メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
「よし、今日はここまで。しっかり、時間かけてクールダウンしようね」
「ふうっ……はい、承知しました」
「ほんと、ゆっくり、ゆっくりね?終わるまではちゃんと付き合うから」
「ええ、かしこまりました」
「ストレッチも忘れないようにね、ほんと、入念に、丁寧にね?」
「ふふ、了解です♪」
夏合宿が始まって、早一週間。我が担当ウマ娘、メジロアルダンは、ゆっくりと、ゆっくりと丁寧に、周りのウマ娘達よりもずっとずっと丁寧に一歩ずつ……地道に、けれども確実に、少しずつトレーニングを積み重ねていた。
まだまだ先日のレース、『日本ダービー』で負った傷は癒えきっておらず、本格的なトレーニングの再開目処も立っていない状況ではあるのだが、しかし。
そんな自らの状況に悲観も楽観もせず、彼女はひたすら、今の自分に『可能』なものだけを選び取り、その身にじっくりとすり込ませていく。地味で、無意味そうで、ただただ無駄に時間を浪費しているかのような……以前までの彼女であれば、間違いなく敬遠していたであろう基礎的すぎるトレーニング内容なのである、のだが。
「どう?体力、だいぶ戻ってきた?」
「ええ、おかげさまで。もしかしたら、ダービー前より元気かもしれません♪」
「それはよかった。まだまだ、これからダービーより長い距離を走ることも、あるだろうからね?」
「それでは、ステイヤーズステークスでも目指してみますか?」
「それは……まあ、君が望むなら。それ用のトレーニングを組むまでだけどね?」
「ふふ、考えておきます♪」
『楽しんでいる』のかどうかは、流石に本人しか預かり知らぬところではあるが。ただ、以前よりずっとずっと前向きになれているのは間違いない。
『ゆっくりでいい、永く走り続けて欲しい』
密かに胸に抱いていた気持ちを、もう一度心の中で唱える。ふと空を見上げると、いつもより鮮やかなオレンジ色の夕陽が、僕の視界を優しく包み込んできた。
「……ここは、本当に綺麗な場所ですね。本当に、来ることが出来て、よかったです」
「うん、本当にね。空気も澄んでるし、空も、海も……んっ?」
「トレーナーさん?」
彼女の言葉に合わせて、僕は目の前に広がる海へと視線を移す……と、そこには。
「あ、あれ?なんかあそこ、何かいない?」
「え?どこですか?」
「ほら、あそこ、なんだろうあれ……」
浮ついていた瞳を、ギュッとフォーカスする。広大に広がる海の中、やたらと気泡をばら撒きながら揺らめいて移動する物体を見つけて、思わず僕は指を差した。なんとも、夕日の反射によって輪郭がぼやけてしか見えず、浅瀬まで近づいてきたそれの正体を確かめるために、僕は不用意に近づいてしまう。
「なんだろう……大きな魚かな?」
「そんなに大きな魚、海水浴していた時には見ていませんけどね?」
「新発見かもね?どれどれ、ちょっと覗いてみたりして……」
ザバァーーーーン!!
「うおおおっ!?なにっ!?何事っ!?」
「トレーナーさん!?」
「むっ!?何奴!?」
間抜けにも、ちょっとしたミーハー気分でのこのこと波打ち際に歩み寄った僕の目の前、突如として打ち上がる水柱。不意をつかれて大きく尻もちをついてしまった僕に間髪入れず、真っ直ぐに届けられた声。その主は……
「……なんと、アルダンさんとトレーナー殿ではないですか!」
「そういう君は……ヤエノムテキ?」
「はい、ヤエノムテキです。申し訳ございません、驚かせてしまいましたか?」
「ああいや、僕は全然大丈夫だよ」
何を隠そう、アルダンの同期であり今年度の皐月賞ウマ娘、ヤエノムテキである。
少し申し訳なさそうな目線を向ける彼女に気取られないように、なんとか僕は立ち上がり、彼女に向けて言葉を繋いでいく。お尻の辺りになんとも心地の悪い寒気を感じたが、まあいいや。
「というか今、君、海の中から現れなかった?何事?」
「ええ、本日は鍛錬として、ひたすら遠泳を行っていたのです。向こうの島を一周して、スタート地点に帰ろうとした……のですが、どうやら随分と軌道がズレてしまい、おかしな所に上陸してしまったようですね。いや、お恥ずかしい」
「まあ、あんな所まで……」
