メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
「ふう……よ、ようやく着いた……」
トレセン学園の最寄り駅から、電車で四十分、徒歩二十分。額に流れる汗を拭いながら、硫黄の匂いと溢れる湧水の音をたよりに僕が辿り着いたのは、知る人ぞ知る、隠れた名湯が目玉……らしい、一軒の温泉施設であった。
「本当に知る人ぞ知るって感じなんだなぁ、お客さん、あんまりいないし……」
山林を切り開くように現れた古風な門構えと、それなりに色褪せた朱色の建物が非日常感を醸し出す、なんとも懐かしげなこの施設。僕は早速、そのガタつく自動ドアをくぐり抜けて、その中へ足を踏み入れる。
「お、木のいい匂い……中も静かだし、これは思った以上に『集中』できそうかもなぁ。わざわざ一時間かけて移動した甲斐があるのかどうかは、分かんないけど……」
アスファルトで底が磨り削られたいつもの靴を脱ぎ、僕は受付へ向かって、ふらりと歩みを進める。土曜日、いつもの煩雑な仕事からしばし目を逸らせる貴重な時間。わざわざ僕がこんなところまでやってきたのは、もちろん名湯巡りの趣味に目覚めたから……ではなく。
同僚のよしみで貰ったこの施設の50%オフクーポン、その期日が差し迫っていたからである。まあそもそも貰い物だし、失効したとしても痛くも痒くもないのだが、そこはちょっとした貧乏性というやつか。まあ、何はともあれ……
「……あら、いらっしゃいませ、ようこそお越しくださいました。おひとり様ですか?コースは、お決まりでしょうか?」
「いえ、ふた……あっ、あ、ええと……」
落ち着いた茶色の制服に身を包んだ女性の、やや低音で品のある声が響くカウンター越し。その問いに僕は……一瞬だけ人数を間違えて申告しそうになって、慌てて口篭ってしまう。いけないいけない、休日のお出かけと言えばここ最近はいつも『二人』だったからなぁ。少し風通しの良い右手側の、その余分な指を半分折りたたんでから、僕は改めて、口を開いた。
「大人一人、温暖コースで」
「学生三名、温暖コースで♪」
「えっ?」
「あら?」
まったく、本当に僕と来たら。こんな時にまで我が担当ウマ娘の姿を幻視してしまうなんてなぁ……我ながらいくらなんでも彼女の事で頭いっぱいが過ぎるだろ、ほんといい加減にしなきゃ……
「ええっ?と、トレーナーさんではないですか!?これはなんとも……奇遇、ですね?」
「……えっ?あ、あ、アルダン!?な、なんでこんなところに?」
数秒ほど、その美しく拡がる星空のような瞳に見蕩れていると。不意に語りかけられ、ようやくその姿……僕の瞳に映る彼女、『メジロアルダン』が幻想のものではないと理解する僕……って、え、ええと?これは一体、何がどうなってるんだ?
「……えっ?えええっ!?あ、あれ、アルダンさんのトレーナーさんじゃないですか?ですよね?見間違いじゃないですよね?ヤエノさん?」
「え、ええ……何事かは分かりませんが、見間違いではないようですね、チヨノオーさん……」
「あれ、あの二人まで……?」
「ええ、丁度三人でトレーニングの休みが被ったので、折角なのでどこかへ外出しようというお話になったのです。それでどこへ行くか話し合っていたところ、チヨノオーさんが昔よくお父様に連れていって貰っていた温泉がある、というお話が出てきまして……」
「な、なるほどなあ……」
「三人ともレース続きだったので、しばしの休息を、と♪そういうトレーナーさんは?温泉、そんなにお好きでしたっけ?」
「ああ、まあ僕も同僚の紹介でさ……」
彼女が懇切丁寧に語ってくれた事の経緯で、ようやく理解が追い付いてきた僕の頭。まあ、にしたって凄まじい偶然である事は間違いないんだけど……と、それはいいとして。こちらも事の経緯を懇切丁寧に伝えるべく、僕は財布に仕舞っていた、件のクーポンを漁り出そうと……
「って、アルダンさん!急に先に行っちゃったと思ったら、勝手に私たちの分の入館料も払おうとしてましたね!?」
「えっ?そうなの?」
「ふふ、バレてしまいましたか?こんなに素敵な場所を教えて下さったお礼を、と思ったのですが……」
