メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
「今日は、良い天気だなぁ……」
日の光、のどかに射し込む、春の日に。僕は僅かに軋む古ぼけた縁側で、ただただその情景を、何をする訳でもなく眺めていた。
ふと見上げれば雲ひとつない青空が拡がって、耳を澄ませばメジロかウグイスか、風情溢れる鳥の声が聞こえてくる。軒下のへりが作り出した日陰は、少し雪解けを思い出させる冷えた風を生み出して、それがシャツの隙間から入り込み、僕は小さくくしゃみをする。本当に、心から美しい情景だ。
…………まあ、ほんの少しだけ欲を言えば。
「もうちょっとだけ、早く来たかったけどね」
縁側から見える庭には、大層立派な桜の樹が一本、まるで祝福のコンフェッティのごとく晴れ晴れと咲き誇っていた……のはきっと、昨日までの話。
昨晩降りしきった春時雨のせいかおかげか、今の僕の眼に映るそれはただ、忙しなく散るだけの花びらと化していた。夜露の湿っぽさをたっぷり吸い込んで、やたらと重く項垂れるように、地面へ零れ落ちていくだけのくすんだピンク。間もなく訪れる鮮烈な季節へ弾みをつける為の様式美、と、理屈では分かっているけど、なんだかな。
「もう少し、ゆっくりしてけば、いいのになぁ」
「それを言うなら、貴方もですよ?」
「うおっ!?あ、アルダン!いつの間に?」
午前中、まだ傾いた太陽が、生む日なたから、現れたのは……我が担当ウマ娘、メジロアルダンであった。まるでそんな情景すらスポットライトに変えてしまうような彼女の眩さを不意に食らった僕は、なんとも窮屈に視線を泳がせ、彼女の着る真っ白なブラウス、その中に一点灯る可愛らしいリボンタイに目を向ける。
「午後にはすぐに帰ってしまうのでしょう?何なら貴方も、一泊くらいしていけば良いのに……」
「いやぁ、それもやまやまなんだけどね?やんなきゃいけない仕事が溜まっててさ」
「むぅ……」
ここのところレース続きで、忙しない日々を送っていたアルダン。来たるべき未来の事も考え、今日から一週間ほど、このメジロ家の保養所で休息を取る事と相成った。
というわけで僕もその往路の付き添い兼荷物持ちで、車で二時間、この場所へ足を踏み入れたのである。
「どう考えても、まとまった休息が必要なのはトレーナーさんの方だと思いますけどね?」
「ははは、それはお互い様じゃない?僕もそんなに無理はしないから、君も……」
「あ、そうです、お茶でも淹れましょうか?美味しいお茶菓子もありますし……ああ!少し早いですがお昼ご飯にしましょうか?今日は特別に、私が腕によりをかけて差し上げますよ?」
「アルダンの料理っ!?…………い、いや、だから今日は君の休息なのであって……」
という訳で、通されたお屋敷の離れ。畳の香りが香しい小さなゲストハウスに、彼女のほのかな笑声が響く。実に後ろ髪を引かれるような彼女の提案に、慌てて背を向ける僕。そんな僕を嘲笑っているのだろうか、カラスのあくびが遠い野山から、コメディシーンのSEよろしく鳴り響いていた。
「ふふふ、冗談です♪流石にお昼には早すぎますものね?」
「いや、そこじゃなくてさ……」
「ではひとまずお茶とお茶菓子を……と、何か暇つぶしに遊べそうなものなど、あると良いのですが……」
「ねぇー?聞いてる?」
僕ののっぺりしたゆるいつっこみを無視して、彼女はぺたぺたと素足を晒しながら、畳張りの部屋中を少年探検隊のように探索し始める。そのローペースに文句を言う気すら起きず、僕は今一度、湿った土の気配漂う庭へと眼差しを向けた。そこには相変わらず、急かせか散りゆく、花雪崩。
……そりゃあ、まあ。僕だってできるなら、もう少しだけゆっくりと、このまま───
「まあ!」
「んっ!?何っ?どうしたの?」
