メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
午後七時五十分。ふかふかのソファにも、野菜ジュースとブラックコーヒーがたっぷり詰まった冷蔵庫の前にも彼女の姿は無くて。何処ぞで燃え盛るくべられた薪の炎に照らされた部屋の中、僕はスマホの画面をスクロールし、四、五回、メッセージアプリの通知を更新してみる。
『運営のお仕事、いつ頃終わりますか?』
『七時半くらいかな?』
『了解です♪』
『何か用事あったりする?』
『どこかで待ってようか?』
あれから四時間ほど変化が見られないそのトークルームから目線を上げて、軽く窓を開けその外へと視野を広げる。今年の秋のファン感謝祭もつつがなく幕を降ろし、祭りのあと、建物の影から見切れた燃え盛るキャンプファイヤー。その揺らめきが酷く不安定で、何かの終わりを彷彿とさせて、僕はしばらくそこから目を離さずにいた。
「……若いなぁ」
そんな僕の虹彩にゆらゆら映る、酷くマクロな風景。まだまだ興奮冷めやらぬ生徒たちを焚きつけるようなぬるま風、音階の合わない歌声、誰かが誰かに向けた、告白の言葉。エモーショナル詰め込んだ、箱庭のような……僕にはもう、あんまり関係なさそうな世界。
そんな様からぼんやりとピントを外し、いつもの堅苦しいデスクチェアに腰をかけて、ふうとため息をこぼす。疲れたな、今日は本当に疲れた。机と椅子を……多分、百台は運んだな。階段も多分十往復はしたし、腰もメリメリと音を立てる。もうこのまま眠ってしまおうかとすら思いかけ、ほんの少しと、瞳を閉じる。
ピロン
と、こちら目掛けて飛んできたミクロな通知音に、一秒ぶりに瞳を開く。画面を見る前からその送り主が分かったのは、予知や名推理……などではなく、単純にこんな瞬間に連絡を寄越してくるような相手が、彼女以外思い浮かばなかったから、だけど。
『お返事遅れて申し訳ございません』
『ご準備が出来ましたので、屋上にいらして下さい♪』
「……屋上?」
……だけど、まあ。その内容の方で僕の想像を軽く裏切ってくるのは、流石といったところか。 いつものトレーナー室で出迎えるつもりだったはずの僕は、ぷすりと思わずぬるま息を漏らしながら、逆にそそくさと部屋を飛び出していった。
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「お飲み物、何にいたしますか?」
「えっ?の、飲み物?」
少し錆び付くドアノブを回し、そこへ足を踏み入れる、そして彼女に誘われるように、何故だか用意されていたサイドテーブル付きの小さな椅子に腰掛ける。普段経験することもない、惚れ惚れするほど開放的なビーチチェアの座り心地を堪能していると、なんとも余裕綽々に彼女は……我が担当ウマ娘、メジロアルダンは口を開いた。
「アイスコーヒーにオレンジジュース、炭酸も色々とございますよ?」
「へ、へえ……これはまた……」
彼女の足元から現れた、いかにも高級そうな小型冷蔵庫。その中にはたっぷり瓶詰めの飲料が詰まっていて、なんだか子供の頃に憧れた宝箱みたいで……いやあ、確かにたまにはこういうのも、なんかいいかも……
「……ちなみに、少しだけですがお酒もありますよ?ね、ばあや?」
「はい、僭越ながら私が幾つか見繕わせて頂きました。ワインやシャンパン、日本酒もございますので、ご希望であれば、是非」
「え………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………っと、今日は、いいかな、君の前だもん。という訳でその、メロンソーダを、一つ」
「ふふっ、かしこまりました♪」
夜闇からぬるりと現れた彼女のお着きのばあやさんに、そしてその腕に包まれた見たこともない高級そうなボトル達に、色んな意味でドキリとさせられる。ダメか、ダメだな、ダメだよなぁ……
「では、私はこれにて失礼いたします。またお片付けの際には、お呼び立てくださいませ」
「ええ、ありがとうございました♪ばあやも良い夜を♪」
深々と頭を下げ、ドアの向こうに去っていくばあやさんを見送る僕ら二人。遠くで燃え盛る炎の香りだけが燻る空間で、そんなことすらあんまり気にしない様子を纏って、彼女は無邪気に口を開く。
「メロンソーダで、よろしいのですね?ではでは早速、グラスをどうぞ?」
「あ、ああ。いや、自分で注げるよ?」
「まあまあ、そう言わずに♪」
流されるがまま、僕の手元のグラスに流し込まれるソーダ。その炭酸の泡立ちと同じようにはためく胸を手に……手に……ええと、そろそろ、聞いていいのか、な?
