メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
Stand By You
「あ、いた」
「ふふ、お待たせしました」
自動ドアをくぐって、ふわりと柔らかな香りが漂ってくる。先日のレースの後すぐに骨折が判明してしまったアルダンは、しばらくの間入院し、治療に専念していた。そうしてかれこれ時間は経って、ようやく晴れて、退院の日を迎えたのであった。
「あれ、荷物は?」
「ああ、それなら、宅急便で既に寮まで送っていますので、ご心配なく」
「なんだ、それなら良かった、けど……」
「そこに停まっているのは……もしかして、トレーナーさんの車ですか?」
「もちろん、レンタカーだよ?」
「ふふっ、まあ、そうでしょうね?」
「独り身でこんなおっきい車買わないよ……結構荷物多いかなって思って、大きめの借りてきたんだけど、まあ杞憂だったかな?」
「いえいえ、いいと思いますよ?大きな車は気分が上がりますので♪」
「多分ね、アルダンの家の車の方が倍ぐらい大きいと思うな」
「まあまあ、細かい事はいいじゃないですか?」
彼女と、普段と変わらない軽い会話を交わしあう。入院中だってほとんど毎日顔を合わせていたのだからそう新鮮味は無いのだが、しかしまあ、外の空気を思い切り吸いながらこうして語らい合うのは、やはり格別なものであった。
「大きいんだか小さいんだか…まあ、いいや、ほらほら、早速乗りな乗りな?」
「…………」
「…………?」
当然、当たり前のように、僕は後部座席のドアを開けて、彼女を手招きする……の、だが。
「……え?な、何?どしたの?行かないの?アルダン?」
「トレーナーさん?」
「は、はい」
「もしや……乗せるつもりですか?私を?そちらへ?」
「えっ?あ、えっ?ご、ごめんなさい……?」
今ひとつ理解しないうちから、とりあえずまず謝ってしまう。悪い癖だというのは分かっているのだが、それにしたって僕は今、一体何ゆえ彼女に怒られているのだろうか……
「えーと、ほら、これ、借りてきたばっかりだから凄いいい匂いするよ?冷房もめちゃくちゃ効くし、ええと、それから……」
「…………」
「……えっ?何?どういうこと?あ、アルダン?アルダンさーん?」
「……ふふ、やはりトレーナーさんは、まだまだエスコートの作法がなっていませんね?」
「えっ、す、すいません」
それに関してはまあ、確かに心当たりしかないので素直に謝っておいた。そんなみるみる縮こまっていく僕を見て、ひとしきりくすくすと笑顔を見せた後。今度はアルダンの方から手招きして、目配せまでしながら僕を呼びつけた。
「いいですかトレーナーさん?大切な人を案内するのであれば、こちら……に、決まっていますよね?」
「え?え、そっち?」
小首を傾げながら、彼女が開いたのは……なんとも狭苦しい助手席側の扉であった。
「え、いやでも助手席って狭いよ?直射日光当たってちょっと暑いし……それに、その……」
「…………」
「ほ、ほんとに乗りたい?」
「……ふふっ」
「じ、じゃあ、まあ。アルダンがいいなら、いいけど……」
「ふふふ、ありがとうございます♪」
僕が喋り終わる前に、もう既にすっぽりと助手席のシートに愛らしく収まっているアルダン。何かしら足の方に負担がないか懸念していたが、それはとりあえず、問題なさそうだった。思わぬ事態に二、三度頭の後ろを掻きむしってから、渋々と僕も運転席に腰掛ける。
「……先に言っておくけど、僕、かなり運転苦手だからさ?その、助手席に乗ってたら相当ヒヤヒヤすると思うから、ほんと、耐えられなくなったらいつでも言ってくれていいからね?」