慌てて駆け寄ってきたチヨノオーの指摘に、小さく舌を出し、おどけてみせるアルダン。その実に堂々たる、余裕たっぷりな雰囲気に、思わず僕も目を瞬かせる。
「いいえいいえ、アルダンさんは今回車を手配して下さったでしょう。本当に何もしていないのは私だけなので、ここは私が……」
「いえいえいえ!むしろ言い出しっぺの私が払うべきです!お二人は私を信じて着いてきて下さったんですから!そのお礼を……!」
「あら、どうしましょう?こうなってしまえばお二人ともなかなか退かないのです。私が払うのが、最も円満だと思うのですが……」
「はは……アルダンも大概だけどね、うん、うん……」
互いが互いの為を思い労りあい、他人の負担まで100%全て背負い込もうとする。そんな、自分よりずっと年下の娘達の姿……と、財布の中、無くさないよう別ポケットに丁寧にしまい込まれていた、50%のクーポン。それらを交互に見つめて、僕の胸に湧き出してきたのは……微妙な、後ろめたさ。
「いいえいいえ……ふむ、これでは埒が明きませんね?お二方、ここは私たちらしく、レースにて雌雄を……」
「そ、それじゃ休息に来た意味がないですよぉ!それにコースだってないし、もっとこう体力も場所も使わない勝負にしましょ……あ!お相撲なんてどうですか?」
「それはその、いささかチヨノオーさんに有利すぎる気が……」
「はいはい、みんなそこまでそこまで!」
「むっ?」
「はいっ?」
「トレーナーさん?」
膠着する三人衆のやり取りにおっかなびっくり割り込んで、ここぞとばかりに喉に力を入れ、大人びた雰囲気を気取って、僕は口を開く。
「はいこれ、みんなの分のバスタオルと館内着!」
「えっ、トレーナーさん?いつの間に私達の分までお会計を?」
「す、すみません!私たちのやり取り、見苦しかったですかね?待ってください、お金は今すぐお返ししますので……」
「ああー!いい、いいよ!君たち、ここに休息に来たんでしょ?一日ゆっくり疲れを癒すためにってさ?」
「え、ええ、それは間違いありませんが……」
「ってことは、これもまた僕の役目だよ。ウマ娘達の体調管理も、間違いなくトレーナーの『仕事』。だからさ、また明日からトレーニングもレースも、今まで以上に頑張ってくれれば、それでいいから、ね?」
「……トレーナーさん」
……付け焼き刃にしては、それなりに筋の通った理屈をつけられた、か?少し無理してガラガラと鳴る喉を抑えながら、僕は彼女達の返事を待つ。
「……ふふふっ!そんな事言って、私とヤエノさんが頑張っちゃったら、アルダンさんのトレーナーさんとしては困っちゃうんじゃないんですか?」
「あ……ま、まあ、確かにそうかもだけど……」
「ふふっ、敵に塩を送るとは、随分と気が緩んでいるようですね?チヨノオーさん、ここはトレーナー殿の気が変わらぬうちに有難くそのご好意、いただくとしましょうか?」
「ええ、賛成です!ありがとうございます!アルダンさんのトレーナーさん!」
「押忍!有難う御座います!アルダンさんのトレーナー殿!」
「う、うんうん!ごゆっくり!」
なんか、思ってた反応とちょーっと違う気がするけど……ま、いいか。この程度大人として、トレーナーとして当然のことだろう。
「本当に、よろしいのですか?トレーナーさん?」
「ん?いいよいいよ気にしないで!むしろ休日にまで君の元気な姿を確認できて、トレーナーとしてもラッキーだったからさ?」
「しかし、いくらなんでも四人分の料金は手痛いでしょう?二人には内緒にしておきますから、やはり半分だけでも、私が……」
「……やっぱり、アルダンは優しいね?君がいてくれて、いつも本当に、本当に僕は助かってるよ」
「ふふっ?いえいえ、この程度当然のことですよ?」
「だけど、やっぱり大丈夫。言ってたでしょ?しばしの休息って。ここに足を踏み入れてる間だけは、君は競走ウマ娘としての姿も、メジロの高貴なお嬢様もお休みして、ただの護られるべき子供として過ごして欲しいと、この僕が思ったんだ。だからさ」
「……まったく、今日の頑固者ナンバーワンは、間違いなくトレーナーさんのようですね?」
これまた少しだけ予想外に、はにかみながらやれやれと肩を揺らすアルダン。悴んでいた指先に血流が通い始めて、思わず僕は、その手のひらを己の胸元に押し当てる。
