メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
「っ…はあっ…はあっ…!!」
「……!」
「っ……はぁ…どうですかっ…トレーナー…さん…っ」
「…うん、いいタイムだ、間違いなく先週よりも地力自体が付いてきている、正直、想定以上だ」
「…ありがとう、ございます」
…鬼気迫る表情、とはまさにこの事であろう。まるで食らいついてくるほどの勢いで、彼女は…メジロアルダンは、僕の持つタブレットを覗き込んでくる。
「…ただし、中盤以降の歩幅のブレは相変わらずの課題だ。ある程度のブレは構わない。ただし、息を切らさないこと、思考を途切れさせずに、多少のイレギュラーはレース中にも修正できるようにすること、だね」
「…はい、あの、トレーナーさん」
「分かってる、今日はまだ許容範囲だ」
「はい、もう一本…行ってまいります」
モチベーションが高いのは結構。だが空回りを始めるのはいただけない。僕は一つ一つ、丁寧にチェーンをはめ込むように、事実のみを羅列する。激励の言葉も、慰めの言葉も、きっと今の彼女には不要だろうと、どんどん加速を始めるその足取りを見て、思う。
「…あと3週間、か」
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東京優駿、またの名を『日本ダービー』
今更言うまでもなく、日本ウマ娘界最高峰のレース。日本のウマ娘界の一年は、ダービーデイに始まり、ダービーデイに終わるとまで言われている、ウマ娘達、トレーナー、レースに関わる全ての者たちが一生に一度は憧れる、まさに、夢の舞台。
それと同時に、果てしなく、残酷な舞台。
中央、地方合わせてデビューするウマ娘は年間およそ5000人。しかし、その中でダービーの出走権を得られるのは僅か、20人強。挙句、『一生に一度』と固く定められたクラシック登録の都合上、ひとたびデビューしてしまえばもう後戻りもやり直しも効かない。本格化が間に合わなかった、怪我をした、体調が優れなかった、何一つ聞き入れられることはない。例外なく、言葉通りの『人生で一度きりの挑戦』それがクラシック競走、それが日本ダービーなのである。
そして、3週間後に控えた今年の日本ダービー。偶然と必然を幾万回繰り返した末に、その挑戦権の内一枚がまさに今、彼女の、メジロアルダンの手の中に存在していた。僕の脳裏に今でも鮮明に焼き付いている、彼女の積み重ねた思いと努力が、ついにダービーへと届いた瞬間のこと。今思い返しても、自然と胸元と目頭が熱くなる。彼女のトレーナーになる、そう決めた日から一瞬たりとも疑いはしなかったが、やはり、そこに辿り着いた時の光景は、格別だった。
だが。
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「っ、はあっ…!トレーナーさん…!」
「…うん、素晴らしい。間違いなく、今までのなかじゃ最高だった」
「…………」
間違いなく、最高の走り。しかし。
「……まだ、足りない?」
「……ええ、まだ」
…しかし、アルダンの表情は、本当に、少しも、晴れやかではなかった。一切の贔屓目を除いて見ても、間違いなくアルダンの走りはダービーの舞台でも通用する……いや、勝てる。そう断言できる程の仕上がりである。のにも関わらず、何故こんなにも彼女は沈んだ顔をしているのか、彼女が口を開かずとも、僕には分かった。
「…気になる?………オグリキャップのこと」
「…………!」
「……うん、少し、休憩にしようか」
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オグリキャップ。地方レース場、カサマツから、颯爽と中央の舞台に現れた彼女は、移籍後既に重賞3連勝を飾り、瞬く間にその名を日本中へと轟かせた。アルダンともいずれ間違いなくぶつかり合うであろう、文字通り、同期一のダークホース。
…で、あるが。本来ならばその名を意識するようになるのは、まだまだ先の話となるはずであった。元々、中央移籍の予定など無かった彼女は、当然ながらクラシック登録など行っていないのである。繰り返すが、クラシック登録は一生に一度、デビュー後の定められた期間にのみ行える。本格化の時期が各々千差万別であるウマ娘達に対しての公平性、そして、クラシック競走の「格」を保つための制度。故に、大抵のウマ娘達はクラシック競走、特に日本ダービーに出走する瞬間、人生における肉体のピークが訪れるように細かくデビュー時期を調整する。1mmでもライバルより前に出る為に、1秒でもライバルより早くゴール板を踏み抜くために、デビュー前の段階から既に始まっている、ダービーの戦い。
だからこそ、元々ダービー出走を前提とせずに競走生活を始めた彼女、オグリキャップが仮に今更ダービー戦線に躍り出たとしても、それは脅威にはなり得ない。というのが大方の見解であった。そもそも、登録自体を行っていない彼女のたらればを語ること自体、何事にも例外がないクラシック登録という制度の前ではナンセンスな行為なのである。
…はず、なのだが。
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「はい、ちゃんと水分とって?」
