メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
「ドアの施錠、よし!」
「よし!です!」
「シートポジション、よし!」
「よし!です!」
「シートベルト着用、よし!」
「よし!です!」
「ルームミラーとサイドミラー、よし!」
「よし!です!」
「その他もろもろ、よし!」
「よし!です!」
「安全確認、完了!エンジン……始動!」
イグニッションキーを回した瞬間、背中に伝わるエンジンの駆動音。何度体感しても慣れないその振動に冷や汗を滴らせながら、僕はしっかりとハンドルを握りしめる。
「ふぅ……アルダンも、ナビの準備はいいね?」
「もちろん、スマホの充電も満タンです♪」
助手席に前のめりに収まった彼女……我が自慢の担当ウマ娘、メジロアルダンとしばし目線を合わせてから。僕はサイドブレーキを引いて、正面ロータリーを強く見据えて、そして……
「よーし、準備完了!目指すはもちろん……」
「ええ、チヨノオーさんのご実家、ですね♪」
「ああ、それじゃチヨノオーの元へ……出発!」
「進行ーーっ!です!」
他でもない、彼女の最大にして最高の……
いや、『僕たち』の終生のライバル、サクラチヨノオーの元へと、僕は強く強く、アクセルを踏み込ん……
「………………」
「………………」
「……アルダンってさあ、チヨノオーの実家の住所、知ってるの?」
「いえ、その、方面くらいは分かりますが、具体的な住所までは……トレーナーさんは?こう、トレセン学園の生徒名簿などで、確認できたりするのでは?」
「いやいや、最近個人情報の取り扱いとか厳しいからさあ……」
「まあ、そうですよねぇ……」
「そうなんだよねぇ……ははは……」
「………………」
「………………」
「…………えっ?」
「えっ?」
──────────────
「……あ、ありました!ヒットしましたよ、この地域の相撲部屋!」
「おっ!さすがアルダン!早速案内してくれるかな?」
「ええと……全部で四十五部屋ありますが、どちらから参りますか?」
「四十五もあるの!?そんなに回ったら途中で通報されちゃうよ!?」
「あるいは、入門希望者と間違われて土俵に上げられてしまうかもしれませんね……どちらにせよ、総当たりは現実的ではないかもしれません……」
早速出鼻をくじかれながら、何はともあれ、ひとまずトレセン学園の裏口を出てひたすらまっすぐ……チヨノオーの実家があるという街の方面目掛けて、最短ルートでレンタカーを転がしはじめた、僕とアルダン。金曜日の午後四時過ぎ、普段なら怖くて避ける車通りの多い中心街を、それでも僕はなんとか自分を奮い立たせて進んでいく。
「まあそもそもこの車、夏合宿の買い出し用に借りただけだから、夜には返さなきゃだしなあ……それまでに見つかればいいんだけど」
「ええ、そうでしたね……夏合宿」
「……アルダン?」
はやる心とは裏腹に、赤信号でしばし足止めをくらう僕。ふと隣を見ると、そこには今年も回ってきた鮮烈な太陽を物憂げな表情で見つめる、彼女の姿。
「どちらにしても、やはり今年も夏合宿は行けずじまいなのですね、チヨノオーさん」
「……まあ、そうだね。これからどうするにせよ、あの様子じゃ、今はね」
チヨノオー自身をどう探すか、という思考を一度小脇に置いてから、彼女はふわふわりとそんな話題を語りだす。そういえばチヨノオー、去年の夏合宿にも参加できていなかったな。というか結局、彼女は一度も夏合宿へ行ったことがない、ということになるのか。
「今年こそはご一緒できると、そう思っていたのですけどね。朝のラジオ体操も、夜の枕投げも、砂浜でのトレーニングも森の中での虫採りも、あ、それに初日にバスで学園の正面玄関を通り過ぎた時の高揚感も、最終日に皆さんと日焼けした皮のめくりあいをしたのも……みんな、チヨノオーさんとだって共有したかった、です」
「そ、そんなに細かいとこまで?」
「ふふふっ?まあ言い出せばキリがなくなりますが、やはり一番味わって欲しかったのは、あの海の美しさ、夕陽を映した鮮烈で優しいオレンジの光景……ですね」
「ああ、やっぱりそうだよね。僕も夏合宿を体験する前まで、海なんていつ来ても同じだと思ってたけど……」
「ええ、やはり特別ですよね?あの時期に、あの場所で皆と見る海は。チヨノオーさんとも何度も何度もお話しましたが……こういう感覚を、人々は『青春』と呼ぶのでしょうね?」
「青春、かぁ」
青く変わる信号の光を眼前に、再びアクセルを踏み抜き始める僕。午後四時十五分、まるで迫るタイムリミットを知らしめるように、太陽はその身を少しずつ落としていく。
「やっぱり、ウマ娘にとってのトゥインクルシリーズって、レースって、『青春』なのかもね」
「……そうですね、その通りだと思います。長い人生のほんの数年間、後先も周りの目も気にせずに、今この瞬間に成し遂げたい事だけに夢中になれる夢のような時間……他の方々は分かりませんが、たった一瞬のこのきらめきにこそ、私は憧れ、手を伸ばし始めたのですから」
「………………」
相変わらず、運転中はちらりともよそ見ができない不器用な僕、けれども。