「それで、その、これは……全体的に、何、かな?」
「見ての通りですよ?トレーナーさんを労おうと思い立ちましてですね。言うなれば、ファン感謝祭の打ち上げです♪という訳で、一日お疲れ様でした、乾杯♪」
「か、乾杯?」
打ち上げかあ、またなんとも突拍子もないことを考えるものだなあ。彼女のトロピカルジュースとかち合わせた僕のソーダ、その甘ったるさと裏腹な苦笑いを二秒間浮かべてから、まあいいかと僕はそれに口をつけた。
「時々見かけましたよ?あちこちで物を運んだり迷子を案内したり……ふふっ、まさに八面六臂の大活躍でしたね?」
「いやいや、ただの雑用だよ?けどまあ、君たちが不自由なく楽しめたんなら、頑張った甲斐もあったかな?」
「もちろん、とっても楽しかったです♪」
そう言ってにんまりと笑い、ごきげんなストローでトロピカルジュースを吸い上げるアルダン。手元で炭酸の弾ける音がして、僕はしばらく、そこから目を離せなくなる。
「……そっか、それなら良かった。君がちゃんと楽しめたのなら、僕はもうそれだけで幸せだ」
「ふふっ、私達のクラスに、貴方をお招き出来なかったことだけは心残りですけどね?」
「メイド執事喫茶、だっけ?アルダンはどっちだったの?」
「私はメイドさんを♪ああ、せっかくですしその衣装のまま来れば良かったですね?」
「それは……また、今度でね?」
やさしい風が屋上中に吹きこんで、少しずつ、僕の心の角も取れていく。本当にその通り、君たちが……いや、君が不自由なく楽しめたんなら、頑張った甲斐も……
「ふふふっ?しかし本当に楽しかったですねぇ……ああ、聞いてくださいよ?クリークさんが作ったオムライスがあまりに大人気過ぎて、皆で急いで卵を買いに行く羽目になってですね?」
「へえ?そうなの?」
「ええ、それで皆そのままの格好で出かけてしまったものですから……近所のスーパーにメイドさんの大群が……♪」
「あっはは!シュール過ぎる!」
「ええ、ふふっ……それで、せっかくなのでファン感謝祭の宣伝をしようとチヨノオーさんが言い出して、それでそのまま十人ほどお客さんを連れて帰って……♪」
「ふふっ、なんだそりゃ!いいなぁ、その光景僕も見てみたかった……」
……もう一度口に運んだソーダは、少しだけ炭酸が抜けていて、なんだか刺激不足に感じる。もう二度と戻っては来ない泡立ち、僕は空に向けて、重たく息を吐く。
「よかったよ、本当に、君が楽しめてて」
「あら?そんなに羨ましかったですか?ふふっ、では来年こそはトレーナーさんも……」
「……ううん、僕はいいよ。羨ましいのは本当だけどさ、君たちの青春は、君たちのものだから」
立ち上がって、手すりに肘をついて見下ろしたグラウンド。マクロな風景、まだまだ興奮冷めやらぬ生徒たちに火をつけるような熱風、音階の合わない合唱、誰かが誰かに向けた、約束の言葉。エモーショナル詰め込んだ、箱庭のような……やっぱり僕にはもう、関係なさそうな世界。
「大切に、するんだよ。こうして僕と一緒に過ごしてくれるのも嬉しいけど、そうやって友達と時間を気にせず全力で楽しんだりできるのって、やっぱり今この瞬間、トレセン学園にいる間だけ、だからさ?」
「あら?それを言うのなら、ウマ娘とトレーナーが一緒に居れるのだって、トレセン学園にいる間だけなのでは?」
「…………それは」
「ふふっ、冗談ですよ♪」
……なんて、一人離れゆく僕を追いかけ回して捉えて離さない、その無限の宇宙を内包したような瞳の奥。一体何が冗談なのかはよく分からないまま、同じように手すりに肘をつく彼女に、僕はずっと、ずっと、見蕩れてしまう。
「……もうそろそろ、ですかね」
「え?」
「ほらほらトレーナーさん?そんなに私に見蕩れていないで。綺麗ですよ、キャンプファイヤー」
「えっ?あ、ああ……そう、だね?」
彼女の指し示す方に、そろりそろりと目線を合わせる。その先に待っていたのは、不安定に燃え上がるくべられた薪の炎……
よりも、少し上の方の夜空、青春の燃えた煙が立ち込める、漆黒の、闇の中。
ドンッ
「あっ!?」
瞬間、指先遥か一キロに点った、眩い光。その、希望を体現したかのような光に、僕は思わず、声を上げる。
「まあまあ?こんなタイミングに打ち上げ花火なんて、素敵ですね♪」
「えっ?え、ええ!?ど、どういうこと!?」
突然の瞬きに、グラウンドに集った若人たちは一斉に夜闇を見上げ、黄色い声を上げる。確かに彼女達にとってもこんなサプライズ、一生忘れられない思い出になるんだろう、けど。
「ほらほら、どんどん打ち上がりますよ?ふふっ、なんとまあ、偶然にもこの屋上から、丁度、ぴったり、完璧に、見えてしまいますね?なんという幸運でしょう、まるで……『貴方のための花火』みたいです♪」
「……っ、あっはっはっは!そう……そうだね?どこの誰が用意したんだかわかんないけど……まるで『僕らのための花火』みたいだ!」
……やっぱり、敵いはしないな。彼女がいる限り、僕も嫌でも巻き込まれてしまうらしい。彼女の創りだす、青春に。
「ふふふっ、どうです?こんな最高の夜には……やっぱり最高のお酒も欲しくなったり、しません?」
「んーーーーーーーー……いや、それはまだ、四年ぐらいは後でもいいや。今夜はこのまま……メロンソーダ、もう一杯頂こうかな?」
「かしこまりました、ご主人様♪」
「じ、自分で注げるって……」
鮮烈に弾ける視界をそのままに、僕はもう一杯差し出されたおかわりのソーダを一気に流し込む。鼻から抜けていく刺激的な痛みも、今はただ、愛おしく思えたのだった。