まるで宝物を見つけた少年探検隊のように、彼女はばたばた素足をはためかせながら、こちらに駆け寄ってくる。その手には、古びた和紙で包まれた、小さな箱がひとつ握られていた。
「これ、百人一首の札ですよ♪押し入れの中に入っていました♪」
「へえ、百人一首。そういやアルダン、好きだったね?」
「トレーナーさんも、でしょう?最近は忙しくって、二人では遊べていませんでしたが……」
僕の脳内、博物館のようにピカピカに展示された記憶達の、その十何番目か。彼女がトレーナー室に持ち込んで来た百人一首で一緒に遊んだ事を、僕はまじまじと思い出していた。彼女の欲望渦巻く美しい瞳も、重ねた手の温もりも……
「これはまさしく渡りに船ですね?久々に一勝負、お相手願えますか?」
「いやいやいや、だから僕、午後から仕事に戻らなきゃって言ってるでしょ?」
「…………」
「午後から仕事に戻らなきゃ、だから、さぁ……」
「……一回だけだよ?」
「ふふっ、それでこそトレーナーさんです♪」
……そして、散々ボッコボコにされた悔しさもまた、実に鮮明に蘇ってきたのであった。
「さあさあ、そうと決まれば早速準備しようか?」
「はい♪では私は読み上げのアプリを……あら?申し訳ございません、携帯を自室に置いてきてしまって……」
「大丈夫、僕の携帯にももうダウンロードしてあるからさ?」
「まあ?」
実に居心地の良かった縁側のふちに別れを告げ、その勢いのまま、勇み足で敷居を跨ぐ僕。ジャケットを脱ぎ捨て、シャツの袖を捲り、前髪をかき上げて堂々彼女に向かい合う。
「……ふふ、知らぬ間に随分と凛々しいお顔になりましたね?思わず、見惚れてしまいそうです♪」
「まだまだ、惚けるのは早いよ?せっかくだから、ちゃんとした実力で君の目を奪ってみせるから、さ」
優雅にせせら笑う彼女の視線を掌で塞ぎ、余裕綽々に言葉を返す。この機会、今日という日になるのは流石に想定外だった、けど。
何を隠そう、かつて彼女に大敗を期したあの日から僕は、人知れず血の滲むような鍛錬に明け暮れていたのである。札の配置、待機姿勢、手の伸ばし方、そして純粋な反射神経……徹底的なリサーチの元、限界まで無駄を省き『速さ』のみを追求した、超合理的なバトルスタイルを会得し、僕が狙うのはただ純粋に、彼女の首と、その心だけ。
男子、三日会わざれば刮目して見よ。今の僕は、あの頃の僕とは全くの別人へと進化を遂げているのである。
「ふふっ!ふふふふっ!ええ、ええ?それではそんな貴方のご期待に添えるよう……こちらも覚悟を以て、本気で臨ませていただきましょうか……♪」
「っ……!いいね?そう来なくちゃ?」
軋む柱の隙間から、何かを告げるような春嵐が吹き込む。そして二人の視線の中心には、蒼い閃光がゾクゾクと、その身を散らしていたのであった。
「では……トレーナーさん、お覚悟を」
「ああ、いざ、尋常に……」
「勝負!」
──────────────
「はい!」「ほっ!」「やっ!」「ふっ!」「えいっ!」「やあっ!」「てりゃっ!」「そりゃっ!」「えいやっ!」「とりゃあっ!」
「えっ」「えっ」「えっ」「えっ」「えっ」「えっ」「えっ」「えっ」「えっ」「えっ」
『……しの』
「はいっ……!」
「………………」
「……『しのぶれど 色にいでにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで』、ふふ、また私の勝ち、みたいですね?」
「そ、んな……バカな……」
携帯から流れる雅な音源を一時停止しながら、なんともわざとらしく目を細め、手中の札をこちらに見せつけてくるアルダン……と、醜くも己の負けを受け入れられず、その場にふらふらと突っ伏した僕。足の痺れすら感じぬ内の、余りにも呆気ない決着なのであった。
「ふふっ?しかしまあ、確かにこの間よりも随分と良い動きでしたね?私もつい、本気になってしまいました♪」