────けれども、『チヨノオーさん』はどうなのだろうか。彼女に……憧れのマルゼンさんにも辿り着けなかった頂の景色を、既に目撃してしまった彼女に、このきらめきはまだ残っているのだろうか。私は少しだけ窓を開け、外の空気を浴びる。
「………………」
聴覚で、嗅覚で、触覚で。不意に『視えた』、助手席に佇みながら外の空気を浴びる、彼女の綴るモノローグ。その描写の美しさに、額から流れた汗が、目尻に溜まりこぼれ落ちる。
……まるで桜が花開くかのような、そのきらめき。僕のは一体、いつ、どこで尽き果ててしまったんだっけな。
「大丈夫、きっと貴方は、まだ尽き果ててなどいませんよ」
「……ええと、そう、かな?」
「ええ、一度散った桜でも、その命ある限りは来年もまた花開くように……まだまだ貴方自身が満足しない限り、貴方の青春だって終わらないはずです」
「ふふ、ありがとうアルダン。勝手な願望なのは理解してるけど、チヨノオーもまた、そうだったとしたら、いいよね」
「…………ええ、勝手な憶測ですが、やはり今からでも充分間に合いますよ、きっと」
視線は合わずとも、パチリと眼線が合った僕ら二人。その間には静電気のような痛みが、互いの不安を打ち消し合うように走る。
そうだな、本当に身勝手で迷惑な憶測なのかもしれないけど、僕もアルダンも、そしてチヨノオーだって、まだまだ青春を謳歌し尽くしてなんていないはず。形はどうあれ、今からだって充分に間に合
「あ、な、なんて悠長に考えている場合ではありませんでしたね?ええと、チヨノオーさんのご実家の場所、どうすれば特定できるのでしょう……」
「…………間に合う?」
「……トレーナーさん?」
「ちょ、ちょっとごめん、アルダン」
もう一発、僕の脳内でパチリと何かが擦れあったような、そんな感覚。その感覚を取り逃さないように、僕は慌てて、手頃な場所にあったコンビニの駐車場に車を停める。
「そのご様子、何か思いつかれたのですね?チヨノオーさんのご実家を特定するための、何か……」
「いいや、違う」
「違う……?」
『充分、間に合う』。そうだ、こんな台詞を僕はつい最近、というかほんの先程、聞いたはずだ。あれは、確か、確か。
『ん、ああ、心配すんなチヨ。今すぐ出れば充分間に合うから、な?』
「───そうだ、あいつだ。チヨノオーの、トレーナー」
僕の脳裏に虚像を結んだのは、他でもない、奴のとびきり辛気臭い面構えなのであった。
「チヨノオーさんの、トレーナーさん?あの方が一体、どうされたのですか?」
「あいつ、ついさっきチヨノオーに言ってたんだ。『今すぐ出れば充分間に合う』って」
「充分、間に合う……あ、あら?それって……」
「うん、おかしいよね?ただチヨノオーの実家に帰るだけなんだったら、別に時間なんて気にする必要ないんだから、さ」
「つ、つまりその、ということは、もしかして……」
「ああ、僕ら前提を間違えてたんだ。今、チヨノオー達が向かってるのは……彼女の実家じゃない……!」
まるでパズルのピースが集合していくように、僕と、そしてアルダンの脳内で組み上がったその真実。慌ててすぐさま再びハンドルを握ろうとした僕を優しく制しながら、彼女は、ぽつぽつと口を開く。
「となると、チヨノオーさん達は一体どちらへ?『間に合わなくなる可能性がある』ということは、少なくともどこかしら目的地はあるようですが……」
「あ、そうだよね。まずはそれが分からないとだよね……なんだろう、実家に帰る前に何かお土産でも買うつもりだったりするのかな?」
「ううむ、単なる買い物とは考え辛い気がしますね?四時や五時に閉まってしまうようなお店など、そうそうありませんから」
「まあ、それもそうか……」
「四時や五時に閉まってしまう場所といえば、遊園地や美術館などですが……あ、もしくは映画の予約をしている、といった可能性もありますかね?」
「うーん、あんまり遊びに行くって雰囲気じゃなかったような……それにこれから休みはたっぷりあるんだから、お出かけならまた時期を見て、体調も時間も都合が良くなってからってなるんじゃないかな?」
「まあ、それもそうですよね……」
彼女の問いかけに反響し、いつも通り始まった僕たちの暗中を模索するような押し問答。午後四時三十二分、鮮烈な西日に照らされて、車内の温度はどんどん上がっていく。
「ううむ、なんだか手詰まりですね……いかがですかトレーナーさん?チヨノオーさんのトレーナーさん、何か他に手がかりになりそうな事、おっしゃっていませんでしたでしょうか?」
「手がかり……ちょっと待って、今思い出すから……ええと、あいつが言ってた手がかり、言ってた手がかり……」
『見ろよこれ!色違いダークライの捕まえ方だってよ!』
『なあおい!普通のカートの十倍速で走る、レインボーマリオの出し方知ってるか!?』
『確か、マスターハンドを使う裏技が……あ、あれ?失敗しちまった?』
「……クソっ!しょうもない事しか思い出せない!あいつ何回僕のセーブデータ破壊すれば気が済むんだ!?」
「トレーナーさん!?お、落ち着いてください!それとできればもう少し、もう少し最近の記憶を思い出して……!」
「あ、そ、そうだね、最近、最近……」
