メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』   作:いずさわ

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2026/8
Sayonara


「人が死ねば、私たちはどうして悲しくなるのでしょう」

 

消毒液の香りがひどく鼻につく、白い部屋。一際白いカーテン越しに見える空を撫でながら、彼女は、我が担当ウマ娘メジロアルダンは呟いた。

 

「それは……もう会えなくなるから、じゃないの?人もウマ娘も、死ねばもう二度と会えなくなる。こうして話すことも、触れ合うことだって」

 

地域一の大病院……彼女が、幼少の頃から何度も何度も通いつめた、あるいは囚われたこの場所。その一等級の病室で僕らは二人きり、静寂で静謐な、まるで永遠とも思えるような時間を過ごしていた。

 

「まあ、それもそうですよね?考えるまでもないこと、でしたね」

「……けれども?」

「けれども、なんでしょう。もう少し、もう少しだけこの心は、細かく解体して、考えることができるような気がして」

 

そんなありあまる時間の中で、彼女が提示してきたいつもの思考ゲーム。出会ってから早数年、これまで彼女と何度も何度も交わしあってきた議論の模様がふとフラッシュバックして。それから僕は、にじむ目頭を、暫く押さえつける。

 

……大丈夫、僕はまだ『我慢』できそうだ。

 

「そうだなぁ、確かに言われてみれば別に『会えなくなるから』悲しいってだけじゃない気もするなぁ。例えばもう何年も会ってなかった親戚とか、好きだったけど会いに行ったことはない有名人とか。なんなら見ず知らずの他人だとしても、目の前で死なれれば、きっと僕は悲しい気持ちになっちゃうだろうから」

「ふふ、やはり貴方は、やさしいですね」

「君ほどじゃ、ないよ?」

 

まだ手付かずの、お見舞いのフルーツ。彼女はそれを腐らぬよう、丁寧に日陰に並べていく。この分なら、あと数日くらいは日持ちするかもしれないな。

 

「そうですね、その視点はとても鋭いかもしれません。言われてみれば私も、身近な人だけではなく有名人やアーティスト。それこそ、何度も自由に見返せるはずの演劇や小説の登場人物ですら……命絶える瞬間を目撃すれば、それだけで、悲しい気持ちになってしまいますから」

「……演劇や、小説の登場人物ですら、か」

「トレーナー、さん?」

 

僕はそんなフルーツの中からただ一つ、既に痛みかけてしまっている林檎を掴みとり、手頃なナイフを突き立てた。

 

「ものすごく、悪い言い方なのかもしれないけどさ」

「ええ」

「『死』って、これ以上ない最高の『エンタメ』なのかもね」

「最高の、エンタメ、ですか」

 

切り分けた林檎を、彼女に一つ、僕に一つ取り分けて。そうして僕はそれを口に放り込む。もはやその身を保つことすらおぼつかないほど熟した果肉、けれどもその分、その実は思わず目が眩みそうなほど、甘く蕩けていた。

 

「例えば、恋する気持ちを知らない人は、世の中結構いるかもしれないね。家族の絆や、労働の苦しみを知らない人も、割といそうな気がする」

「ええ、確かにそうですね?」

「けれども、『死の恐怖』が分からない人は、少なくとも先に挙げたどれよりも、きっとずっと少ないと思う。テレビでも新聞でも人が死んだ知らせは毎日のように飛び込んでくるし、その辺に飛ぶ虫をバチンと叩いてみれば、しばらくのたうち回って、やがて死ぬところを簡単に目撃することができる」

「………………」

「何気ない切り傷擦り傷で血を出せば、痛みとショックで気が遠くなることを当たり前に感じられるし、それを何十倍にすれば、自分だって死ぬんだなってことは、容易に想像がつく。友情や努力、愛や恋なんかより遥かに簡単に全人類が共感できるもの、それが『死』なのかも、しれない」

 