「あら?そうなのですか?トレーナーさんは真面目な方なので、運転もお上手だと思っていました」
「真面目……過ぎるって、教習所でよく言われたなあ……周囲を警戒し過ぎで、あまりにもガチガチだって……」
「ふふ、そちらの方でしたか。雑に運転するよりも何倍も良いですよ?」
不安に駆られる僕を優しくフォローしてくれる、いつも通りの優しいアルダン。運転席と助手席、思ったよりも狭苦しくって、いつも見なれているその笑顔がなんだかいつも以上に近くに感じる。少しだけ跳ねた心臓の音を気取られないよう、僕はそれとなく、自らの手首の腕時計に目線を逸らせた。
時刻は丁度午後3時を回った所。順調に行けば4時前には学園に着くだろうから、そこからアルダンの復学の手続きをして、荷運びの手伝いをして、それから……それから、今後の方針の話もしなければ、ならない、の、だが。
「それで、まずはどちらへ向かいましょうか?」
「え?どちらへって、何の話?」
「…………」
「えっ?何!?今度は何!?」
なんだか、今日のアルダンは言動が読めない。まあ、僕の察しが悪いのはいつもの事だが。それにしたってとりわけ今日は、彼女の作り出す独特のテンポ感に右往左往させられてしまっている。その理由は……まあ、心当たりが、ない訳では無いが。
「トレーナーさん?」
「は、はい」
「私が今日、何故わざわざばあやの送迎を断ってまで、トレーナーさん一人で迎えに来させたか……その理由、本当に分かっていないのですか?」
「……ああ、ああ、そういう事か。でも大丈夫?学校の方には今日退院って、もう伝えてるんじゃないの?」
「それはご心配なく。退院前の最後の検査があるので、かなり遅い時間になりそうだ……と、そう伝えていますので♪」
「ははは……とんだ不良娘だこと……」
苦笑いを浮かべながら、イグニッションキーを回し軽くエンジンを吹かせる。サイドブレーキを押し込み、未だ慣れないふわっとした感覚に表情を硬くしながら、それでもたっぷりの余裕を取り繕って、僕は彼女に声をかけた。
「寄り道でもしよっか、アルダン」
「ふふ、行き先なら任せてください?退屈しのぎに良いスポット、沢山調べましたから」
「そりゃ楽しみだ。けど、まずは腹ごしらえ、かな?」
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『お待たせしましたー、ドライブスルー注文お願いします』
「えーと、ブレンドのS、ブラックと、それとクロワッサンを一つ。アルダンは?」
「それでは、フォンダンショコラフラペチーノ」
「えー、フォンダンショコラフラペチーノ」
「の、Lサイズ」
「の、Lサイズお願いします」
「で、トッピングでホワイトチョコチップ」
「……あっ!その、トッピングでホワイトチョコ、チップ!」
「と、ブラウンキャラメルソースを」
「と!ぶら、ブラウン、キャラメル、ソース!」
「それと……プレミアムラズベリータルトを」
「プレミアム……ストロベリータルト!」
「ラズベリー、ラズベリーです」
「あ、ら、ラズベリータルト!」
ドライブスルーで食べ物を調達し、アルダンの指示で車を走らせる、午後3時54分。普段は混み合う国道も、平日の昼間ともなれば随分と運転しやすく、なんとか、アルダンにへっぴり腰なドライブテクニックを晒すこともなさそうで少し安心する。
「ううむ、欲張りすぎましたかね?少しばかり甘過ぎて、胸焼けがしてきました……」
「あらら、まあ今まで病院食ばっかりだったもんねえ」
「ええ、病院食は好きですが、どうしても飽きは来てしまいますので……ふふ、トレーナーさんの作る、味の濃い料理も恋しいです」
「お、いいよー?なんでも好きなもの作ったげる。何がいい?」