「な、何が悪かったんだろう……札の配置も完璧に頭に入ってたし、腕の振り方も、反応も悪くなかったのに……」
「……そうですねえ」
敗北の湿っぽさをたっぷり吸い込んで、やたらと重く項垂れる僕に、彼女は飄々と言葉を結ぶ。まるで春めいた空気を保たせる凪の時間のように、その言葉は冷たくも暖かくもなく、けれども、やさしさには満ち溢れていた。
「貴方はこの対戦中、何を考えていましたか?」
「えっ?そ、そりゃあ、次の読み札に何が来てもいいように、頭の中でこれからの動きのシミュレーションを何パターンも……」
「あらまあ、随分と真面目ですねぇ?私など、『トレーナーさんと遊べて嬉しいな♪』としか考えていなかったというのに♪」
「えっ、可愛っ……じゃなくて、えっ?」
小さな舌をペコっと出す彼女の、そのほのぼのとした表情に、僕はただ、ただ圧倒的に見惚れさせられる。世の中に、こんなに綺麗な、ものがある。なんて。
「トレーナーさんはきっと私にリベンジするべく、百人一首のお勉強を沢山なされたのでしょう?」
「え?う……それは、まあ、はい……」
「それなら、ここでクイズです♪こちらの句の意味を、現代語でお答え下さい♪」
「えっ?ええと?これは……」
『ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るらむ』
「ええと、ええと、なんだったっけ……それ、一回調べたんだけど、調べたんだけど……」
「はい、時間切れです♪」
「えっ?もう?流石に忙しなさすぎるって……あっ!」
「ふふふっ、一足遅かったですね?正解は『こんなにも日の光がのどかな春の日だというのに、どうして桜の花はそんなに忙しなく散っていくのだろうか』……と言ったところでした♪」
「…………あはは、なるほど、まさしく」
「ええ、まさしく今の私とトレーナーさんのよう、ですね♪」
午前中、まだ傾いた太陽が、生む日なたすら、スポットライトに……彼女の桃色に染まる笑顔は、まるで祝福のコンフェッティのごとく晴れ晴れと咲き誇っていて。そんな彼女を見惜しむこころ、確かに僕にも、共感出来た。
「『トレーナーさんと遊べて嬉しい♪』……だからこそ私は、負けられなかったのですよ。忙しなく動き続ける貴方のことです、もしここで私が負けてしまえば、貴方はすっかり満足してしまって、なんの気兼ねもなく帰ってしまうでしょう?」
「………………」
「ふふふっ、残念でしたね?その頑固なところも、負けず嫌いなところも……貴方のその何百通りもある複雑な性質達。私はそれらを手に取るように理解し、共感して、使いこなすことさえ出来てしまうのです。まるでこの百首の句達に、こうして手を伸ばすのと同じように……です♪」
「……は、ははは……いやそれどちらにせよ、結局のところ君の実力があってこそじゃない?」
「まあ、それもそうですね?そのような一朝一夕のお勉強などで勝てると思われては困りますから。私に勝ちたいのであれば『もう少し、ゆっくり』……せめてこの百首の意味くらい、すらすら言えるようになっていただいてからでないと、です♪」
彼女の術中にまんまと嵌り、散るにべもなく彼女に掴まれてしまった、僕のこころ。否が応にも顔に現れてしまうそのこころを悟られぬよう、逸らした目線の先には……差し迫る鮮烈な季節に抗うかのように枝葉にしがみつく、見事に鮮やかなピンクが燦々と色付いていたのであった。
「さてさて、これからいかがされますか?『一回だけ』というお約束、でした、が……?」
「……はぁ、もう、悔しいなぁ……悔しいけど……今日の午後の予定は、全部なし!こうなったのはアルダンのせいなんだから、今日はとことん、付き合ってもらうからね!」
「ふふふ、了解です♪しかしもう良い時間なので、ひとまずはお昼にしましょう?お時間はたっぷりありますから、そんなに急がず、ゆっくりと……ね♪」