メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
夜闇に包まれた河川敷、デコボコと舗装しきれていないアスファルトをひたすら眺めながら、一人歩く帰り道。水溜まりに浮かんだ半端な形の月を見つけて、思わずため息を吐いた。
「はぁ……」
じっと手を見る。毎日の小さな小さな、鼻で笑われそうな程小さな悩み事たちが折り重なって、ささくれ立った指先が目に映る。
もう二、三個ほどため息をこぼし、捨てられない空の缶コーヒーを抱えたまま、まだまだ続く───あまりにも寂れた、孤独な夜。
ヴーッ……ヴーッ……
「……もしもし?アルダン?」
『もしもし?ふふ、こんばんわ、トレーナーさん?』
振動を感知、3コール目の途中で取った電話から聞こえてきたのは。鼓膜に良く馴染む、真っ直ぐに澄んだ美しい声……メジロアルダンの、声だった。
「どうしたの?何かあった?」
『ええ、あります、緊急事態なのです』
「き、緊急事態?」
『実は、私、今、凄く、ものすごく……退屈なのです♪少しだけでもよろしいので、お話相手になっていただけませんか?』
ぷすりと、思わず口元から息が漏れた。彼女はいつも、ぬるりとこういうことを仕掛けてくるから、なんとも始末が悪い。
「今は寮……だよね?違うって言ったら困るよ?」
『そこはご心配なく、きちんとご飯もお風呂もいただきました』
「ならいいけど……あれ?そういやチヨノオーは?」
『レースの前乗りで、恐らく今頃は兵庫でお泊まりだと思います』
「ああ、宝塚記念。そういやもう明日なんだなぁ」
『出走する方々は皆、今日の昼過ぎには出発していましたよ。チヨノオーさんもヤエノさんもバンブーさんも、シチーさんも。皆様気合い充分といった感じでしたね?』
「なるほど、それで退屈な訳か」
なんだか普段より忙しなく話すアルダンにつられて、僕の歩みも少しだけ早くなる。
もうまもなく日も移り変る時間帯だ、どうせ帰ったところでお風呂に入り眠るだけ。であるならば、そうだな、彼女の退屈しのぎにこのまま付き合うのも悪くな……
「ところで、それはそれとして。寮の消灯時間はとっくに過ぎてるわけだけれども?」
『……ふふ、ふふふ。全く、ええ、まったく気が付きませんでした♪』
「まったくもう……」
軽く首を傾げながら、小さく舌を出すアルダン……直接は見えずとも、簡単に頭の中に浮かんできたその姿に、僅かばかり、胸が高鳴ってしまう。
『まあまあ、良いではありませんか?こんなに素敵な夜なんですもの。すぐに眠ってしまうのは、もったいないでしょう?』
「ふふ、素敵な夜、かぁ」
日中延々と降り続いた雨も止み、ただ湿っぽい、ベタついた空気だけが残った熱帯夜。けれども、そんな夜だって彼女に言わせれば『素敵な夜』らしい。
彼女の声に合わせ、時折混ざるノイズ。それに気付いて、何の気なしに僕は口を開いた。
「窓、開けてたりするのかな。なんか風の音?がさっきから聞こえるけれども」
『あら、分かりますか?少し湿気が気になったので、換気しようと思いまして』
「そうなの?余計ジメジメしたりしない?」
『いえいえ、ちょうど良い風が吹いていますので、とっても心地いいです』
「あー、あの辺り、風を遮るもの無いからねぇ。いいなぁ、羨ましい」
『トレーナーさんも寮、引っ越してきます?』
「できるんなら、是非ともなんだけどね?」
スピーカーからこんこんと聞こえてくる笑い声に引っ張られて、持ち上がる口角。このタイミングで誰かとすれ違ったら不気味がられるんじゃないか。なんて懸念が脳裏に浮かんだが、けれども、どうしたって収めることが出来ずに、苦し紛れ僕は空のコーヒーに口をつける。
『それに、こういった夜に窓を開け放つの、好きなのです。私』
「好き?どうして?」
『こんなに静かな夜ならば、なんだか私の小さな弱音も風に乗って、遠く離れた人にだって届きそうな気がするのです。閉じられたお屋敷の中からも、暗い病室の中からも、どこかの誰かが、私の言葉を拾ってくれる───そう思うと、一人でも寂しくなくなりますから』
「……うん、そうだね。すごく、すごくわかるよ」
『どうでしょう、トレーナーさんには私の声、届いていますか?』
「ああ、もちろん、届いているよ」
風か、電波か、なんて些細な違いだ。間違いなく今、彼女の声は僕に届いている。届いていて……それで、間違いなく僕の鼓膜を、心臓を揺らしているのだ。
思い切りよく、水溜まりを踏み抜く。ズボンの裾が濡れてしまったが、今の僕には、なんの問題もなかった。
「そうだ。明日だけどさ、アルダンさえ良ければ」
『あっ……!と、トレーナーさん、少しお静かに……』
「えっ、う、うん?」
『この足音、ヒシアマゾンさんが見回りをされているみたいですね?申し訳ございませんトレーナーさん、少ししてから、またかけ直します……!』
「えっ?は、はいっ!?」
プツン、と、あまりに呆気ない音を残して彼女の声は途切れてしまった。
「……いや、かけ直すじゃなくって、普通に寝るべきなのでは?」
でも、まあ、いいか。もたつく思考を数秒かけて整えてから、僕は再び、アスファルトの上を歩き始めた。
ふと目を閉じて、河岸を通って吹いてきた風に耳をすませてみる。鼓膜に良く馴染む、真っ直ぐに澄んだ美しい音が聞こえてくる。
もう二、三個ほど苦笑いをこぼし、捨てられない空の缶コーヒーを抱えたまま、まだまだ続く───あまりにも寂れた、素敵な夜。