目の前の劣化しきった、これ以上ないほど美しい石像に真っ直ぐ向かいあって、けれどもここではない、どこでもない場所を目掛けて、僕らは願いを託す。
彼女は、メジロアルダンは誰の理想の存在でもない、ただの一人のウマ娘である。だから、きっと自由に、『成長』を望む事が出来る。彼女は、泡沫に消えた人魚姫ではない、空想の産物ではない、確かにそこに、存在して
────本当に、そうだろうか?
「………………」
「……やっぱり、今日は水着で来て良かったです」
「えっ?」
「人魚姫の話をしたからかしら?なんだか今、ものすごく、『海』に入りたい気分……に、なってしまいました♪」
「えっ、ちょっ……」
不意にそっと立ち上がって、海に向かってふらふらと歩き出す、アルダン。水面に反射した陽の光が、ランダムに煌めいて彼女の姿を照らし出す。なんだかその様が綺麗な鱗模様に見えて、僕は。
「アルダン────」
「えっ……?」
頭の中で、パチリと火花が散る。なぜだか、その事は僕にとって絶対に、絶対にあってはならないことのように思えて、反射的に僕は、去りゆく彼女の手を掴んだ。
「─────」
「あ、あの、トレーナー、さん?」
「えっ、あっ。あ、えと……ご、ごめ」
「……ふ、ふふふっ!」
自分でも訳が分からず、掴みっぱなしのまま固まっていた僕の手を、彼女は優しく握り返してくれた。その手は少しだけひんやり冷たくて、思わず僕は、息を飲む。
「手、繋ぎたいのならば、いつでも仰ってくれれば良かったのに♪」
「えっ!?あ、いや、そんなつもりじゃ……」
「ふふ、ではせっかくですし、このまま歩いて、砂浜の行ける所まで行ってみましょうか?」
「……う、うん、そうだね、このまま進んで見ようか、行ける所、進める所まで、ね?」
「お手手は、このままでよろしいですか?」
「あっ、あ、いや、手汗!手汗、結構かいてるから!ごめんね!急に掴んじゃって!」
「あら、私はこのままでもよろしいですよ?トレーナー、さん♪」
「こ、こらこら、調子に乗らないの」
名残惜しさを振り切って、僕はそっと、掴んでいた手を離す。改めてまじまじと見つめたその手は、ほんの少しだけ、震えているように見えた。