「と、いうわけで。今からはもう僕の事なんて一切考えずに、三人で思う存分楽しみなね?」
「ええ、もちろんです♪それと……」
「?」
「私からのお礼がまだでしたね?この度はお気遣いいただき、心から感謝いたします。先程の、スマートに場を収めてくれたトレーナーさんの姿……本当に本当に、とってもかっこよかったですよ♪」
「……ふふっ?どういたしまして?」
『かっこいい』か。別に褒められるためにやったことではないんだけど、それでもやっぱり彼女にそう言われるのは、世界中他の誰に何を言われるのよりも、間違いなく嬉しかったり。
「…………トレーナーさんも、今日だけは。今日だけはどうか私の事など考えずに、思う存分おくつろぎくださいね?約束、ですよ?」
「う、うんうん、分かってるよ?」
「それでは、また後ほど……♪」
「うん、また後でね?」
全身の芯が通った、真っ直ぐなお辞儀……後に、緩みきった表情でピースをダブルで向けてくる彼女に瞳を奪われながら、それとない二本指で応える僕。そして彼女の背を見送った僕は、改めて……
「まあ……ちょっっっ、とだけ、カッコつけ過ぎちゃったのは間違いないけど……」
改めて、50%どころか400%の入館料が出ていった後の自らの財布に再び目を向ける。随分と痩せたその中身には、小銭と、キャッシュカードと、依然としてピカピカに折りたたまれたクーポン券だけが無為に残っていた。
「さてと、気力をたっぷりといただいたところで、僕も早速……」
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「仕事だーーーーーっ!」
人っ子一人も見えない、午前中のリラックスルーム。僕は無糖ブラックの缶コーヒーを乾いた喉に流し込み、持参したノートパソコンに全身全霊の集中を向ける。思った通り、家よりも学園よりも、街角のカフェなんかよりも静かで快適な環境に、僕の脳も普段より遥かに冴え渡っていた。
「さてさて、明日からのトレーニング計画だけど……どうしようかな?次走まで案外時間もないし……」
なにより、こうして普段の環境から離れれば、いつもの如く細々とした雑務が舞い込んでくる心配もない。すなわち僕のこの労力、100%彼女の、『メジロアルダン』のために注ぎ込めるという訳だ。わざわざこんな所まで……なんて最初は思ってたけど、これは間違いなく、一時間かけてやって来た甲斐があったと言えよう。
「思いがけず、良い休息が取れたみたいだからなぁ。明日からは少し強度を上げて……」
という訳で、パソコンのブルーライトをたっぷりと浴びながら、ブラックの缶コーヒーの香りを潜らせながら、僕はへばりつくように彼女のトレーニング計画を見つめ直す。朧気に脳内に浮かんできたのは、他でもない、未知の大レースに勝利し全世界から拍手喝采を浴びる、メジロアルダンの姿。
その姿を現実のものにするためには、これからどんなトレーニングを行っていけば良いのだろう。並走にウェイトトレーニング、坂路周回に基礎体力の向上、レース戦術学……もっともっと、密度と効率を高めて、無駄なく、最短ルートで……
「……でもそんなんじゃ、またすぐに疲れちゃうよな」
……なんて逸る気持ちとキーボードを叩く指を抑えて。未来から過去と、この施設の古風な雰囲気に引っ張られてどんどん時代を遡っていく僕の脳内ビジョン。
そういや僕と出会ったばかりの頃のアルダンは……もちろん当時から、トレーニングに望む気概やレースに関する洞察力については一流以外の何者でもなかったが、『休息の取り方』という一点についてはあまりにも不慣れで不器用で、しょっちゅうヒヤヒヤさせられたのを覚えている。いつも僕を急かすようにトレーナー室に駆け込んできたり、身体の安静を命じれば、代わりにと分厚い教本を手放さなくなったり……そんなこんなで少しだけぶつかり合ったこともあったり……
『三人ともレース続きだったので、しばしの休息を、と♪』
「アルダン、ちゃんと休めてるかな?休めてると、いいな」
