メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
「あっ……ついなあ……ほんっとに……」
換気のために開け放ったトレーナー室の窓から、爆裂の如き熱波とセミの鳴き声が同時になだれ込んできた、午後三時。丁度よく日差しを遮ってくれそうな入道雲は、遥か向こうの方の青空で、すっかり立ち往生してしまっていた。
「ファイトー!いち、に!いち、に!いち、に!」
なんとも子気味良いアブラゼミの声と、それに対抗するかのようなウマ娘達の声。響きあって発生したより一層の『熱』によって、僕の鼓膜はすっかりと焦がし尽くされてしまう。
熱を逃がすため大きく二、三度吸い込んだ空気の香りがなんだか懐かしくて、思わず僕は、独り言を呟いた。
「夏、だなあ」
ぼんやりと僕は、壁に掛けられたカレンダーに視線を移した。びっしりと書き並べられた七月の予定。その中の一つ、とりわけ目立つ赤マーカーで印をつけられた、その三文字がやけに強く瞳に映り込んでくる。
「もうすぐ夏合宿、かぁ……」
もう一言、独り言を呟いて、そして考える。
毎年恒例、学園所有の合宿所にて行われる『夏合宿』。秋の重賞戦線に向けた、現役ウマ娘たちの更なるレベルアップを目的とした学園名物の合宿である。が。
トレセン学園に正式に採用されてから昨年まで、数多居るサブトレーナーの一人でしか無かった僕は未だこの合宿に参加したことがないのである。学園総出で出発などすれば、合宿所がパンクしてしまうことは勿論理解しているのだが……浮かれ顔で意気揚々と出発する先輩達を見送るのは、やはりなんというか、複雑な気分……と、言う他ないのであった。
しかし、あれから時は流れて。今の僕には『メジロアルダンのチーフトレーナー』という、なんとも立派な肩書きが付いている。果たしてその肩書きに相応しい仕事が出来ているのか、は別として……つまり、今年の夏合宿。参加するかどうかは僕自身の裁量次第、というわけだ。
「海かぁ、日焼け止めいっぱい買わなきゃかなぁ……クーラーボックスとかあると便利かな、いやでもそれくらい合宿所にあるのか?後で聞いとかないと……」
と、なると……青い海に、白い砂浜……無意識にあれやこれやと想像力を掻き立てられる。アルダンが心置きなくトレーニングに集中できるように、できる限りの準備はしておかなければ……とは、勿論真剣におもっているのだが、それはそれとして。
なんだか、無性に胸が高鳴った。まるで子供の頃、夏休みのキャンプに行く前の日のような、えも言われぬ高揚感が僕の身体の中を満たしていく。決して遊びに行く訳ではない、訳ではないが……どうせなら、だ。
「あとは、そうだな、アルダンも楽しんでくれればいいけど……」
僕の心持ちは完璧。具体的な準備だって、これからすぐに取りかかれば問題はないはず。
一つ、懸念事項があるとするならば……メジロアルダン、彼女自身のことだ。
先日のレース……『日本ダービー』で負った足の怪我については、なんとか回復傾向にある。通常のトレーニングは流石にまだまだ厳しい所だが、それでもできることは沢山あるし、仮に何も出来なかったとしても、クラシック期のこの時期、皆と同じ場所に居ることが出来た。というのは、間違いなく彼女のこれからの競走人生において大きな意味を持つはずである。
あとは、そうだ、そのことを、彼女自身が望むのかどうか、であるが……
「…………」
「トレーナーさん?」
「…………」
「トレーナー……さんっ♪」
「……うおっ!?あ、アルダン!?」
「ふふ、随分と集中していたみたいですね?何か、いけないことでも想像していたのですか?」
「い、いやいやいや!そんなんじゃないから!」
なんて、ややモヤついた想像を働かせていた僕の瞳の中、あの空に負けない程美しく流れる、艶めいた髪の青が、不意に飛び込んできた。
「ええ、ええ、とにかく、そのような妄想は一旦おやめいただいて、ですね?」
「だから、違うって……もう……」
「今日はトレーナーさんに、一つお伝えしたい事がございまして」
「お伝えしたいこと?」
「ええ、『夏合宿』の件、なのですが……」
僕の目の前で、ひょこひょこと身軽に跳ねる彼女……メジロアルダンは、これまた不意に、その言葉を口にする。
