メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』   作:いずさわ

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くるくる回って、昼下がり。




フォークで恋して

「ようこそいらっしゃいました。どうぞ、ごゆっくりお寛ぎ下さい」

「まあ、ありがとうございます♪」

「あっ、ありがとう、ございます……」

 

指紋ひとつ付いていない真透明なワイングラスに、なんだかオシャレな横文字がプリントされた、大仰なボトルから水が注がれていく。

アルダンの分、僕の分と順に満たしてから、彼は真っ白なコック帽をまじまじとこちらに見せつけるようにお辞儀をしてから、僕らに背を向け、厨房へと帰っていった。

 

「なんだか、大層なお店に入っちゃったみたいだけれども……」

「ふふ、なんだかワクワクしてしまいますね?」

「どっちかというとバクバクの方かな、僕は……」

 

彼女の、メジロアルダンの専属トレーナーになってから少しだけ時間が経った、とある日。来たるべきメイクデビューに向けた細かな準備を済ませるべく、今日は朝から二人で関係各所を巡り歩いていた。本来であれば彼女自身の手を煩わせることも無い事務作業なのだが。それでも今、彼女が僕の隣に居るのは……

『可能な限り、何一つ懸念のない完璧な状態で出走したい』という彼女の意向、それに従った結果である。どこまでも注意深く、思慮深い彼女のその姿勢、我が教え子ながら驚嘆の一言である。ある、のだが……

 

「トレーナーさん、トレーナーさん?」

「んぇ?」

「何やらぼんやりとされておられるようですが……お疲れ、ですか?」

「あ、いやいや、全然そんなことはないよ?」

「それなら良かったです。ふふ、せっかくのランチですので、よく味わえなければ損、ですからね?」

「んっ、そ、そうだね?ええと、何を食べようかな……?」

 

いつもの如くぐるぐると考えこんでしまう僕に、彼女はふわふわと、とらえどころのない笑顔を向けてくる。窓から射し込むランダムな光たちに照らされたその様が、なんだか慈悲深く幼子を見守る聖母のように思えて……バツの悪くなった僕は、慌てて目の前のメニュー表に目を落とした。

 

そう、せっかくのランチなのである。ある程度の用事を済ませた昼下がり、朝から何も食べておらず、盛大にお腹を鳴らしてしまった僕を見かねた彼女に提案され、どこかの店でランチタイムを取ることと相成ったのだ。

とはいえ、金曜昼間のオフィス街である。どこもかしこも満席満席……もはや空いていれば何処でもいいというレベルにまで追い込まれた僕らがようやく転がり込めたのが、この見ず知らずのイタリアンレストラン……と、いう訳であった。

 

「ええと、うん?随分オシャレな感じのメニューだなぁ……写真とか、ない感じかなぁ……」

「まあ、こういったお店ですからね?」

 

目を落とした先、なんとも格式張ったメニュー表の中、ズラリと並んだ小さな文字が目に入る。なんだか見慣れぬ文法のアルファベット……恐らくイタリア語、なのだろう。申し訳程度に日本語も書かれているが、それでもやはり、どういった料理なのかが今ひとつうかがい知れない……

 

「ふむふむ、このお店、パスタが美味しいらしいですよ?」

「え?そうなの?」

「ええ、今しがたネットで調べました♪」

「あ、なるほど……ネット……」

「写真も載っていましたよ?どうぞ?」

 

眉間に皺を寄せ、うんうんと唸っている僕に向けて、丁寧に両手を添えながらスマホの画面を見せてくれたアルダン。有名な飲食店レビューサイトの中、ユーザー投稿の美味しそうなイタリア料理の画像が沢山並んでいた。

 

「一番人気が……このスパゲティ・ペスカトーレみたいですね?」

「あ、じ、じゃあ僕、それにしようかな?」

「では私は……あら、ボスカイオーラなんて良さげですね……」

「ボスカイオーラっていうと、キノコのやつかな?」

「あら?ご存知なのですか?」

「まあまあまあ、それくらいはね?」

 

落ち着いた、情緒溢れる笑みを浮かべながら、アルダンはゆっくりとスマホの画面をスワイプした。ひとつひとつを品定めするかのように揺れるその瞳を、僕もつい目で追ってしまう。

 

「このお店ではクリーム系のソースみたいですね?とても美味しそう……」

「全然、全然ゆっくり悩んでもいいよ?」

「いえ、もう決めました♪」

「あ、そう?じゃあ店員さんを呼ぼ……あれ、店員さん……店員さんは、どうやって呼ぶんだ?」

「恐らくこのベルかと……えいっ」

「あっ……」

 

チリンチリン……

 

「……はい、ご注文ですか?」

「あ、ええと……」

「はい、こちらのペスカトーレをひとつと、ボスカイオーラをひとつ、それと……アランチーニもおひとつ、いただけますか?」

「かしこまりました、少々お待ちください」

「…………」

 