未来と過去を通り抜けて、最終的に浮かんだのはやっぱり、『今』現在の彼女の姿。そうだな、何はともあれ、とにかくその瞬間瞬間の彼女が無理せず、健康的に笑えてるかどうか。これだけは、忘れちゃダメだ。
そんなことをつらつらと考えながら、僕は昨日から夜通し考え詰め、テトリスの如くみっちりと組みあげたトレーニングメニューを一旦全てデリートする。
「完璧な一本道、じゃダメだな。その時々の彼女の体調に合わせて、都度選択できるパターンを……どれくらい組めるかな?ひとまず100パターンくらい、閉館時間までには……」
『心』も『身』も、彼女が常に健康な人生を送れるようにするためには?トレーナー認定試験よりも遥かに難しい問いに解を導くべく、僕は手元のブラックコーヒーを勢いよく飲み干して、苦味で痺れる舌を気付けに先程までより深く、濃く、全力前進100%の集中で目の前の画面に齧り付く。彼女の笑顔、彼女の生きがい、彼女の幸せ……彼女を幸せにしてくれる存在と言えば、なんだろうな。レースでの勝利ももちろんだけど、あとは……美味しいご飯に、綺麗な万華鏡、それに、友達とのお出かけ……
「……チヨノオーもヤエノムテキも、凄いよなぁ。僕なんかよりもずっと簡単に、アルダンを幸せにしちゃうんだもんな」
「私とヤエノさんが、どうかしました?」
「ああいや、ちょっと色々考えててね……うわあああっ!?えっ!?チヨノオーっ!?」
「な、何事です?そんなに驚いて……」
「あ、や、ヤエノまで……?」
ぐるぐると、思考の底に手を伸ばす僕……の意識を引っ張りあげたのは、突然聞こえてきた、春風と烈風のような二人の声であった。
「二人とも、もうお風呂上がったの?ここ来てから十分くらいしか経ってなくない?」
「はい?何を仰っているのです。もう一時間半は経っていますよ?」
「……えっ!?そんなに!?」
「き、気づかなかったんですかぁ!?そんなに集中して、一体何をされていたんですか?」
「あ、ああいや、別に大した事じゃないよ?」
彼女達の指摘を受けて、慌てて覗き込んだ壁掛け時計の中。軽く正午を越えていたその針先に、僕は愕然と肩を落とす。考え込み過ぎて、やろうと思ってた仕事、まっったく進んでない……どころか完全に後退してるし……
「って、あれ?そういやアルダンは?」
「ふふふ、アルダンさんったら、ここの温泉を随分気に入っちゃったみたいで!まだまだおひとりで浸かってるみたいですよ?」
「そうなの?そっかそっか……それは本当に、良かった……」
……まあ、今日もまだまだ昼間だし。それにとりあえず今の彼女が幸せだというのなら、ひとまずは、いいか。眉間の皺を緩めてみたら、なんだかこの部屋の雰囲気……落ち着いた檜造りの優しい雰囲気に、今更ながら気がついて。そっか、こんな素敵な場所だったというのに、僕ときたら……
「……それと、その、少しよろしいですか?」
「ん?どうしたのチヨノオー?」
「その、本当に、本当にこんなことを言うのは失礼だと分かっているんですが……その……」
「え、なになに?いいよそんな気を使わなくて?」
「そ、その、今のアルダンさんのトレーナーさん……」
「汗臭いです、すごく……」
「えっ…………!?」
チヨノオーの口から放たれた残酷な真実に、一瞬全てが凍りついてしまう僕の脳内。しかし、思えばここに来るまで電車で四十分、徒歩二十分、汗臭くなる心当たりは……間違いなく、あったな、うん。
「そう……ですね。なんと言いますか、私が通っていた道場の、稽古終わりの更衣室のような……確かにそのような香りが、この辺りに少し……」
「ヤエノさんも分かりますか?私は実家の相撲部屋の稽古場を思い出しましたが……」
「……え?そ、そんなに?そんなにヤバい?」
「ええ」
「はい」
「………………」
「と、いうかですね?なにゆえここまできて未だにお風呂入ってないんですか?せっかくのリラックスルームなのに、全然リラックス出来ませんよこれじゃ!」
「え、あ、それはごめん……」
「まったく!そんな姿をアルダンさんに見せるおつもりですか!?」
「…………!」
ヤエノムテキの、地の底から震える程の檄を食らって、パチリと広がりゆく視界。そう、だよな。僕のこんなみっともない姿を見て、アルダンが笑顔になってくれるわけ、ないよな。
