メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
感電(+サクラチヨノオー) 前編
「買うものリストは、まず予備のシューズに着替え類、クーラーボックスに保冷剤と、それにいつもの救護セット、歯磨きセット、出来れば枕も専用のものを持っていきたい、ね。あと……おやつ?三万円分?いやいや、これは却下……いやでも、モチベーションに関わるかもだしな……折衷案で、一万円分くらいでどうだろう……」
莫大な熱量を窓の外に押し込めて、けれどもけたたましい蝉の鳴き声がそれをすり抜けて僕の耳を打つ、そんな季節。聞きの悪いトレーナー室のエアコンの傍に立ち、茹で上がりそうな頭を冷ましながら僕が見つめていたのは、昨日彼女から……我が担当ウマ娘、メジロアルダンから届いていた、メッセージの文章であった。
「あと何か必要なものあったかな?まあ、合宿所の近くにも一応スーパーとかあるし、現地調達でもいいんだけど……でも案外歩いて行くには遠いんだよなあ、あそこ……」
[☆夏合宿のしおり☆]
と、銘打たれたなんとも煌びやかな画像フォルダをくまなく見回して、右へ左へと首を傾ける僕。それにしても、こんな手の込んだものをわざわざ自分で作っちゃうなんて……相変わらず今年も、だいぶ浮かれてるな?
「ふふっ、遊びに行く訳じゃないって言ってるのに……ほんと、しょうがないな、アルダンは」
押し込めていた窓ガラスを僅かに開き、どこか遠く感じる潮風の匂いを感じ取る。まあ何はともあれ、今年も無事行けそうで良かったかな、『夏合宿』。
ピロン ピロン ピロン
「おっ?予定より少し早いけど……」
[お疲れ様です♪]
[委員会、少し早めに終わりました!]
[ただ申し訳ございません、お財布を寮に忘れてしまったので、すぐに取ってきますね?]
「ふふっ、ほんと浮かれすぎだって……えーと、そんなに急がなくてもいいよ……っと」
彼女から送られてきた、気の抜けたメッセージと愛らしい犬のスタンプを見て、ついつい落ち着きなく手元でレンタカーのキーを振り回す僕。本日の彼女との約束は他でもなく、そんな夏合宿に向けた諸々の買い出しなのであった。
「……夏合宿、か」
午後の三時、まだまだ盛りのついた外の太陽をちらりと見て、僕はしばし自らの顎に手を伸ばす。
彼女にはできるだけ見せないよう努めてはいたが、去年の……クラシック期の今頃は、まあ色々と大変だったな。あのダービーの直後というのもあって、メジロの主治医さんに合宿参加を許して貰う為の資料作りやらトレーニング計画立案やらで、ほとんど徹夜詰めだったか、懐かしい。
けれども、それでも間違いなく行けて良かったと、今は心からそう思う。肉体や技術の成長ももちろんの事、何より『クラシックのあの時期に、最後の一日まで皆と共にあの場所に居れた』という事実そのものが、今日の彼女の……ついでに僕自身の、心身の成長の土台となっているのは間違いようのない事実なのだから。今年はあっさりと許諾を出してくれた主治医さんの判断こそが、その何よりの証拠だろう。
「とはいえ、僕の方は気を引き締めないと、だよな」
では、昨年築き上げたその土台の上に何を創るか?懸命に研ぎあげられたその刃を、どう扱うか?
それを考え、彼女の身に叩き込むのが今年の夏合宿の、僕に課せられた命題。
そして、それこそが『ただ走れるだけで幸せ』だった彼女に『勝利と栄光』という欲望を……そしてこの『眼』を与えた、僕の責任、なのだろう。
視線を落としたテーブルの上、そこに置かれていたのは、今月刊行されたレース情報誌。秋の重賞戦線準備号として表紙を飾る数人のウマ娘達の中で彼女は……メジロアルダンは、未だにセンターから右下手側にずれた挑戦者のポジションからこの時代を見つめていた。
「……どうする?この時代を僕らはどうやって『ひっくり返す』?」
皐月賞のヤエノムテキ
菊花賞のスーパークリーク
安田記念のバンブーメモリー
天皇賞・春と宝塚記念のイナリワン
そして……有馬記念のオグリキャップ
彼女と僕の見つめる先、今の世界を形作る、時代の寵児達。けれどいつまでも様子見なんかじゃいられない、彼女達を突き崩す為の方法を、なんとしてでも今年の夏合宿では……
「………………あれ?」
何か、足りなくない?