再び現れた、コック帽を被った大柄の男性に暫し目をはためかせていると……そんな僕に一切構わず、アルダンは彼に向けて流暢に言葉を投げかける。そうして彼女は再び去っていく彼に向けて軽く会釈を送ってから、僕に向けて相変わらずの落ち着いた笑顔を向けてきた。その様が、これまた相変わらず眩しすぎて、僕は思わず視線を下に向けるのだった。

 

「ふふ、美味しそうだったので、ついアランチーニも注文してしまいました♪二人で分けて食べましょう?」

「うん、うん、そうだね……」

「……トレーナーさん?どうかいたしましたか?」

「ああ、いや、やっぱりアルダンは凄いなぁって思ってね。僕、こういうお店全然柄じゃなくってさ、どうしても緊張しちゃって……」

「まあ、そうでしょうか?お似合いだと思いますよ?」

「アルダン程じゃないよ、本当に。アルダンは凄い、どんな所でも、誰が相手でも堂々としてて……ほんと、僕とは大違いだ」

 

どこまでも注意深く、思慮深い彼女のその姿勢。我が教え子ながら驚嘆の一言である。ある、のだが。

同時に、どうしても感じてしまう。彼女と僕の間に存在する、『差』を。産まれの差、育ちの差、経験の差、覚悟の差……

彼女のその眩く輝く笑顔。最近は、それを向けられる度に胸が苦しくなる。こんな事を言えば否定されるのだろうが、まるで天上人から慈悲をいただくかのような気持ちにさせられて、とても、とても自分が情けなくなるのだ。

 

「……ふふ、そんな事はありませんよ?」

「アルダン?」

 

けれども、それでも彼女は僕に笑顔を向けてくる。笑顔を向けてそのまま語り出した言葉に、僕は痛む胸と胃をさすりながら耳を傾けた。

 

「本当は、私だって柄じゃないんですよ?昔から病気がちで、このように気ままに外食することなど、今まで殆ど、出来ませんでしたから」

「……それは」

「それにですね?幼い頃の私はとても引っ込み思案で、いつも姉様の背に隠れていたのです。何をするにも臆病で泣き虫で……ふふ、きっと他人よりもずっとずっと手のかかる子、だったのでしょうね?」

「え?ほんと?とてもそうには思えないけれども……」

 

とても、にわかには信じがたい話。けれども彼女は、まるで余裕を崩さずに言葉を紡ぎ続ける。

 

「結局私は、自分から動く事が出来ないウマ娘なのです。どんな時でも自分の意思を貫き通せる姉様とは違う。ただ走りたい、レースに出たいという漠然とした欲求だけ抱えたまま、今まで自分から一歩も動くことが出来なかった」

「それは、そんな事はない。君はずっと走り出す為の準備をしてきていた。誰に言われるでもなく、ひとりきりでも、ずっと」

「……ふふふっ、ありがとう、ございます……けれども、私ひとりきりでは何も出来ない、ただ一度のレースすら、私一人の力では出走することもままならない。それだけは、間違いないことです」

「あ、アルダン……?」

 

不意に、アルダンがこちらに向けて頭を下げた。深く、深く丁寧に。

 

「ありがとうございます、そしてごめんなさい、トレーナーさん。『可能な限り、何一つ懸念のない完璧な状態で出走したい』なんて生意気なことを言ってしまって」

「あ、え?そ、そんな事……」

「トレーナーさんのこと、信用していない訳ではありません、けれども、怖かったんです。どこか私の預かり知らぬところで事が進んでしまうのが、凄く怖かった。夢にまで見た舞台へのその切符が、不意に、簡単に砕け散ってしまって、それを後から知らされる。なんて、そんな悪い想像が止められなくって」

「……アルダンにも、怖いものがあるんだね」

「もちろんです、怖いものだらけですよ、私は」

 

けれども、彼女は決してその恐怖心を表に出すことは無い。今日だって……このレストランもそうだし、それ以外にも。きっと彼女が行ったことのない場所、話したことの無い人々、見たこともない書類の山をいくつも見たはずだ。けれども彼女は、ひとつだって弱音を吐く事はしなかった。本当に、やっぱりアルダンは『凄い娘』だ。そんな事をきちんと伝えてあげようと、口を開く僕だったが……

 

「今日、身をもって知ることができました。やはりトレーナーさんは『凄い人』ですね?」

「えっ」

 

……なんだか、予想外なことを言われて。口をぽかんと開けたままの間抜けな顔で、僕は固まってしまう。

 

「たった一度、たった一度のレースに出る。それだけの事でも、本当に沢山の人が動いて、本当に沢山の書類を書かなくてはいけなくって……今まで私はずっと、『出る』側の気持ちしか考えずに生きてきましたので、今日一日、ただそこに居ることしか出来ませんでした。自分から手伝いたいと言っておきながら……」