僕が差し出した林檎を、口元でしばらく浮かせてから。けれども彼女はそっと首を横に振りながら、それを無言で僕に返す。そういえばここ数日、彼女が食べ物を口にしているところを見た覚えがないな、けれども、まあ、無理強いはできないか。

 

「確かに、貴方の言う通りなのかもしれませんね。『死の恐怖』というのは、誰もが簡単に共感できる。故に、他の物事よりも簡単に悲しみや切なさなどの感情を伝播させやすい……それが実に、『エンタメ』的だと」

「……もちろん、最初に言った『身近な人ともう会えなくなる』っていう悲しみは根っこにあるんだろうけど。もしかしたら今の僕たちは、本当なら自分には不必要な悲しみも、いつの間にか背負わされているのかもしれないね」

「────だと、するならば」

 

消毒液の香りがひどく鼻につく、白い部屋。切り分けた林檎をひとまずテーブルに置いて、僕らは向かい合って座り込む。昨日会った時より深くなった彼女のクマ。今すぐ差し伸べたくなる右手を、僕はそっと、左手で押さえつけた。

 

「今朝、この部屋で目を覚ました時に、思い出したのです。幼い頃、この病院で出会った人々のことを」

「………………」

「海外で難しい手術を受けてくると言い残した男の子が、それから二度と帰ってこなかったのを。毎朝の占いを楽しみにしているのだと夕食の時に話していたおばあさんが、明日の朝食から顔を出さなくなったのを……すっかり忘れていたそんな人達のことを、何故だか今朝、思い出したのです」

「……それで、今日は僕に、こんな話題を」

 

うつらうつらと、首を僅かに傾げながら。それでも一言一言丁寧に、誠実に、まるで大切な人への手紙をしたためるかのように、彼女はそのかさついた唇を動かす。窓の外には、きっと入院している子供が吹いているのであろう、シャボン玉が、ふたつ。

 

「きっと、彼は縁もゆかりも無い国の病院の、硬い手術台の上で亡くなったのでしょう。きっと彼女は、相部屋の病室の片隅で、誰にも看取られずにひっそりと息を引き取ったのでしょう」

「……ああ、そうだね。きっと、そうなんだろうね」

「大切な人達に囲まれて天寿を全うする綺麗な終わり方や、逆に志半ばで未練を残しながら壮絶な最期を遂げる醜い終わり方は……それこそドラマや映画、小説といったエンタメで幾度となく見てきましたから、なんというか、なんとなく想像がつくのです」

「けれどもこの世界にはきっと『そうじゃない死』の方が、ずっと多い」

「そしてそんな『そうじゃない死』というのは、人々には殆ど伝播されない。幕内で淡々と処理されて、気付いた瞬間には、もう跡形も残っていない」

 

彼女が話す度、彼女しか覚えていない彼女だけの記憶を声にして残す度、示し合わせたかのようにシャボン玉は飛んでいく。けれども僕はそれを、この窓枠の内側でしか観測できない。目の前で壊れて消えるものに感情移入はできても、この視界から外れた後消えるもの、それと、この視界に入る前に消えてしまったものに、思い馳せることは、できない。

 

「自分には不必要な悲しみも、いつの間にか背負わされているのかもしれない。その逆に、私個人にとって必要だったはずの悲しみも、いつの間にか誰かに覆い隠されてしまう。そんなことも、本当は沢山あるのかも、しれない」

「……そうだね、案外『何に悲しむのか』を自分で決めることって、すごく難しいことなのかもね」

 

……そうやって話している間に、あんなに沢山飛んでいたシャボン玉は、その姿をすっかり消してしまう。時刻はちょうど正午、これを飛ばしていた子は、どこにいったのだろう。永遠に解けない謎を、僕に残しながら。

 

「───そして、だからこそ死は悲しいんだろうね」

 

「……!」

 

消毒液の香りがひどく鼻につく、白い部屋。僕はいよいよ、震える彼女の手を掴む。

 

