メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
「はぁーーー……寒い寒い寒い……」
一月、真冬のど真ん中に差し掛かったある曇りの日。最低気温が氷点下を記録する今日という日に、運悪く僕は外回りの仕事が立て込んでしまっていたのだった。
「今ので最後だったよな……はぁ、さっさと学園に戻って、あったかいものでも……でもトレーナー室も寒いだろうなぁ……最近暖房の効き悪いし……」
クリスマスも年末年始のお祭りムードも過ぎ去った昼間のオフィス街は、なんだか暗く乾いた色調で、なんとも面白みに欠ける雰囲気で、僕はひとりため息をこぼす。東京の冬は、故郷のそれよりもずっと冷たい。
「ってか、手冷たっ。手袋してくれば良かったかな」
無駄に筋張った、なんとも頼りなさげな青白い手のひらに、僕はもうひとつため息を吹きかける。こんな時にすら感じてしまうのは、恋しく思ってしまうのは、彼女の細く柔らかくて、暖かい手のひらの記憶。
「……うう、流石に寒すぎる……!ちょ、ちょっとそこらへんの喫茶店で休憩でも……」
「……あら?そこにおられるのは……トレーナーさんではありませんか?」
「えっ?」
虚しさをなんとか飲み込んで、寒さと恋しさを凌げそうな場所を探す僕の真隣に、突然止まった高級車。なんだか見慣れたその真っ黒なボディから聞こえてきたのは……噂をすれば、なんとやら。
「あ、アルダン?なんでここに?」
「トレーナーさんこそ、どうして……と、募る話は後にして、随分と寒そうな出で立ちですね?ささ、こちらへ、早くお乗り下さい?」
車のドアを開けて、救いの手を伸ばしその中へ誘ってくれたのは、神か、天使か、いや、もちろん我が担当ウマ娘、メジロアルダンであった。
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「はぁーーー……あったかい……ありがとう、助かったよアルダン……それに、ばあやさんも」
「礼には及びませんよ。お嬢様のトレーナー様には、こちらも日頃お世話になっておりますので」
「ふふふっ♪格好を見るに外回りのお仕事だったのですかね?こんな寒い日にまで、お疲れ様です♪」
まさしく渡りに船、地獄から天国。暖房のよく効いた車内のふかふかシートに腰を下ろすと、全身からみなぎってくる生命の香り。バチが当たらぬよう、文字通り命の恩人たる二人に心からの感謝を述べてから、僕はその心地良さを享受するのであった。
「私は隣町のオーケストラの公演会に赴いておりまして、丁度寮へ帰る所だったのです。トレーナーさんも、学園に帰るところ……で、よろしかったですかね?」
「うんうん、間違いないよ。しかし、そうか、学生は今日まで冬休みだったか」
「ええ、明日からトレーナーさんにお会いできるのを楽しみにしていましたが、まさか今日お会いできるだなんて♪バチが当たってしまいそうな幸運ですね♪」
「はは……そりゃお互い様……」
暖かみ……を通り越して、こんがりと焦がれてしまいそうな彼女の笑み。堪らず僕は、己の頬をキンキンに冷えた指先で冷まし始める。
「ふふふ、お休みの間の出来事でお話したい事が沢山ありまして……何から話しましょう?ああ、まず今日の公演会、実に素晴らしくってですね……」
「ふふっ、へえ?そうなの?」
「ええ、ええ♪……あら?トレーナーさん?」
「んえっ?」
放水を始めたダムのように、廻り始めたエンジンのように、とめどなく動き始めた彼女の唇に思わず吸い寄せられている、と。
「……まあ、こんなにお手々を冷たくして!どうして手袋をつけてこなかったのですか?」
「えっ?あ、あー……まあ、家に忘れちゃって、その……」
「ああ、もう、こんなにカサカサにして……きちんとケアをしてくださいとあれ程お伝えしましたでしょう?お待ちください、先日新調したハンドクリームがありますので……」
無理やり僕の頬から手のひらを剥ぎ取って、その柔く細く暖かい、ちいさなちいさな両手のひらで包み込んでくるアルダン。あまりの急な行動にどもり散らかす僕を尻目に、小さく眉間に皺を寄せながら、彼女は僕の手を撫で、擦り、構い倒す。その冷たさとは裏腹にますますその温度を上げていく車内のエアコンに、僕の頬も、ますます、汗ばんでいく。
「……いかがです?お肌に合いますか?」
「あ、ああ、うん。大丈夫、ありがとう……」
……塗るのは、自分で出来るよ?