彼女が指を差した小さな島……島?太陽の反射で薄ぼんやりとしか見えないが、こちらの陸地からは相当離れていることだけは間違いなさそうだ。あんな所まで往復して泳げば、いくらウマ娘とはいえ相当堪えるはずだが……
「凄いな、あんな所まで泳いだってのにまるで息が上がってないなんて、とんでもないスタミナだ」
「お褒めに預かり、光栄です。しかしこれしきのこと、まだまだ賞賛には値しないかと」
「ふふ、謙虚なのはヤエノさんの良いところですね?私も見習いたいところです♪」
遠慮なくものが言えるのも、アルダンの魅力のひとつだ……と、言いかけて、なんだか話が脱線しそうなのでそれは胸に閉まっておく。
「謙虚なのはいいけれども、いや、本当に凄いことだよ、謙遜するなんてもったいない」
「……いえ、本当に。未だ足りていないのです。この程度では、とても、とても」
「ヤエノさん……?」
「……ああ、なるほど、『菊花賞』か」
「ええ、その通り」
クラシック競走最後にして、最大の関門、『菊花賞』。
中山の2000、府中の2400に対して、京都3000メートルと大幅に距離を延ばして迎えるそのレースは、当然ながら前二走と比較にならない程の持久力が求められる。
これ以上に長い距離のレースは日本中探しても本当に数える程しかないため、殆どのウマ娘達にとってまさしく、未知の領域への挑戦、と言うべきレースなのであった。
「日本ダービー、私は不覚にも途中で息を切らしてしまい、とてもアルダンさんやチヨノオーさんに並ぶことが出来ませんでした。現状の私は2400メートルですら満足に走れぬ身。故に未だ、足りぬのです。この程度では間違いなく、あの日の二の舞を踏む事となる」
「本番のレースじゃ、間違いなく練習の時より遥かに体力の消耗が激しいだろう。確かに、どれだけやったってやり過ぎということは無い、か」
「ヤエノさんは、このまま菊花賞へ直行する予定なのですか?」
「いえ、京都レース場に慣れるためにも、まずはトライアル……『京都新聞杯』に進むつもりです。ただそれだと少し間が空いてしまうので、その前にもう一つ、どこかのオープン戦に出ようかと」
「えっ、そんなにレース、詰め込んでいくつもりなの?」
「確か、つい先日も中日スポーツ賞に出られてましたよね?」
レースは、その一戦一戦がまさしく命懸け。重賞だろうとオープン戦だろうと、走り終えた時の心身への負担は計り知れないものがある。故に、それこそ菊花賞のような生涯一度の重要なレースの前には、ある程度それに的を搾り他のレースへの出走を控えるのがセオリーである。
特に、ヤエノムテキは皐月賞を勝っているので、出走権を確保するために走るといった必要は無いはず……で、あるのだが。
「もちろん、照準は常に菊花賞です。菊花賞を取って、私こそが『現世代最強』であると証明したい。その為のレースなのです」
「現世代最強、か。それって、『オグリキャップ』も含めて、って意味でいいのかな?」
「……!」
「……ええ、当然です」
流石に、直接話すのは野暮というもの。ということで口にはしなかったが、正直、彼女に菊花賞は少し……いや、相当荷が重いだろうと、僕はそう思う。
皐月賞にダービーと、続けざまに彼女のレースを観察させてもらったが、恐らく彼女の適正距離は長く見積もっても2000メートル程度。言ってしまえば、菊花賞よりも天皇賞・秋を選択した方が確実に良い結果を残せるはず。
なんて、彼女のトレーナーではない僕でも分かることを、彼女自身が分かっていないはずは無い。しかし、それでも彼女はひたすら真っ直ぐに菊花賞を目指している、その理由といえば……
「オグリさんは、やはり良い人です。その純朴な人柄に、一切の妥協を辞さない並外れた根性。見ていて実に学ぶ事が多い、良き友人です」
「ええ、そうでしょうね。私も、そう思いますよ」
「しかし、ええ、しかし。やはりどうしても彼女の走りを見ていると、私の中の荒ぶる感情……『内なる烈火』が、抑えられなくなる」
下唇を噛み締めながら、強く、強く拳を握るヤエノムテキ。その姿、その動作、確かに見覚えがあって、僕は思わず、目元を擦った。
「間違いなく、今年のクラシックはレベルが高いよ。これまでの歴史と比べても、間違いなく遥かにレベルは高い……けれども」