「アルダン、ヤエノムテキ、スーパークリーク、バンブーメモリー、イナリワン、オグリキャップ。いやいや、充分過ぎるメンツだろ、何考えてるんだ、僕は……」
と、わざとらしく口に出した言葉の中にもまた感じた、蜘蛛の糸のような極小の違和感。吹けば簡単に引きちぎれそうなその糸を、何故だか僕は無視できずに、少しずつ、少しずつ辿り直していく。
なんだろう、去年からの主なG1の勝者はほとんどいるよな?宝塚に春天安田、有馬記念。ジャパンカップは海外ウマ娘だったし、秋天のタマモクロスは既に引退済み。となるとあとは菊花賞に、その前が……
その、前、が……
コン コン コン
「……あれ、もう取ってきたの?」
僕の思考を遮った、淡雪のような控えめなノック音。辿りかけのその糸をひとまず指先に巻き付けて、僕はドアの向こうへと声をかける。
「どうしたの?遠慮せず入ってきな?」
ガラガラガラガラ……
「やあやあ、委員会のお仕事お疲れ様ー。ちゃんと財布あった?全然浮かれててもいいけど、忘れ物だけは気をつけて……」
「……?何の、お話ですか?」
「えっ?」
レンタカーのキーをしっかりと握り込み、開けていた窓を施錠して、万端の準備で彼女に放ったいつもの声。を、何故だかキャッチ出来ずに、そのまま宙に放り返す彼女の声……
彼女の声、じゃ、ない?
この声、確か、どこかで……
「───────あ、『チヨノオー』」
「えへへ、どうも、ご無沙汰してます……」
───そうだ、『サクラチヨノオー』だ。
その声のする方。そしてこの糸の辿った先にいたのは、他でもない、サクラチヨノオー。アルダンの学友で、同室で、大親友で、そして最大にして、最高の『ライバル』であるウマ娘なのであった。
……おかしいな?なんで僕、彼女の事忘れてたんだ?僕だってアルダンほどでは無いにせよ、これまで何度も何度も、数え切れないほど言葉を交わしてきた仲だって言うのに。
「あ、ご、ごめんね?ちょうど今アルダンと待ち合わせしてて、間違えちゃったんだ、ほんと、ごめん」
「い、いいえいいえ!全然気にしてませんから、大丈夫です!」
「えーっと、アルダンに何か用かな?待ってて、アルダンももうすぐ来ると思うから……」
「ああ、アルダンさんは今頃委員会のお仕事中ですよね?それは分かってます、分かってて来てますので、ご心配なく!」
「え?ああ、うん?分かってるなら、なんでこんな時間に……?」
「その、今回はアルダンさんではなく、アルダンさんのトレーナーさんに会いに来たんです。なので、大丈夫、大丈夫です」
「……僕に?」
気を取り直し、僕は雑多に散らかったテーブルの上を慌てて片付けてから、部屋の中へとチヨノオーを手招きする。けれども当のチヨノオーはその様をやれやれと見つめるばかりで……その敷居は、決して跨ごうとはしなかった。
「ご挨拶に来たんです、今日は」
「挨拶?またなんでそんな、改まって?」
「あはは、ええと、実は、今日から休学することにしたんです、しばらく」
「───えっ…………と、それは、その、なんでまた、急に?」
「あ、えーっと、その……じ、実はこのあいだの宝塚記念で、ちょっとだけ、ちょっっっとだけ、脚を痛めちゃって、ですね?」
「あっ、ああ、なるほど、なるほどね?」
「それでまあ、こないだまでしばらく入院してて……退院はできたんですけど、それはそれとして安田記念からの連戦でちょっとだけ疲れも溜まってきた頃合いなので。ほんのちょっとだけ、実家でゆっくりしよっかなって、思って、ですね?」
「ああ、まあ、そうなんだ?」
「い、いやあ?お父さんにもお母さんにも、ここ最近顔を見せてなかったので、ですね?その、ち、ちょうどいい機会かなー?なんて、そう、思いまして、ですね?」