「…ありがとうございます」
「どこか痛むところはない?」
「…大丈夫、です」
ターフの隅に腰かけ、暫し彼女の様子を観察する。彼女の言う通り、肉体面は万全そのもの。体質に不安を抱える彼女であるが、徹底してきた肉体負荷プランニングと、何より彼女自身の努力によってそれも改善傾向にある。そう、今の彼女はこれまでの人生において、間違いなく最高のメジロアルダンだ。しかし…肉体と精神は、時に極端なまでの相互作用をもたらす。
「…ニュース、見た…よね?本当に、凄いことやってくれるなぁ…」
「……ええ、本当に」
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『オグリキャップを、ダービーに』
今朝のことである、一人の記者が執筆した新聞記事が発端となり、既に日本中から多くの声が上げられ、その声に従って署名運動まで始まっている。読んで字のごとく、オグリキャップにダービーの出走権を与えるべきだという声が。
クラシックの規定に詳しくない一般人からすれば、ダービーもまた、単なる強いウマ娘が集う舞台のひとつ、という認識でしかないのだろう。であるならば、今まさに躍進を続ける、強いウマ娘たるオグリキャップが出走するべきなのは至極当然の話。
更に言えば、地方の小さなレース場たるカサマツから現れたダークホースが、苦難の末、中央の強敵たちを次々と打ち倒し、遂には日本最高峰のレースで勝利する。そんな感動的なドラマが、もしかすると自分の署名一つで実現してしまうかもしれないのだ。きっと実現してしまえば一生ものの思い出になるに違いない。僕自身、トレーナーという道を志していなければ、このムーブメントに易々と乗っていたのかもしれない。しかし。
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「…オグリさんは、良い人です。口数こそ少ないけれど、純粋で、優しくて、何事にも一生懸命で…本当に、凄く良い人…」
「うん、そうだろうね…」
過去、彼女のトレーニングを横目に見たことがある。才能に胡座をかいているようであれば付け入る隙もあるが、やはりというか、彼女はどこまででもストイックであった。彼女の周りの人間が皆、彼女の力になりたいと言い出すのにも合点が行く。
「だけど、流石にダービーに出るのは不可能だろう。ファンの為のレースならグランプリがある。クラシックレースは…絶対に『全てのウマ娘』の為のレースでなければならない。それくらい、URAも分かってる」
「…はい」
日本ダービーに限らず、レースというのは当然、出走人数に限りがある。オグリキャップが出走権を得る、ということは、オグリキャップに出走権を奪われるウマ娘がいるという事だ。きちんとルール通り期限内にクラシック登録を行った、一生に一度のチャンスを掴み取るはずだったウマ娘が、だ。優先出走権を得ているので万に一つもありはしないが、もしもそのウマ娘がメジロアルダンだったら?きっと、僕はURAの職員全員、署名運動に関わった全員、全て余すことなく生涯恨み呪い続けるであろう。しかし果たして、今、まさにこの瞬間、オグリキャップをダービーに出走させようとしている人々は、その事を理解しているのだろうか。世間の潮流とは裏腹に、釈然としない気持ちを抱えている人間は僕だけでないと信じたい。
「それでも、影響は大きいだろうけど…」
「…あの、トレーナーさん」
「アルダン?」
「……本当に、本当に個人的な話なのですが、聞いて、いただけますか?」
「…うん、いいよ」
ぽつり、ぽつりと、常に堂々とした佇まいの彼女から、珍しく弱音と恐怖を織り交ぜたような、か細い声が発せられる。一言も聞き漏らさまいと、僕は真っ直ぐに、アルダンの方に向き直った。
「オグリさんの事、私、本気で好ましく思っています。人には優しく、でも自分に厳しい、そんな人柄も、覚悟もプライドも、故郷の方々の為に走るのだという、信念も。どれをとっても、学園の中であの方の右に出る者は、そう多くは無いでしょう。」
「……うん」
「…でも、あの走り」
メジロアルダンの声色が、変わった。それまでの弱々しい口調から、まるで、何かを訴えかけるような、芯のある口調へと。
「あの走りを見ていると…私、冷静でいられなくなるのです。何者にも囚われないような軽やかさと、何者をも蹴散らしてしまいそうな強引さ。その二つを併せ持つあの走りを…」
「………………うん」
「…私の脚は繊細で、他人と比べれば無理が効かず、純粋な力比べのようなレースでは、他の方々にはまず勝てはしない……今更、そんな事では悲観しません。純粋な力比べでは勝てない、のであれば、純粋な力比べに持ち込ませない。そのための策は、それこそ山のようにトレーナーさんと練り上げてきました…」
「…そう、だね」
例えば、堅牢な鎧の隙間を貫くように、例えば、巨大な相手の脚を払って投げ飛ばすように。圧倒的と思われるような力量差でも、必ず突破口はある。それが、僕とアルダンが今まで立ててきた作戦の『前提』。それを信じて、アルダンはここまで這い上がって来たのだ。
では、その前提が崩れたら?