『車、もう正面玄関前に用意してるからよ。用が済んだんなら、さっさと行こうぜ?』
「そうだ……正面玄関!あいつ、正面玄関前に車用意してるって言ってた!僕もさっきそうだったけど、学園の職員は普通、裏口の職員駐車場に停めるはずなのに……!」
「正面玄関……!確かにトレセン学園は広いですから、裏口から出るのと正面から出るのとでは進めるルートがかなり違いますからね?それをわざわざ正面玄関から出発したとなると……」
「ええと、そうなるとチヨノオーの実家の方面はもちろん、お店や施設が多い中心街の方面とも真逆の方に向かっていったってことになるから……すなわち、ええと……?」
「………………!」
「……アルダン?」
室温も、声色も、互いの脳内もオーバーヒート寸前の、その火中、その瞬間。まるで超新星爆発のように、彼女の瞳からフレアが漏れ出した。
「……トレーナーさん、私」
「も、もしかして分かったの?チヨノオーの行き先!」
「いいえ、分かりません。分かりませんが……今しがた、私にも『勝手な願望』が、芽生えたのです」
「勝手な、願望?」
「何の根拠も理屈もない、もしかしたら、とてつもない大自惚れでしか無いかもしれない。けれど……けれど私は『そうであったら嬉しい』と、心の底からそう思う。そんな、願望が」
その膨大な熱量に、宇宙の始まりのようなカオスの奔流に、僕はほんの少しだけ目を、眼を奪われる。そうだ、こんなことは今までも、ずっと。
「……オッケー、分かった。ナビは任せたよ、アルダン」
「信じて、いただけるのですか?こんなに曖昧で、抽象的な私の言葉を」
「何言ってんの?僕ら出会った頃から、お互いずっとそうだったでしょ?」
「…………っ、ふふふふっ!そう、でしたね?」
「曖昧で抽象的で不確かで、だからこそ力強いなにか。その中に無理やりにでも飛び込んで、観察して考察して、解体し尽くす!それが、それこそが君と僕の本懐だからね?だから……僕は、それを信じて疑うよ、今日も」
「ええ……私も、ナビの準備はバッチリです♪」
午後四時四十四分、その瞳から絶え間なく注ぎ込む不安定な炎を動力に。
僕はもう一度、このエンジンにしかと火をつけ、そうして強く、強くアクセルを踏み込んだ。
「ええと……あ、この先まっすぐ行くと高速道路の乗り場があります!まずはそこに合流し……あとはひたすら、『西』の方へ!」
「了解!それじゃ今度こそ、チヨノオーの元へ……出発!」
「進行ーーっ!です!」
──────────────
──────────
──────
───
「わぁーーー!見えてきましたよトレーナーさん!すごいすごーい!」
「っ、はははっ!そんははしゃぐんじゃねえよチヨ?すぐ車停めっから、それまで待ってろ!」
「わんわん!了解です!」
◆
「ふふふっ、やっぱりここをお願いして良かったです。こんなに、綺麗なところだったなんて……」
「ああ、そうだな?本当にいい眺めだ、この時間に間に合って、本っ当によかったぜ」
「あ!あそこに見える建物にみんな泊まってるんですかね?それで、朝起きたらあの辺りでラジオ体操して、ここから向こうまで、まっすぐにランニングして……」
「ああ、そうだな?」
「そして、休みの日にはたっくさん泳いだり、砂遊びしたり……って、あの向こうに見えるお店ってもしかして、みんなが言ってた焼きそばが美味しいお店では!?トレーナーさん!後で寄っていきましょう!ね!」
「……ああ、そうだな」
「…………」
「…………」
「……その、トレーナーさん。いきなりこんな所に行きたいだなんて、わがまま言ってしまって、ごめんなさい」
「何言ってんだ、チヨのためならなんだってするさ、俺は」
「けれど、私はもう貴方の望む『相当な逸材』なんかじゃ、無くなってしまいましたよ。毎年そこそこ現れる、クラシックだけで燃え尽きてしまった数あるウマ娘の一人、でしか」
「っ………………」
「……いえ、『ウマ娘は、走るために生まれてきた』のであれば、私は既に、ウマ娘ですら無くなってしまったのかもしれませんね?人でも、ウマ娘でもない、今の私は一体なんなんでしょう?」
「な、何言ってんだ、チヨは、チヨだろ」
「いいえ、解るんです。きっとこれは、本能で」
「本能……」
「もうこの世界に……この『物語』に、サクラチヨノオーという『役』の『出番』は無いんだって。もしかしたら、誰かの物語の脇役として引っ張り出されることはあるかもしれませんけど。けれども、私自身が走って、誰かと熱く競い合って、なんて物語は、二度と作られない」
「そんなことっ……!そんな、こと……」
「……ふふ、トレーナーさん?」
「チヨ……?」
「本当に、本当に貴方は私のためなら、なんだってしてくれるんですか?」
「……ああ、本当だ」
「でしたら、貴方と一緒に、もっともっと遠くに行きたい。この世界を捨て去って、あの水平線の向こう側……ウマ娘もレースも何もないような世界に、貴方と共に行きたいと。そう言えば……叶えて、くれますか?」
「……ああ、もちろ─────
「────チヨノオーさん」
「……へ?」
「……はい、容疑者確保。詳しく話、聞かせて貰おうか?」
「あ?誰が容疑者だ……って、おまっ……!?なんでここに!?」