「けれども、きっとその価値は。これまでの歴史と比べても、ずっとずっと『低い』のでしょうね」
怪物、オグリキャップが巻き起こす旋風。先日の高松宮杯で、その風速はより熾烈なものと化していた。
その風向きをもろに正面で浴びせられ、どんどん虚ろなものになっていく『クラシック競走』の価値。日本最高峰であるはずのそのレース達に向けられる目線が、日毎に少しずつ、確かに温度を失っていく、その現実。最早無視することさえ難しくなってきた、今日この頃である。
「だから、菊花賞なんだね、菊花賞でなければ、駄目なんだ」
「その通りです。私はどうしても、奪われたものは取り返したい。人々の声援も熱気も全て奪い返した上で、『今年のクラシック』最強のウマ娘として、今度こそ、オグリキャップを完膚無きまでに討ち取りたい」
「それで、これ程まで沢山のレースに……」
「その通りです、『雨垂れ石を穿つ』……ほんの少しずつでも、今年のクラシックはまだ生きているのだと。そう、世の中に向けて強く撃ち込み続けなければならない。その為のレース、なのです」
ふと、先程彼女が這い出てきた、ひたすらに広大な海に視線を移す。広大すぎる海と、その潮目に抗えずに引き込まれたり、はじき出されたりしている小さな砂粒たち。それでも、それでもやはり彼女の声には、あの海すらも蒸発してしまいそうな程の熱が、たしかに篭っていた。
「そして、その為にはやはりアルダンさん。貴方をも超えさせていただきます……菊花賞で」
「………………」
「あ、えと、ヤエノムテキ」
「今でも脳裏にこびりついています、日本ダービーの、あの日の事は。あの日からずっと模索していました。貴方を、貴方々を倒す方法を」
最早狂気的なほど……熱を帯びた彼女の言葉を、アルダンはただ、黙って聞いていた。僕に口を挟む余地さえ与えずに、ひたすらに彼女は言葉を紡いでいく。
「本音を言えば、どんなレースでもいい。今すぐに仕合いたい所……ですが、やはり貴方と闘う舞台は菊花賞以外有り得ないでしょう。今年のクラシック、最後のレースで、絶対に私は貴方を超えてみせる。ですのでアルダンさん、貴方も……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、ヤエノムテキ。アルダンは……」
「トレーナー、さん」
慌てて、無理やり口を挟もうとする僕を、アルダンは優しく制した。そうして、僕の半歩前に出て、ただひたすら、真っ直ぐに彼女と、ヤエノムテキと相対する。
「ヤエノさん、ありがとうございます。そこまで私の実力を高く買っていただけているとは。恐悦至極の至りです」
「いいえ、それは当然の事。きっと貴方と走った者であれば、皆同じ気持ちでしょう」
「その上で、大変申し訳ございませんが……私は、菊花賞には出走いたしません」
「……はい?」
どうしたものかとうんうん頭を捻らせる僕をよそ目に、アルダンはただ、ただ真っ直ぐにその事実をヤエノムテキに向かって言葉にした。
「回避、されるのですか。菊花賞は」
「ええ、その通りです」
「………………では今年は、どのレースに出走されるのですか?毎日王冠でしょうか?天皇賞?ジャパンカップに挑戦されるのですか?はたまた有馬記念……ええ、ええ、少しばかり残念な気持ちはありますが、致し方ありません。私の方が、アルダンさんの下に赴きますので、ですので必ず……」
「ヤエノさん」
「は、はい」
「ご期待に添えず大変申し訳ございませんが、既にトレーナーさんと話し合い、決めた事です。今年いっぱいの間、私はレースに出走いたしません。全て休養と基礎的なトレーニングに充てさせていただきます」
「───────」
それは、夏合宿前に話し合い、二人だけで決めた事だった。彼女は、メジロアルダンは今年いっぱい、レースには出走しない。ダービーで負った怪我の事もあるが、それ以上に彼女の意思も強く反映した結果、なのだが。
「────怖気付いたか、メジロアルダンっ!!」
彼女の、ヤエノムテキの瞳が一際大きく開いた。何処までも何処までも、朧げに見えるあの島までも届きそうな程の絶叫を、彼女はメジロアルダンに向けて放つ。
「いいえ、私は決して怖気付いている訳ではありません」
「であれば何のためにここに居る!ただの思い出作りなのであれば、今すぐにここから去るべきだ!」