『夏合宿』……なんともタイムリーなその言葉に、今度はまた別の意味で胸が高鳴る。特に意味もなく襟元を正す僕に向かって、一呼吸置いてから彼女は話し始めた。
「……メジロの主治医から、連絡がありました。今回の夏合宿は……参加するべきではない、と」
「……そっ、か」
「ダービーでの傷も癒えきっていませんし、そもそも、仮に万全だったとしても、私の身体でトレセン学園の夏合宿を乗り越えられるとは思えない。とのこと、でした」
「そうだろうね。あの主治医さんなら、間違いなくそう言うだろうと思ってたよ」
「ですので……トレーナーさん」
すっかりと落ち着いたまっすぐな瞳で、アルダンは僕に語りかける。窓から差し込む逆光に照らされたその顔は、まさしく深窓の令嬢と表現すべき優雅さと美しさを携えた、なんとも大人びたものであった。
「ああ、分かってるよ、アルダン」
「……!」
「主治医さんを、説得するんでしょ?僕も手伝うから、一緒に考えよう?」
「ふふ、ふふふっ……残念ながら、不正解ですね?トレーナーさんに考えていただきたいのは、主治医の目を掻い潜って内緒で夏合宿に行く方法、です♪」
「……はは、とんだ不良娘だこと……」
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「前半は徹底的に上半身のフィジカルトレーニングだ。脚に負荷がかからないのならば問題はないはず……それと、通常より多めに休息日を設ける。まあおそらく計算通りいかないことも多々あるだろうけど……主治医さんを説得する為の道具ぐらいには、なるはずだ」
「ええ、異論ありません♪」
メジロ家に内緒の逃避行……は、流石に勘弁してもらって、まずはとにかく主治医さんを説得するため、徹底的に夏合宿のスケジュールを詰め込んでいくことにした。
さながら子供の頃の、宿題に追われていた夏休み終盤のような雰囲気で、なんだかナーバスな気分になってしまうが……ギリギリで気を持ち直しつつ、これまでの丸一年で培ったものたちを総動員してひたすらうんうんと頭を捻らせる僕……で、あったが。
「それと、そうだな。水中でのトレーニングは負荷が抑えられる、前半後半通して多めに採り入れようか」
「ええ、異論ありません♪」
「……あと、毎日の体調チェック結果は主治医さんにも共有するようにしようか、それだけすれば、安心して貰えるだろうし……」
「それも、異論ありません♪」
「…………」
ほわほわと、なんだか夢見心地の子供みたいな笑顔を浮かべながら、僕の言葉をうんうんと耳に入れるアルダン。夏に揺らめく小さな木陰の中みたいな、不思議な安心感を僕の胸に届けてくれるその笑顔……に、持っていかれそうになる気持ちをぐっと堪えて、僕は口を開く。
「ええと、アルダン?」
「はい?なんでしょう?」
「さっきからなんでもかんでも異論なし、って言ってるけど……それでほんとに大丈夫?」
「あら?何か問題があるのですか?」
「い、いや、アルダンがいいならいいんだけど……」
僕のやんわりとした指摘を、これまたふんわりと包み返すアルダン。なんとも浮ついたやり取りで……次の一言を決めあぐねている間に、彼女の方が先に言葉を繋いだ。
「私は……なんでもやりたいのです。私の為になることでも、ならない事でも、今はとにかく、なんでもやってみたい」
「なんでも?」
「ふふ、自暴自棄になっている訳ではありませんよ?ただ……トレーナーさんが連れて行ってくれる夏合宿のこと。想像すると、とても楽しくなってくるんです♪」
「……想像、かあ」
青い海に、白い砂浜。きっと少し前までの彼女であれば、そんな事を想像するのも難しかったのだろう。けれども、今の彼女ならば。
「想像、してしまうのです。最近はいつも……夜、寝る前にも、朝、起きた後にも、授業中にだって考えてしまいます。貴方と行く夏合宿のこと、陽射しの暑さも、海の香りも、砂浜の感触も……夏を超えて一回り強くなった、自分の身体のことも……どうしても、想像が止められない」
「……アルダン」
じんわりと、胸が熱くなった。涙さえ溢れそうだった。もしもあの日……日本ダービーの日。僕ら二人で脚を止めていたのなら、絶対に聞くことが出来なかった言葉が、今、確かに僕の鼓膜を揺らしている、その事実に。