──────────────
午後五時五十四分。ようやく確保したその肩口に、僕は爪を食い込ませる。水平線の向こうに沈みゆく鮮烈な夕陽を望む海……トレセン学園の合宿所を有する、件の海水浴場でのことであった。
「……どうして、ここがわかったんですか?私たちが、この海にいるって」
「わかったのではありません。チヨノオーさんがここに居て欲しいと、そう私が、願ったのです」
「願った……?」
「覚えていますよ、私は。夏合宿のお土産話を楽しそうに聞いてくださる貴方の姿を……特に、海に沈んでいく夕陽の美しさについて話をした時に、とりわけ目を輝かせていたのを」
「………………」
「だから、『そうであって欲しい』と願ったのです。トレセン学園を去った貴方が、それでも真っ先に見てみたいと思う『心残り』は、これであって欲しいと、そう、私は願ったのです」
「……だとしても、本当に決め打ちで来る奴がいるかよ……チヨの実家から正反対の方向に、片道一時間半だぞ?」
「ふん、アルダンの事舐めるんじゃないよ。何かを『信じ込む』ことに関して、彼女の右に出る者はいないから、な」
「……ああ、ああ、そうだな。『お前』は昔っから、そういう奴だったもんな」
「は?何の話?」
奴の……チヨノオーのトレーナーの訳の分からない供述をひとまず聞き流して。僕は前方10メートル程先、人気の少ない砂浜に二人佇む、彼女達の方へと目線を向ける。
「で、でも私は……私は、貴方に話すようなことは、何も、何もありません、アルダンさん」
「………………」
「確かに、ここに行きたいと言い出したのは私ですけど……けどそれは、ただ気になったから来てみただけであって、そんな、心残りだなんて……」
「………………………………チヨノオーさん」
「はっ、はい?」
「貴方の態度は、よく、わかりました。そのうえで、貴方に話すことがあるかどうか、なんて私にはどうだっていい。黙っていたいのならば、それでも結構。けれど私には、ありますよ。貴方に話したい事が、沢山」
燃える夕陽をその背に抱え込んで、まるで一世一代の大レースに望むかのように視線を尖らせる、アルダン。風向きも波もない夕凪の時刻に、チヨノオーの額にも、強く汗がにじむ。
「た、例えどんなことを言われても、私は貴方に、何もしてあげられませんよ……?どれだけ優しくされても、励まされようと、貴方の望みを叶えてなんて、あげられません、今の私には……」
「そんな心配など結構。私の望みは、私自身で叶えますので。そんなことよりも……優しくするだなんて、とんでもない。私は、怒っているのです、貴方に」
「………………!」
「こんな置き手紙ひとつで、簡単に別れを切り出してしまえる貴方の薄情さに。こちらからの反論や説得を許さず、一方的に結論付けてしまえる貴方の強引さに。そのくせ最後には『思い出すな』やら『走り続けろ』やらと、一方的に綺麗事を押し付けてくる貴方の傲慢さに。私は怒り、酷く失望したのです」
「……それ、は」
「勝手な勘違いなどしないでください。レースに負けたからといって、怪我をしたからといって、皆が皆、自分に甘く都合のいい言葉を吐いてくれるはずだと、自惚れるのは、やめてください」
「……………………………」
「っ……いい加減にしろメジロアルダン!チヨだって、チヨだってな……んぐっ!?」
「うるさい、お前の出る幕じゃない、黙ってな」
「ああ!?なんだと!離しやがれ!」
特に暖かくも冷たくも、厳しくも優しくもない……何か、どこぞのトリプルティアラを彷彿とさせるような声色を淡々とチヨノオーに吐き捨てる、アルダン。その様をひとり、チヨノオーは……
「私たちは、生き物です。アニメや漫画、ゲームや小説のキャラクターではない。ましてや……『走るために生まれてきた』存在などでは、決してない」
「っ…………!」
「『ウマ娘』という言葉に、甘えないでください。例えレースに負けても、怪我をして走れなくなっても、歩くことすら出来ずに病院のベッドの上で永遠にも等しい時間を過ごすことになろうとも。私たちの人生は続くんです。引退したって、走れなくなったって、表舞台に上がれなくなったって、ある日突然行方知れずになる訳でも、泡になって海に消えていく訳でも……貴方の事を大切に思う人が、全ていなくなる訳でも、ない」
「っ、っ、う………!」
「醜くとも、格好悪くても、奇跡なんて起きなくても。それでもそんな誰かと、関わり合いながら生きていくしかないんです。それが、空想の存在じゃない、野山を駆ける動物たちでもない、この世の中で生きる私たちの姿なんです」
「っ、、っ、ふ、ぅっ……う……!」
「けれども貴方は、それを蔑ろにした、怠った。私は、貴方が怪我をして走れなくなったことに怒っている訳じゃありません。走れなくなった程度で、私たちの事を切り捨てようとした、皆の想いを踏みにじった、そのことに、私は────」
「あなたに!何がわかるって言うんですか!」
「…………!」
「……チヨ」
「…………」
まるで、灰を被った枯れ木のように重く項垂れながら。かつて聞いた事のないほどボロボロに嗄れきった声で、チヨノオーは叫ぶ。