「思い出作り、などでもありません。間違いなく私は『勝つ』為にここに居るのです」
「それならばっ……!それならばっ!!」
今にもアルダンに食らいつきそうな勢いで叫ぶ、ヤエノムテキ。それでも決して呑まれずに、自らの言葉を返すアルダン。お互い一歩も引かないのは、きっと互いが互いに『同じ姿』を見ているから、なのだろう。
「勝ちます、私は。貴方にもオグリさんにも。たとえこれから世の中がどんな形になったとしても、関係無い。極限まで研ぎ澄ませた刃、一突きで仕留めてみせれば、こちらから望まずとも世界の方から変わって行くもの、でしょう」
「それを研ぐ為に、今は隠居すると言うのか?ふん、片腹痛いなメジロアルダン!実戦を知らぬ脆刃がなんの役に立つ?そのようなもの、私の拳百遍で硝子の如く砕け散る迄だ!」
少しずつ、ヤエノムテキに引きずられ熱を帯びていくアルダンの言葉。けれども、少しだって止める気にはなれなかった。彼女たちのその姿がどうしても、美しいとさえ感じてしまったからだ。
きっとこれこそが彼女の、メジロアルダンの生涯において本当に必要で、けれども彼女が今まで手に入れることが出来なかったもの。こちらの事情をお構い無しに、自らのエゴを押し付け、怒り、そして自分の事を引きずり出そうとしてくれる相手……『ライバル』という存在、なのだろう。
「決めたのです、私は。ゆっくりでもいい、トレーナーさんと一緒にこれからもずっと、永く、永く走り続けるのだと。だから今は休むのです。休むのだって、私のレースの一部なのです」
「そんな、綺麗事を……!」
「それに────そんな発破をかけてしまって、よろしいのでしょうか?ダービーで私に負けた、ヤエノムテキさん?」
「っ、んなっ……!!」
「アルダン!?」
なんとも、なんとも……蠱惑的な笑みを浮かべながらヤエノムテキを挑発するアルダン……というか、一体どこでそんな表情を覚えてきたんだ……チクチク動く心臓を、なんとか深呼吸で落ち着かせる。
「私は、必ず戻ってきます。脚を溜めて、最終直線で全員を差し切るように。この刃を、鋭き硝子の破片の如き刃を、必ずや貴方の喉元に突き立てに参ります。その時まで……せいぜい頑張って、逃げまわってくださいね?ヤエノムテキさん♪」
「………………逃げる?」
「ええ、それはもう、のこのこと♪」
「……フ、フフ、ハハハハッ!」
落ち着いた心臓をまたも揺さぶってくる、どこまでも届きそうなヤエノムテキの笑い声。ひとしきり豪快に笑い飛ばした後、じわじわと、彼女は口を開く。
「……驚きました、アルダンさんもそのような事を仰るのですね」
「ね、僕もびっくりしたよ?」
「ふふふ、ただのトレーナーさんの真似事ですよ♪」
「僕、そんなに人煽ったことないよ?」
「フフフ……良いでしょう、アルダンさんがそう仰るのであれば。私はひたすら前に向かって走り続けます。なので……追いつけるものなら、追いついて見せろ、メジロアルダンッ!」
「ふふ、ええ……首を洗って待っていてくださいね?ヤエノムテキさん♪」
二人の声がぶつかり合って、どこまでも遠く遠く、あの熾烈に、暴力的に輝く夕陽にすら届きそうな程広がっていく。その様がなんだか、ゴール板手前のせめぎ合いみたいで、なんだかまたまた、胸が高なった。
「……ところでなんだけれども、ここでこんなに話し込んでて大丈夫?君のトレーナー、心配してるんじゃない?」
「それは…………ハッ!?それはそうでした!申し訳ございませんでしたアルダンさん!トレーナー殿!それでは、私はこれで!!」
ドドドドドドドド……
「……走って行っちゃった。ほんと、とんでもないスタミナだなぁ……」
「本当に……ふふふっ♪とてもうかうかしてられませんね?」
「……そういえば、アルダン、さっき、さ?」
「はい?なんでしょう?」
「……いや、なんでもないよ?明日も頑張うね?アルダン?」
「トレーナーさんも、ですね♪」
渚香る砂浜で、果てしなく広がる海と彼女の笑顔を両の瞳に映し出す。明日も、明後日も……
『ゆっくりでいい、永く、永く、共に走り続けていたい』
密かに胸に抱いていた気持ちを、もう一度だけ心の中で唱える。ふと空を見上げると、いつもより鮮やかなオレンジ色の夕陽が、僕の視界を優しく包み込んできたのだった。