「ああ、まあまあ、それは大事だね?それは、それは……」
『休学』
彼女の口から飛び出したその一言だけが、僕の頭の中をぐるぐると駆け巡り続けて、続けて。まるで泥か煤が詰まったかのように、喉元から、言葉が出なくなる。
「……宝塚、安田、か」
代わりに僕は、彼女へと続くこのか細い糸を、もう一度、もう一度辿り直してみる。
第三十回宝塚記念。大井の狂犬イナリワンが、その才能を虚仮威しではないと証明して見せた栄光の舞台。
第三十九回安田記念。神童の隠し球バンブーメモリーが、名実共に今年のマイル王者に輝いた栄光の舞台。
そんな栄光の『裏側』を、迫り来る潮風の匂いに押されて、過ぎ去っていく季節の切なさを、僕はもう一度、辿り直してみる。……そうだな、『忘れていた』訳じゃない。僕は『眼を逸らしていた』だけか、その残酷な現実から。
もう一度はっきりとこの眼で視つめた、今現在の彼女の姿。その姿は、まるで……
「あ、な、なのでしばらくはその、お別れなのでっ!それで出発する前に、ご挨拶をと!アルダンさんのトレーナーさんには、何度も何度もお世話になりましたので、ですね!」
「─────」
『こちらこそ、お世話になったね』『今の脚の具合は?』『こっちの事は気にしないで、思う存分休みなよ』『どれくらいで戻れそうなの?』『秋のレースには出れそう?』
喉元まで出かけた言葉が、一瞬で腐り落ちて胸元を圧迫する。果たして今の僕は、今の彼女に対して、何を……
「…………この事、アルダンには?」
「っ─────」
こんな時にでも、誰にだって分かるほど真っ直ぐひたむきに口ごもるチヨノオー。そうだな、今の彼女に何かしら言葉を送るのなら、間違いなく僕なんかよりも遥かに適任な相手がいるだろう。
「うん、分かった。それじゃあ今すぐここに来るよう連絡するから、とりあえず部屋に入って、そこに座って待ってて……」
動揺して、次の言葉が出てこない彼女を今だけは横目に、慌てて僕は自らの携帯の画面を開き、メッセージを
「どうだー?挨拶、終わったかチヨ?」
「あ……」
「あ?」
突然、敷居の向こうから聞こえてきた、無駄に暑苦しい声。本当に、本当に本当に無駄にけたたましいその声に、思わず僕は耳を塞ぐ。
「車、もう正面玄関前に用意してるからよ。用が済んだんなら、さっさと行こうぜ?」
「あ、は、はい、トレーナーさん……!」
チヨノオーの肩口から、相変わらずの辛気臭い顔を覗かせたのは……もちろん、当然、チヨノオーのトレーナーであった。奴はそのままチヨノオーの頭を一撫でしてから、一瞬たりともこちらに目線を向けずに、フラフラと廊下を通り過ぎて行く。
「そ、それでは私はこれで!本当にお世話になりました!アルダンさんのトレーナーさん!」
「ちょっ……待つんだチヨノオー!てかおい!お前も何しれっと通り過ぎようとしてんだ!おいこら無視すんな!」
「……うるせぇな?別にお前に言うことなんてねーよ。そんな仲良くもねーだろ」
「言われなくてもそれは同感だよ。お前じゃなくてチヨノオーに用があるんだ、勝手に連れて行くんじゃないよ!」
「勝手、だぁ?」
無理やり話を纏めて、扉を閉めようとするチヨノオーと、相変わらず透かした態度の奴を、僕は声を荒らげながら引き止める。引き止める、が。
「だったらさっさと言ってみろよ?担当でもねえお前が、チヨに、一体何の用があるってんだ?」
「……それは、お前、その」
「用もねえのに引き止めんな、こっちも暇じゃないんだ、お前の暑苦しい無駄な仲良しこよしに付き合ってる暇なんてねーんだよ」
「…………!」
「と、トレーナーさん……」
「ん、ああ、心配すんなチヨ。今すぐ出れば充分間に合うから、な?」
「それなら、良いのですが……で、ではアルダンさんのトレーナーさん、今度こそ、これで」
「あ……」