「とにかく!今すぐお風呂に入って来てください!私達はアルダンさん程甘くはありませんよ!」
「えっ、ちょっと待って……一回保存、保存だけさせて……」
「あーもうっ!余計なことしてないで!ほら!早く前見る!歩く!GOGO!です!」
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バシャシャシャシャシャ……
「……ふうっ、これだけ念入りに身体洗えば大丈夫……いや、でも匂いって自分で分かんないしなぁ、もう一回徹底的に……いや、なんか洗いすぎも良くないとかじゃなかったっけ?もう流石に大丈夫……だよね?」
二人に急かされ、半ば脅されながらやってきた、この施設一番の大浴場。洗面台でこれでもかと全身隅々と洗い流した僕は、しばし思案する。
「ま、身体も綺麗になったことだし、そろそろ戻……いや、リラックスルームには彼女達がまだいるかな?もしかしたらアルダンも、そろそろ上がってきてるかもだし……」
ふと水面下に浮かび上がってきた、先程までとは異なる客観的な視点。確かに、あんな勢いで仕事してる人が同じ部屋にいたら、休まるものも休まらないよなぁ……
「それなら、もうそろそろ帰ろうかな?アルダンだってそっちの方が、僕の事気にせず楽しめるはずだし……いやしかし、あんなバカにならない入館料払っておきながら、たったこれだけで帰るなんて……ん?」
と、己の貧乏性とのせめぎ合いを繰り広げていた僕の、その視界の端に映りこんだのは……
「……おお、ここって露天風呂もあったんだ?しかもめちゃくちゃ広いし!」
広大に拡がる空の元、もくもくとした湯気がなんとも和らげな情緒を醸し出す、石造りの露天風呂。ちょうど昼食時だからか、一人の気配も感じないその雅な空間に、ついつい、目を奪われる。
「いやでも、僕にはアルダンの為にやらなきゃいけない仕事が……でも今出たところで仕事なんて出来はしないし……せっかく入館料払ってるんだし……ううん、ううん、少しくらい、なら……」
なんて、抵抗を続ける頭を他所に、その艶やかなお湯に向かって、無意識に歩みを進めてしまう僕の身体。透明なガラスの仕切り窓をくぐり抜けて、ひんやりとした石畳を踏み抜いて、その硫黄の香り芳しい滑らかな温泉に、僕はゆっくりと、足先から、のめり込んで、行く。
「っ……あぁ……これは、ヤバいぞ……」
その程よく揺らぐ、優しい温度に肩口まで包まれて、思わず感嘆の声を上げてしまう僕。先程までのデスクワークで無意識下に滞っていた全身の血脈が、まるで大自然の中循環する雨水のように清らかに流れ始める。けれども、周りに囲われた森林から漂ってくる穏やかで涼しい風が、余分な熱を受け取るように僕の頬を撫で、その視界をクリアにしてくれる。
暖かいだけでも、冷たいだけでもない。美しく均衡の取れた姿に僕を整えてくれる。そうか、これが温泉……
「……もっと早く来れば良かったかな?」
「ええ、まったくですね?この温泉のこと、もっと早く知りたかったです♪」
「ねー、ほんとに……えっ!?あ、アルダン!?いい、い、居るの!?」
じんわりと、中身が全部溶け出し空っぽになった僕の頭に、注ぎ込まれる彼女の甘い声。と、あまりに突然の事に、慌てて自分の身の回り、男湯の中を見回す間抜けな僕。
「ふふっ、この壁の向こう側が男湯だったのですね?トレーナーさん?そちらの湯加減はいかがですかー?」
「あっ、ああ、なるほど……うん、めちゃくちゃあったかいよー?」
「それなら良かったです♪こちらも、とっても暖かくて心地よいです……ふふっ?確かにこれはヤバい、ですね?」
「……ふふっ、そうだね?ヤバいね?」
などと、壁の向こう側からおどけてみせる彼女の声に、僕は単純にも、すんなりと身も心も絆されてしまう。本当に、なんだろうなこの感じ。いつもいつも、僕が必死に彼女に笑顔になってもらおうとすればするほど、逆に彼女に笑顔にされている、この感じは……
「なんでしょう、不思議な感じですね?」
「えっ?」
「お風呂に入りながら貴方とお話をしているなんて、なんだかすごく不思議な感じがして、とっても面白いです♪ふふっ、本当にここに来れて良かった……」
「……ふふふっ、うん、僕もここに来れて良かったよ」
