メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』   作:いずさわ

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君に伝えたい、たった、ひとつのこと。




2024/6
メロウ


硝子窓に突き当たり、乱反射した真っ白な陽の光が照らす部屋。まだニスの匂いが残る真新しい机に肘を置きながら、ふと、頭に浮かんだ単語が口から漏れ出してしまう。

 

「メジロアルダン、か」

 

机の端に置いておいた、つやつやとした触り心地の用紙一枚。今日の朝から何度も繰り返し確認したその薄紙を、もう一度だけ手に取ってじっくりと見渡す。

『専属契約締結書』と、なんとも業務的なゴシック体で冠されたその用紙には、何度見たって誤字も脱字も、記入漏れも存在しなかった。ただ一箇所を覗いて、は。

 

「さて、どうしたもんかなぁ……」

 

『メジロアルダン』

彼女との出会いは、まるでドラマティックさの欠片も無いありふれたものであった。

ありふれた心配事から来る、いつも通りの胃の痛み。ルーティンのように駆け込んだ病院で、唯一見慣れない、どこまでも澄み渡り広がる美しい髪に、一方的に目を奪われた。ただ、それだけ。

煌めく映画のような出逢いでも、メロウなドラマのような始まりでもない。袖振り合った程度の、細い細い糸クズのような、縁。

それが、いつの間にやらねじれ絡み合い、織り重なってA4サイズになり、今、僕の手元に収まっている。誰も予想出来ないであろう、なんとも奇妙な話だ。

と、言うわけで、あとは彼女にこの書類へ署名してもらい、理事長に提出すれば、僕は彼女の専属トレーナーとなる。今日はそのために、初ミーティングと称して彼女と会う約束をしているのだ。

養成学校を卒業し、足掛け三年。ようやく僕も、晴れてチーフトレーナーの肩書きを得ることとなる。随分長かったような、あっという間だったような、妙な気分に鼻がむず痒くなる。が、しかし……

 

「これから、一緒に頑張ろうな!……ちょっと熱血過ぎるかな?君を、最強にしてみせる……なんか、ナルシストっぽいな……」

 

これから始まるメジロアルダンの歴史、その第一歩目となる、今日という日。ここらで一発景気づけに、彼女のモチベーションに繋がるような言葉を送ってあげようと、僕は自らの脳内をひたすらかき回す。

が……なにぶん、初めてのことである。まるで彼女に似合うような台詞が見つからない。果てしなく教養深く、圧倒的な程豊かな語彙を持つ彼女である。半端な言葉では、彼女の心に響かせることは出来ないだろうと、ひたすらに頭を振り絞るのだが……

 

「君を、君、が、努力して……うーん……」

 

考えれば考える程、無闇な脱力感が身体を襲う。元来、他人とのコミュニケーションはあまり得意な方ではないが、専属トレーナーともなれば、そんなことも言ってなどいられない。こんな事もあろうかと、然るべき準備はしてきたつもりである。が、いざ実際にその瞬間を目前に控えると、やはり不安はどうしても拭えないもので……

 

「くぅ……っ、お、お腹痛くなってきた……」

 

すかさず、先日処方された薬を二錠、自販機で買ったぬるめの水で流し込む。市内一の大病院から貰った処方箋。その効果はやはり伊達ではなく、うずくまる程の胃痛がものの数刻でさっぱりと収まった。しかし、当然ながら薬を飲んだとて、不安そのものが消滅する訳もなく。気を紛らわすため僕はもう一度だけ、手元の書類に目を通す。

 

「こんなとこ、アルダンに見られたら、どう思われるんだろうな」

 

できるだけ丁寧に、一画ずつ時間をかけてしたため、判を押した僕の名前。その下に未だ存在する空白が、嫌によく目立つ。

『メジロアルダン』の名を刻むため、残されたたった一行の余白。しかし、彼女がこの場所に署名をしてくれるのか、判を押してくれるのか、どうか。その決断の過程には、僕自身は一歩たりとも踏み込めない。そんな事実に、すっきりしたお腹模様とは裏腹に、どんどんと心の重しだけが積み上がっていく。