「……邪魔しちまって、悪かった」
「……………………」
結局僕は、それきり何も言えずに。最後まで一歩も敷居を跨がずに去っていったチヨノオー達の背を、ただ見つめていた。まるでギロチンを振り下ろすかのような、ドアを閉める冷たい反響音。思わず僕は、その場に座り込む。
「今日ばかりは、暑苦しいのは僕の方か。苦手だったはずなんだけどな、こういうの」
彼女の声が宙に浮かんで、思わず僕は、その名を二度、三度と口にする。この切なさは、丁度数年前に、感じたことが、あるような……
『チヨの最大にして最強の武器は、『体幹の強さ』と『重心のバランス』!タイマンでの競り合いなら、シンボリルドルフだろうがタマモクロスだろうがオグリキャップだろうが、誰にだって、負けねえよ!』
……それと、何故だかおまけで着いてきた、いつだったかの併走トレーニングで聞いた無駄に暑苦しい声。懐かしいな、悔しいから口には出さなかったけど、あんな競り合われ方された時は、流石に腰を抜かすかと思ったっけ。
「……なんだよ、どいつもこいつも。僕にどうしろってんだ」
完膚なきまでに閉じられたドアと、自らの手のひら、そして散らかったままの本棚を互い違いに見つめて、僕はただ、項垂れる。そして流し込まれた毒物をなんとか分解するように、頭の中で先程目撃してしまった彼女の姿を……恐らく、僕が視た彼女の最後の姿になるであろうそれを、何度も何度も頭の中で反芻した。
……『才能も使い方次第』というのなら、ならば今視えたこれは、どう扱えばいい?
体幹も重心ももはや見る影もなく、以前の彼女からは考えられない程に骨盤が歪んで、重心が不均等で、普通に歩くだけでも絶望的なほど難しそうなその脚を……少なくとも、もう二度とターフなんて踏めない、踏む気さえ無さそうなその脚を、僕はどう、捉えればいい?
そして、なにより。
[お疲れ様です♪]
[委員会、少し早めに終わりました!]
[ただ申し訳ございません、お財布を寮に忘れてしまったので、すぐに取ってきますね?]
「……アルダン」
開きっぱなしだった携帯の画面を覗き込んで、一言、息を漏らす。
幸か不幸か、間一髪この場に立ち会う事が出来なかった我が担当ウマ娘、メジロアルダン。彼女には、この事実をどう伝えればいい?
……いや、やっぱり彼女だけはこの場に立ち会わなくて、よかったはずだ。
既に僕と同じ『眼』を持つ彼女のことだ、チヨノオーのあの姿を見れば、きっと僕が視たのと同じ『結末』が視えてしまうはず。ならば、彼女にこんな結末を視せるくらいなら、事実なんか伝えずに僕一人で苦しめばいい。それこそが本当の、彼女にこの『眼』を与えた、僕の責任、なのだろう。
「……買うものリストは、まず予備のシューズに着替え類、クーラーボックスに保冷剤と、それにいつもの救護セット、歯磨きセット、出来れば枕も専用のものを持っていきたい、ね。あと……おやつ三万円分か。まあ、それくらい、いいか」
莫大な熱量を窓の外に押し込めて、けれどもけたたましい蝉の鳴き声がそれをすり抜けて僕の耳を打つ、そんな季節。聞きの悪いトレーナー室のエアコンの傍に立ち、茹で上がりそうな頭を冷ましながら、僕はもう一度、昨日彼女から届いていたメッセージの文章に目を通す。
まあ何はともあれ、今年も無事行けそうで良かったかな、『夏合宿』。それで、夏合宿が終われば休む間もなく秋の重賞戦線だ、まずは秋天、間違いなくオグリキャップやイナリワン、スーパークリークにヤエノムテキあたりは出てくるだろうな。こんな凄まじいメンツと競い合えるだなんて、実にトレーナー冥利に尽きる、というものだ。
そして、秋天が終われば、その次は……
「…………どうするかな、『ジャパンカップ』」
ドドドドドドドドドドドド……
ガラガラガラッ!
