メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
「あ、今日はキキョウなんだ」
「ええ、お花屋さんでお勧めされまして、綺麗でしょう?」
「うん、とっても」
トレーナー室の窓から差し込む、初夏の太陽に照らされて。てらてらと青白く輝く硝子の花瓶。そこに一輪、淡く切ない雰囲気を纏った薄紫の花が生けられる。なんだか、出逢ったばかりの頃の、どこかの誰かによく似ていて、僕は思わず手を差し伸べた。
花瓶に刻まれた無機質な渡り鳥の装飾の、ひんやりとした手触りが僕の手にも伝わってくる。生命を感じさせない、薄暗い感覚であったが、連日連夜蒸し暑くなってきた今日この頃には、丁度良い冷たさに思えた。
「あれ、この花がキキョウだってこと、なんで分かったんだろう、僕」
「あら、どうしてでしょうね?どこかでお勉強でもされたのですか?」
「いや、そんなことはないんだけれど。うーん?」
なんとも歯切れの悪い言葉を並べる僕。その苦虫を噛み潰したような顔を斜め下から覗き込んでくる彼女……メジロアルダン。
例年よりも早くやってきた夏日のおかげで、既にわずかばかり日に焼けた健康的な顔。それを僕に向け、至近距離で堪らない微笑みを浴びせてくる。計算ずくなんだかなんなんだか、僕には知る由もないが、とにかく。急上昇した体温で花が傷んでしまわないように、僕は花瓶から手を離すのだった。
「あ、あれではないですか?先日ご一緒した植物園、あの場所で見たものを、無意識に覚えていたとか」
「そう、なのかな。まあ、他に心当たりが無いし、きっとそうなんだろう」
「キキョウ、綺麗ですからね?他の花々よりも強く印象に残っていても、不思議ではないかと」
「確かに、おかしくは無いね?……本当に、綺麗だ」
花瓶に添えられた一輪の花。と、共に。
それを見つめる、瞬く宇宙を内包したような彼女の瞳を見つめながら、つい、そんな事を口走ってしまう。こんな風にしか伝えることのできない僕は、やっぱり卑怯者でしかないのだろうが。しかし。
煌めく硝子と水面の反射が、メジロアルダンの肌を青水色のグラデーションに染め上げていく。さながら人魚姫の鱗模様のようで、あまりの美しさに溺れてしまいそうだ。そして、その美しさが泡となって消えてしまわぬよう、守り抜くことこそが自分の使命なのだと、そう強く思う。たとえ、自らの心に重い錠前を括り付けることになったとしても、だ。
「……でも、少し妬けてしまいますね?」
「ん?どういうこと?」
「トレーナーさんの心に、それだけ堂々と居座ることが出来るなんて、ふふ、とても羨ましいと、そう、思います」
「……それならさ、安心して欲しいな?君と出逢ってから、今の今まで、僕の脳内の特等席は、ずっと君だけの居場所だ」
「───────」
キュッと下唇を噛み締めながら、ふわふわと前髪のまとまりを気にするアルダン。その照り返す青空のような髪の束を見つめながら、ふと、考える。
キキョウというのは、日本ではありふれた花だ。丁度夏場になれば、大抵どこの花屋にでも売っているし、ガーデニングにも向いているらしく、結構あちこちの家で育てられているそうだ。僕だって、人生で花屋に立ち寄った経験は一度や二度では無いし、幼少期は都市部からやや離れた土地に住んでいたこともあり、人よりも緑に触れる機会は多かった筈だ。
しかし、少なくとも認識している限りだと。僕がキキョウのことを、他の花々と明確に区別し特別な気持ちを抱いて見たのは、間違いなく今日が初めてのことであった。こんなにも美しく愛らしい姿、間違いなく以前にもこの瞳に映した事はあったはずなのに、何故だか今になって急に、その姿を特別に、愛おしく思う気持ちが芽生えてしまう。これは、一体何なのだろう。
そして……それはきっと、今、僕の隣にしゃんと佇む彼女に対しても言える事だ。
彼女のことを初めて認識したのは、丁度数年前の初夏、たまたま駆け込んだ病院でのこと。その凛とした佇まいと、何処までも広がる青空のような美しい髪に、心奪われた。
しかし、思い返してみれば。僕がトレセン学園のトレーナーとして本採用された頃、来たるべき選抜レースに備え、当時在学していたウマ娘達の基礎情報を片っ端から、一人残らず頭に叩き込んでいた時期があった。休学中のウマ娘だろうと、例外なく全員、だ。
その時点で既に彼女は在学していた訳だから、間違いなく彼女の顔と名前は一度はこの頭に入っていたはずだし、それに、いくら広い学園だからといって、生活するスペースやトレーニングする施設はある程度固まっているわけだから、そういうところで一度や二度すれ違っていたとしてもおかしくはない。