「ふふふ、どうしましょう……あ、そこを左折です」
「ん、おっけー」
世界と切り離された、二人だけの空間で。僕達は本当に、本当になんてことの無い会話を繰り広げていた。真剣さや真面目さなんてひとつもない、本当に、いつもの立場なんてすっかり忘れた、ただの友達、みたいな。
「………………」
「……トレーナーさん?どうされましたか?」
「ん、ああ、いや?なんというか、さ」
「はい」
「……いや、なんだろ?なんか言いたいことあった気がするけど、うん、忘れちゃった」
「ふふ、もう、しっかりして下さい?」
『幸せだ』などと言いかけて、すんでで口を噤む。『こんな時が続けばいいのに』なんて零れそうになって、心の中で、自らの頬を引っ叩く。そんな事を、他でもないこの僕が、望んで良いはずがないのだ、何故なら、僕は彼女の、
「あ、見えて来ましたよ?」
「え?あ、ほんとだ!凄い!」
のんびりと日が傾き始めた、午後4時36分。僕の目の前に見えてきたのは、海。どこまでも続く長い長い海岸線。初夏の陽気に当てられて、後先も考えずに浮かれ果てる若人のように。果てしなく、白く、白く輝いていた。
「へえ……こんな綺麗に海が見えるとこ、あったんだな……」
「私も、初めて見ました……本当に、綺麗……」
海開き前だからか、砂浜にはまるで人影は見当たらない。少しばかりこの光景を彼女に独り占めさせてあげたくて、広い広い海岸線に沿って、僕はしばらくゆっくりと車を走らせた。
「この道、どこまで続いてるのかな?」
「どうでしょう?せっかくですし、行けるところまで言ってみましょうか?」
「そうだねぇ、気になるよねぇ」
「ふふふ……ゆっくり、ゆっくり行きましょう、ね?」
ちらりと、左手側、彼女の方を見入る僕。窓の外をじっと見つめるその顔は見えなかったか、その長く美しい髪が青く広がる空と海に被って、まるで彼女自身が世界に溶けだしているような、そんな不思議な感覚を覚えてしまう。
「色々悩みましたが、ここにして良かったです。海、というのはやはりいいですね。なんでしょう、月並みな表現かもしれませんが、心が洗われる、というか」
「うん、分かるよ。なんだろうね、この感じ」
少し開けた窓から、鼻を貫く潮風の匂いが入り込んでくる。故郷を思い出すからか、もしくはもっと原初、遺伝子の記憶からなのか、なぜだか無性に懐かしい気持ちになって、僕は眉間に皺を寄せた。
「母なる海、命のスープ。なんてよく言われるけど。やっぱり何かこう、砂浜を挟んだこっち側と、向こう側じゃ文字通り『住む世界』が違うんだろうな。はっきり、きっぱりと、白線を引いて区分けされた世界。向こう側の存在はこっちじゃ生きられないし、逆もまた、そう」
「そうですね……私達が海を見て心癒されるのは、きっと私達と『全く関係の無い場所』だから、なのでしょう。こちら側の世界でどんな諍いが起きようと、あちら側には何の影響もない。あちら側の世界には、私自身が果たすべき義務も負うべき責任も存在しない」
「どこか……どこかそういう場所を求めているんだろうね、僕らは。時間も、しがらみも忘れられるような理想郷、それこそ、竜宮城みたいな場所をさ」
僕ら、なんて主語を大きくして誤魔化してはみたが、彼女には分かられているのかもしれないな、と、ぼんやり考える。僕が、僕自身が、誰よりも求めてしまっているのだ、負うべき責任、役割なんて存在せず、ただ、ただ理由なく日々を過ごすことの出来る、理想郷を。
「………………」
「………………」