本当に、弱点や突破口など微塵もない『完璧』な相手が現れたら?
アルダンが今直面しているのは、恐らく、そういう事態なのだろう。
「…でも、オグリさんの走りを見ていると、つい思い出してしまうのです……姉様のことを」
「…メジロラモーヌ、か」
メジロラモーヌ。URA史上初めてのトリプルティアラ、それもトライアルレース含めての完全三冠を成し遂げた、メジロの至宝。最早言うまでもなく、メジロアルダンの実の姉にあたるウマ娘である。
「姉様とは一緒に走ったことは無いけれど、それでも、解る。あの人にはどんなテクニックも策も通用しない、全て踏み倒されて気付けば先頭を奪われる。只々シンプルで純粋な力…それを持っているのが、姉様…メジロラモーヌ…それと」
「それと、オグリキャップ…ってこと?」
「……私は、嫌なのです。彼女が後ろから迫って来るのが、まるで今までの私の歩みを全否定されてるみたいで…策も、努力も、費やした時間も、人々の注目も…全て彼女に踏み倒されるみたいで……挙句の果てに、クラシック競走のルールまで踏み倒して、ダービーにまで乗り込んで来るかもしれない……」
「……嫌、か」
「…本当なら、誰が出走しても関係なく迎え撃つ。そういった心構えでいなければならないのでしょう。でも、彼女の事を考えると私、なぜだか無性に鳥肌が立ってしまうのです…オグリさん自身はあんなにいい人なのに、私自身がどうしても彼女を拒絶してしまう…そんな自分自身が…とても、とても嫌なのです」
「…………アルダン」
「…ごめんなさい、ごめんなさいトレーナーさん、私は、どうすれば良いのでしょうか。この気持ちに、私はどう向き合えば…」
シンプルで、純粋な力。
例えば、デビューから一線を退くまで誰一人影を踏むことさえ許されなかった、スーパーカー『マルゼンスキー』
例えば、レースにも絶対があると人々に信じ込ませた史上初の無敗三冠馬、皇帝『シンボリルドルフ』
例えば、ティアラ路線の真なる輝きをたった一人で人々に魅せつけた、メジロの至宝『メジロラモーヌ』
そして…芦毛の怪物『オグリキャップ』
本人達に聞けば否定するのだろうが、やはり凡人には到底、逆立ちしたって敵わない『天才』というものは存在する。綺麗事を言ったところで、時代を先に推し進めるのはいつだってそんな、ひと握り未満の天才達なのである。
と、思っていた。彼女に出逢うまでは。
「アルダンは、そのままでいい」
「……えっ?」
「そのままでいいんだ、君はそれでいい」
「…しかし、私は」
「いいんだ、君のその気持ちは…『怒り』だから」
「……怒…り…」
きっと彼女は、生きてきてこの方、自分自身の中にあるこの感情の名前を知らなかったのだろう。困惑しながらも、パズルのピースがようやく見つかった。そんな表情を、彼女は浮かべていた。
「ムカつくよ、そりゃ、自分自身が信じて、貫いてきたものを簡単に踏み倒してしまいそうな相手が急に現れて、しかも世間ではそっちばっかりチヤホヤされてさ?ムカつくなって方がおかしいよ、そんなの」
「と、トレーナーさんでも、そのような事考えるのですか?」
「まあ、僕自身のことは別にいいよ?でももしアルダンが誰かに軽く見られているのならば、それは我慢ならないかな」
「…なんだか、意外でした、トレーナーさんも怒ったりするのですね?」
本当に、心底意外そうにアルダンは目をまん丸にしてこちらを覗き込んでくる。一体僕の事なんだと思ってるのか…という気持ちは一旦仕舞って、僕の方からも彼女の瞳を見つめ返した。
「まあ僕のことはいいとして…きっと、ああいう天才的な才能の代わりに、僕らに与えられたもの、それが、許せないって言う気持ち。嫉妬とか妬み僻み、そういう怒りの感情なんだろうな」