「なんとなく、視えてきた気がする。死の悲しみって、きっと『自分で選べなかった』ことに対する悲しみなんだろうね。自分の意思で、生きるか死ぬかを選択出来なかった、そのことに対する、悲しみ」

「……なる、ほど、確かに、それはすごくしっくりきます。隣人のことでも、有名人のことでも、空想の存在のことでも、自分自身のことでも。その人が生きるか死ぬか、というのは、私自身が決めることは、できない」

「うん。そもそも死ぬのって、きっと大抵『生きることを選べなかった』結果だから」

 

嵐の前、天変地異の前触れ、晴れ空に雨が降り出すように。彼女の乾燥した手のひらにも、涙が一粒、降り注ぐ。

これまで常にひとときも欠かさず、己が運命に立ち向かい続けたメジロアルダンというウマ娘。だからこそ、彼女にとって『選べない』という事実はきっと、僕なんかじゃ想像もつかない程の絶望、なのだろ─────

 

 

「…………それでも、私は選びたい」

 

 

「……!」

 

それでも。

 

弱々しく、嗄れた、けれども触れるもの全てを穿つような彼女の声が、僕の鼓膜にも突き刺さる。

そうか、そうだよな、『メジロアルダン』というウマ娘は、それでも。

 

「……いけませんね、こんな個人的なこと、今は、そんなことを言う、場では、ないと、言うのに」

「いいや、それでも、君は言いたくなったんでしょ?きっと、それが答えだよ」

「……わたしは、やはり、選びたい。選べないとしても、それでも、どうしても自分自身の手で選びたいと思ってしまう。何に悲しむのかも、逆に何に喜ぶのかも、生きるのも死ぬのも、いつどこでだれに、さよならを言うのかも、ぜんぶ、自分で選びたいのです、わたしは」

「っ、そう、だね。君はいままで、ずっとそう、してきたもんね。それが、それこそがきっと『メジロアルダン』というウマ娘、だから」

 

また一粒、もう一粒と、僕の手の甲に滴り染み込む恵みの雨。枯れた大地を潤すように、僕の目尻にも、滝のような湧水が溢れはじめる。

けれども、『我慢』だ。我慢、我慢、我慢。僕はまだまだ、まだ、彼女と一心同体じゃない、悲しみを共有する家族でも恋人でも、まだ、ない。

 

では、何か。僕は、彼女の、なんなのか。

 

「……だったら、『強く』ならなきゃだろ、メジロアルダン」

「とれ、な、さん」

「強く、なるんだ、メジロアルダン。今みたいに弱いままじゃ、何も選べないだろう。強くなるんだ、何もかもを自分の手で選べるくらい、強く、強く、僕はその為に、君と、これまで生きてきたんだから」

「───はい、はい……!『トレーナー』さん……!」

 

 

そうだ他でもない僕は、彼女の『トレーナー』だ。

ちっぽけなこの手で、それでも間違いなく己の意思で彼女を選び取った。その日から僕は、彼女を『強く』、強くするために、今日まで生き抜いて、きたんだ。

 

 

「だから、まずは、ごはん!なんでもいいから食べるんだ、アルダン!食べて、食べて、筋肉をつける!まずは、それから!」

「っ、はいっ……!はい……っ、トレーナーさんっ!こちらの林檎、やっぱり、いただきますっ……!」

「そんで、その後はお風呂!は、ここじゃ難しいけど……せめて顔だけでも洗う!いいね!」

「んぐ……!ん……ふぁいっ!ふぁ……いっ……!」

 

そしてそうだ、林檎も、シャボンだって、決して死人の為のものなんかじゃない、感傷に浸るための道具、なんかでもない。今この場で生きている者たちを、そして他でもない『彼女』を、これから先もずっとずっと生かす為の、そのための、道具なんだ、絶対に。

 

テーブルに置いておいた果実を、手掴みで無理やりに口の中に突っ込む、アルダン。目と鼻と頬を新鮮な赤で染め上げた今のその姿は、間違いなくこの世のどんなものよりも美しくて……僕は真っ直ぐに、それに向けて、手を伸ばし─────