そこから、しばらくは静寂の時間が流れた。会話はなく、しかし居心地が悪い訳では無い、エンジンの音だけが響く不思議な空間。そういえば、彼女に出会って、一緒に過ごしていく中で、ここまで落ち着いた時間を共にすることなどなかった気がする。出会ってから早1年余り。いつも何かしら、どちらかが問題を抱えていて……まあ、大抵は僕の方だが。それを解決する為、常に二人で奔走していた記憶ばかりが残っている。おかげで僕は、動物に触れるようになったし、少しだけ樫本理事長代理とも物怖じせず話ができるようになった。彼女のおかげで、少しずつだけどなりたい自分の姿というものに、近づけたような気がする。
『もう、充分なんじゃないか?』
自分の声が、自分の頭の中にこだました。もう、充分なのではないか。僕も、アルダンも、もう充分努力し尽くして、行ける所まで、限界まで到達出来たのではないか。最早これ以上時間を浪費し、彼女を傷つけてまで、無理やり先に進むことに一体何の意味があるのだろう。
幸い、彼女は勉学も優秀だ。このまま、何か新しい夢を見つけて、それを極める為に時間を費やし、たまの休みには今日みたいにどこかドライブにでも行って、トゥインクルシリーズは、いい青春の思い出だったなぁ、なんて昔話を肴に、新しい道へ羽ばたいていく。
そんな、理想郷みたいな未来が目に浮かんだ。目に浮かんだし、それはきっと絵空事などではない。彼女さえそう望めば、きっと辿り着ける場所に、ある。
「………………」
「………………」
午後5時22分。もう少しで夕陽が、水平線と触れ合ってしまいそうな頃合。僕は、話を切り出すタイミングを見計らっていた。果たして、こんな僕の気持ちを彼女が受け入れてくれるのだろうか。あれだけ、ターフに賭ける思いが強い彼女に、僕の意思は、思いは伝わるのだろうか。それでも僕は、僅かに息を吸って、肺に空気を溜める。彼女に貰った勇気を胸に、彼女と育んだ自信を拳に、僕は静かに、口を開いた。
「ア」
「トレーナー、さん」
午後5時23分。絞り出した僕の声は、アルダンの声にかき消された。そして。
「トレーナーさんは、言ってくださいましたよね?私の望みは、全部叶えてあげたい、と」
「……ああ、言った、間違いないよ」
「……ならば、このまま。トレセン学園もメジロ家も、トゥインクルシリーズも全て捨て去って。どこか、どこか遠くで生きて行きたいのだと。そう言えば……叶えて、くれますか?」
赤く瞬く夕陽と、黄色く照らされた海がひとつに重なった。僕と彼女の気持ちだって、ひとつなのだと、ようやく僕も理解する。
だから、僕は一瞬だって迷わずに、彼女に答えを出す。
「それは、出来ない」
「……トレーナー、さん」
「ごめんね、アルダン。僕はとんだ嘘つきだ。けど、ごめん。それは、その望みだけは、叶えられない」
「どうして、なのかは、聞いても……」
「僕は、アルダンにまだ、『向こう側』に行って欲しくない。僕と『全く関係のない』存在に、なって欲しくないんだ。」
僕は、安堵していた。ひたすら、深く、深く。
きっと、ここで『まだ諦めない』『まだ終わりたくない』と、僕に向けて高らかに宣誓する方が。その方がきっと『メジロアルダンらしい』のだろう。気高く、強く、美しい。それこそが、皆の思い描くメジロアルダンらしい振る舞いなのだろう。
でも、だけど。アルダンはそこから一歩踏み出してくれた。海の中暮らしていた魚たちの中から、足を生やし地上へと這い出る者が現れたように、この世に産み落とされた状態から、一歩、彼女は進化を遂げたのだ。
だとするならば、僕だって変わらなければならない。彼女を傷つけることに対して、他人事になっては、いけない。僕に向かって、一歩這い出てきてくれた彼女の存在を繋ぎとめる為、地上に彼女の居場所を作り続ける為。僕は僕自身の手で、まだ環境に適応しきれず、もがき苦しむ彼女を更に傷つけ、次の進化を促さなければならないのだ。
