メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
かじかんだ指先で財布の中を漁り、ようやっと、百円玉を三枚見つけ出す。自販機の灯りだけがいやに眩しく僕を照らしていた、午後七時。
「はい、どうぞ?」
「あ、ありがとうございます…」
差し出したホットの緑茶を、丁寧に両手で受け取ったのは、先日僕と専属契約を結んだばかりのウマ娘、メジロアルダンである。その所作の美しさについつい目を奪われそうになりながら、僕もまた、無糖の缶コーヒーを一つ選び取って指先を温める。
「すみません、お気を使わせてしまいましたか…?」
「え?ううん?これくらい気にしないで?」
僕に倣ってか、ペットボトルの側面を指先で包み込むアルダン。鼻の頭が未だ薄紅のように火照って、雪のように真っ白なその肌に、アクセントのように彩りを添えていた。
「クールダウンにお付き合いさせてしまった上、お茶まで…少し忍びない気持ちですが…」
「いいんだよ、今日もトレーニング頑張ってくれたからね。本当に毎日、よくやってくれてる。有難い限りだよ」
「いえいえ、これは私の…自分自身の目的の為の努力ですので。この程度どうということはございません」
「…自分自身の目的、か」
彼女の屈託のない言葉を聞いて、ふと空を見上げた。ここ最近は日が落ちるのも早く、一日のトレーニングメニューを終える頃にはすっかり日も沈みきってしまう。学園の構内とはいえ、夜闇の中女学生をひとり帰らせる訳には行かず、クールダウンも兼ねて寮の玄関口まで送る事にした…のがつい十分ほど前の事である。
「…君の、これから走るコースは、一体どんなものになるんだろうね」
「……そう、ですね。やはりメイクデビューは、短距離かマイル程の距離になるのでしょうか?そうなると、やはりスピード、瞬発力の勝負になる…だからこそ、スタートで集中力を切らさないようにするのと、それと…」
「……さすが、よく勉強してるなあ…」
「ふふ、何を仰るのですか?先日、トレーナーさんが教えてくださったこと、でしょう?」
「…そういえば、そうだった、かな?」
優しく、諭すように語りかけてくるアルダンから暫し目を逸らし、思わず苦笑いを浮かべながら再び空を仰ぎ見る。空気は澄んでいても、星のひとつも見えないくぐもった空。立ち並ぶ街灯の人工的な光だけが、僕らを無機質に照らしていた。
「…自分では、どう思う?デビュー戦はどれくらいの距離がいいとか、ある?」
「それは…トレーナーさんが見極めていただければと…私はどんなレースであろうと、死力を尽くすのみ、ですので…」
「…まあ、そうだね、もちろん見極めるよ」
彼女の…メジロアルダンの、その薄紫色の瞳がきっちりと僕の眼を捉える。実直な彼女らしい、芯の通った真っ直ぐな視線。しかし…その視線はどこか、僕の頭蓋を通り抜けた、遥か先を見通している様でも、あった。
「…どんな距離でも、芝でもダートでも……青空の元ターフを駆けることが出来る。ただそれだけのことでも、私にとっては奇跡的な事なのです。だから…」
「……………………」
「……だから、こそ。文字通り死力を尽くします。たとえ最初で最後のレースになったとしても、構わない。たった一度でも…この世の中に私の生きた轍を遺す事が出来たのなら、私はそれで満足なのです」
「……………………それなら」
『それなら、どうして君は、そんなに悲しい眼をしているんだ?』
「…………トレーナーさん?」
「……あ、あ、いや、それなら…それなら、うん、頑張らないと、ね?」
「……ふふ、ええ、信頼していますよ?トレーナーさん?」
「……………………」
「少し、冷えてきましたね?そろそろ歩きましょう?」
「あ、う…うん、そうだね…」
少しだって綻びを見せない、琥珀色に閉じ込められたような笑顔を浮かべながら、彼女は歩き出す。その行く末は…深い夜の闇に包まれ、なんだかとても、冷たく見える。
「アルダン、僕は」
「……トレーナーさん?」
「……叶えてあげたいと、思うよ。君の望みは、全部、全部」
「………………」
振り返る彼女の、その薄紫の瞳。何故だか不思議と、はじめて目が合ったような…そんな気持ちで、胸が高鳴った。
「……全部、ですか?」
「……うん、全部だ」
「……ふふふっ…そんなに、欲張りな子に見えますかね?私?」
「あ、いや…そういうわけでは…」
くすくすと、笑みを浮かべながら。回れ右で僕の元へ帰ってくるアルダン。街灯で照らされた彼女の肌が、髪が、なんだかひどく眩しく感じた。
「そう、ですねえ…お茶もいいですが、本当は……ココアも、飲みたかった、ですね?」
「……えっ?え、そうなの?」
「ココアの方が少し高かったので、遠慮していましたが…ふふっ、全部、叶えてくれるのでしたら……ね?」
「……もう、先に言いなよ?今日だけだからね?」
「ふふふっ、ありがとうございます♪」
なんだか随分肩の力が抜けてしまった僕は、とぼとぼと一人、自販機に向かう。小銭、まだ残ってたかなぁ……
……ふと、振り返り、遠巻きに彼女の姿を見据えた。彼女の吐く息が白い靄となり、街灯の灯りに照らされてキラキラと輝いては、空に届く前に消えていく。その様がまるで、出来損ないの星々のようで……
「トレーナー、さん?」
「……あっ、ご、ごめん!すぐ買ってくるから!」
不意に呼びかけられ、分かりやすく挙動がおかしくなってしまう僕…なんとも締まらない姿に自分で呆れつつ、誤魔化すように、また空を仰ぎ見る。
……相変わらず、殺風景なくすんだ空模様だ。けど…先程よりもずっと広く見える。あとは…そうだな、星が見えれば、尚いいと思う。できるだけ沢山の星を、できるだけ、長く、長く。願わくば、彼女と共に……
「その…トレーナーさん?もし懐事情が宜しくなければ、どうか無理はなさらず…」
「お、大人だから!僕だって!」