「……ううん、あんな苦労なんて在って無いようなものだよ、実際にレースを走る君自身のプレッシャーに比べれば、ね」

「だとしても、本当に今日のトレーナーさんは堂々とされていて素敵でした。あのトレーナーさんの姿を見ていたから、私も勇気が出せたのです」

 

少しだけ震えて聞こえた声に、思わず視線を上げる僕。なんだか、今日初めてしっかりと瞳に映した彼女のその顔は……僕と同じ、ちゃんと血の通った朗らかな表情を浮かべていた。

 

「そう、だなぁ。そう言って貰えて本当に、本当に嬉しいよ、アルダン。けれども君はそのままでいい、ずっと『出る』側の気持ちのままでいて欲しい。信用……出来ないかもしれないけれども、その為に僕は居るんだから」

「ふふ、そう、ですね……それは、本当に……」

 

「んんっ、お話中失礼いたします……お食事を、お持ちいたしました」

 

「あっ、あ、えと、ありがとうございます……!」

「あら、もうそんなに時間が経っていたのですね?」

 

なんとも、バツの悪そうな顔で現れたコック帽の男性に、何故だか大袈裟気味に会釈を返してしまう僕……くう……やっぱり慣れないなあ……

 

「それでは、どうぞごゆっくり」

 

「…………わぁ……!」

「…………おお……!」

 

料理を丁寧に並べてから、そそくさと立ち去っていくコック帽さんを見送ってから、改めて、目の前のテーブルに向かい合う二人。そういえば忘れていたが、朝から何も食べていないのだった。真っ赤なトマトソースに彩られたエビやイカ、ムール貝から漂う濃厚な磯の香りが鼻腔の奥の奥をくすぐって、思わず気を失ってしまいそうになる。

 

「……ふふ、ふふふっ、これは……期待以上かもしれませんね?」

「ね……本当に美味しそうだ……」

「早速、熱いうちにいただきましょう?」

「うんうん、冷めないうちにね?」

 

互いに真っ直ぐ手を合わせてから、目の前に置かれたフォークに手をかけ……

あれ?ええと、こういう時ってなんかマナーとかあったっけ?フレンチならよく聞くけど、イタリアンのマナー……なんか聞いた事あるようなないような……

 

「……!美味しい……!」

 

……なんて、僕がまたしてもグダグダと考え込んでいるうちに、アルダンが最初の一口を美しく丁寧に運んでいた。贅沢に厚切りにしたポルチーニに、光沢のあるミルククリームソースを絡め合わせて、パスタと一緒に口にする姿……見ているだけで、頬が零れ落ちそうだった。

 

「凄く、凄く濃厚ですね、このソース……!どうやって作っているのかしら……ふふ、本当に美味しい……まさかこんな所にこんな店があったなんて……凄くいい発見、してしまいましたね?」

「え、ああ、うん……」

 

……けれども、それよりも。

目を輝かせながら皿の中を見つめる彼女の姿が、食べ進める度に少しずつ一口が大きくなっていく彼女の姿が……くるくると回るフォークからの反射光によって、まるでミラーボールに照らされたみたいに輝いて見えて。思わず、見蕩れてしまう。なんだかずっとずっと、いつまでも見ていたくなって、僕は思わず、口を開く。

 

「アルダンは、美味しいもの、好き?」

「え?ええ、まあ、そうですねぇ……恐らく、人並み以上には♪」

「そっか……実は、僕もほんと、素人に毛が生えた程度なんだけど、ちょっとだけやってるんだ、料理」

「……えっ?本当ですか?」

「いや、ほんと、こんな大層な料理と比べれる程じゃないかもだけど……でも、まあ、ほんの少しだけなら、自信はあるかな」

「……ふふ、それでは……私がお願いしたら、作ってくれますか?」

「それは、もちろん。めちゃくちゃ緊張するだろうけど……でも、腕によりはかけさせてもらうよ?」

「では、決まりですね?本当に本当に、期待させていただきます♪」

 

なんだって、今まさにご飯を食べている時に言わなくったっていいはず。なのだが、なんとなく今、言いたかった、知って欲しかった彼女にも僕の事を、ほんの少しでも。

さてと、はたして何を作ったら彼女に一番喜んで貰えるだろうか。まだなんの約束もしてはいないけれども、思わず思考を働かせてしまう。洋食……よりは和食の方が自信あるかな。しかし、これといったものが思い浮かばない……でも言ってしまったものはしょうがないしなぁ……

しょうがない……しょうが……?

 

「ところでトレーナーさん?そのパスタ、食べないなら私がいただいてしまいますよ?」

「え?あ、ああ!いやいや、食べるよ、食べる、食べる!」

 

引き戻された現実で、思わずマナーも何も無くかき込んだペスカトーレ。

脳髄にダイレクトに染み渡った海の味は、なんだかひどく、懐かしく感じた。

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