「…………!」
……まあ、いいか。今ばかりは難しいこと考えても仕方ないな。彼女が無理せず、健康的に笑えている、それだけで今日は花丸だろう。まだまだ、際限なく緩んでいく己の口元を抑えながら、僕はお返しに、壁の向こうへと自らの笑い声を届け……
「……受付で貴方の姿を目にした時、私、本当に嬉しかったんですよ?」
「ん?嬉しい……とは?」
「トレーナーさん、レースへの熱量や周囲の物事への観察眼は一流以外の何者でもありませんが、『休息の取り方』という一点についてはあまりにも不慣れで不器用で、見ていていつも、ヒヤヒヤしてしまうのです」
「んっ?いや、それは……」
「すぐに徹夜して大きなクマを作ってくる、休日にまでパソコンを手放そうとしない……そんなこんなで少しだけぶつかり合ったこともあったりしましたね?」
「………………」
「ずっとそんな風だった貴方が、ようやくこんな場所に自分自身のために……自らの身体を労るために赴くようになってくれた。その事実が、私にとっては他の何よりも喜ばしく思えたのです」
「………うーん」
……純真で真心のこもったその優しい言葉に、僕の胸に再び湧き出してきたのは……微妙な、後ろめたさ。急に冷たい風が僕の肩口をすれ違って、慌てて僕は我が身を隠すように、先程よりも深く、首元まで湯に浸かり込む。
「だからこそ、同時に少し、不安でした」
「不安?」
「せっかく、私の事などすっかり忘れてお休みできるはずだった貴方が、私の姿を見てしまったせいでまた『お仕事モード』に戻ってしまったのではないか……と、私達の仲裁をしてくれた時に、そう、思ってしまって」
「……そっか。ごめんね、かえって君に心配かけさせちゃった、かな」
「ふふっ、良いのですよ?先程の、本当に気持ち良さそうな貴方の声を聞いて、それも杞憂だったと分かりましたから♪」
「いや、そんなことはないよ。ごめん、アルダン」
「トレーナーさん?」
別に、黙っていればバレることなんてないのに。一糸まとわぬ今の身体に引っ張られてか、僕がひた包み隠していた言葉が、緩んだ口からポロポロと溢れ出していく。
「そもそもだけど、ここには別に休息に来たわけじゃないんだ。静かに、誰にも邪魔されずにトレーニング計画を練り込めるような場所を探してて、同僚から聞いてたこの温泉の事を思い出して、それで今日は来てたんだ。お風呂でゆっくりするとか、これっぽっちも考えてなかった」
「………………」
「だから、君との約束も全然守ってなかった。ずっとパソコンに向かいながら、君の事ばっかり考えちゃってて。お陰で自分が相当汚れてるってことすら、気付いてなかった」
「……まったく、貴方ときたら」
「ほんと、ごめんね、アルダン」
「……私もですよ」
「アルダン?」
「私も、貴方との約束を守れずにいたのです。お風呂に浸かっていても、お二人とお話していても、どうしても貴方のことが気になってしまって……きっとまた顔を合わせてしまえば貴方にご無理をさせてしまうと考えて、適当な理由をつけて私だけお風呂に残っていたのです」
「……まったく、君ときたら」
僕の言葉に呼応するように、壁の向こうから染み出してきた、弱々しい声。少しはマシになったと思ってたけど、やっぱり『休息の取り方』という一点については、まだまだお互い、不慣れで不器用な半人前らしい。
「けれどもですね?不意に貴方の声が聞こえてきた時。事実はどうあれ、貴方もきちんと休めてるのだと気付いた瞬間……その瞬間にようやく初めて、今自分が浸かっている温泉の心地良さに気がついたのです♪」
「……そうだね、僕も。事実はどうあれ、君がここでちゃんと休めてるって二人に聞いた時、ようやく初めて、自分の今いる場所の心地良さに気がつけた。情けないけどやっぱり、君が幸せじゃなきゃ、僕も幸せにはなれないみたいだ」
「ええ、情けない話ですが、私もそうみたいです。いつの間にか、お互い難儀な性質を手に入れてしまったようですね?」
露天風呂の真上に、青く拡がる快晴の……とは言いきれない、薄く曇りがかったすっきりしない空模様。それでも、きっと彼女も同じ空を見上げているのなら。
そんなことを考えながらほくそ笑む僕の頭上には、まだまだ饒舌に、彼女の朗らかな声が降り注いでいた。