掠れて、今にも波音に攫われそうな程弱々しく、けれども、それでも確かに、まるで土俵際いっぱいの力士の如く強く大地を踏みしめながら、チヨノオーは、叫ぶ。
「頑張りましたよ!私だって必死に!頑張りました!ヤエノさんやクリークさん、オグリさんに……そしてアルダンさん!貴方たちとまた戦うために、たくさん、たくさんがんばってきたんです!」
「………………」
「けれども……頑張れば頑張るほど、辛いだけなんです……!苦しいんです……!『正しくない』んですよ、私の、私の願いは……!」
「───正しく、ない」
「……おい、いい加減に離せよ、気持ちわりぃ」
「……仕方ないな、ほらよ」
「ったく、本気で締め上げやがって…………」
「なんだよ、人の事ジロジロ見るんじゃないよ」
「……お前、『ウマソウル』って知ってるか」
「!」
凪の時間が終わり、ヘクトパスカルの低さに流れくる風に。そしてその、示し合わせたかのように奴の口から飛び出した単語に。ふと、僕は身震いする。
「その反応、説明するまでもねえみてえだな」
「……どういう風の吹き回しだ?そんなの趣味じゃないだろ、お前」
「ああ、趣味じゃねーよそんなもん。趣味じゃねーけど……仕方ねえだろ、事実『そこ』にあるんだからよ」
「…………ま、そうだな」
「安田記念、身体もメンタルも最高に仕上がってたんだぜ。言いたかねえがお前らと併走したお陰で、むしろダービーの時よりも、チヨ本人のモチベーションだって、あった」
「そりゃどうも」
「だが……ありゃなんだ?最終直線でいきなり見えない壁にぶち当たって、それ以上、十六着から前に進めなくなった」
「………………」
「全然、全っ然なんでそう感じるのかは分からねえけどよ。そいつはただ硬いだけの壁じゃなくて、例えるなら、ゲームでマップの外に出ようとする時っつうか……まるで『その先なんて作られてない』みてえな、なんか、そんな風に『視えた』……気がしたんだよ、あの時」
「……ああ、よく知ってるよ、それくらい」
奴の言葉に、僕はもう一度ひっそりと心の中で頷いた。そんなもの、良く知っている、そんな壁なんて……彼女の、メジロアルダンの前にだって、既にこれから何枚も『視えている』んだから。
「なんで勝てなかったのか、俺は徹夜徹夜でその原因を探した。その末の末に、『ウマソウル』なんていう概念を見つけちまった。『ウマ娘は別世界の偉大な名前の、その意思に従って走る』……つまりチヨがあの日十六着になるのが、その意思って奴が決めた『正しい』ルートで、それ以外のルートは作られてすらいない、ってことなんじゃねえか、って」
「………………」
「俺とチヨは、宝塚記念に出ることに決めた。そんなふざけた迷信、迷信なんだと証明するためにな。今までのどのレースよりも完璧に状態を整えて、一着とまではいかねえまでも、少なくとも掲示板入りぐらいは確実に出来るくらいの見立てだった」
「………………」
「その結果、レース中に故障して、大差の最下位。きっとこいつは、決められたルートを無理やりねじ曲げようとした罰……いや、あるいはこの結末すらも、初めから決められていたのかもな……だからよ」
「だから……わかってますよ。きっと私がもう走りたくないと話せば、貴方は走れなくなった私とも友達のままでいてくれますし、私がもう一度走りたいと話せば、貴方はもう一度走ろうとする私を応援してくれるでしょう」
「………………」
「でも違うんです、私の願いは『本気の貴方に勝つこと』なんです。貴方に本気の勝負を挑まれて、本気の潰し合いを演じて、そしてそれを本気でねじ伏せて勝つこと……けれど」
「…………」
「……けれど、どうですか?必死に必死に頑張って、仮にまた私が走れるようになったとして、貴方は私を、本気で潰しに来てくれますか?仮にとてつもない奇跡が起きて、私が貴方に勝ったとして……貴方は本気で、泣き喚き散らすほど、悔しがって、くれますか?」
「……」
燃える夕陽をその背に抱え込んで、まるで一世一代の大レースに望むかのように視線を尖らせる、チヨノオー。再びやってきた風向きも波もない夕凪の時刻に、アルダンの額にも、強く汗がにじむ。
「やっぱりこの世界に、私の居場所なんてもうないんですよ。この運命が訪れてしまった以上、誰も私の事に本気で向き合わなくなったんです。誰も私が『怪我をして走れなくなった』ことに対しては、怒ってくれないんです」
「っ…………!」
「きっとこれから先、私が頑張っても頑張らなくても、走っても走らなくても、勝っても勝たなくても。私が何をしようと、貴方が私を見る時は、何やら満足そうな表情を浮かべてしまうのでしょう。貴方だけではない、きっとヤエノさんもクリークさんもオグリさんもそう。倒すか、倒されるかの本気の熱の中に、その土俵に、どうなろうと私はもう、立てないんです」
「っ、っ、う………!」
「『絶望』なんです、私にとって、それは。生きているだけで自分の願いが『正しくない』事を証明させられる、そんな世界なんです、ここは。どんなに美しくても、格好良くても、奇跡が起きても……私の願いは、叶うことはないんですよ、この世界では」
「っ、、っ、ふ、ぅっ……う……!」