「……本当に、最高の走りだったよ、『日本ダービー』」
「……!!」
「本当に、本当に、今までで一番の走りだった、いいレース、だった」
ようやく、ようやく口に出すことが出来た。先日のレース……彼女が全てを賭けて出走し、最後の最後、サクラチヨノオーに差し返されて、2着で終わった、そのレースの名前を。
「やめて下さい……!」
「…………」
「いいレース、なんて、言わないで下さい……!負けたんです、私は、負けました……誰の目にも映ることなく、誰の記憶にも残ることなく。ただ、ただ、負けた」
「誰の記憶にも残らない、なんてことは無い。アルダンの事、見てくれている人は必ずいるよ」
「それは、綺麗事です、綺麗事、なんですよ。力無き者に人々は目を向けません、歴史だって……」
アルダンの掌に、大粒の涙が零れ落ちていく。どうしようもなく揺れる心をなんとか繋ぎ止めて、僕はひたすら、彼女の声に耳を傾ける。
「……トレーナーさんの、せいです。トレーナーさんのせいなんですよっ……」
「……うん」
「最後っ、直線で、チヨノオーさんに並ばれた時っ、なんとしてでも抜け出してやるって、例え、この足が砕けても、やってやるっ、て、そう思って、足に力を、込めたんですっ、全身全霊の、私の持てる、全ての力をっ……」
「……うん」
「……その時、思い浮かんてしまったんです。トレーナーさんの顔。トレーナーさんが、私の身体のために、何度も何度も悩んで、苦しんで、細かくトレーニングメニューを組んでくれた姿を。本当に少しの怪我でも大袈裟に驚いて心配してくれた姿を。思い出して……思い出して、そしたら、せっかく込めた足の力が、どんどん抜けていって……」
「……うん」
「本当に……トレーナーさんのせいなんです、ダービー、トレーナーさんのせいで勝てなかったんですよ……!責任、取ってください、取って、くださいよぉ……!」
「分かってる、分かってるよ、アルダン。本当に……ごめん」
「……!!」
そうだ、それでいい。
レースの勝ち負け、その原因なんて、単純な物差しで測れるものではない。常に複合的な原因が存在していて、結果的にゴール板を先に踏み抜いた者が勝者となる。そこにたらればは無く、勝者、敗者はいても、善人、悪人などいない。今回、彼女がダービーを勝てなかったことだって、彼女自身が悪い訳では無いし、言うまでもなくサクラチヨノオーが悪い訳でもない。
が、そう簡単に割り切れる程、彼女だってまだまだ大人では無いのだ。だとするならば。誰かを恨まなければ先に進めないというのならば、それは全て僕が請け負っていきたいと思う。
「恨んでくれ、憎んでくれ、僕を。僕という不出来なトレーナーを。そうして、それ以外の全てを、自分自身をも、許してやって欲しい。そうやって、これからも前に進み続けて欲しいんだ。やっぱり僕は、君に向こう側になんて行って欲しくない。未完成の足ででも、一歩ずつ、一歩ずつ。大地に向かって、歩き続けて欲しい」
「……やめて、やめてください!どうして、どうして、そんなに優しいんですか……!その優しさが、いけないんです。嫌いです。トレーナーさんなんて、大嫌い……!」
「うん、分かってる」
「貴方さえいなければ……貴方さえいなければ、辿り着けたんです、私の、理想に……!終わらせて欲しかった、何もかも……これから先もまた、辛い思いも、痛い思いもしなきゃいけないなんて、嫌です。嫌、嫌なんです……」
うずくまって、震えた声で泣き叫ぶアルダン。その向こう側から、赤と黄色が混ざりあった、鮮烈で暴力的なオレンジ色の夕陽が僕の瞳を焦げ付かせる。けれども、それでも、今度こそ。彼女に貰った勇気を胸に、彼女と育んだ自信を拳に、僕は静かに、口を開いた。