なんて当然の事すら口に出せずに、僕はされるがままの状態で、彼女のフローラル薫る耽美な手元と、パステル色付く瑞々しい唇を落ち着きなく交互に視界に収める。この手のひらに宿っていく熱が、自分と彼女、どちらから発せられたものなのかも、よく分からないままで。
「……本当に、冷たいお手々ですね。私が休んでいる間も、随分とご苦労されていたようで……」
「い、いやいや。元々平熱低めだし、僕?」
「ふふっ?それ、天然で言ってます?しかし、そうですねぇ……」
「ん?なにかなアルダン?」
「ふふふ……『手のひらが冷たいほど、心が暖かい』というのは、あながち迷信でもないのかもしれないな?なんて、そう思いまして♪」
「……ほんと、敵わないなぁ、君には」
彼女の動かす指の関節、その一つ一つに宿る確かな優しみに。身を越えて、心まで雪解けを迎えたかのように、僕の視界は彼女に染められていく。
……けどまあ、こんな事じゃやっぱりバチが当たっちゃいそう、だからな。
「でも……いいや、やっぱり迷信だよ、そんなの」
「あら?それは、どうしてですか?」
「だって、他ならぬ君の手がこんなにあったかいんだもん。だから『手のひらが冷たいほど、心が暖かい』なんて、迷信」
「…………まあ、ウマ娘の中では、冷たい方なんですけどね?けれども……ふふふっ♪」
「アルダン?」
僕が負けじと向けた、熱い視線。それを正面から受け止めて、彼女の手のひらもますます熱を帯びる。確かに感じる、優しさと熱の循環。とっくに塗り終えたハンドクリームの溶けた香りが、僕らの隙間をいつもより濃密に埋めてくれて……時間を忘れて、僕はその様を眺めていた。
「……『愛情』とは、『熱』なのかもしれませんね?心の暖かい貴方のような人はきっと、毎日毎日周りに『熱』を与え続けて、それで自分はこんなに、冷たくなってしまう」
「……なるほどね?それで言うと、本当に沢山の人から愛情を受け取ってる、君たちウマ娘の体温が高いのも納得だ」
「ふふふっ♪けれども暖まり過ぎるとのぼせてしまいますから。たまにはこうして、貴方の冷たい手で冷ましていただけると有難いです♪」
「もちろん、僕で良ければ、いつだって……」
「ん、うぉっほん!……申し訳ございませんが、わたくしが居るのを、お忘れなく……」
「あ…………ばあや……」
「は、はい……申し訳、ございません……」
そんな循環に差し込まれる、ばあやさんのバックミラー越しの冷ややかな目線。そうだな、きっとばあやさんもまた、日夜沢山の熱をアルダンに……って、そんなこと考えてる場合じゃないな?慌てて僕は、彼女の手から手を離……
「……全く、その様子では車などなくても、お寒くは無さそうですね?丁度駅前までは着きましたので、学園まではお二人で戻られてはいかがでしょう?また昼過ぎですので、多少の寄り道は……目を瞑りますよ?」
「……ふふっ?そうですね?ここまで送り届けてくれてありがとう、ばあや……ささ、トレーナーさん?早速参りましょう♪」
「あ、え、えっと!ありがとうございました!って、寒っ!?や、やっぱ寒くない?アルダン?」
「ふふふ?大丈夫ですよ、貴方の事は、いつでも私が暖めますので♪」
「わ、分かった……分かったから……まず、新しい手袋、買いに行っていい?」
「ふふっ、ではトレーナーさんにお似合いの物を、私が見繕って差し上げますね♪」
繋いだ手もそのままに、今度は寒空の下に僕を引っ張り出すのは、悪魔か、魔王か、いや、もちろん我が担当ウマ娘、メジロアルダン。クリスマスも年末年始のお祭りムードも過ぎ去った東京の冬は、やっぱり故郷のそれよりもずっと冷たいけど、けどまあ、今の僕たちには実に丁度よく思えたのであった。