 

 

「アルダンさんっ……!!!」

 

 

「……!ま、マックイーン!?」

「はぁ、はあっ……!終わりました……今しがた、終わりましたよ……!」

「っ……!」

 

消毒液の香りがひどく鼻につく、白い部屋……を切り裂くように突然響き渡ったのは。メジロマックイーン、アルダンと同じメジロ家出身のウマ娘、彼女にしては珍しいなりふり構わぬ嗚咽混じりの叫びであった。

 

「お、終わった……!?ど、どうだったの?」

「……………………ぅ」

「ま、マックイーン?」

 

「成功……ですっ……!ばあやの手術は、無事、成功いたしました……っ!」

 

「──────────」

 

 

……遡ること、数日前の早朝。珍しく僕に連絡をくれたのは、メジロマックイーンだった。

 

ばあやさん……いつもアルダンの世話をしてくれている、なんだかんだ僕とも親交深い、メジロ家の使用人。

彼女が勤務中に意識を失い、病院に運び込まれた。たまたま居合わせたアルダンもそれに付き添い、泊まり込みで看病をしている。彼女から届いたのは、そんな知らせだった。

 

「難しい手術でしたが……何の問題もなく成功。経過観察後この病室に帰ってきて、恐らく意識も、じきに戻るはずとのことでした……!」

「それは、それは……!良かった、本当に……ね、アルダン……!」

「っ……っう……う……ぃ……はぃ……とれ、な、さんっ……!」

「……ふふ、それとアルダンさん。先生が貴方に、深く感謝を述べておりましたよ?」

「へ……?わたしに……?」

「なんでもばあやの疾患は、発作が起きた直後の対応で死亡率が大きく変わるそうで……アルダンさん、貴方の最初の手当が無ければ、今回の手術の結果も大きく変わっていたそうですよ?」

「…………!」

「居合わせたのが、私や他の娘達ではこうはいかなかったはずです。ですので、私からも礼を言わせてください。私達のばあやを守ってくださって、ありがとうございます、アルダンさん……!」

 

その眼に恵みの雨を貯めながら、胸に手を置き深々と頭を下げるマックイーン。そんな姿を、ただただ呆然と見つめる、アルダン。まるで永遠とも思えるようなあたたかい時間の末に、僕は口を開く。

 

 

「……ふふ、なんだ、ちゃんと選べたじゃん。ね、アルダン」

「ふふ、ふふふっ……!はい、トレーナーさんっ♪」

 

 

「あら?そういえばこの部屋。朝見た時より綺麗になっていますわね?ばあやが過ごしやすいように、おふたりで色々と整えてくださったのですね?」

「ふふ、ええ?心配性のばあやのことです。少しでも気になる部分があれば、充分に休息を取ってくれなくなってしまいますでしょう?」

「……それを言うならば、ですよね?アルダンさんのトレーナーさん?」

「ああ、そうだね?マックイーン?」

「……トレーナーさん?マックイーン?」

「失礼ながら、鏡をご覧になってくださいアルダンさん?貴方のその姿を見て……ばあやは充分に、休息を取ってくださいますでしょうか?」

「あ……」

「ふふふっ?それでは私は一番近くの保養所に連絡をしておきますから。アルダンさんのこと、お願いいたしますね?」

「ああ、任せて!それじゃあ……行くぞー!メジロアルダン!」

「はーいっ!トレーナーさんっ!」

「えっ、何故そんな、熱血に……?」

 

消毒液の香りがひどく鼻につく、白い部屋。一際白いカーテン越しに見える空を背にして、彼女は、我が担当ウマ娘メジロアルダンは歩き出す。

誰にも背負われず、覆い隠されもしないその逞しい背中。その背といつか、一心同体になれるように、悲しみも、そして喜びだって安心して共有してもらえるように。

 

「僕も、もっと強くならなきゃな」

 

いつか彼女が、さよならを選ぶその時まで、ずっと、ずっと。

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