メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
それは、瞬き程の、一瞬の出来事。
僕の頭の中、脳細胞一片一片に走った、閃光のような衝撃。
「……においが、ちがう」
「…………!」
「……あっ!?あ、いや、これはその…」
夕暮れのトレーナー室、来週の予定のミーティング中の出来事である。窓から吹き込んできた微風に乗せて、彼女の…メジロアルダンの、その柔く美しい髪から、ふわりと跳ねるシャボン玉のような軽やかな香りが漂ってきた。その香りが、かつて彼女から感じたことの無い程の…ある種の幼さ、未熟さ、まだまだ発展途上の、些細なことで泡になって消えてしまいそうな危うさ…だからこその、シンプルで純粋な輝き…そんなものを感じさせ、そしてそれが僕の脳内のまだ青い部分と結び付き、まるで暗闇に灯る閃光の如く、未知の反応をまじまじと見せつけてきた。
…結果、考えるより速く口から漏れだしたのが、冒頭のセリフである。勿論、悪気がある訳ではないが、恋人でもない女性の香りについて唐突に言及することが、あまりよろしくない行為であることくらい僕にだってわかる。すかさず僕は、地に頭を擦り付けるべく佇まいを直す…が。
「まあ、お気づきになりましたか?実は、ヘアオイルを新調したのです。ドーベル…メジロ家の後輩から薦められたものでして………トレーナーさん?まるで切腹でもなされるような佇まいですが、どうされたのですか?」
「えっ?あ…あー、いや、なんでもないよ、ヘアオイルか、いいね、凄くいい香りだ」
「ふふ、ありがとうございます♪」
……そんな僕とは裏腹に、アルダンはその両の耳をひょこひょこと楽しげに揺らしながら、饒舌に語り始める。許してもらえた…?いや、そもそもなんとも思われていないのか、なんにしても、アルダンの懐の深さにただ、今は感謝し、改めて心の帯を締め直す。
「しかし、ヘアオイルかあ…アルダンの髪、トレーニングの後でもいつも綺麗だもんね。毎日マメにお手入れしてるんだなぁ…凄いや…」
「そこまで大したことはしていませんよ?まあ、人の印象というのはやはり、見た目によるところがどうしても大きいですから、ある程度は…ですね?」
「そりゃそうだ、けど、アルダンほど気を使える人はそうそういないと思うけどね。やっぱり、流石だ」
それほどでも。なんて言いたげな、控えめな笑顔で彼女は返事を返してくる。どこまでもストイック、だけどもどこまでも謙虚、その美しく品のある精神こそ彼女の一番の武器なのだろうと、改めてそう思う。
「それに、こういったコスメやボディケアにこだわりのある子は多いですから。情報交換…と称して積極的にコミュニケーションが取れるのです」
「なるほどなぁ…トレセン学園、女の子ばっかりだからねえ、当たり前だけど」
「ええ、ちょうど昨日も、このヘアオイルのことで久しぶりにドーベルと沢山お話出来ましたから…ドーベル、人懐っこくて可愛いのですよ?今度お話してみてはいかがですか?」
「うーん…そうだなぁ…」
メジロドーベル…学園の資料で顔だけは知っているが、やはり彼女もメジロのウマ娘らしく、なんとも凛々しく気品溢れる表情をしていた。
「アルダンの後輩なら絶対いい子なのは分かるけど…どうだろ、なんか緊張しちゃいそうだなぁ…」
「まあ…確かにあの子、少し猫ちゃんに似てますものね?」
「いや、そういうことではなく…ああいう年頃の女の子と話すのが、あんまりね…共通の話題とか無さそうだし…」
「そんな事を言って…いつも私とはお話してくださっているではありませんか?もしや私のことなんて、年頃の女性などとは思っていないと…」
「えっ!?いやいやいや!?そんなことはないよ!アルダンは本当に素敵な女性だと思う!!」
「ふふっ?本当ですか?」
「あ…う、うん…もちろん…」
「……ふふふ、まあ、匂いまで覚えているくらいですから、嘘ではないのでしょう、ね?」
「あ、えーと、それはぁ…」
…相変わらずまっすぐに見つめてくる彼女の瞳に耐えられず…思わず目を逸らして、鼻の頭を掻きむしる僕。君と話すのだって、いつもそれなりに緊張はしてるんだけどなぁ…
「…………………………」
「……………………………!」
「……あ、アルダン?」
「……ふふ、トレーナーさん?」
「は、はい…?」
変わらず、じっと僕の顔を見つめてくるアルダン。というか、なんだ、今日はいつにも増して見てくるな…なんともペースを掴まれっぱなしで形無しなのだが…
「実は私…ヘアオイル以外で変わった所がもうひとつ、あるのですが……」
「え、そうなの?なになに?」
「………………さて、なんでしょうか?」
「えっ」
「ふふふっ……」
瞬間、サッと顔面の血の気が引いていくのが、自分でもわかった。これは…もしや僕のことを試している…のか?担当ウマ娘の事をどれだけ観察し、理解しているのか…試されているのか、僕は…!