「……!チヨノっ……!?」
「トレーナーさんっ…………!!!」
「お……えっ?」
不意に聞こえてきた、ひたむきな春嵐のような脚音に、思わず声と顔を上げる僕。けれどもそこに、敷居を踏み越えて立っていたのは。
「あ、アルダン!?どうしたのそんなに急いで!?」
「はあ、はあっ……!トレーナー、さっ……!」
他でもない、我が担当ウマ娘メジロアルダン。青白く血相を変えながら、まるでレース直後……いや、それ以上に荒く肩で息をする、彼女の姿なのであった。
「お、落ち着いて?ちゃんと話は聞くから、とりあえずそこに座りな、ね?」
「っ、わ、私は大丈夫です……!それよりも、それよりも、チヨノオーさんが……!」
「っ……!ち、チヨノオーが、どうしたの?」
まるで示し合わせたかのように、彼女の口から飛び出したその名前。僕の心臓も、ズキリと跳ね上がる。
「先程、お財布を取りに寮の部屋に戻ったら……机の上に、これが……」
「これ、は……」
そして彼女の手に握られていたのは、小さな桜色の便箋。丁寧な文字で彩られ、几帳面に三つ折りにされた、一目見ただけでひたむきさが伝わってきそうな、そんな手紙だった。
──────────────
拝啓 メジロアルダンさん
今まで、本当にお世話になりました。
最後に一つだけ、お願いがあります。
この手紙を読んだあとは、どうかもう二度と私の事を思い出さないでいてください。
貴方はこれからも、私の目も、誰の目も気にせずに、貴方だけの道をひたむきに走り続けて下さい。
貴方の幸運を、心から願っています。
さようなら。
サクラチヨノオー
──────────────
「…………!」
「こんなお手紙、朝起きた時には無かったんです。偶然財布を忘れて、それで寮に戻ったから明るい時間のうちに気付く事が出来ましたが……もし、そうでなかったとしたら……!」
一文字一文字、きっちりと丁寧に、ひたむきに向き合って書かれたその『便り』。けれども、並ぶその言葉には以前のような彩りも暖かみもなく、そこにあるのはまるで桜流しの雨に打たれたかのような、インクのにじみだけだった。
「………………」
「トレーナーさん、どんな些細なことでも構いません、チヨノオーさんの行方に心当たりはございませんか?」
「………………」
「先程から、メッセージを送っても電話をかけても、一向に反応がないのです。お願いです、教えてくださいトレーナーさん、私はこれから、どうすれば……」
「心当たりなら、あるよ」
「……トレーナーさん?」
そして右手にその手紙を、左手に僕の腕を強く掴んで、梅雨の土砂降り模様のような表情を浮かべながら、懸命に彼女の『たより』を探す、アルダン。
そんな彼女に向けて、僕は、口を開く。
「ついさっき、十分くらい前かな。彼女、この部屋を訪ねてきたんだ」
「…………!ほ、本当ですか!?」
「ああ、なんでも今日から休学して、実家で休養するらしい。それで、僕にお別れの挨拶をしに来たんだ。これから彼女のトレーナーと一緒に、車に乗って帰るらしいよ」
「あ、ありがとうございます、トレーナーさん!それでは早速私達も、チヨノオーさんを追いかけましょう!」
「アルダン」
「そういえば、今日は夏合宿の買い出しのためにレンタカーを手配しているとおっしゃっていましたよね?ね?トレーナーさん?」
「アルダン」
「本当に、貴方がいてくれて良かった……!きっとこちらも車で追いかければ、すぐに追いつくはずです!その車、今どこに停めて……」
「アルダン!!!」
「っ……!トレーナー、さん……?」
一人、身体と意識を前へ前へ前へと進めようとするアルダンに、僕は声を荒らげて立ち塞がる。前言撤回、やっぱり今の彼女に必要なのは、『優しい嘘』なんかじゃないだろう。
「急いで追いかけて、追いついたとして、君は彼女に、一体何を言うつもりなの?」