だとするならば、何故、どんな理由があって僕らは巡り会ったのだろう。何故、どうして、僕は彼女のことを……
「あ、あの、トレーナーさん?」
「んぇ?」
「その、そんなに長く見つめられると、えっと、とても、照れて、しまいますので……」
「え?あ、ご、ごめん!」
気付けば、彼女の頬がよりますます健康的な色合いへと染まってしまっていた。慌てて目を逸らし、大きく鼻から息を吸って、発熱した脳を冷ましていく。
「あ、アルダンはさ?他に、どんな花が好きなの?」
「そうですねぇ、やはり薔薇、でしょうか?しかし、八重桜も捨て難いですね?桃の花も素敵ですし……ふふ、ひとつに絞るのは、難しそうですね?」
「ふふふっ、いっぱいあるね?」
「ええ、なんと言っても、私は欲張りなので♪」
「その花達ってさ?どうして、何があって好きになった、とか、あるの?」
「えっ?そうですねぇ……何か、理由……」
彼女は、僕の質問をなんとも意外そうな顔で受け止め、そうして暫し、顎に手を置いて考え始めた。その様がまるで、中世ルネサンス期に描かれた絵画の如き優雅さを携えており、またも見蕩れてしまいそうになる……が、これ以上彼女を困らせる訳にはいかないと、何とか踏みとどまった。
そして。
「……しばらく考えましたが、特に無いですね?」
「えっ」
帰ってきたのは、なんとも拍子抜けしてしまうような回答であった。
「まあ、厳密に言えば、この世の中に理由が無いことなど存在しないのでしょうが。しかしまあ、いつ、どこで、どのように好きになったか、というのは、少なくとも私の中では特にありません。いつの間にかふんわりと好きになっていって、あるきっかけでそれを自覚する。そういうものばかりですよ?私は」
「それは、その、不安じゃない?理由が分からないっていうのは……」
「ふふ、いいえ?全く?」
呆気に取られる僕に対して、ありったけの微笑で返してくるアルダン。まるで、僕の心、言えないでいる事さえ何もかも見透かされているようで、耐えきれず僕は虚空へと視線を移す。
「もし、私が花だとしたら。きっとどれだけ『美しいと思った理由』を説明されても、喜びはすれど、そこまで心には響かないでしょうね?花の見た目、色合いというのは、結局いつしか枯れ落ちるもの。だとするならば、きっと『この形が美しいから』『この色合いが綺麗だから』という理由で愛でてくれる人は、時間が経ち、ある程度形が崩れてくればすぐに、私の代わりに似た形の別の花を植えてしまうのでしょう。最後まで、枯れ果てる瞬間まで、傍に居てくれる訳では無い」
「そう、だね、そうなのかも、しれない」
「だから私は、むしろ、『理由なんて一つも見つからない。見つからないけれど、傍にいたいから傍にいる』なんて、そんな事を言われる方がずっと嬉しいのです。そんな人の方がずっと信頼できる。そう、思いませんか?」
はっきりと、しっかりと、真っ直ぐに。彼女はただひたすら、僕の瞳だけを見つめながら、そんな事を話してくれた。
両肩から、ストンと。何か重たいものが落ちていくような、そんな感覚を覚える。僕は今日、キキョウの花のことが好きになった。どうして今更なんだか、理由は分からないけど、とにかく好きになったのだ。多分、いや絶対に、この気持ちは一生変わることはない。そして、彼女への気持ちだって……
「だから、私はあまり気にしないようにしてるのです。大切なのは、好きになった理由ではなく、好きでい続けること。まあ、たまには思い出話をするのも、楽しくて大好きなのですけれどもね?」
「そうだね…………僕も、大好きだよ」
はっきりと、しっかりと、真っ直ぐに。彼女の瞳を見つめながら、僕は応える。卑怯者と言われても、やっぱり僕は、絶対に彼女のことを手放したくなんてない。今はダメでも、いつかは、必ず。
「……なんかさ、ドライフラワーだっけ?水分を抜いて花を長持ちさせるやつ、あれってさ、こういう普通に買った花でもできるのかな?」
「ドライフラワーですか?そうですね、できなくは無いと思いますが?」
「なんとなく、理由は特にないんだけどさ、このキキョウ、できるだけ長く大事に飾っときたいんだよね。だから、出来ることなら、ね?」
「……ふふふっ!そう、ですね?私も、特に理由はありませんがそう思います。作り方を調べて、一緒にやってみましょうか?」
「そうだね、一緒にやろう?」
改めて、僕はテーブルに飾られる一輪の花に目を向けた。少し日が傾いたからか、まるでスポットライトの中の、堂々たる立ち姿のような長く逞しいシルエットがそこに浮かんでいる。なんだか、つい最近見たどこかの誰かによく似ていて、僕は思わず手を差し伸べた。