そもそも、ただ一方的に声をかけただけの、なんの関わりも無かった僕の誘い。彼女が乗ってくれた理由が、未だに分からなかった。分からないからこそ、不安になる。理由が分からないというのは、すなわち彼女を繋ぎ止める方法も分からないということだ。もしかすると、今日にでも……

 

「あれ?そういえばハンコいるって、ちゃんと伝えたよね?僕」

 

刹那、胸元にチクリと引っかかる感覚。いや、大丈夫なはずだ。ちゃんと伝えた時の彼女の反応も覚えている。けれども。

いつ、どこで伝えたか。というのがすっぽりと記憶から抜け落ちている。確かに彼女の表情、瞳や口元の形まで覚えているのだが、もしやあれは夢の中の出来事だったのではないか、なんて……

ちらりと、僕の手首に結ばれた真新しい腕時計、その真っ白な文字板を覗き込む。約束の時間まで、あと十五分ほど。恐らく大丈夫だと思うが、もしも伝えていなかったら……わざわざ寮まで取りに行ってもらうのはなんとも忍びない。ここは早めに連絡を取って、確認をしておかなければ……

 

「あっ⁉」

 

携帯を取り出し、そして気づく。僕の手に収まる画面の中、電話帳にも、メッセージアプリにも、未だ彼女の名前が刻まれていなかったことに。

 

「連絡先ぃ……聞くの、忘れてたぁ……」

 

既に何度も顔を合わせ、共に外出もして、口約束とはいえスカウトを受けてもらった間柄。にもかかわらず、である。何度だってタイミングはあったと言うのに……

どうする?今からでも直接彼女を探しに行くか?しかし、もし入れ違いにでもなってしまえば余計彼女を待たせてしまうことになる。最早、今僕にできることは過去の自分を信じ、座して待つ事だけ……一番信用出来ないな、それは。

そういえば忘れかけていたが、彼女に伝える言葉もまだ決まっていないのであった。どうする、どうする。

頭の中に、白く濁った霧が立ち込めていく。これから始まるメジロアルダンの歴史、その第一歩目。だと言うのに、その一歩すら踏み込む事が出来ない、濃く、深い霧が。

 

「ええと、えっと、君、が、僕が。頑張って、負けないで……違う、違う。そんなこと言いたいんじゃなくって、僕は……」

 

なんだか、視界すらうすぼんやりと揺らいできた。落ち着いていた胃の痛みも、じわじわと、胸の内から溢れ出してくる。本当に、こんな僕の事を彼女が見たらどう思うのだろうか、こんなにも情けない僕が、彼女に『トレーナー』と呼ばれる資格など……

 

 

「トレーナー、さん?」

 

 

反射的に、何かに縋るように。僕は慌てて立ち上がる。白くこびりついていた霧を一斉に晴らすような、果てしなく広がる、青が、そこにはあった。

 

「アルダン……」

 

「ふふ、申し訳ございません。ノックをしても返事がありませんでしたので、勝手にお邪魔させていただきました♪」

「…………」

「ふふふ、お昼寝中、でしたかね?」

 

乱反射した光が、彼女の淡くピンク色に染まった頬を照らして、まるで太陽みたいな輝きを見せる。煌めいた万華鏡のような、その薄紫の瞳が真っ直ぐに僕の姿を捉えて、たまらず僕は、目を逸らしてしまう。

 

「あ、あの、えっと、アルダン?」

「はい?」

「その、今日は……えっと、なんだ、僕は、君は……えっと、えっと……」

 

ばたばたと、目線をあちらこちらに泳がせながら、僕はまっさらな頭のまま口元だけをぱくぱくと動かす。この後に及んで、言葉のひとつも紡ぎ出すことが出来ない僕の事を、相も変わらず彼女は、晴れやかな笑顔で見守ってくれていた。