「それは、もちろん……」
「………………」
「……もち、ろん」
「確かに大親友の君が引き止めて、心から応援してあげれば、彼女はもう一回ぐらい頑張って続けてくれるかもしれないね。それで、確かにもう一度栄光を掴めるかもしれない……けれどももしかすると、もう既にボロボロの身体を更に酷使して、今度こそ日常生活もままならない程の大怪我をしてしまうかもしれない。もしそうなってしまった時に、君にその責任が取れるの?」
「………………」
「君のやろうとしている事は、それくらい重いことだ。頑張れとか負けないでとか……『諦めないで』とか。そんな言葉は、本当は自分の人生全部を相手に捧げるくらいの覚悟がないと、言っちゃいけないものだと、僕はそう、思う」
「………………」
「ついさっき僕が視たチヨノオーの姿は、酷くボロボロだった。あんなに逞しかった重心も体幹も最早見る影もなく歪み切っていて、あの状態からなら十年や二十年かけても、G1どころかアマチュアのレースにすら勝てはしない。それが僕の視た、そしてきっと君が追いかけた先に視ることになる、サクラチヨノオーの現在地だ」
「………………」
僕はただひたすらに言葉を尽くして、自分が先程視た光景、それに対して感じた事、自らの考え、これからの展望を語り尽くす。そうやって、この眼で視えた視覚、聴覚、嗅覚……五感の全てを、余すことなく彼女の知識とリンクさせる。
そうだ、間違いなく今の彼女に必要なのは、優しい嘘なんかじゃなく『正確な情報』だ。ターフ上でいつもいつも、僕らが呆れ返る程繰り返していることと同じ。正確な情報を知ることができれば、それを素材にして、彼女は自分自身で『考える』事ができるから。
「改めて、言っておくよ。僕と、そして君が身につけたこの『眼』は、ただ『視える』ようになるだけ。その視えたものを塗り変えるための力や策は、その都度別で用意しなくちゃいけない、解ってるね?」
「…………はい」
「その上で、残念ながら僕らには彼女の身体を治してあげられる程の医学の知識はない。ボロボロの身体のままでも走れる技術も、持っていない。そもそも僕らは彼女のトレーナーでも保護者でもなんでもないんだから、彼女の決めた事に口出しする権利だって、ない」
「…………はい」
「……じゃあ、聞くよ。『その事実を承知の上で、君はどうしたい?』」
「………………………………」
最後に、僕がそっと提示した質問を眼前にして、彼女はしばらく、口を閉ざす。窓の外から射し込む日の光も傾き初めて、エアコンもじわじわと効き始めて、少しずつ、少しずつ冷たくなっていくトレーナー室の中で。
「まずは、申し訳ございません、トレーナーさん。先程までの私、確かに冷静ではありませんでした。貴方のことも、まるで小間使いのように扱ってしまって……」
「ああ、僕の事はいいよ、大丈夫」
「ありがとうございます、トレーナーさん。その上で、改めてお願いがあります」
「うん、何かな」
「やはり私は、チヨノオーさんにお会いしたいです。どうか、私をチヨノオーさんの所まで連れて行ってください。お願いします」
「それは、一体何をしに?」
「もちろん、『喧嘩』をするために、です」
「そうか、喧嘩か……えっ?喧嘩?」
それでも、やはり彼女のその瞳は、実に不安定に揺らぎながらも、それでも、こちらの額まで汗ばんでしまうほど爆発的な熱量で、メラメラと猛り、燃え盛り続けていたのであった。
「えっ、何?喧嘩って……あの、喧嘩?」
「はて?喧嘩にあのもそのもありませんでしょう?喧嘩は喧嘩、それも一世一代の、大喧嘩です」
「…………アルダン、そんなに怒ってたの?」
「当然です!自慢ではありませんがね!これでもチヨノオーさんとは大親友と呼んでも過言では無いくらいには仲良しだと思っていたんですよ!?」