「だから、もうやめてください。大人しくこの世界から、私を消えさせてください。見てるのも、聞いているのさえ辛いんです、お願いです、アルダンさん。どうか私を、この世界から『解放』させてくださ─────」
「嫌です!わたしは、そんなのいやです!」
沈みゆく夕陽、その最後の一欠片に照らされて、アルダンの瞳が不安定に揺れ動く。午後六時六分、あまりにも幼すぎるその叫びで、決戦の火蓋は、切って落とされた。
「っ……なんでここまで言ってもわかってくれないんですか!アルダンさん!」
「分かりませんよ!わかりたくもありません!チヨノオーさんこそ、どうしてわかってくれないんですか!」
「知りませんよ!アルダンさんの屁理屈なんて!そんなの聞いてたって、くるしいだけじゃないですか!」
「だからって!私が苦しんでるのは無視ですか!悩み苦しんでるのは、自分ひとりだけだとでも!?」
「そんなこといってないじゃないですか!だから忘れてくれって書いたんですよ!それなのにアルダンさんがわざわざこんなところまで来て!勝手に苦しんでるだけじゃないですか!」
「だったら初めからあんな手紙かかなきゃよかったじゃないですか!中途半端なんですよ!半端に気にさせて!半端に突き放して!いいかげんにしてください!」
「それを言うならアルダンさんだって!いつもいつも無駄に人のことを煽ったりふいにしたり!ドロワの時だってあんなめちゃくちゃ勝手にやったの!うやむやになりましたけどまだ許してなんていませんからね!」
「あの時はいつまでもいつまでもチヨノオーさんがうじうじしてたからでしょう!貴方と同じで私もいきものなんです!ムカつくしイラつくし、あんな情けない姿見せられたらああもなります!」
「それこそ知りませんよ!人の気持ち無視してるのはアルダンさんのほうじゃないですか!いつもいつも無駄に希望ばかり見せて!みんながみんなあなたほど強くはないんですよ!」
「だったら同じくらい強くなってみせるくらい言ってくださいよ!人を勝手に自分の絶望に巻き込まないでください!」
「だからっ!勝手に巻き込まれに来たのはアルダンさんの方だっていってるでしょ!いいかげんにしてください!」
「そっちこそ!いいかげんに拗ねて自暴自棄になるのはやめてください!」
「…………アルダン」
「…………チヨ」
午後六時十三分、ほとんど夕陽も沈みきった凪の砂浜で、それでも僕は、その膨大な熱と煌めきに眼を細める。互いに顔を寄せ合い、ぐちゃぐちゃに罵りあう二人の炎に、そのこすれ合いで発生する、稲妻のような醜くも美しい光に。僕はただただ、圧倒されるばかり……
「……なんでですかアルダンさん!なんっ、で、わたしにそこまで、拘るんですかっ……!オグリさんに、ヤエノさんクリークさん、いまならバンブーさんにイナリさんだっている!貴方のライバルは、他にもこんっ……こんなにたくっさんっ……!沢山いるのに!なんで!」
「知りませんよっ……!わかり、ませんよっ!けど、どうせわたしは欲張りなんですっ……!『大切なもの』は、ぜんぶ近くにないと、気が、すまないんですっ……!」
「っ……!それをいうなら私だってっ……!わたしだって、『大切なもの』はひとつも壊れてほしく、ないっ、ん、ですっ!わたしがっ、私のワガママのせいでっ!あなたの大切なっ、レース人生、壊れてしまったら……!」
「………………!」
「いいかげんに、してくださいよっ……!あんなに、言ってたじゃないですかっ……!昔と違って、今、自由に走れるだけで幸せだって!なんでその幸せをわたしなんかにかまって、消費しようと、するんですか!それがいやなんです!いや!いやなんですよ!」
「っ……っ!そんなの、勝手に決めないでください!私のしあわせ、何につかおうと自由でしょう……!私はわたしのこの力は、私の大切なものを手に入れるために使うんです!大切な……大切なものなんですよ!あなただって!私の!」
「っ……う、ぁああああああっ!!わぁああああんっ!!!なんでそんなこというんですかぁっ!せっかく!せっかくもう大丈夫だって、思えてたのにいっ!未練なんて、後悔なんてないんだって!そう思い込めてたのにぃいいっ!」
「初めからっ!はじめからそんなわけないじゃないですかっ!お互い……おたがいこんな場所なんがにっ!なんがにぎでるんでずからぁっ!未練がないなんで、うぞにぎまっでるじゃないでずがっ!」
「っ……!クッソが……!喧嘩の途中に、何泣いて、んだよ、チヨっ……!こんなんじゃ、お前、お前まんまと、メジロアルダンにっ、絆されてる、みてえじゃ、ねえかっ……!」
「…………………………」
……けれども、そうだ、僕だって。
僕だって、彼女の『相棒』であり、『トレーナー』なんだ。
「────アルダンっっっ!!!!!」
「っ……!とれ、な、さん……?」
「君は、よくやったよ。本当に僕は、君のことを、誇りに思う」
「あ?急に何言ってんだお前?人には黙っとけとか言っときながらよ?」
「けれど……そうだ、あとは僕に、僕に任せてほしい」
「さっきから、マジで何言ってんだ?おま……」
────『トレーナー』なんだったら。
担当ウマ娘の、手本になってやらなきゃ、いけないよな。
そうだろ?『お前』もそう、思うだろ?