 

「大丈夫、です。分かってますよ。トレーナーさんの、言いたいこと」

「……!」

「判子、ですよね?ふふ、心配しなくっても、言われた通り、持ってきてますよ♪」

 

屈託のない、余りにも眩しい笑顔で。愛らしい小さなハンコ入れを僕に見せてくれた、メジロアルダン。

 

それだけで、ただ、それだけの事で。

 

きっと僕は、僕達は、いつまでもどこまでも共に進んで行けると。そう、思えた。

 

 

 

 

「好きだ」

 

 

 

 

「へっ?」

「君の走る姿は、この世の中のどんなものよりも、美しいと思った。たった一度、たった一度見たきりだけど、今まで見てきたものの中で、一番好きだと、そう、思ったんだ」

「トレーナー、さん」

「だから、僕は、いつだって君の一番近くで、もっと、もっと輝く君が見たいと、そう、思う。だから」

 

「メジロアルダン。僕を、君のトレーナーにさせて欲しい」

 

気づけば、言葉が溢れ出していた。結局のところ、ありきたりでありふれた語彙。彼女のモチベーションにも、なんの足しにもならないような自分勝手な戯言である。けれども、ああ、そうだ、これだ。僕が一番、彼女に伝えたかったことは。

 

「トレーナーさん、は」

「うん……」

 

数刻の間を置いて、彼女の口が開く。彼女のひたすら真っ直ぐな視線を、今度は取りこぼさないように、網膜の奥の奥まで焼き付けようと、僕は目を見開いた。硬直していた彼女の表情が、じわりじわりと解きほぐされていき、そして……

 

「トレーナーさんは、その、ものすごく変わった人だと、周りの方々からよく言われたりしませんか?」

「えっ?なんで知ってるの?」

 

……最終的に僕に向けられたのは、ひたすら困惑と混乱が入り交じった、なんとも言えない絶妙な表情であった。

 

「その、えっと?まず尋ねたいのですが、なぜ今、このタイミングで改めてスカウトを……スカウト?スカウト、なのでしょうか?今のは?」

「えっと?た、多分スカウト、なのかな?スカウト、で、いいと思うよ!」

「えっと、そ、その……今のはスカウトというより、どちらかと言うと、告は……」

「えっ⁉あ!えっと!そ、そんなつもりじゃなくて!その、僕は純粋に思ってることを口にしただけであって、そんな、やましい気持ちなんて……」

「………………」

「あ、アルダン?アルダン、さーん?」

「っふ、ふふっ、ふふふっ……!」

 

突然、顔を引き攣らせながら笑いを堪えるアルダンに、ただただ、立ち尽くすしかない僕……全く、おかしなことを言った覚えは無い、のだけれど……

 

「ふふ……変な人」

「えっ⁉へ、変⁉」

「初めて聞きましたよ?こんなスカウトの言葉。相手を褒めるわけでもなく、自分の長所を語る訳でもなく、ただ、ただ、好き……だなんて、ふふっ、随分と情熱的、なのですね?」

「あ、えっと、それは、その、確かに、僕も初めて聞いた、かも……」

 

彼女のあんまりにも当然な指摘に、顔中が真っ赤に火照っていくのが、自分でもわかってしまう。果たして一体、何を言っちゃってるんだ僕は……穴があったら、今すぐ埋葬されたい気分である。

 

「っ、ふふふっ、もう……おふざけはそのくらいにして、早く用事を済ませてしまいましょう?」

「え?えと、用事?」

「『専属契約締結書』、書くのですよね?その為に呼び出したのではないのですか?」

「そうだった……ごめん、色々と考え込んでて、忘れてた……」

「もう……しっかりして下さいね?トレーナーさん?」

 

