メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
「……よし、そこまで。今日はもう充分だろう、アルダン」
「っ、ふぅ……ええ、今日もありがとうございました、トレーナーさん」
燃え盛るような鮮烈なオレンジが、ひりひりと僕の眼を焼く夕刻時。僕は反射光で見え辛くなったタブレットから視線を上げて、彼女……我が担当ウマ娘メジロアルダンの、その熱く紅潮する頬に眼を奪われていた。
「……ふぅ」
「………………」
ジッパーを下げ、ジャージの内側に溜まった余分な熱を逃がす彼女。基礎代謝の高いウマ娘から発せられるそれは人間のものと比べて実にダイナミックで、まだ肌寒さ残るこの時期に見れば、まるで蒸気機関の排煙のように猛々しく水蒸気が立ち込める。文字通り、彼女の努力の結晶といったところ、か。
「………………」
「………………」
「あの、その、あまり綺麗な状態ではないので、ジロジロと見られるのは、少し……」
「えっ、あ、ご、ごめん!?」
と、きっちり釘を刺されて、虚空に視線を逃がす僕。そんな無様をじとりとひと睨みした後、彼女はぷすりと息を漏らし、二歩三歩、こちらに歩みを進めてきた。
「ふふっ?しかしまあ、ついつい見蕩れてしまうのは仕方ありませんかね?いかがです?今の私の身体、かなりの仕上がりでしょう?」
「んっ?ん……ああ、それは間違いないね、今の君は、君史上最高の出来栄えだ。自信を持って、そう言える」
「ふふっ、ありがとうございます♪」
彼女からの不意の問いかけで、パチリと頭のスイッチが切り替わる。彼女の言う通り……いや、彼女が自覚している以上に彼女の肉体は今、圧倒的とすら言えるほど完璧な状態に仕上がっている。その細い脚は、必要な力点だけを一点集中でターフに伝えるため。その可憐で華奢なボディは、吹き抜ける空気抵抗をしなやかに受け流すため。そこに立つのは美しさと機能性を兼ね備えた、まさに究極のウマ娘なのであった。
「ほんとうに、綺麗だなぁ。ほんと、惚れ惚れするよ、アルダン」
「……仕方がないとは言いましたが、『見ても良い』とまでは言っていませんよ?トレーナーさん?」
「あ……あはははは……」
「ふふ、ふふふふっ!……ふぅ」
「アルダン?」
……まるで僕の瞳にピンを刺すように、まるで僕の軽口を受け流すように。彼女はあのマジックアワーのような不可思議な笑顔を携えた後、まるでしみじみと噛み締めるように、大きく息を吸う。
「……あまり上手くは言えませんけれど、最近は凄く『ちょうどいい』んです」
「ちょうど、いい?」
「あまり深く訊ねられても困るのですけどね?こう、身も心も、凄く良い状態なのです。食べた物や飲んだ物、吸った空気すら、過不足なく全てが純粋なエネルギーと化しているというか……」
「……なるほど?」
「なんて、今更このような、なんとも言えない感覚のお話をしたって仕方がありませんね?レース本番まで時間もありませんし、もっとこう、理論的なお話を詰めていく方が有意義でしょうから、今の話はあまり気になされず……」
ますます頬を赤く染め、落とし所を探し揺蕩っていた笑顔も、照れ笑いというところで消化しようとする彼女。たしかに彼女の言う通り、こんなことをわざわざ論じても、別に意味なんてないのかもしれない、けど。
「……それって、『燃焼』みたいなもの、なのかな?」
「燃焼……ですか?」
「好きだったんだよね、理科の授業でガスバーナー使うの。ガスの栓を開いて、火をつけてさ」
「ふふっ、たしかに少し楽しいですよね?私も先日、授業で使いましたよ♪」
「ね?最初はすごく不安定に揺れ動くオレンジ色の火で、ガスが弱ければすぐ消えそうになって、強すぎても制御しきれなくなる。空気もまた、多すぎても少なすぎても安定しない」
「ええ、ええ、なかなか加減が難しいのですよね」
「けれど、そのどちらもバランスが取れた状態……ガスの量と空気の量が過不足なく燃焼を始めれば、安定していて、温度も高い『青い炎』になる」
「……ふふっ、なるほど?それが今の私……ということですね♪」
僕の言葉と彼女の理解が結び付き、こちらの意志を探るように不安定に揺れ動いていた彼女の瞳が、熱量高く瞬いた。
他人から見ればきっと、お淑やかで落ち着きを感じるような青紫色のその瞳。だけど僕から視たそれは、まるで宇宙をもう一つ作り出してしまう程の膨大な熱量を持った、ビッグバンのように思えたのだった。
「きっと君にとっては、『ちょうどいい』身体の状態になるって、ほんとに奇跡みたいなものなんだろうな。たまたま舞い降りてきたみたいな、そんな天からのギフトみたいなそんな感覚なんだろう」
「ええ、そうですね?こんなに良い身体の調子で居れるのは、生まれて初めてで……」
「だからこそ、この感覚を『理論』に置き換えて、いつでもどこでも『再現』できるようにする。最初はどこからともなく発生するだけだった火の起こし方を発見して、文明が爆発的に進歩した、のと同じように」
「この奇跡を享受するだけでなく……理論に置き換えて、常に再現し続ける……」
「奇跡の再生産、量産化……もしかしたらそれを人は『化学』と呼ぶのかもしれないね?」
「……ふふっ!本当に貴方の口から放たれる言葉は、いつもやたらとスケールが大きくてクラクラしてしまいますね?まるで魔法みたい♪」
「あはは……ま、要するに何事もいつも通り観察と考察だ。どう?具体的にどこが一番調子いいとかある?胃腸の調子、呼吸器、肌ツヤとか……」
「うーむ、あまりピンと来ませんね……そうです、こういった時はジロジロ見たがりのトレーナーさんに、思う存分診察していただきましょう♪はい、どうぞ♪」
「人聞きの悪いこと言わない!見ないよ!ちょっとしか!」
「ふふふっ、ふふふふっ♪」
なんとも余裕綽々そうに、ジャージでパタパタとその身を扇ぐアルダン。その身から放たれる熱量は、まだまだ止まない蒸気機関のような立ち込める水蒸気となり空に溶けていく。
そして見上げたその空……すっかり日が沈んで、いつの間にやら青紫の宇宙に変わっていたその空に向けて、思わず僕は、この手を伸ばすのであった。