「よーく見といてねアルダン……これが、本物の………………『喧嘩』だァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」
ボコォォオオッ!!!
「ほげらぁっ!?!?!?」
「トレーナーさん!?」
「トレーナーさーーーーん!?!?」
カチカチに固めた僕の拳が、奴の……チヨノオーのトレーナーの、頬を穿つ。感電のように走った衝撃は、重く鈍く、海岸沿いを走り抜けていくのであった。
「おい、ちゃんと歯ァ食いしばったか?」
「あぁ!?殴る前に言うやつだろうがそれ!?」
「第二ラウンドだ。お互い担当に守られながら立ち見してちゃ、示しつかないだろ」
「…………………………」
「そして、どういう教育方針だか知らないけどな?少なくとも担当を泣かせるようなトレーナーは、僕の中じゃ三流もいいとこ。専門から、やり直した方がいいと思うぞ?」
「…………………………」
「……何とか言ったらどうだ?それともなんだ?一発KOか、あ?」
「…………んなわけねぇだろがぁ!!!」
ボコォ…………ッ!
「っ……がはあっ!?」
「え、ええええっ!?トレーナーさんっ!?」
「あ、あわわわ……どどど、どうしましょうアルダンさん!?」
奴の拳の骨と、僕の頭蓋骨が擦れて、目の奥でプラズマが弾ける。中耳がずれて生じる雷鳴のような耳鳴りも、今の僕には、まるでロックンロールのような高鳴りに思えた。
「なにっ、が三流だよこのクソがぁっ!てめぇはてめぇ自身に向かって!胸張って同じ事言えんのかァ!?あァ!?」
「っ……てぇなァ!お前より百倍マシに決まってんだろう……がっ!こんなとこまであっさりのこのこ担当連れて来やがって!貝にでもなるつもりっ……かァ!?」
「っ、るせえ、なァっ!さっきから上からモノ言いやがって、えッ!んな事は、俺より偉くなってから、言いやがれッ!ガキがッ!」
「そりゃこっちのセリフ……だッ!昔っからお前はやることなすこと考えなしなんだ……よッ!何回僕のセーフデータぶっ壊せば気が済むんだっ!返せよ僕のヘラクロスッ!」
「んだとォ!それを言うなら俺なんてお前に、ミュウツーお釈迦にされてんだよっ!ヘラクロスぐらいまた捕まえればいいだ、ろっ!」
「なんだ……とっ!?お前僕の相棒、ヘルアビスを馬鹿にしたなァ!?あいつは僕と数々の激闘を繰り広げてきた……!」
「うるせぇ!ヘラクロスごときにんな大層な名前付けんな!」
「う、ううっ!私、もう限界ですチヨノオーさん……!おふたりとも、あまりにも人を殴り慣れてなくって……全く痛そうではありませんが、逆に哀れで見ていられません!」
「い、今すぐやめさせましょうアルダンさん!ストップ!ストップですーっ!」
「す、ストーップ!」
「こんの……ぐえーっ!?ウマ娘パワーっ!?」
「なにを……ふぐーっ!?チヨっ、チヨそれっ……!喧嘩じゃねっ……息の根止まるっ……!」
まさしく決死戦。僕らの、己の尊厳を賭けた命懸けの大喧嘩は……互いの担当ウマ娘に、あっさり情けなく制圧されるのであった。ウマ娘って、やっぱズルい……
「全くもう!何が『よく見といてね』ですか!あんな子供のケンカを見せられる身にもなってください!」
「う、ううーん……ご、ごめんねアルダン……」
「うちのトレーナーさんも、あんな安い挑発に乗って!まったく、どっちが保護者だかわかったもんじゃありませんね?」
「わ、悪かったよ、チヨ……」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………ふふっ」
「っ、はははははっ!なんだ今の!くだらねーっ!」
「はぁーあ……!僕ら何してるんだか?あまりにもくだらなさすぎるし……」
「……ふふっ?私たちも結局、何話してたんだか、よく分かりませんね?」
「ふふっ、ふふふっ?でもなんだか、スッキリしました♪」
午後六時二十二分、人影のひとつも見当たらない砂浜に、なんとも奇妙な笑い声が響き渡る。互い違いに酷く罵って、謗って当て付けて、例え泣いても喚いても、誹謗も中傷も罵詈も雑言も醜く吐き捨てて……そうして残ったものは、結局、いつも通りのこの緩んだ空気。なんて、拍子抜けもいいところだけど。
「……俺、やっぱお前が羨ましいよ」
「……!」
「教えてくれよ、どうすりゃ俺も、お前みたいに前を向ける?どうすりゃ俺もお前みたいな思いもよらねぇアイデアで前に進める?どうすりゃお前みたいに……ウマソウルに、『運命』に抗える?わかんねえ、お前はずりいよ、ほんとに、ずりい」
「………………」
「……私も、アルダンさんが羨ましいです」
「チヨノオーさん……」
「教えてください、どうすれば私も、貴方のように強くなれるんですか?どうすれば貴方のように、何者にも恐れないこころが手に入るんですか?」
「………………」