「お、おお……そうだね……」
「それをなんですか!こんな紙切れ一枚ではいさよならとは!いくらなんでも酷すぎると思いませんか!?思いますよね!ね!トレーナーさん!?」
「あ、ああ、まあ、そうなんじゃない……?」
「これでも結構、色々とお世話だってしてきたんですよ?勉強に詰まっていた時は家庭教師代わりとなり!朝寝坊しそうになっていた時は優しく揺り起こしてあげたり!いえまあ、起こしてあげてたのは、お互い様なのかもしれませんけど!」
「い、いでででで……!わかった、わかったから僕に八つ当たりするのはやめよ?小突くぐらいでも、ウマ娘の力全然バカになんないから……!」
その炎を顔中に纏わせ、僕の脇腹にグリグリと爪先を突き立ててくる、アルダン。な、なんか思ってた反応と全然違うんだけど……
「ほんとに、もう!ですので、ちょっとやそっとでは許してあげないつもりなんです!酷く罵って、謗って当て付けて、例え泣いても喚いても、誹謗も中傷も罵詈も雑言も醜く吐き捨てて差し上げて……」
「………………」
「……そうしたら、もしかするとチヨノオーさんもイラついて、悔しくなって……私の事、やっぱりターフの上で見返してやりたいと、そう思い始めるかもしれませんね?」
「…………!」
「ふふっ?それならば問題ありませんよね?他ならぬ『チヨノオーさん自身』が決めた事なのですもの♪」
「っ……ぶふっ!あははははっ!ほんと、よくもまあそんな事をこの短い時間で思いつくもんだ!ほんと、感心するよ、ほんと……!」
けれども、そうだよな。この世の誰より傍若無人で、そして誰より『自由』な、僕の視た世界をぐちゃぐちゃに掻き乱してくる最高に痛快なウマ娘。
やっぱりそれこそが、『メジロアルダン』なんだよな。
お腹と背中がひっくり返りそうなほど笑い転げる僕を袖に、まだまだ彼女は、口を開く。
「……まあ、もちろん無理強いはいたしません。それだけは、約束いたします。もし、チヨノオーさんが心の底から走りたくないとおっしゃるなら、潔く諦めて、笑顔で送り出します」
「ああ、まあ、それはもちろんね?」
「けれども……やっぱり私は、直接会って意見をぶつけ合いたい。今までずっと彼女と私がそうしてきたように、言葉でも、それ以外でも。そうでなければ、私は決して納得など、できません」
「アルダン……」
「ですので……改めて。私をチヨノオーさんの所へ連れて行ってください、トレーナーさん。貴方だけが頼りなのです、お願い、します」
「………………」
淡雪のような優しさと、春嵐のような強さが爆発的な化学反応を起こし、にじり寄る夏の気配を消し飛ばしてしまった……そんな、かつて見たこともないような季節の風に包まれる、僕と彼女の、瞳の中の世界。
僕はこの手のひらに強く強くイグニッションキーを握りしめ、一歩、この部屋の敷居を踏み抜いた。
「……さっきは、怒鳴ってしまってごめんなさい。レンタカー、裏口の駐車場に停めてあるから」
「トレーナーさん……!」
「それと……あの日君のトレーナーになれたこと、そして今日まで君のトレーナーでいれたこと、本当に、心の底から誇りに思うよ、僕は」
「────ええ、私も貴方の担当ウマ娘になれたこと、誇りに思います♪」
「よし!じゃあ行こうアルダン!チヨノオーのの元に!」
「はい!トレーナーさん!」
そんな僕を追って、同じように敷居を跨いで走り出した、アルダン。はたして僕は、今度こそ君の『相棒』足り得る存在に、なれているのだろうか。
……なんて感傷に浸るのは、全部、全然終わってから、だよな。
ますます傾きだしたオレンジの光に照らされて、僕らの瞳も大きく揺らぐ。酷く不安定で、結局やっぱり何の策も勝算もない今の僕らだけど、それでも確かに一歩一歩、彼女の元へと走り出すのであった。
後編→下記『次の話>>』から