「……だけど、それなら尚更。僕任せにしちゃうのはよろしくないんじゃない?君には君の想像していること……やりたいことが、あるはずだ」
「だからこそ、です。ふふ、言いましたよね?胸やけする程、欲張ればいいのだ、と……」
「う、うん?確かに言ったけれども……?」
「私は欲張りです、どうしようもなく欲張りなんです。だから、もっと、自分の想像する『以上』のものが欲しいのです。自分が想像もしていなかったような成長が欲しい……だから、トレーナーさんにお任せするのです、トレーナーさんはいつも、私の想像の斜め上を行ってくれますから♪」
「はは……とんでもない無茶ぶりするなぁ……」
くすくすと笑みを浮かべる彼女に、これまたぎこちない引き笑いを返して……そうしてまた、僕も言葉を繋ぐ。
「……それでも、やっぱり僕は、君の意見も聞きたいなあ。君の期待に応える自信が無い、って訳じゃないんだけれども」
「あら?それならばどうして?」
「僕だって見てみたいんだよ、想像もしていなかった未来、ってやつをさ。そしてきっと君なら……僕の想像を遥かに超えた走りを、ダービーで見せてくれた君なら、きっとそれも叶えてくれるだろうから、ね?」
「……ふふ、これは確かに、とんでもない無茶ぶり、ですね?」
きっと、おそらく、彼女の未来は僕が変えてしまったのだろう。僕さえ居なければ、きっと彼女の未来はもっと調和の取れた、穏やかで静かなものだったはずだ。
けれどもそれは彼女だって同じこと、彼女が居なければ、きっと僕の未来だって全く別の形になっていた。のであれば。
どうせもう取り返しなんてつかないのだから、ならばもっともっと面白い、想像も出来ないような未来を目指してみたい。そう思ってしまってもきっと、バチは当たらないはずだ。
「だから、ほら、まずはそもそも夏合宿に行けるように……アルダンも一緒に考えて欲しいな?正直僕だけじゃ、主治医さんを出し抜ける気がしないから、さ……」
「ふふ、そうですね?けれども……」
「アルダン?」
軽く咳払いしてから、襟元を正して、アルダンは僕の方に向き直った。なんだか妙な程の神妙な面持ちに、僕も思わず背筋を伸ばす。
「私の意見も、聞いてくださるのなら……それならば、お聞きしたいことがあります。夏合宿のトレーニングプランと同じくらい……いえ、もしかしたらそれよりも重要な事……なのかもしれませんので」
「う、うん、大丈夫。君の話だったら、なんだって聞くよ」
「ありがとう、ございます。であれば、こちらをご覧いただきたいのですが……」
「……こ、これは!?」
おもむろに携帯を取り出し、その画面をこちらに見せてくるアルダン。軽く唾を飲み込んで、一呼吸置いて、それから、僕もその画面に目を向けた……そこに映っていたのは。
「……せっかく海に行くのですから、水着、新調しようと思っていまして♪どうです?どれが似合うとおもいますか?」
「えっ」
……そこに映っていたのは、なんともカラフルで見目麗しい水着のカタログであった。先程までの空気とは打って変わって、さんさんとした太陽のような笑顔で、彼女は饒舌に言葉を紡いでいく。
「そうですねえ、あ、これなんてどうでしょうか?このタイプが今年のトレンドなのだと、シチーさんから聞いたのです♪」
「え、えっ!?えと、これはその……ちょっと大胆すぎる気が……」
「あら?そうですか?それではこちらはどうでしょう?パレオも着いていて、とても可愛いと思いませんか?」
「い、いやでもこれは、上の方が……その……」
「…………」
画像をスワイプして、スワイプして、スワイプして……次々と表示されていく華やかな水着達。普段であれば、冷静に評価できそうなものだが……けれども、それは、その、他でもない、アルダンが着るのだと、そう思うと、なんというか、なんとも、その……
「……トレーナーさん?なんだかお顔が真っ赤ですよ?大丈夫、ですか?」
「あ、いや、これは、その……」
「……もしかして、『想像』しちゃいました?」
「……!?」
開けた窓から、風が吹き込んできた。ますます熱を帯びた、まるで爆風みたいな、そんな風が。
「……ふふ、それではこの話は無しですね?夏合宿まではせいぜい『想像』しておいてください。ちゃんと、ご期待通りそれを超えてみせますから……ね?」
「は、はは、それは……お手柔らかに、ね?」