「『怖い』んです、結局私は、怖いんです。自分の限界を知ってしまうのも、みんなに失望されるのも……何もかも、怖い。ただそれだけなんです、どれだけ言い訳を並べても、結局は、ただそれだけなんです。だから……」
「……トレーナーさん?」
ようやく、一本一本視えてきた。サクラチヨノオーの、その太く頑強で、これまで彼女を何度も何度も支えてきた……けれども同時に、彼女をこの場所に縛り付けてしまっている、心の『根』。
それを眼の当たりにしたアルダンが呼んだのは……何故だか、僕の名前だった。
「申し訳、ございません。いまから私、貴方の忠告を、無視させていただきます」
「僕の、忠告?」
「ええ、貴方に釘を刺されていたことは重々承知しておりますが……結局私は、どうしてもその『言葉』を、言いたくなってしまいました。本当に、ごめんなさい」
「……ああ、なるほど。それなら別に僕だって、『使うな』とまでは言ってないよ。君が、君自身の意思で選んで使う言葉なら、僕は何も、一文字だって文句はない」
「ふふっ、ありがとうございます♪そして……チヨノオー、さん」
「はっ、はい……!」
軽やかに舞い踊るような、見たこともない燐火をその眼に宿しながら。彼女は改めて、チヨノオーにしっかりと目線を合わせる。瞳と瞳、まるで化学反応のようにパチリと火花が上がったのを確かに確認してから、アルダンは、口を開く。
「───諦めないで、チヨノオーさん」
「…………!」
「ふふっ、やっぱりこれしか、言いようがないですね♪諦めないでください、チヨノオーさん。レースも、私たちも、この世界も貴方自身の願いも。どうか、何一つ諦めないでいてください。お願いです、チヨノオーさん」
「……あ、はは。ほんと、アルダンさんはいつもいつも無理難題をおっしゃいますね?」
「ええ、承知していますよ?承知していますから……私だって、何も諦めない。生涯を賭けてこの言葉を他者へ使うに値するウマ娘で、あり続けます。だから、チヨノオーさんも」
……ほんと、敵わないな。やっぱり僕はまだまだまだまだ、彼女の『相棒』足り得る人間なんかじゃ、ないらしい。
けれども、それだって彼女のように『諦めず』に続けていけば、いつかは、きっと。
「……はぁ、やれやれ仕方がないですねアルダンさんは?」
「ふふ?チヨノオーさん?」
「仕方がないので……私もなんとか諦めずにいてあげますよ?今は、やっぱり何をどうしていいのか、何一つ分かりはしませんが……けれども、貴方が貴方の大切なもの、何か一つでも諦めてしまうまでは、私も」
「ええ、では『永遠』に、ですね♪」
「ふふ、そんなこと言って良いのですかアルダンさん?そんなに煽られると私……どうしても貴方を、ターフの上で見返してあげたくなっちゃいますよ?貴方が本気で、泣き喚き散らすほど悔しがってくれるまで……百勝でも、千勝でも!」
「っ、ふっふふ!いいですよ?ちゃんと歯ァ食いしばって、待っててくださいね?です♪」
「………………」
「……僕はなんにも言わないからな?」
「うるせえ、別に求めてねえよ」
「あ?なんだと?」
「別に求めてねえ……悔しいから、ぜってえ自分で見つけ出してやるよ、何もかも、ひっくり返す方法ってやつをな」
「……なんだよ、分かってるじゃんかよ」
午後六時三十一分。消えていく光と大海原を背にして。僕らはまた立ち上がる。目の前には、もう間近に迫った深い深い夜の闇と、それに飲まれないように連なる街明かりが、やたらと輝いていた、けれど。
「さて、大捕物も解決したところで……帰りましょうか、トレーナーさん?今日行けなかったぶん、明日は朝から、夏合宿の買い出しですよ♪」
「うっ……二日続けて運転しなきゃいけないのかぁ……まあ、君のためなら頑張るけどね?」
「ふふ、その意気です♪して、チヨノオーさんは?」
「私は……やっぱりひとまず実家に帰って休みますよ。お父さんとお母さんも、やっぱり待ってくれていますからね?お疲れのところ申し訳ございませんが、トレーナーさんも運転、お願いしますね?」
「うっ、運転はいいんだが……またあの量のちゃんこ食う事になるんだろうな……美味いのは間違いねーんだが……」
「ふふふっ!……では、アルダンさん。名残惜しいですが、しばしお別れ、です」
「ええ、チヨノオーさん。次にお会いする時は、やっぱり、ターフの上、で」
「ええ!『二度咲く桜は、千代までも』!また会いましょう!アルダンさん♪」
「ええ!お元気で、チヨノオーさん!」
そんな深い闇なんて消し飛ばすような、鮮烈な、ひたむきな輝きに、やっぱり僕は眼を細めた。淡雪が溶け、桜が散って、莫大な熱量を窓の外に押し込めて、けれどもけたたましい蝉の鳴き声がそれをすり抜けて僕の耳を打つ、そんな季節だけど。
けれども、そんな季節すらも塗り替えるかのように。擦れあいながら、火花を散らしあいながら。
僕らの痺れるような『青春』は、まだまだ、つつぐのであった。