「…えっ…えぇーとぉ…」
「ふふ、どうです?分かりますか?」
お、落ち着け僕、アルダンの事は毎日見ているわけだから、僕なら分かるはずだ…僕はじっくりと、感覚を研ぎ澄まし、彼女の姿を網膜へと焼き付ける。
「……………………」
「………………………?」
こちらの気を知ってか知らずか、こくりと首を傾げてにこにこと笑みを浮かべるアルダン。それにしても…やはり彼女のその姿に、つい見惚れてしまいそうになる。骨格や顔立ちのバランスからして優れているが、素材の良さに甘んじてなどいない。やはり幼い頃から人目に晒される機会も多かったのであろう、どの角度から見ても華やかに感じるよう計算された表情の作り方といい、自信ありげにしゃんと伸ばした背筋といい、揺らぐことが無く、調和が取れていて…本当に、綺麗だと…
「……あ、もしかして、肌、綺麗になった?なんか前より瑞々しくなった気が…」
「お肌ですか?ふふ、残念、お肌は何もしていませんよ?」
「…そうかな?真っ白で、きめ細やかで、輝いてて……本当に、綺麗だと、思う」
「…ええと、その、ほんとに何もしてないですから、ね?」
「…そういえば、爪も綺麗だな…艶があって健康的な色味で…」
「つ、爪も何もやっていませんよ?」
「…まつげも綺麗だよね?長くて少し大人っぽく見えて…凄く素敵だと、思う」
「あ、あの、トレーナーさん?主旨が変わっていませんか?」
「前髪も、綺麗に切り揃えられて…」
「も、もうそのあたりで…その…さすがに恥ずかしいですから…」
「え?あ、あれ?」
ふと、我に返る。何となく…彼女に見蕩れていて、自分が何を喋っていたのか…今ひとつ、思い出せない。脳から直接話をしていたみたいな…
「そ、その、実は特に変わった所はなくって…トレーナーさんを少しからかおうと思いまして…嘘、ついてしまいました…ごめんなさい…」
「あ、そうなの…?」
いつの間にやら、雪のように真っ白だったアルダンの頬が、蒸気でも吹き出しそうに赤く染まっていた。普段の彼女とはまた違う、不安定で調和も取れていない姿…しかしそれはそれで非常に愛らしい…と、素直に思う。
「…ううん、しかし、そう言われてみても、やっぱり前より綺麗になってると思う、けどなあ…」
「いえいえ…本当にそんなことはないですから…変わらないです、本当に、なにも…」
「…もしくは、変わったのは僕の方、とか?」
「トレーナーさんの方、ですか?」
「昔よりアルダンと話す時、緊張しなくなってきたからさ?君の事、前よりはっきり直視できるようになって…それで、君の魅力に昔より沢山、気付けるようになれたかな…なんて…」
「……………………………」
「…あ、アルダン?」
唐突に…なんだか俯きがちに黙り込むアルダン…これは…これは、一体どういう感情、なのだろうか…刻々と間を置いて、ぽつり、ぽつりと彼女は口を開く。
「…ほんとに、もう…なんてこと言うんですか……ほんと、もう……」
「え……」
「…こ、恋人でもない女性に、そんなこと、言うものではない、の、ですよ…?」
「……あっ!?あ、えと、その、す、すみません!でしたっ?」
なんともバツの悪そうな顔で、彼女は小さく呟いた。その両の耳をピンと天高く立て、頬を軽く膨らませこちらを見つめるその姿に、僕の口からほぼ反射的に謝罪の言葉が溢れでる。
「……私以外の方にも、同じような事、言ってたりしませんよね?」
「ま、全く!言ったことない!です!」
「…………………………」
「…あ、アルダン…?アルダンさん…?」
「それなら、いいですけど…トレーナーさんはもっと、女性と話す練習が必要そうですね?」
「え、僕のコミュ力、そんなにやばい?」
「ええ、激ヤバ、です」
「そんなあ……」
アルダンのトレーナーになって、それなりに女性の扱いは分かってきたつもり…だったが、とんだ思い違いだったらしい…やっぱり難しいな、女の子って…思わず長めのため息が漏れ出て、部屋の中に溶けていく。
「…ふふ、ドーベルには感謝しないと…」
「え?何か言った?」
「いえいえ、こちらの話です…と、言うわけでトレーナーさん?ミーティングはもうおしまいです」
「は、はい」
「かわりにお茶の時間にしましょう?そして私と沢山お話して下さい。女性との会話に、慣れるためにも…ね?」
「え、あ、は、はい、よろしく…お願いします?」
「ふふ、良い返事です♪」
そうしてイタズラっぽく笑う彼女に、また見蕩れてしまう。こんなことじゃ、一生慣れる気がしないな…柔風吹き込むトレーナー室で、僕はまた、天を仰ぐのであった。