呆れ顔でソファーに腰掛ける彼女の目の前に、確認のし過ぎで少し皺が出来てしまった書類と、僕の持っている中で一番綺麗なボールペンを差し出す。彼女は暫し俯いて、僕の、精一杯丁寧に書き込んだ文字に目を通す。

 

「少し、懐かしいですね。トレセン学園に入学した頃は、毎日毎日、それこそひっきりなしに、沢山の人からスカウトを受けていたものです」

「あ、えっと、そ、そうなの?」

「ええ、重賞をいくつも制覇したベテランのトレーナーさんだったり、若くして数十人単位のチームを束ねるトレーナーさんだったり、本当に、色々な人がいました」

「そう……なんだ」

 

僅かに詰まる声を、振り絞って応える。名門、メジロ家のウマ娘。それもかのメジロラモーヌの妹。ともなれば、それもまた当然の話、なのだろう。

 

「入学して、少しあと。一度目の入院をした後は、そんな人たちも半分に減りました。二度目の入院をすると、更に半分。三度目の入院をする頃には、ふふ、もう誰も残っては、いませんでしたね?」

「どうして……笑ってるの?」

 

彼女があまりにも朗らかに、すんなりと話してくれたその内容は、僕にとってはとても許し難いことであった。けれども、それでも、柔らかな笑みを崩さぬまま、彼女は言葉を紡ぎ出す。

 

「今となっては、昔の話だから、です♪」

「あ……」

 

残された空白に、彼女の、『メジロアルダン』の名が刻まれていく。鮮やかな朱色のインクを脇に添えてから、彼女は丁寧に、それを僕に差し出した。

 

 

「とっても素敵なスカウトでしたよ?『私の』トレーナーさん?」

 

 

『メジロアルダン』

まずはひとつ。この広い広い世界に刻み込まれた、その雄大で美しい名前を、僕はどれだけ沢山の人の瞳に焼き付けることができるのだろう。

いつか、語ってくれた君の夢。短くとも。儚くとも。ほんのかすかな光跡であろうとも。生きた軌跡を、『今』にひと筋、残したい。

一体、どれだけの人の心に残れば、君の夢は叶うのだろうか。今の僕には、まるで分からない。だけど、わかるようになるまで、きっと僕は君の事を諦めたりしないだろう。君が諦めない限り、君が何度でも立ち上がる限り。きっと僕も、何度でも立ち上がる。立ち上がれる。理由はないけど、確信はある。今度はその事を、彼女に伝えたくなってしまったが……

 

「ふふ、トレーナー、さん?」

「うん、うん、ありがとう。これから、よろしくね?アルダン」

「ええ、よろしくお願いします、トレーナーさん♪」

「よろしくついでに、その……今更だけど連絡先、交換してくれる、かな?」

「あら?ふふふ……確かにすっかり忘れていましたね?」

 

……今日のところは、やめておこう。代わりにもうひとつ、僕の携帯に、彼女の名前を刻み込むことにした。

 

「あれ?どうするのこれ?これ、カメラで写せばいいの?」

「振るんですよ?こう、こうです」

「えっ、振るの?あ、ほんとだ、なんかきた」

「ふふ、寂しい時はいつでも連絡していいですよ?」

「こらこら、大人をからかわないの」

「ふふふ♪」

 

硝子窓に突き当たり、乱反射したカラフルな陽の光が照らす部屋。まだニスの匂いが残る真新しい机にもたれかかりながら、ふと、頭に浮かんだ単語が口から盛れ出してしまう。

 

「メジロアルダン、か」

「はい?なんでしょう?」

「いいや……なんでもないよ。さてと、それじゃあこれ、理事長に出しに行こうかな……ちょっと、緊張するけど……」

「あら、それなら私も、着いていきましょうか?」

「え?わざわざそんな、いいの?」

「ええ、どこまででも、お供致しますよ?」

 

願わくは、いつか来る終わりの日まで。この名前だけは、絶対に忘れないでいたい。彼女の、どこまでも優しいまっさらな微笑みを見て、そう、思った。

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