「私の中にある、嫉妬や妬み…」
「ああ、そしてそれは何も恥ずべき事じゃない。故郷のためとか、純粋にレースが好きだからとか、そういう無欲な人間になんてまずそうそうなれないし、なる必要もない。だってそういう理由は、突き詰めれば勝ち負けなんて関係なくなっちゃうからね」
……まあ、そういう理由の上、更に勝ちを追求できるからこそ天才なのだろうけど。でも、アルダンが目指すものは、そこじゃない。
「生きた軌跡を、残したい。なんて、本当に自分本位な理由だ。自分が自分の目的を果たすため、走る。傍から見れば矮小な願いなのかもしれない。でも……僕はそんな君の願いが、大好きだ。勝ちに拘る君の心を、何よりも愛している。そんな君だからこそ、具体的な道を、示してあげたいと思った」
「……トレーナー、さん」
「だからこそ、その心の中にある怒りは、消しちゃいけないし見ぬふりをしてもダメだ。何故ならそれは、君の力になるから。生きた軌跡を誰かの目に刻みたい、けれども、他の誰かに人の目線を全て持っていかれる。だったら、そんなやつは許しておけないと、そう自分の心に刻むんだ。『前提』は変わらない。具体的な方法は僕も一緒に考えるし、身体と同じように、心も、超えちゃいけない最後の一線は、僕が死守するから。だから」
シンプルで純粋な力。それは周りを巻き込んで無軌道に膨らんでいく危険性も孕んでいる。きっと、流石に何があろうとオグリキャップはダービーには出て来れないだろう。ただ、こうして本命が不在となるダービーに対して、クラシック競走に対して、世間がどういった反応を示すのか…他でもない、マルゼンスキーの世代の歴史がもの語っている。だからこそ、そんな理不尽に対してメジロアルダンが、自分で自分の心を守ることができるように…きちんと、正当に、『怒る』事を覚えて欲しいと思う。
…の、だが。
「……ふふっ、ふふふふっ…」
「……あ、アルダン?」
「…いけませんよ?トレーナーさん?そんな事、そんなに一生懸命に伝えられてしまえば、私…嬉しくって、怒ってたことなんて勝手に忘れちゃいますから、ね?」
「えっ?えっ…ちょっとっ…それは……困ったな……」
……何故だろう…どうやら、アルダンには逆効果だったらしい。困り果てる僕を見て、くすくす笑い出してしまうくらいだ。でも…
「でも…ありがとうございます、トレーナーさん…貴方が…貴方が私の夢をそこまで思ってくれている、大切にしてくれている。それだけで…ダービーは思う存分、頑張れそうです」
「…あ、ああ、そう…?それなら良かったけど…」
「……私の中身、全部…怒りを覚える私も、全部…使えるものは、なんだって使う。オグリさんが参加しようともしまいとも『前提』は変わらない……ふふっ、信頼、してますよ、トレーナーさん?」
「…うん、勝とう、アルダン。どんな相手だろうと、どんな理不尽だろうと、蹴散らしてやろう」
「……さて、と、もう休憩は十分ですね。トレーナーさん、今日は?」
「ああ、まだまだまだまだ、許容範囲内だ、行こうアルダン。もっともっと、ギリギリまで、考えよう」
「はい、トレーナーさん…!」
勢いよく立ち上がり、ふと、彼女を見つめる。思い切り前言撤回するが、彼女はまだまだ最高なんかじゃないし、天才だって、一人だけとは限らない。メジロアルダンのピークはこのタイミングだと、誰が断定できようか。
一生に一度の夢の舞台。日本ダービー。僕達はまだそこにたどり着いてはいない。府中の舞台にメジロアルダンの名を刻み込むため、僕らの戦いは、まだまだ、続く。
「…もっともっと私のこと、厳しく叱っていただいても、よろしいのですよ?」
「それは…………………………………………………無理、だね」
「ふふっ、残念です♪」