「ではこれからは、この難儀な性質も『半分こ』しませんか?」
「半分こ?」
「ええ、いきなり100%自分の事を、というのはお互い難しいでしょう?ですので、まずは半分ずつ……50%は相手の事を、そしてもう50%は、自分の事を心配し合うんです。それくらいなら、難しくはないでしょう?」
「50%か……確かにそれくらいなら、『ちょうどいい』かもね?」
そんな彼女の厳しくも優しくもないちょうどいい提案を、暗くも明るくもないちょうどいい気持ちで受け入れる。
空に浮かぶ程よく曇った太陽は暑くも寒くもないちょうどいい気温で、肩口まで浸かったお湯も、ぬるくも熱くもない、ちょうどいい心地良さで……それは間違いなく僕にとって、もしかしたらきっと彼女にとっても、ちょうどいい『幸せ』であった。
「という訳で、トレーニング計画でしたっけ?今はどんな所でお悩みなのですか?半分くらいで構いませんから、聞かせていただけませんでしょうか?」
「そうだなあ……じゃあ、週明けからのメニューなんだけどさ……」
「ふむふむ……そうですねえ……私としては……」
「あ、あと僕の『匂い』とか……その、気になったこと、ある……?」
「えっ?に、匂い、ですか?」
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「……あ、お二人とも帰ってきましたよ!」
「もう一時過ぎですよ?随分な長風呂のようでしたが……」
「ふふふ、ついつい二人で話し込んでしまいまして、ですね?」
「ね?お互いのぼせてはないから、大丈夫だよ?あとその、もう匂いとかも、大丈夫だよね?」
「え、ええ。匂いはもう大丈夫そうですが……って、話し込んで?男湯と女湯で、ですか?」
「……まさか!私達が知らない場所に、こ、ここ、混浴にっ!?」
「こんよっ……!?ちちっ、違っ!」
「壁越しにお話していただけですよっ……!チヨノオーさんったら、もうっ……!」
「ふふっ!冗談ですよっ!ね?ヤエノさん?」
「冗談……ですよね?そう、ですよね?」
じっくりコトコト、健康的に茹で上がった僕ら二人を、一時間ぶりのリラックスルームで出迎える、チヨノオーとヤエノムテキ。二人の若々しい茶化しを軽く流して、僕らは久方ぶりに、視線を重ね合わせ……
「……ふふっ、本当に気持ちよかったですね?ね?トレーナーさんっ?」
「…………!」
「トレーナー、さん?」
「あっ、ああ!うんうん!そうだねっ?あ、そうだ飲み物!飲み物、何飲みたいっ!?」
「は、はい……?」
「…………冗談、なのですよね?チヨノオーさん?」
「冗談……のつもりだったんですけどね?」
湯けむりに包まれ、ほのかに紅く染まった頬に、ややふくよかさが増した情熱的な唇に。100%にざわめき立つ心臓を抑えながら目を逸らし、一目散に自販機の方へ駆け出す、相変わらず情けない僕……余裕半分でやっていこうって、さっき決めたばっかりなんだけどなぁ……
「よろしいのですか?またまた奢っていただくのは、少し気が引けますが……」
「い、いやいや、これくらい大丈夫だよ?もう小銭入れたから、なんでも好きなもの選びな?」
「……ふふっ、まあ、今の貴方がそう言うのなら、大丈夫なのでしょうね?では私はこの、コーヒー牛乳をいただきます♪」
「うんうんうん……あ、二人もよければ、なんでも好きなもの飲んでいいよ?」
「いいんですか?では私はいちご牛乳で!」
「では私はこの、フルーツ牛乳を……」
「トレーナーさんは?またいつものブラックコーヒーですか?」
「そうだねぇ……いや、今日は僕もコーヒー牛乳にしよっかな?」
「あら、お風呂上がりですものね?実に『ちょうどいい』ご判断です♪」
「って、もう小銭なかったか……お札、おさ……あっ」
「あら?これは……?」
空っぽになった小銭入れを閉じて、僕が取り出したのは……お札ポケットに一枚だけ、ピカピカに折りたたまれていた……
「……その、アルダン。この施設ってATMとか、あったっけ?」
「た、確か、館内にはなかったかと……」
「………………」
「……ふふふっ?仕方ないですね?ここは私が『半分こ』、してあげますよ♪」