「だけど、僕は止めたくない。止めたくなんて、ないんだ」
「……どうして」
「君をもっと、輝かせたいから。君をもっと、もっと、どのウマ娘よりも、一番輝かせたい。メジロアルダンというウマ娘は他のどんな娘よりも、一番、一番美しいんだと、他に誰も言っていなくても、僕だけは、この世界全てに向かって叫び続けたいと、そう思うから」
「……!」
「その為に、僕は君を傷つけてしまうかもしれない。君の意志をねじ曲げてしまうかもしれない。全部僕の罪だ、全部全部、僕のせいにして貰っていい。今じゃない、遠い未来。本当に何もかも終わった後で、僕はどんな罰でも受け入れるから。だから」
視界がとめどなく、ぐちゃぐちゃに歪んでいくのが止められなくて、慌てて僕は道の端っこに車を停める。そうして、改めて左の方、うずくまる彼女の姿を余すことなく瞳に収めた。
「……嫌だ、嫌です……なんていくら言っても、貴方は絶対に諦めないのでしょうね。そして、きっと私も」
小さく、小さく呟いた後、彼女は顔を上げる。目を腫らして、口元に皺を寄せた、他に言いようのない程、美しい姿だった。
「私は、やはり弱いウマ娘です。どんな理由であれ、全力を出し切るべき場面で全力を出し切れなかった。本当に弱くて、未熟で、あらゆる物が欠落している、そんな、ウマ娘」
「……アルダン」
「本当に、よろしいのですか?そんなウマ娘と、そんな約束をしてしまって」
「うん、もちろん」
「またすぐに、何もかも嫌になるかもしれないですよ?またわがままを言って、トレーナーさんのこと振り回したり、欲張って色々なことをさせてしまったり、するかも、しれませんよ?」
「いいよ、また、もっと、胸焼けする程、欲張ればいい」
「……聞きました、確かに。聞きましたからね?今度は、嘘つきはなし、ですから、ね?」
「うん、約束だ」
もしかしたら、本当は。こんなアルダンは本来のアルダンではないのかもしれない。こんなトレーナーと出会ってしまったばっかりに。もう既に取り返しのつかない所まで歪んでしまって、人からすればとても見ていられない程、いびつに見えるのかもしれない。
だけど、それでも、僕からすれば。今の彼女が、今の彼女こそが一番輝いて見える。僕の人生と交わって変わっていった、今の姿こそが、最高のメジロアルダンであると、そう、胸を張って言い切ることができるのだ。
「……今日さ、久々に運転してみて、やっぱり苦手だなって思った。僕にはやっぱり向いてないなって、そう思ったよ」
「それは……まあ、確かに少し怖かったですね……」
「でも、うん。これから本格的に練習するよ。そんでさ、ちっちゃいやつでもいいから、車、買おうと思う。君の思う気ままに、いつでもどこへでも、『寄り道』できるように、ね?」
「それは、ふふふ、とても良い提案ですね?」
「うん……だから、今日の寄り道はこれでおしまい。帰ろう?トレセン学園に」
「……ええ、そうですね?道案内なら任せて下さい?」
「うん、信頼してるからね?アルダン?」
「私も……ハンドルは、任せましたよ?まずは……あ、丁度そこを右折です♪」
「うっ……いきなりかぁ……苦手なんだよなぁ、右折」
「ふふ、日々精進、ですね?」
サイドブレーキを押し込み、やっぱり慣れない感覚に胸をざわめかせる。不安を押し殺し、ちらりと左方向を確認すると、すっかり泣き止んだ彼女の姿が、消えかけの夕陽を背にした彼女の姿がはっきりと見えた。そうして、少しだけまた勇気を貰ってから、僕はアクセルを踏み込んだ。
午後6時31分。消えていく光と大海原を背にして。僕らはまた走り出す。目の前には、もう間近に迫った深い深い夜の闇と、それに飲まれないように連なる街明かりが、やたらと輝いていた。